プリキュアシリーズ全体を見渡しても、かなり注目された愛崎家について考えてみる。
(「HUGっと!プリキュア」41話より)
人物の内面に言及する考察は、個人的には苦手で不得手です。「ホラー映画が好きな人は、殺人衝動がある」みたいな考察は不毛で下衆だと思うので。
ただ、愛崎家の件は少し気になるので整理してみた。できる範囲で気を付けはしましたが、私の主観や価値観がかなり入っているので、不快に思われたらすみません。あと、描写が各話に分散しているので見返せていません。記憶違いがあったらごめんなさい。
【祖父】
愛崎家のおじいさまは、固定観念に染まった人物のように受け止められているかと思う。ですが実際には違うように見えます。
第一に愛崎父母への対応です。頭の固い圧政者だったら、子夫婦の「狼藉」を許さないです。
俳呑(ハイドン)と都のどちらが実子か分かりませんが、ハイドンだとしたら命名の時点で突き抜けています(芸名や改名だとしても、それを許している)。
都だとしたらハイドンとの結婚を許しています。古い価値観に染まっているなら「婿養子にあの男を迎えるのか」がかなり疑問。(そもそも「結婚を許す」「婿養子」の発想が古いです)
自宅の改装をはじめ、一連から見えるのは「自分の価値観に全く合わなくても、子がやることを全否定はしない」人物像です。
えみるのギターに反対しているのも、劇中人物の視点では当然です。
たとえばライブイベントへの出演(41話)。祖父から見れば、小学生の孫がなぜか中学生とつるんで、何者かも分からない成人男性や、新興事務所の人とイベントに行くわけです。しかもライブ出演を知った経緯は、関係が険悪なクライアス社からの情報です。脅迫や犯罪すら警戒しそう。
挙句には謎の体調不良で声まで出なくなっています。この条件下では止めない方が異常だ。
なので祖父を頑迷な人物かのように評するのは、ちょっと申し訳ない。
【父母】
貴族を連想する服装や家、なぜか歌うように会話する。かなりエキセントリックで、家庭崩壊すらしているように見えます。ですがこれも、やや違うように思う。
前述したライブの際、父母はちゃんと「娘がライブに出演する」ことを知っていました。
えみるが話したのかもしれない。常識的に考えて、出演条件に「保護者の承諾」もいりそうです。
ただ何にせよ、彼らはちゃんと娘の行動を把握しています。(プリキュアの件は知りませんが、それは仕方ない)
先ほどは「なぜか中学生とつるんで」等書きましたが、おそらく父母は裏をとったと思われます。
幸か不幸か、同行者は名の知れた女優やフィギュア選手。素性はすぐに分かるし息子の同級生です。ハリーやパップルのことも調べれば評判は分かるでしょう。彼らとの接点も「娘(えみる)の友人(ことり)の姉(はな)つながり」なので、納得できなくはない。
これらの背景を踏まえると、ハイドンらはちゃんと「まとも」に思えます。
彼らの趣味が変わっているからといって、家庭崩壊や育児放棄を連想するのは、それこそが偏見でしょう。
【兄(1)】
リトル祖父として「古い価値観」の持ち主のようにも言われましたが、ちょっと擁護したい。
まず19話でのアンリ君の制服の注意。本来、論点がふたつある。
①なぜ、決められた服を着なければいけないのか。
②なぜ、男が女の服を着てはいけないのか。
19話での発端は①です。ルールに反していることに対しての「女の子のような恰好」なのですから、ここでいう「男は男らしく」は「男たるもの女々しい格好をするな」のような話ではなく、「男子用がこれだから」です。
別の例でいうと「学年ごとにワッペンの色が違う」とかと同じ。
サンクルミエール学園では、1年生は黄色、3年生は緑です。もし1年生が緑をつけていたら、「1年生は1年生らしく黄色をつけなさい」「3年生みたい。おかしいよね」と言われるはず。これは「1年生は目下として分をわきまえ黄色にせよ」ではなく、単なる区分けとして黄色が割当たっているからです。
