今週、新人さんの研修を垣間見る機会があったので、酒飲みながらその感想を書いてみる。
(1)
いわゆるロジカル系の講義というか、論理的思考を鍛えようみたいな講義だったのですが。
やってる内容が著しくレベルが低い。
根本的にはその程度の会社に勤めている自分を嘆くべきのような気もしますが、とにかく酷い。
例えば、「論理的とはそもそもどんなことか」みたいなテーマが扱われてた。
このテーマ自体は別にいいと思う。
答え方も色々あるでしょうけれど、私なりに思うシンプルな回答は「検証可能であること」。
「自分の主張や仮説が正しいこと」を証明するには、「自分が正しいことを示す根拠があること」を出すのが大事。
ですが、それと同時に「自分を否定する根拠がない」ことを示すのも大事。
「正しい」=「間違ってない」を完全無欠に証明するのは困難なので、「ほら実際に、間違いだという根拠がないでしょう?」というやり方で証明する。
「無罪」を証明するのではなく、「有罪の根拠がない」を証明するのと同じ。
こう書くと当たり前のことのように思えるけれど、現実にはうっかり混乱しがち。
よくある「何々はパクリだ」とか「こう考えれば辻褄がある」系の思考がまさにそれ。
「自分が正しい根拠」を示す(共通点や肯定根拠を羅列する)ことは大事だけど、同時に「自分を否定する根拠がない」(共通点が「ない」、否定根拠が「ない」)がないと、どれだけ肯定根拠を並べ立てても説得力はない。
(「確かに似ている部分や一致する個所もあるね」「でも全然違ったり、矛盾する点もあるね」で終わる)
ただ当然のこととして、「ない」を示すのは不可能です。いわゆる悪魔の証明。(パクリ論争のような単純な場面ではまた別ですが)
だから「こうすれば私の仮説は崩せる」という手順を示し、「反論したいならやってみな」というスタンスをとる。
できなければ、つまりは「否定根拠がない」のだから、持説が正しいと認めさせることができる。
この「こうすれば仮説を否定できる」があるかどうかが、論理的かどうかの分かれ目。
進化論VS創造論(=全ての生き物は神が作ったという説)を例に考えると分かりやすい。
一部の人たちに「創造論は科学だから公的教育で教えるべきだ」という主張があります。
しかし創造論は科学ではない。何故か。
創造論は神を前提にしているからとか、宗教が母体だから、ではなく。
創造論は否定が不可能なんですよ。
どれだけ「否定」の根拠(例えば、「現実に地層を見ると時代毎に出現する化石が違う」)を提示しても、「一見そう見えるように神が創造しただけだ」と言われたらそれまで。
つまり否定する方法がない。だから論理的ではない。
一方、進化論は否定が可能です。
恐竜と同時代にホモサピエンスの化石や道具が発見されればいい。他にも幾つも手段がある。
だけど現実には(捏造や曖昧なものを除けば)見つかっていない。だから正しい。
ロジカルであることは、「絶対に反論できないこと」ではなく「反論する方法はあるのだが、実際としてできない」。
原理的には反論できるが、現実に否定根拠が見つからないので、結果的に正しい。逆に原理的に反論不可能ならば、それはロジカルではない。
「原理的には反論可能だが、結果として反論できない」ことと「原理的に反論不可能」は全く違う。
でも「完璧な主張」を目指そうとして、うっかり後者になってしまう人がいる気がするから注意。
何か仮説を思いついたときは、自分で自分の仮説に対し、「ではどうすればこの仮説を否定できるか」の視点を持つことは非常に大事だと思う。
そしてその反論方法を試し、「よし、否定根拠はない」と確認できて、ようやく安心できる。
反論手段そのものがなかったり、否定根拠があるようなないような曖昧な時には、仮説の信憑性は低い。
どんだけ肯定する根拠を羅列したり、「こう考えれば辻褄が合う」と言ったところでスカスカになってしまう。
…と思うのですが。
件の研修では「数字で根拠を示すこと」とか「権威あるソースを示すこと」といった内容に終始していた。
