唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

『唯信鈔文意』に聞く (44) 第五講 その(5)

2011-08-01 23:07:43 | 信心について

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   横堤校下納涼盆踊りが昨日(土曜日)と今日(日曜日)の二日間、横堤小学校校庭で開催されました。振興町会や小・中のPTA、そして先生方の屋台が大いに盛り上がっていました。(お詫び・昨日の書き込みが一日ずれこみました。)

        ―  『唯信鈔文意に聞く』 (44) 第五講 (5)  ―

「昔は、何かというと、まずはじめの説教はこういうような説き出しであったわめです。わたしら子供の頃、無理に説教をさせられた時に、いうことがない。高座に登って何をいうんだと。そうしたら西行法師の話が一番よかろう。話ですからこういうのは覚えられる。西行法師が鳥辺山の麓を通ったら人を焼く煙がみえた。そして、「ああ、今日も人が死んだなあ」というて通りかかった。友達と二人で家に帰った。そうすると、あくる朝、友達のところから知らせが来て、昨夜、うちの主人が死んだ。あの一緒に帰った友達が昨夜にわかに死んでしまったという。世の中の無常というのは計られんものだと驚いて、それから自分もこうしてはいられんと出家をした、というような話をはじめにするわけです。その時分、何で死んだかというようなことは考えなかった。盲腸でもおこしたのか。どうして死んだのか。少し大きくなれば考えたのでしょうけれども、子供のときですから、どう死のうと劫死のうと、こっちが高座の上で十分か二十分、とにかくしゃべっておるだけが精一杯である。そして、子供をけとばして出家をしたというところまでいうて、「ありがたいことにはご当流は妻子をけとばさなくても、『なんまんだぶ』でなんどき死んでも極楽へまいられるのであります」というて下りてくる。それで参っておるひとが満足して、ありがたい、ありがたいと念仏を称えて、そうしてお賽銭を一銭づつおいていったわけです。そういうようなことがあります。

 やはり自利の道です。なんぼ一乗というても、自利を逃してしまったんではだめです。それでは利他をどうするかということになるわけです。自利を成就してから利他なのか。そういうことになったのは権大乗です。自利を成就して利他に入る。まず自分がさとりを開いて、それから衆生利益に赴くのだ、と。

 それから、一乗ともうしますのは、自利利他。自利のままが利他なのだと。こういうのです。これは原理がそういわせるわけです。自利のままが利他なのだと。しかし、自利のままが利他なんだというて、何もしないのですから、利他ということでですね、結局のところは人から施しを受けるだけしかできないいんです。人が施せばつまりそれが利他であるということになってしまうのです。

 ここに、自利と利他ということがいわれるわけでございます。因より果に向かうというときには、衆生より仏へは自利なんです。利他というのはおのずから、それが他の衆生を利益するのに働くというので副産物です。それに対して十七願というのは全く利他。利他が成就しておる。仏より利他が成就した。仏より衆生に向かうところの道であるということをあらわしたのがこの十七願の意義でございます。ですから、因より果に向かうというのは、これを基礎として成り立つ。事理をきめれば自然に副産物になるけれども、本当は利他を基礎として成り立つ。

   (つづく ・ 来週は最終講になります。是非お読みください。)


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