これに偏見や価値観(1年生は目下だから黄色…?)を持ち込むのは、持ち込むその人こそが偏見の持ち主に思えます。
実際、アンリ君は結構固定観念に縛られており、クライアスからスカウトも受けています。「さそわれるならプリキュアだと思っていた」(33話)のに、実のところクライアス寄りだったのです。
野乃さんも「アンリくんはいつも否定から入る」と評しています。「だけどきちんと向き合えば気持ちを抱きしめてくれる」と続きますが、初めから全てを許容するキャラクターではありません。
この制服の一件も含め、「正人=固定観念、アンリ=自由」のような単純な構図ではないと思う。(だからこそ、吹っ切った際にプリキュアになるという最大級の演出がされている。なお性同一性障害のような話でもないし、「男がプリキュアになった!」の視点でみるのも違う)
19話ではその後に「女の子がヒーローはおかしい」「男なのにドレスを着ている」と続きます。
が、どちらも売り言葉に買い言葉の側面が強い。前者は「女ならヒロインだろ?」という(主婦じゃなくて主夫だろと類似の)揚げ足とりが発端にも思えるし、彼から見れば えみるは小学生の妹ですから「守られる側」と感じるのは必然です。えみるが弟だったとしても同じことを言いそうだ。
後者はこれまでの経緯があっての話でしょう。その後アンリ君自身も「お姫様ポジション」という表現を使い、それを受けた野乃さんも「お姫様=守られるもの」という前提の返しをしています。正人ばかりを固定観念の持ち主として扱うのはやっぱり申し訳ない。
(ついにでいえばこの「アンリ君」「野乃さん」という呼称もジェンダー問題の観点では引っかかる)
尤も、あえて「お姫様」の表現を使ったのは、「ヒーロー」に対するフォローだったのかもしれません。
・「ヒーローはおかしい」とは「女性を指す場合にはヒロインだ」ではなく、「ヒーロー=守るもの」「ヒロイン=守られるもの」を前提とした「女の子は守られるものだからおかしい」の意だ
・「お姫様ポジションはおかしい」とは「男性を指す場合には王子様だ」ではなく、「王子=守るもの」「姫=守られるもの」を前提とした「男は守るものだからおかしい」の意だ
かなり苦しい気もしますが、制作意図としては「ヒーロー」の言葉を使いたかったんだろうと思います。後述しますが一連のやりとりはジェンダー問題というより、プリキュアコンテンツの成立背景を下敷きにしているようにも見えますので。
【兄(2)】
えみるに対する「女の子がギターなんて」(15話)も話題になりました。
これも表面的にはジェンダー問題に見えますが、もっとややこしい話だと思います。
まずこの発言は
・「女(の子)がギターはおかしい」
・「(女の)子がギターはおかしい」
どちらでしょうか。
えみるはジャンル分けするならロックに片足を突っ込んでいるようですから、「子供がロックなんて」はそれほど違和感がないです。
もちろん子供がロックをやってもいい。いいのですが、ロックって音楽の種類であると同時に生き様とかも指すのでは?音楽と全く関係ない分野でも「ロックな生き方だ」等は言われます。
ではロック(な生き方)とは何かといえば、とりあえずは品行方正なロックはいまいちピンときません。ということは子供のえみるにさせたがらないのは、抑圧や束縛云々ではなく普通では。
(制作サイドもこれを警戒したのか、えみる自身は「ロックがやりたい」ではなく「ギターをやりたい」と表現している)
こう感じてしまうのは、「女がギターはおかしい」の概念が、そもそもないからだと思います。直前のシリーズの立神あおいさんや、スイートの黒川さんのように、ギター弾いてる子は普通にいる。同業他番組でも、アイドルやらバンドやらは珍しくない。「女がギターなんて」と言われても「差別だ」の前に「なんで?」が先に立ちます。
