(第17話)トロピカル~ジュ!プリキュア「人魚の奇跡!変身!キュアラメール!」感想
(「トロピカル~ジュ!プリキュア」第17話より)
ローラがプリキュアになりあそばされました。足が生えた。
「人魚に足が生える」。これだけを見るなら人魚ものの定番ですが、そこに至るまでの経緯が素晴らしかった。
(1) 自ら解決策に向かうローラ
攫われたローラは、プリキュアのために目印を残しました。それだけでも十分なのに、彼女はプリキュアの救援に依存せず自力での脱出を試みた。
くるるんに鍵を取りに行かせた後も、バレることを見越して罠をしかけた。
結果的にプリキュアは助けにくることができず、くるるんも失敗していますから、二段構え三段構えのローラの優秀さが光っています。
アクアポットを取り返しに行く際にも、くるるんは先に脱出させている。「くるるんの安全を優先するため」が主目的かもしれませんが、このおかげでピンチを切り抜けられた。
魔女様からの取引に、「自分で叶える」と啖呵を切ったそのとおり。説得力がありすぎます。
プリキュアが助けに来てくれるのを、ただ待つだけじゃない。むしろ逆で、「自分がいないとプリキュアは駄目だから」とアグレッシブに助けに行っている。
「足を生やして仲間に入れてもらう」のでも、「無力な人魚なので助けてもらう」のでもない。「私が」助けに行くし、そのための手段としての変身(および足)なんです。
(2) 足がなくても楽しめる
撃墜されたローラは夢を見る。トロピカる部でお歌をやる夢を。
歌は足がなくても楽しめる。皆でできる。そう「足がなくても」不幸ではないんです。
「足が生えて良かったね」だと、身体的差異や文化的マイノリティは不幸なのか?それらは矯正して修正すべきことなのか?の問題にぶつかってしまいます。
足はなくてもよい。そこは主目的ではない。
実際ローラの初戦場は「海中」でした。足はなくても構わない。あえて深読みするなら、ローラが戦いの場を即座に船上に移したのは「海中では不利だ」と悟ったからかもしれません。まぁ「まなつが溺死する」のもあるでしょうけど。ニンゲンって不便。
(蛇足ながら、ローラが蹴り技主体で戦っているのも「足が生えて嬉しかったから」というか、「人魚の喧嘩の基本は尾びれの一撃だから」だと思い込みたい。事実クジラは尾びれでシャチを撃退したりするそうです)
(1)(2)ともに、「人魚」モノとして凄く大事です。
厄介な話をすると、古典的な「人魚姫」は「多数派(よく言われるのが非障がい者や、男性社会)に受け入れてもらうには、心身を刻むほどの代償がいる」というネガティブな側面を抱えています。ディズニーの「リトル・マーメイド」も炎上騒ぎを起こしてる。しかも物凄く面倒なことに「王子のために自分らしさを犠牲にするのは女性差別だ」という批判と、「過激な服装をして父親に反発する娘なんてけしからん」という逆方向の批判を受けている。
ローラの変身は、これらの問題を(服装が過激かはともかくとして)昇華しているように思う。
彼女は譲歩したり代償を払ったりはしていない。海の世界を捨てたり否定もしていない。
友を助ける手段としてプリキュアに変身したら、結果として足が生えただけです。生えたんだから活用しよう。前向きだ。人間化は目的ではなく、手段ですらなく、結果論。
上記はシンプルにストーリーだけを考えるなら、やらない方が良い。
「捕まったローラを助けにプリキュアが来てくれた。でも魔女様相手に大ピンチ。その時ローラが変身して…」の方が素直です。今回の流れだと「サマーたち、役に立ってないな」ともなりかねない。
「足がなくても楽しめる」の夢のシーンも不要です。「え、足がなくてもいいとか言ってたのに、結局は足が生えるの?矛盾してる」と誤解されかねない。
でもこれらの描写があったかどうかで、「人魚に足が生える」の説得力が段違い。「プリキュア」シリーズであると同時に、「マーメイド」ものとしても成立しています。
そしてこんな手間がいる「マーメイド」を演出に採用したということは、これが全体テーマにも関わっていると思われます。
みのりん先輩の無表情とかも、「無表情=悪いこと」ではなく、やる気がないわけでもないと繰り返し描写されています。かといって変身後の陽気さを否定してもいない。