ちょっと待て。それはむしろ、騙されやすい人の陥る罠じゃないか。
確かに「数字」や「権威」を出すと、人は信じやすい性質がありますけど、それは「相手を騙す」テクニックであって、「論理的」ではない。
確かにそれはそれで大事だし、ある意味実践的だとは思うのですよ。
でも種明かしを解説しないと、丸っきり無意味に思える。
「~が大事だとXXという学者も言っていて、実験の結果、平均YY%の結果も出ています」
「ほら、数字を出すと説得力があるでしょう」
「…嘘なんですけどね。そんな学者いないし、実験もされてません。でも数字を出すとそれっぽく聞こえるでしょう?」
みたいな。
(2)
もう一つ、説得の際には統計データを示そうといった話もあった。
これまた無意味だ。
例えば「給与を上げてくれ」と交渉する際。
「業界標準より低い。だから上げろ」というのは、一見すると説得力がありそうに見える。
でも無意味です。そもそもの前提である「何故、業界標準に揃えなければいけないのか」が証明されてないから。
それなのに「業界標準」に拘ると、自分たちの業績や実力が業界標準並であることを示す流れに行き始める。
これまた無意味です。
幾ら「業界標準」の根拠を並べたところで、「標準並みではない」根拠を一つ示されたらそれまで。
そうでなくても「業界標準」である必要性がそもそも証明されてないのだから、「標準?じゃあ世界標準と比べてみよう。餓死してないんだからむしろ厚遇だね」と言われたら反論できない。
標準として「業界」で区切るのはありだが、「世界全部」で区切るのはなし…という前提の証明ができていないのだから。
結局は「業界標準」という基準自体が、一見客観的に見えるけど、実は主観でしかない。
だからこういう交渉の際には、もっと個人の利害によった方がいい。
要は「私が不満だから給料上げろ」。
(1)で書いたことと表面的に矛盾しますが、論戦はるならこういうスタンスの方がいい。
論破不可能だから。
(より正確に書くと、論破自体は可能。「不満はない」と示すことができればいい。でもそれって「不満が解消」されてるのだから、結果的にはどっちに転んでも損はない)
もちろん会社としては「お前の不満など知ったことか」のスタンスを取れる。
だから社員同士で徒党を組んで、「社員個人の主観」を無視したら酷い目にあうことを示し、言い分を通す。
勘違いしてはいけないのは、「主観だから納得されない」(転じて「客観的なら納得される」)のではなく、「そもそも個人で文句を言っても会社には通らない」のが正。
ここを間違えると、「客観的な正当性がないのなら、文句を言ってはいけない」(そもそも「客観的な正当性」とやらが、何を基準としたものかが提示されていないのに)といった、わけのわからない思考にハマる。
本来これはシンプルな話なんだと思う。
「不満があるから改善しろと文句をいう」だけなんだから。
それなのに、中途半端に(誤った)理屈に頼って、錯乱してる気がする。
例えば「公務員の給料を下げろ。税金を圧迫してるし、民間平均よりも高くて云たら」みたいなの。
本来要求したかったことは「税金下げろ」とか「民間の給与を上げろ」のはずなのに、「税金が高いのは公務員の給与が高いから…」とか「社会の平均と比べて…」とか、変な方向に走ってる。
論理破綻の典型ですね。
本質的には、公務員の給与が高かろうが低かろうが、そんなことはどうでもいいんですよ。
いいから税金下げろ。公務員の人件費がかさんでるから無理?知らないよそんなお宅の事情は。
貴方の家の事情は、そちらで自由に解消すればよろしい。
公務員の給与を下げるでも、他の方法でもいいから、とにかく税金下げろ。
いえ、ですから公務員が抵抗してるから難航してるとか、そんなことは聞いてないんで。
私は「税金を下げろ」と言ってるんであって、実現方法は知ったことじゃないし、出来ないのなら文句を言うだけです。と。