たとえるなら「素足でギターをやるなんておかしい」と言われたら、「差別」ではなく「何かそういうお約束の作法とか背景があるんだろうか?」「あ、活発に動くから怪我しやすいとか?」と混乱するはず。
おそらくこの「女の子なんて」の背景には、元祖の「女の子だって暴れたい」があるんだと思います。
「女だって暴れたい」でも「子供だって暴れたい」でもない。「女の子だって暴れたい」。
「女」でも「子」でもない、「女の子」特有の「男の子は手がかかる。女の子は暴れない」のような偏見を射抜いた、ピンポイントな素晴らしいフレーズです。これが正に刺さったからこそ、今のプリキュアシリーズがある。
ただ見事に刺さったフレーズだっただけに、15年後に別のジャンルに適用すると、色々とずれが出てしまったんだと思う。
何せ「ギター」「ロック」と具体化されてしまうと、やっぱり「現実的には子供には厳しいよな…」(女の子だからではなく、男の子でも)と悩んでしまう。
「女の子だって暴れたい」を「女の子だって真剣を使った本格武道をやりたい」と言われたら、その気持ちは悪ではないけど男女を問わず難しいよな、と思う感じというか。
野乃さんの反発もジェンダー問題の観点ではなく、もっと広い意味だったんじゃなかろうか。
先ほどから「子供がロックをやるのはどうなんだろう」の観点で書いていますが、それでも子がやりたいのなら環境を整えるのも親の務めです。実際、ハイドンらは見守っています。
「暴れる」のだって男女を問わず危険といえば危険ですから、止めるのが正ともいえる。そこで「危険だから」と引き止めず、安全対策をして後押ししようよという話に思えます。
【えみる】
さて、えみる本人です。
「ギターが好き」な理由として、彼女は「ギュイーンとソウルがシャウトするのです!」とおっしゃっている。では何をシャウトしたかったんだろう?
「ギターを禁止された抑圧への抵抗」ではない。「抑圧されたからギター」ではなく、「何かをシャウトしようとしてギターを選んだら、禁止された」の順番です。
では一体何をシャウトとしたかったのか?
おそらくですが「特には何もない」のだと思います。
下敷きとなったのが「女の子だって暴れたい」だとしたら、女の子が暴れたいのは抑圧やら親への反発やらではなく、元気がありあまってるからです。
えみるも同様で、鬱屈した想いがあってギターに行き着いたのではなく、たまたま手に取ったのがギターだったんでしょう。「ギターが好き=抑圧されていたに違いない」は、それこそ偏見です。
それを踏まえた上でですが、えみるは抑圧されたというより、むしろ自由すぎたので自分を見失ったように見えます。
ハイドンらは自分達の趣味が世間とずれているのは自覚しており、子供には極力「普通」の教育を意識したんじゃなかろうか。もし彼らが自分らの価値観をそのまま伝えたり、あるいは逆にネグレクトしていたら、えみるはお姫様のような趣味嗜好に育つ気がします。親や住居がそうなんだから、素直に育てばそうなる。
しかし実際にはそうなっていません。ハイドンたちは「バランスのよい」教育をしたのでしょう。
ですが子供にとっては、これはこれで結構きつい。親とのギャップが明白で、だけどそれは悪いことではなくて。あまりに自由で多様だと、判断力や知識に限界のある子供の身では、何をして良いか分からなくなります。
(これは現実の子育てや職場でも直面する問題。何も分からぬ相手を一方的に色に染めるのはまずいが、かといって多様性を意識しすぎるとフリーズしてしまう)
えみるは、あれこれと未来を思い悩み、他人の手助けに奔走しています。ある意味、自分のやりたいことではなく、他者のやりたいことに依存しているとも。
彼女のシャウトは「やりたいことがあるのに抑圧されてできない」のではなく、「やりたいことが分からない」ことへの叫びだったんじゃないかな。
(「HUGっと!プリキュア」41話より)
人物の内面に言及する考察は、個人的には苦手で不得手です。「ホラー映画が好きな人は、殺人衝動がある」みたいな考察は不毛で下衆だと思うので。