涼村さんでいえば「紫が好きなのに別の色を選んだ」、あすか先輩の「会長と何かある?(察するに風紀とか勉強系?)」とかも、その観点で再解釈されるのかも。
それらに「プリキュア」エッセンスをどう組み合わせるのかも気になります。
相羽さんの記事(「トロピカル~ジュ!プリキュア/感想/第16話「魔女の罠!囚われたローラ!」(ネタバレ注意)」)にとても共感したので引用しますと
[引用]
『世界に押し付けられる「条件づけ」を無効化して、本来の自分のまま(精神的にも物理的にも)自由に「境界」を移動できる存在=プリキュア』
[引用終]
今回のローラの変身そのものは、割とあっさり描かれてるんですよね。打ちのめされて溜めて溜めてからの「プリキュアになりたい…!!(ぴかー)」ではない。「この精神性・行動力のローラが、プリキュアになるのは当然だ」ぐらいの勢いです。
秋映画の舞台が「冬山」(夏海さんにとってもローラにとってもアウェイの第3の世界)なのも「境界」の移動に関連してるのかも。
「プリキュアでマーメイドものをやるとこうなる」もしくは「マーメイドもので、プリキュアをやるとこうなる」のようなジャンルの横断的な興奮があります。今年はいつにも増して、いつもとは違う方向からも楽しいな。
しかも来週は「人間化したマーメイドを、即座にプールに放り込む」ですよ!「濡れたらサカナに戻る」のか「思うように泳げず溺れる」のか「息ができない!?足とか以前に呼吸器の差が!」なのか「凄まじく美麗に泳いで見せつける」のか、何かもうどのパターンでも愉快です。愉快で、それぞれ色々と考察も捗る。制作者様のマーメイドの扱いが適切すぎて、感嘆と称賛が止まらないです。
【蛇足】
改めて考えてみれば、今回の「マーメイド」もの+「プリキュア」のように、ジャンル横断的な試みはこれまでもされてたのかしら。
「ハグプリ」は時間SFとしてかなり高度で、「歴史改変」と「未来不変」を矛盾なく成立させつつ、そのギミックに「プリキュア」を使う…という驚異的なことをされている、と思う(参考:「タイムパラドックスの真相」)。
私が未熟で気づかなかっただけで、「魔法つかい」や「Goプリ」でも、「魔法学校ものの定番のネタ」「プリンセスものの伝統的なギミック」とか仕込まれてたんじゃなかろうか。
(「トロピカル~ジュ!プリキュア」第17話より)
ローラがプリキュアになりあそばされました。足が生えた。
「人魚に足が生える」。これだけを見るなら人魚ものの定番ですが、そこに至るまでの経緯が素晴らしかった。
(1) 自ら解決策に向かうローラ
攫われたローラは、プリキュアのために目印を残しました。それだけでも十分なのに、彼女はプリキュアの救援に依存せず自力での脱出を試みた。
くるるんに鍵を取りに行かせた後も、バレることを見越して罠をしかけた。
結果的にプリキュアは助けにくることができず、くるるんも失敗していますから、二段構え三段構えのローラの優秀さが光っています。
アクアポットを取り返しに行く際にも、くるるんは先に脱出させている。「くるるんの安全を優先するため」が主目的かもしれませんが、このおかげでピンチを切り抜けられた。
魔女様からの取引に、「自分で叶える」と啖呵を切ったそのとおり。説得力がありすぎます。
プリキュアが助けに来てくれるのを、ただ待つだけじゃない。むしろ逆で、「自分がいないとプリキュアは駄目だから」とアグレッシブに助けに行っている。
「足を生やして仲間に入れてもらう」のでも、「無力な人魚なので助けてもらう」のでもない。「私が」助けに行くし、そのための手段としての変身(および足)なんです。
(2) 足がなくても楽しめる
撃墜されたローラは夢を見る。トロピカる部でお歌をやる夢を。
歌は足がなくても楽しめる。皆でできる。そう「足がなくても」不幸ではないんです。
「足が生えて良かったね」だと、身体的差異や文化的マイノリティは不幸なのか?それらは矯正して修正すべきことなのか?の問題にぶつかってしまいます。
足はなくてもよい。そこは主目的ではない。
実際ローラの初戦場は「海中」でした。足はなくても構わない。あえて深読みするなら、ローラが戦いの場を即座に船上に移したのは「海中では不利だ」と悟ったからかもしれません。まぁ「まなつが溺死する」のもあるでしょうけど。ニンゲンって不便。