(もちろん大前提として「業界標準」等が指標として有効であることを、相手にも認めさせることができているのなら別ですが。
よくあるのが、自分の主観で選択してしまっただけの基準を、相手も採用していると思い込んで(つまり「主観」に過ぎないのに「客観」だと勘違いして)、そこを突かれて負けてるケース。
そういった場合、得てしてこの構造自体に気づかず、何故論破されてるのかすら理解できなかったりする)
いわゆる統計が議論の材料に使えるのは、自分が第三者の時だけだと思う。
聞きかじっただけの知識ですけど、「確率」は問題が明確になっているときに、その頻度や確からしさを示すのに使う。
「統計」はそもそも問題すら分かっていないときに、結果から答えを得るときに使う…そうで。
例えば「統計取ったら高齢者が多い。だからこういう問題があるはずだ。調べてみよう。あぁやっぱりあった」とか、「統計取ったら早死にしてる人には塩分大好き人間が多い。何で?…調べてみたら塩分は健康に悪いと分かった」とか。
ですから、当事者として今まさに問題に直面している時には、統計はあんまり役に立たない。
統計の結果、世界中の全ての人が幸せでも、自分が不幸だったら、つまりは不幸なんですよ。だから堂々と文句を言っていい。
わざわざ必死に「いや不幸だと思ってる人は世界中にもいるはずだ」と統計に頼る必要はない。
(3)
いい感じに酒も回ってきたので、もう一つだけ。
まがりになりにも会社の研修としてやるのなら、議論の勝敗と、実利の勝敗は説明すべきだと思う。
「議論には負けたが、結果として勝利」ということは往々にしてある。
例えば「放射能汚染は深刻かどうか」。
「関東は既に甚大な放射能汚染がされている」と主張する人はいる。
逆に「汚染は軽微だ」という人もいる。
では「汚染甚大」派の人は、「大したことない」と証明されたら負けなのか?
もちろんそんなことはない。
確かに議論には負けてますけど、だから何だと。
汚染がなかったのなら、めでたいじゃないですか。
むしろ「はい、実は致命的に汚染されてます。貴方も手遅れで死にます」と証明された方が、(議論には勝ってるけど)人生的には大敗北ですよ。
逆に「たいしたことない」派も同じで、「マジでヤバイ」と分かっても負けじゃない。
逃げるなり対策するなりできるんだから。(仮に手遅れでも、覚悟できないよりはマシだろう)
この辺の「勝ち負け」は、「100%勝ち」「10:0で負け」と綺麗に分かれるものでもないので、微妙に矛盾してるように見えますけど。
要は議論の勝敗と、現実の勝敗は綺麗には一致しない。
ここを履き違えると、何のために主張してるのか分からなくなるし、陰謀論に走ったり、目的を見失ったりする。
(例:「放射能は危険だ」と主張したいあまり、放射能被害が発見された際に大喜びしてしまう、とか。いやそこは嘆くところのはずでしょうに)
…と、そんなことで悶々とした週末でした。
メタ的に見れば、会社や講師が、意図的に非ロジカルな研修してるのかなとも思う。
それはそれで良いとは思う。筋が通った戦略を採用してるのなら、まぁ理解はできるから。
でも本気でこの程度のレベルなのだとしたら、そんなところに所属してる自分も含めて、何やら猛烈に虚しい。
[蛇足]
書いてて思ったのですけど。
現代日本の統計を、プリキュアさんに当てはめて考察したら、何か面白いものが見えてくるかも。
いわゆる一般的な彼女たちの進路として予想されるのは、中学卒業後、高校行って大学受験して…ですけど、もちろん統計的には決して「当たり前」じゃない。
あの28人の中では、中卒で社会に出たり、高校中退したりする子がいても、統計上は不思議じゃない。
(そしてだからといって、見下したり「可哀そう」と思うのはおかしい)
28人もいる以上、不幸にして若い内に病死したり自殺したりする子だっている…はず。
「世界が100人の村だったら」論が流行った時期もありましたけど、「世界が28人のプリキュアだったら」は微妙に新しい知見が得られそうな気が…。