ただ、愛崎家の件は少し気になるので整理してみた。できる範囲で気を付けはしましたが、私の主観や価値観がかなり入っているので、不快に思われたらすみません。あと、描写が各話に分散しているので見返せていません。記憶違いがあったらごめんなさい。
【祖父】
愛崎家のおじいさまは、固定観念に染まった人物のように受け止められているかと思う。ですが実際には違うように見えます。
第一に愛崎父母への対応です。頭の固い圧政者だったら、子夫婦の「狼藉」を許さないです。
俳呑(ハイドン)と都のどちらが実子か分かりませんが、ハイドンだとしたら命名の時点で突き抜けています(芸名や改名だとしても、それを許している)。
都だとしたらハイドンとの結婚を許しています。古い価値観に染まっているなら「婿養子にあの男を迎えるのか」がかなり疑問。(そもそも「結婚を許す」「婿養子」の発想が古いです)
自宅の改装をはじめ、一連から見えるのは「自分の価値観に全く合わなくても、子がやることを全否定はしない」人物像です。
えみるのギターに反対しているのも、劇中人物の視点では当然です。
たとえばライブイベントへの出演(41話)。祖父から見れば、小学生の孫がなぜか中学生とつるんで、何者かも分からない成人男性や、新興事務所の人とイベントに行くわけです。しかもライブ出演を知った経緯は、関係が険悪なクライアス社からの情報です。脅迫や犯罪すら警戒しそう。
挙句には謎の体調不良で声まで出なくなっています。この条件下では止めない方が異常だ。
なので祖父を頑迷な人物かのように評するのは、ちょっと申し訳ない。
【父母】
貴族を連想する服装や家、なぜか歌うように会話する。かなりエキセントリックで、家庭崩壊すらしているように見えます。ですがこれも、やや違うように思う。
前述したライブの際、父母はちゃんと「娘がライブに出演する」ことを知っていました。
えみるが話したのかもしれない。常識的に考えて、出演条件に「保護者の承諾」もいりそうです。
ただ何にせよ、彼らはちゃんと娘の行動を把握しています。(プリキュアの件は知りませんが、それは仕方ない)
先ほどは「なぜか中学生とつるんで」等書きましたが、おそらく父母は裏をとったと思われます。
幸か不幸か、同行者は名の知れた女優やフィギュア選手。素性はすぐに分かるし息子の同級生です。ハリーやパップルのことも調べれば評判は分かるでしょう。彼らとの接点も「娘(えみる)の友人(ことり)の姉(はな)つながり」なので、納得できなくはない。
これらの背景を踏まえると、ハイドンらはちゃんと「まとも」に思えます。
彼らの趣味が変わっているからといって、家庭崩壊や育児放棄を連想するのは、それこそが偏見でしょう。
【兄(1)】
リトル祖父として「古い価値観」の持ち主のようにも言われましたが、ちょっと擁護したい。
まず19話でのアンリ君の制服の注意。本来、論点がふたつある。
①なぜ、決められた服を着なければいけないのか。
②なぜ、男が女の服を着てはいけないのか。
19話での発端は①です。ルールに反していることに対しての「女の子のような恰好」なのですから、ここでいう「男は男らしく」は「男たるもの女々しい格好をするな」のような話ではなく、「男子用がこれだから」です。
別の例でいうと「学年ごとにワッペンの色が違う」とかと同じ。
サンクルミエール学園では、1年生は黄色、3年生は緑です。もし1年生が緑をつけていたら、「1年生は1年生らしく黄色をつけなさい」「3年生みたい。おかしいよね」と言われるはず。これは「1年生は目下として分をわきまえ黄色にせよ」ではなく、単なる区分けとして黄色が割当たっているからです。
これに偏見や価値観(1年生は目下だから黄色…?)を持ち込むのは、持ち込むその人こそが偏見の持ち主に思えます。
実際、アンリ君は結構固定観念に縛られており、クライアスからスカウトも受けています。「さそわれるならプリキュアだと思っていた」(33話)のに、実のところクライアス寄りだったのです。