(蛇足ながら、ローラが蹴り技主体で戦っているのも「足が生えて嬉しかったから」というか、「人魚の喧嘩の基本は尾びれの一撃だから」だと思い込みたい。事実クジラは尾びれでシャチを撃退したりするそうです)
(1)(2)ともに、「人魚」モノとして凄く大事です。
厄介な話をすると、古典的な「人魚姫」は「多数派(よく言われるのが非障がい者や、男性社会)に受け入れてもらうには、心身を刻むほどの代償がいる」というネガティブな側面を抱えています。ディズニーの「リトル・マーメイド」も炎上騒ぎを起こしてる。しかも物凄く面倒なことに「王子のために自分らしさを犠牲にするのは女性差別だ」という批判と、「過激な服装をして父親に反発する娘なんてけしからん」という逆方向の批判を受けている。
ローラの変身は、これらの問題を(服装が過激かはともかくとして)昇華しているように思う。
彼女は譲歩したり代償を払ったりはしていない。海の世界を捨てたり否定もしていない。
友を助ける手段としてプリキュアに変身したら、結果として足が生えただけです。生えたんだから活用しよう。前向きだ。人間化は目的ではなく、手段ですらなく、結果論。
上記はシンプルにストーリーだけを考えるなら、やらない方が良い。
「捕まったローラを助けにプリキュアが来てくれた。でも魔女様相手に大ピンチ。その時ローラが変身して…」の方が素直です。今回の流れだと「サマーたち、役に立ってないな」ともなりかねない。
「足がなくても楽しめる」の夢のシーンも不要です。「え、足がなくてもいいとか言ってたのに、結局は足が生えるの?矛盾してる」と誤解されかねない。
でもこれらの描写があったかどうかで、「人魚に足が生える」の説得力が段違い。「プリキュア」シリーズであると同時に、「マーメイド」ものとしても成立しています。
そしてこんな手間がいる「マーメイド」を演出に採用したということは、これが全体テーマにも関わっていると思われます。
みのりん先輩の無表情とかも、「無表情=悪いこと」ではなく、やる気がないわけでもないと繰り返し描写されています。かといって変身後の陽気さを否定してもいない。
涼村さんでいえば「紫が好きなのに別の色を選んだ」、あすか先輩の「会長と何かある?(察するに風紀とか勉強系?)」とかも、その観点で再解釈されるのかも。
それらに「プリキュア」エッセンスをどう組み合わせるのかも気になります。
相羽さんの記事(「トロピカル~ジュ!プリキュア/感想/第16話「魔女の罠!囚われたローラ!」(ネタバレ注意)」)にとても共感したので引用しますと
[引用]
『世界に押し付けられる「条件づけ」を無効化して、本来の自分のまま(精神的にも物理的にも)自由に「境界」を移動できる存在=プリキュア』
[引用終]
今回のローラの変身そのものは、割とあっさり描かれてるんですよね。打ちのめされて溜めて溜めてからの「プリキュアになりたい…!!(ぴかー)」ではない。「この精神性・行動力のローラが、プリキュアになるのは当然だ」ぐらいの勢いです。
秋映画の舞台が「冬山」(夏海さんにとってもローラにとってもアウェイの第3の世界)なのも「境界」の移動に関連してるのかも。
「プリキュアでマーメイドものをやるとこうなる」もしくは「マーメイドもので、プリキュアをやるとこうなる」のようなジャンルの横断的な興奮があります。今年はいつにも増して、いつもとは違う方向からも楽しいな。
しかも来週は「人間化したマーメイドを、即座にプールに放り込む」ですよ!「濡れたらサカナに戻る」のか「思うように泳げず溺れる」のか「息ができない!?足とか以前に呼吸器の差が!」なのか「凄まじく美麗に泳いで見せつける」のか、何かもうどのパターンでも愉快です。愉快で、それぞれ色々と考察も捗る。制作者様のマーメイドの扱いが適切すぎて、感嘆と称賛が止まらないです。
【蛇足】
改めて考えてみれば、今回の「マーメイド」もの+「プリキュア」のように、ジャンル横断的な試みはこれまでもされてたのかしら。
「ハグプリ」は時間SFとしてかなり高度で、「歴史改変」と「未来不変」を矛盾なく成立させつつ、そのギミックに「プリキュア」を使う…という驚異的なことをされている、と思う(参考:「タイムパラドックスの真相」)。
私が未熟で気づかなかっただけで、「魔法つかい」や「Goプリ」でも、「魔法学校ものの定番のネタ」「プリンセスものの伝統的なギミック」とか仕込まれてたんじゃなかろうか。