なんか長くなりそうなので、そんなとこで終わってみる。
(1)
いわゆるロジカル系の講義というか、論理的思考を鍛えようみたいな講義だったのですが。
やってる内容が著しくレベルが低い。
根本的にはその程度の会社に勤めている自分を嘆くべきのような気もしますが、とにかく酷い。
例えば、「論理的とはそもそもどんなことか」みたいなテーマが扱われてた。
このテーマ自体は別にいいと思う。
答え方も色々あるでしょうけれど、私なりに思うシンプルな回答は「検証可能であること」。
「自分の主張や仮説が正しいこと」を証明するには、「自分が正しいことを示す根拠があること」を出すのが大事。
ですが、それと同時に「自分を否定する根拠がない」ことを示すのも大事。
「正しい」=「間違ってない」を完全無欠に証明するのは困難なので、「ほら実際に、間違いだという根拠がないでしょう?」というやり方で証明する。
「無罪」を証明するのではなく、「有罪の根拠がない」を証明するのと同じ。
こう書くと当たり前のことのように思えるけれど、現実にはうっかり混乱しがち。
よくある「何々はパクリだ」とか「こう考えれば辻褄がある」系の思考がまさにそれ。
「自分が正しい根拠」を示す(共通点や肯定根拠を羅列する)ことは大事だけど、同時に「自分を否定する根拠がない」(共通点が「ない」、否定根拠が「ない」)がないと、どれだけ肯定根拠を並べ立てても説得力はない。
(「確かに似ている部分や一致する個所もあるね」「でも全然違ったり、矛盾する点もあるね」で終わる)
ただ当然のこととして、「ない」を示すのは不可能です。いわゆる悪魔の証明。(パクリ論争のような単純な場面ではまた別ですが)
だから「こうすれば私の仮説は崩せる」という手順を示し、「反論したいならやってみな」というスタンスをとる。
できなければ、つまりは「否定根拠がない」のだから、持説が正しいと認めさせることができる。
この「こうすれば仮説を否定できる」があるかどうかが、論理的かどうかの分かれ目。
進化論VS創造論(=全ての生き物は神が作ったという説)を例に考えると分かりやすい。
一部の人たちに「創造論は科学だから公的教育で教えるべきだ」という主張があります。
しかし創造論は科学ではない。何故か。
創造論は神を前提にしているからとか、宗教が母体だから、ではなく。
創造論は否定が不可能なんですよ。
どれだけ「否定」の根拠(例えば、「現実に地層を見ると時代毎に出現する化石が違う」)を提示しても、「一見そう見えるように神が創造しただけだ」と言われたらそれまで。
つまり否定する方法がない。だから論理的ではない。
一方、進化論は否定が可能です。
恐竜と同時代にホモサピエンスの化石や道具が発見されればいい。他にも幾つも手段がある。
だけど現実には(捏造や曖昧なものを除けば)見つかっていない。だから正しい。
ロジカルであることは、「絶対に反論できないこと」ではなく「反論する方法はあるのだが、実際としてできない」。
原理的には反論できるが、現実に否定根拠が見つからないので、結果的に正しい。逆に原理的に反論不可能ならば、それはロジカルではない。
「原理的には反論可能だが、結果として反論できない」ことと「原理的に反論不可能」は全く違う。
でも「完璧な主張」を目指そうとして、うっかり後者になってしまう人がいる気がするから注意。
何か仮説を思いついたときは、自分で自分の仮説に対し、「ではどうすればこの仮説を否定できるか」の視点を持つことは非常に大事だと思う。
そしてその反論方法を試し、「よし、否定根拠はない」と確認できて、ようやく安心できる。
反論手段そのものがなかったり、否定根拠があるようなないような曖昧な時には、仮説の信憑性は低い。
どんだけ肯定する根拠を羅列したり、「こう考えれば辻褄が合う」と言ったところでスカスカになってしまう。
…と思うのですが。
件の研修では「数字で根拠を示すこと」とか「権威あるソースを示すこと」といった内容に終始していた。