野乃さんも「アンリくんはいつも否定から入る」と評しています。「だけどきちんと向き合えば気持ちを抱きしめてくれる」と続きますが、初めから全てを許容するキャラクターではありません。
この制服の一件も含め、「正人=固定観念、アンリ=自由」のような単純な構図ではないと思う。(だからこそ、吹っ切った際にプリキュアになるという最大級の演出がされている。なお性同一性障害のような話でもないし、「男がプリキュアになった!」の視点でみるのも違う)
19話ではその後に「女の子がヒーローはおかしい」「男なのにドレスを着ている」と続きます。
が、どちらも売り言葉に買い言葉の側面が強い。前者は「女ならヒロインだろ?」という(主婦じゃなくて主夫だろと類似の)揚げ足とりが発端にも思えるし、彼から見れば えみるは小学生の妹ですから「守られる側」と感じるのは必然です。えみるが弟だったとしても同じことを言いそうだ。
後者はこれまでの経緯があっての話でしょう。その後アンリ君自身も「お姫様ポジション」という表現を使い、それを受けた野乃さんも「お姫様=守られるもの」という前提の返しをしています。正人ばかりを固定観念の持ち主として扱うのはやっぱり申し訳ない。
(ついにでいえばこの「アンリ君」「野乃さん」という呼称もジェンダー問題の観点では引っかかる)
尤も、あえて「お姫様」の表現を使ったのは、「ヒーロー」に対するフォローだったのかもしれません。
・「ヒーローはおかしい」とは「女性を指す場合にはヒロインだ」ではなく、「ヒーロー=守るもの」「ヒロイン=守られるもの」を前提とした「女の子は守られるものだからおかしい」の意だ
・「お姫様ポジションはおかしい」とは「男性を指す場合には王子様だ」ではなく、「王子=守るもの」「姫=守られるもの」を前提とした「男は守るものだからおかしい」の意だ
かなり苦しい気もしますが、制作意図としては「ヒーロー」の言葉を使いたかったんだろうと思います。後述しますが一連のやりとりはジェンダー問題というより、プリキュアコンテンツの成立背景を下敷きにしているようにも見えますので。
【兄(2)】
えみるに対する「女の子がギターなんて」(15話)も話題になりました。
これも表面的にはジェンダー問題に見えますが、もっとややこしい話だと思います。
まずこの発言は
・「女(の子)がギターはおかしい」
・「(女の)子がギターはおかしい」
どちらでしょうか。
えみるはジャンル分けするならロックに片足を突っ込んでいるようですから、「子供がロックなんて」はそれほど違和感がないです。
もちろん子供がロックをやってもいい。いいのですが、ロックって音楽の種類であると同時に生き様とかも指すのでは?音楽と全く関係ない分野でも「ロックな生き方だ」等は言われます。
ではロック(な生き方)とは何かといえば、とりあえずは品行方正なロックはいまいちピンときません。ということは子供のえみるにさせたがらないのは、抑圧や束縛云々ではなく普通では。
(制作サイドもこれを警戒したのか、えみる自身は「ロックがやりたい」ではなく「ギターをやりたい」と表現している)
こう感じてしまうのは、「女がギターはおかしい」の概念が、そもそもないからだと思います。直前のシリーズの立神あおいさんや、スイートの黒川さんのように、ギター弾いてる子は普通にいる。同業他番組でも、アイドルやらバンドやらは珍しくない。「女がギターなんて」と言われても「差別だ」の前に「なんで?」が先に立ちます。
たとえるなら「素足でギターをやるなんておかしい」と言われたら、「差別」ではなく「何かそういうお約束の作法とか背景があるんだろうか?」「あ、活発に動くから怪我しやすいとか?」と混乱するはず。
おそらくこの「女の子なんて」の背景には、元祖の「女の子だって暴れたい」があるんだと思います。
