今日も真夏日ですね。ここ鶴見緑地では多くの子供たちが朝早くから水遊びに興じていました。
暑い暑いと愚痴をこぼしているのは大人だけかもしれません。子供たちは暑さと共存して自然と水遊びを楽しんでいます。
あるがままの姿、それを南無阿弥陀仏と表現したのでしょうか。南無阿弥陀仏とは言葉ですが言葉を縁として、あるがままの自己に目覚めよという呼びかけを内実としているのでしょう。生きとし生きるものすべて、存在のすべてに呼びかけている如来の名告りですね。
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『唯信鈔文意』に聞く (43) 第五講 その(4)
蓬茨祖運述 『唯信鈔文意講義』より
ですから、十方の諸仏がみなわが名を称揚・讃嘆しなければ、ほめたたえて、わが名を称えなければさとりを開かないという誓願を立てられたのだと。いつかというたら、いつかわからない。そんなことはいつかわからない。いつかわからん昔である。そうして、その誓願が成就をした、と。いつ成就したかということになりますと、誓願を設けられたときに成就したわけです。
誓願を設けられて、永劫の修行をして、そして十劫の昔に正覚を成就せられたと、こう説いてあるのですが、それは従因向果に合わせたのです。従因向果に合わせなければ分からんからでしょう。因から果に向かうという、そういう人間の常識に当てはめなければ理解ができませんから、永劫のあいだ修行して、そして弥陀の名号に万善万行を摂めて、一声称えた人に満足が摂まる、成就するということを誓われて、そしてそれが出来上がったのが十劫の昔であると、こういうふうに『大経』に説かれているわけであります。
これは、従因向果の頭しかないものですから、お説きになるときはそういうふうに説かなければ説明にならないわけです。するとこんどは説明にひっかかるわけです。永劫のあいだ修行をしたということにひっかかったり、それからどういうわけで一声称える念仏に万の徳が摂まるなどということがありうるのか、そういうことが出来るのかというようなことにひっかかったりするのです。いずれも本願にひっかかったわけではない。自分の常識にひっかかっているのです。自分の常識にひっかかるのでございます。常識上で理解しようとして理解できないからひっかかるのです。
本願が永劫の修業をして成就したということは、何をいおうとするのかといえば、十七願というものを設けられたということが、すなわち名号の成就である、と。つまり「一乗大海」というものが成就しておるということをいわれるのでございます。つまり、仏教というものは、もともと一乗の教えであり、したがって男女貴賎・大小の区別なく、みな等しく成仏するに足る教えなのだということでございます。いまさら人間の常識で考えるような、一を積んで十にして満足するようなものじゃないんです。ですから、十七願から因に向かってくるわけです。因に向かうわけです。因に向かうというのは、いわゆる因は衆生でございます。衆生に向かう。衆生を利するために向かうということを十七願をもってあらわされる。十七願をもって仏教というものの意義をあらわされておるわけです。こちらからですと、因は衆生から仏に向かうんです。衆生から仏に向かうわけでしょう。果は仏果です。そうすればまずここにどうしても自利。どうしてもこれは自利になるわけです。自らさとる。自らの煩悩を解脱する。自ら利する。まず自分を利するということです。そうすれば当然、声聞・縁覚という道に入らざるを得ないのです。人のことをかもうておったら仏道は求められません。西行法師みたいなものです。
西行法師が無常を感じて出家しようとした。そうしたら妻子がまとわりついた。妻子のことをかわいそうと思ったら出家なんかできやしない。それよりも自分がいま無常を逃れようとする方が大事だ。急いでも無常を逃れねばならんと思うた。妻子をけとばして出家をしたというわけです。
(つづく)
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