ちょっと待て。それはむしろ、騙されやすい人の陥る罠じゃないか。
確かに「数字」や「権威」を出すと、人は信じやすい性質がありますけど、それは「相手を騙す」テクニックであって、「論理的」ではない。
確かにそれはそれで大事だし、ある意味実践的だとは思うのですよ。
でも種明かしを解説しないと、丸っきり無意味に思える。
「~が大事だとXXという学者も言っていて、実験の結果、平均YY%の結果も出ています」
「ほら、数字を出すと説得力があるでしょう」
「…嘘なんですけどね。そんな学者いないし、実験もされてません。でも数字を出すとそれっぽく聞こえるでしょう?」
みたいな。
(2)
もう一つ、説得の際には統計データを示そうといった話もあった。
これまた無意味だ。
例えば「給与を上げてくれ」と交渉する際。
「業界標準より低い。だから上げろ」というのは、一見すると説得力がありそうに見える。
でも無意味です。そもそもの前提である「何故、業界標準に揃えなければいけないのか」が証明されてないから。
それなのに「業界標準」に拘ると、自分たちの業績や実力が業界標準並であることを示す流れに行き始める。
これまた無意味です。
幾ら「業界標準」の根拠を並べたところで、「標準並みではない」根拠を一つ示されたらそれまで。
そうでなくても「業界標準」である必要性がそもそも証明されてないのだから、「標準?じゃあ世界標準と比べてみよう。餓死してないんだからむしろ厚遇だね」と言われたら反論できない。
標準として「業界」で区切るのはありだが、「世界全部」で区切るのはなし…という前提の証明ができていないのだから。
結局は「業界標準」という基準自体が、一見客観的に見えるけど、実は主観でしかない。
だからこういう交渉の際には、もっと個人の利害によった方がいい。
要は「私が不満だから給料上げろ」。
(1)で書いたことと表面的に矛盾しますが、論戦はるならこういうスタンスの方がいい。
論破不可能だから。
(より正確に書くと、論破自体は可能。「不満はない」と示すことができればいい。でもそれって「不満が解消」されてるのだから、結果的にはどっちに転んでも損はない)
もちろん会社としては「お前の不満など知ったことか」のスタンスを取れる。
だから社員同士で徒党を組んで、「社員個人の主観」を無視したら酷い目にあうことを示し、言い分を通す。
勘違いしてはいけないのは、「主観だから納得されない」(転じて「客観的なら納得される」)のではなく、「そもそも個人で文句を言っても会社には通らない」のが正。
ここを間違えると、「客観的な正当性がないのなら、文句を言ってはいけない」(そもそも「客観的な正当性」とやらが、何を基準としたものかが提示されていないのに)といった、わけのわからない思考にハマる。
本来これはシンプルな話なんだと思う。
「不満があるから改善しろと文句をいう」だけなんだから。
それなのに、中途半端に(誤った)理屈に頼って、錯乱してる気がする。
例えば「公務員の給料を下げろ。税金を圧迫してるし、民間平均よりも高くて云たら」みたいなの。
本来要求したかったことは「税金下げろ」とか「民間の給与を上げろ」のはずなのに、「税金が高いのは公務員の給与が高いから…」とか「社会の平均と比べて…」とか、変な方向に走ってる。
論理破綻の典型ですね。
本質的には、公務員の給与が高かろうが低かろうが、そんなことはどうでもいいんですよ。
いいから税金下げろ。公務員の人件費がかさんでるから無理?知らないよそんなお宅の事情は。
貴方の家の事情は、そちらで自由に解消すればよろしい。
公務員の給与を下げるでも、他の方法でもいいから、とにかく税金下げろ。
いえ、ですから公務員が抵抗してるから難航してるとか、そんなことは聞いてないんで。
私は「税金を下げろ」と言ってるんであって、実現方法は知ったことじゃないし、出来ないのなら文句を言うだけです。と。
(もちろん大前提として「業界標準」等が指標として有効であることを、相手にも認めさせることができているのなら別ですが。
