唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

「真宗におけるボランテイヤについて」の試論 (2)

2013-06-13 22:19:45 | 信心について

 親鸞聖人の姿勢は、一貫して機法二種深信によって貫かれています。私たちはややもすれば、二種深信の一方だけを見て、私から出る善行は、雑毒の善であり、虚仮不実の行である。如来廻向の行信に、自分から進んで行く意味合いはないのではないのか、という機風が漂っているように思えます。
 意識が意識として活動する時、必ず意識と倶に活動する心所(遍行)があるといわれています。それは、触・作意・受・想・思といわれるものですが、最後の思ですね。大変大事な箇所ですので少し述べます。「思と云うは謂く心をして造作せしむるを以て性と為し、善法等に於て心を役するを以て業と為す」と云われています。思は行動を起こす意思作用なのです。行為を為す、行動を起こすことの一番最初に思の心所が働いているということなのです。これは単に認識作用というより、私たちが何かを為す、行動を起こす時に意思作用が働いている、この作用を制御させるということは意に反することなのです。親鸞聖人は、『歎異抄』第十三条に「さればよきことも、あしきことも、業報にさしまかせて、ひとえに本願をたのみまいらすればこそ、他力にてはそうらえ。」と、自力の執心を否定されています。執着心を自力として押さえられていますね。意思作用は善でも悪でもない無記性なのです。この意思作用を雑毒であり、虚仮であるとするなら、私たちには生きる術はすべて否定されてしまいます。意思作用により、悪戦苦闘の歴史が「他力をたのみたてまつる悪人、もっとも往生の正因なり。」と。意志と行為の戦いの中で、「そこに困っている人が有れば助けなければならない」という精神が育まれ、豊かな精神風土が築かれていくのでしょう。ですから、私たちは行動の中から、親鸞聖人の生き様を学び、聖典に耳を傾けなければならないのでしょう。行動を起こしさえすればよいというわけではないのです。行動は果なのです。行動を起こさせる因が、命と倶に働いている、そこに「聞法」の意義があるのではないでしょうか。そうする時、「さるべき業縁のもよおせば、いかなるふるまいもすべし」と頷けるのではないですか。私たちの一挙手一投足が業縁である、執着すべき何物もないと頷けるのです。


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