「女だって暴れたい」でも「子供だって暴れたい」でもない。「女の子だって暴れたい」。
「女」でも「子」でもない、「女の子」特有の「男の子は手がかかる。女の子は暴れない」のような偏見を射抜いた、ピンポイントな素晴らしいフレーズです。これが正に刺さったからこそ、今のプリキュアシリーズがある。
ただ見事に刺さったフレーズだっただけに、15年後に別のジャンルに適用すると、色々とずれが出てしまったんだと思う。
何せ「ギター」「ロック」と具体化されてしまうと、やっぱり「現実的には子供には厳しいよな…」(女の子だからではなく、男の子でも)と悩んでしまう。
「女の子だって暴れたい」を「女の子だって真剣を使った本格武道をやりたい」と言われたら、その気持ちは悪ではないけど男女を問わず難しいよな、と思う感じというか。
野乃さんの反発もジェンダー問題の観点ではなく、もっと広い意味だったんじゃなかろうか。
先ほどから「子供がロックをやるのはどうなんだろう」の観点で書いていますが、それでも子がやりたいのなら環境を整えるのも親の務めです。実際、ハイドンらは見守っています。
「暴れる」のだって男女を問わず危険といえば危険ですから、止めるのが正ともいえる。そこで「危険だから」と引き止めず、安全対策をして後押ししようよという話に思えます。
【えみる】
さて、えみる本人です。
「ギターが好き」な理由として、彼女は「ギュイーンとソウルがシャウトするのです!」とおっしゃっている。では何をシャウトしたかったんだろう?
「ギターを禁止された抑圧への抵抗」ではない。「抑圧されたからギター」ではなく、「何かをシャウトしようとしてギターを選んだら、禁止された」の順番です。
では一体何をシャウトとしたかったのか?
おそらくですが「特には何もない」のだと思います。
下敷きとなったのが「女の子だって暴れたい」だとしたら、女の子が暴れたいのは抑圧やら親への反発やらではなく、元気がありあまってるからです。
えみるも同様で、鬱屈した想いがあってギターに行き着いたのではなく、たまたま手に取ったのがギターだったんでしょう。「ギターが好き=抑圧されていたに違いない」は、それこそ偏見です。
それを踏まえた上でですが、えみるは抑圧されたというより、むしろ自由すぎたので自分を見失ったように見えます。
ハイドンらは自分達の趣味が世間とずれているのは自覚しており、子供には極力「普通」の教育を意識したんじゃなかろうか。もし彼らが自分らの価値観をそのまま伝えたり、あるいは逆にネグレクトしていたら、えみるはお姫様のような趣味嗜好に育つ気がします。親や住居がそうなんだから、素直に育てばそうなる。
しかし実際にはそうなっていません。ハイドンたちは「バランスのよい」教育をしたのでしょう。
ですが子供にとっては、これはこれで結構きつい。親とのギャップが明白で、だけどそれは悪いことではなくて。あまりに自由で多様だと、判断力や知識に限界のある子供の身では、何をして良いか分からなくなります。
(これは現実の子育てや職場でも直面する問題。何も分からぬ相手を一方的に色に染めるのはまずいが、かといって多様性を意識しすぎるとフリーズしてしまう)
えみるは、あれこれと未来を思い悩み、他人の手助けに奔走しています。ある意味、自分のやりたいことではなく、他者のやりたいことに依存しているとも。
彼女のシャウトは「やりたいことがあるのに抑圧されてできない」のではなく、「やりたいことが分からない」ことへの叫びだったんじゃないかな。
言い替えると、差別や偏見のような解決を目指せるタイプの制約ではなく、成長や多様性のような不可避の制約です。
以下、書きたいことが諸々あるのですが、長くなったので記事を分けます。
参考:
●HUGっと!プリキュア 愛崎えみる研究室問題考察(一覧)
以下、書きたいことが諸々あるのですが、長くなったので記事を分けます。
参考:
●HUGっと!プリキュア 愛崎えみる研究室問題考察(一覧)