よくあるのが、自分の主観で選択してしまっただけの基準を、相手も採用していると思い込んで(つまり「主観」に過ぎないのに「客観」だと勘違いして)、そこを突かれて負けてるケース。
そういった場合、得てしてこの構造自体に気づかず、何故論破されてるのかすら理解できなかったりする)
いわゆる統計が議論の材料に使えるのは、自分が第三者の時だけだと思う。
聞きかじっただけの知識ですけど、「確率」は問題が明確になっているときに、その頻度や確からしさを示すのに使う。
「統計」はそもそも問題すら分かっていないときに、結果から答えを得るときに使う…そうで。
例えば「統計取ったら高齢者が多い。だからこういう問題があるはずだ。調べてみよう。あぁやっぱりあった」とか、「統計取ったら早死にしてる人には塩分大好き人間が多い。何で?…調べてみたら塩分は健康に悪いと分かった」とか。
ですから、当事者として今まさに問題に直面している時には、統計はあんまり役に立たない。
統計の結果、世界中の全ての人が幸せでも、自分が不幸だったら、つまりは不幸なんですよ。だから堂々と文句を言っていい。
わざわざ必死に「いや不幸だと思ってる人は世界中にもいるはずだ」と統計に頼る必要はない。
(3)
いい感じに酒も回ってきたので、もう一つだけ。
まがりになりにも会社の研修としてやるのなら、議論の勝敗と、実利の勝敗は説明すべきだと思う。
「議論には負けたが、結果として勝利」ということは往々にしてある。
例えば「放射能汚染は深刻かどうか」。
「関東は既に甚大な放射能汚染がされている」と主張する人はいる。
逆に「汚染は軽微だ」という人もいる。
では「汚染甚大」派の人は、「大したことない」と証明されたら負けなのか?
もちろんそんなことはない。
確かに議論には負けてますけど、だから何だと。
汚染がなかったのなら、めでたいじゃないですか。
むしろ「はい、実は致命的に汚染されてます。貴方も手遅れで死にます」と証明された方が、(議論には勝ってるけど)人生的には大敗北ですよ。
逆に「たいしたことない」派も同じで、「マジでヤバイ」と分かっても負けじゃない。
逃げるなり対策するなりできるんだから。(仮に手遅れでも、覚悟できないよりはマシだろう)
この辺の「勝ち負け」は、「100%勝ち」「10:0で負け」と綺麗に分かれるものでもないので、微妙に矛盾してるように見えますけど。
要は議論の勝敗と、現実の勝敗は綺麗には一致しない。
ここを履き違えると、何のために主張してるのか分からなくなるし、陰謀論に走ったり、目的を見失ったりする。
(例:「放射能は危険だ」と主張したいあまり、放射能被害が発見された際に大喜びしてしまう、とか。いやそこは嘆くところのはずでしょうに)
…と、そんなことで悶々とした週末でした。
メタ的に見れば、会社や講師が、意図的に非ロジカルな研修してるのかなとも思う。
それはそれで良いとは思う。筋が通った戦略を採用してるのなら、まぁ理解はできるから。
でも本気でこの程度のレベルなのだとしたら、そんなところに所属してる自分も含めて、何やら猛烈に虚しい。
[蛇足]
書いてて思ったのですけど。
現代日本の統計を、プリキュアさんに当てはめて考察したら、何か面白いものが見えてくるかも。
いわゆる一般的な彼女たちの進路として予想されるのは、中学卒業後、高校行って大学受験して…ですけど、もちろん統計的には決して「当たり前」じゃない。
あの28人の中では、中卒で社会に出たり、高校中退したりする子がいても、統計上は不思議じゃない。
(そしてだからといって、見下したり「可哀そう」と思うのはおかしい)
28人もいる以上、不幸にして若い内に病死したり自殺したりする子だっている…はず。
「世界が100人の村だったら」論が流行った時期もありましたけど、「世界が28人のプリキュアだったら」は微妙に新しい知見が得られそうな気が…。
なんか長くなりそうなので、そんなとこで終わってみる。