老人党リアルグループ「護憲+」ブログ

現憲法の基本理念(国民主権、平和、人権)の視点で「世直し」を志す「護憲+」メンバーのメッセージ

芦屋「九条の会」9周年のつどいに参加して

2014-06-30 10:54:25 | 戦争・平和
28日、兵庫県の芦屋は上宮川文化センター3階ホールで開催された、表記のつどい(集い)に参加した。開場13:30、開演14:00だったが、私は同センターの場所を確かめることもあって、当日12時過ぎに同センターに到着した。

一階フロアに小さな図書室を見つけた私は、そこで開場を待つまでの間、本を手に取って、読んでいた。傍には、お母さんと幼い子供の一組が、絵本を一緒に見るのでもなく、クレパスで絵を描くわけでもなく、ただ穏やかな遣り取りのひとときを過ごしていた。

たまたまそこで私が手にしていたのは、NPO法人「もやい」等をはじめたことで知られ、いまは法政大学現代福祉学部の教授である湯浅誠氏の、『ヒーローを待っていても世界は変わらない』だった。

その内容に惹かれて途中まで、開場時刻を少し過ぎて読み、それから受付に行って手続きを済ませ、置かれていた署名用紙も、よく読んだ上で署名した。つどい(集い)のホール前では、当日の講演者の本や、会の活動関連の冊子、パンフレット等が机に置かれていて、二人の方がイスに座っていた。

私が何気なくそれらに目を遣っていたら、目の前の男性が話しかけて来た。「九条の会・ひがしなだ」の方だった。私は同会発行の冊子を、迷った挙句、一冊だけ選んで買った。300円だった。男性はなおも語りかけてきたが、私はそこそこにホールに入った。

あとから聞いたところによると、このつどい(集い)には150人ほどの参加があったというが、既に席は満員に近く、私は後ろのほうに空いていたイスに座って、さきほど買った冊子や、受付で渡された案内等を読んでいた。

開演時刻になって、芦屋「九条の会」代表の挨拶のあと、司会である片岡隆氏紹介で、当日の講師である「無言館」館主で、作家でもいらっしゃる窪島誠一郎氏がマイクの前に立たれた。長身の、やや前かがみ、髪の長い男性で、1941年生まれ。

氏は初めに「私は、『絶叫型』ではないので……」と仰りながらボソボソと、手前の通りにくい卓上のマイクで話をはじめたが、そのあと、聴衆の「聞こえにくい」という声で、マイクを司会者の差し出したものに持ち替えて、「せっかくいいハナシで始めようとしたのに……、もう一度繰り返す、いや……」と、半ば躊躇うように、半ば困惑するように、これもボソっと言って、会場を笑わせた。

講演は約二時間にわたるもので、そのいちいちをここで書くことは、できない。ただ、氏は自身の内面、それもその講演の場に於ける現在進行形の自分の内面を探り、また追うようにしながら、お話しをなさった。 そこには、一般受けするような、派手な「売れる」話は一切、なかった。私は、氏の内面と私の内面を絡み合わせるようにして、氏のハナシを聞いていた。

氏の、幼い頃からの話は、私の中に、自分のこころ(心)の原風景をも、現出させていた。それはおよそ、今となっては殆ど忘れかけていたような記憶を、まざまざと思い起こさせ、取り戻させるかのような、そんな一瞬々々、空間であった。

氏はそんな語り口でありながら、自然と人々を笑わせ、話を進めて行った。氏の話は、まぎれもなく一人の人間の、ナマの人生そのものだった。周りの、聴衆の方々は殆どが年配で人生の悲喜こもごもを味わい尽くしているせいか終始、皆穏やかで笑顔であり、笑いの絶えない風だったが、私は何故か、ふと自分の目が、ほんのうっすら汗をかいているのに、気づいた。

氏はもちろん、ハナシは上手だったろう。だがそこに私は、人間誰しもが奥深く持っている、人々の間に通底している悲しみのようなものを感じていた。(仏教で言う)「大悲心」というほど大げさなものではないにしろ、何かしらそれに近いものを感じていたのは、いま振り返ってみても多分、言えることだ。しかしそれも私が若くて、そういうものに普段、あまり触れていないとは、そうと言えば確かにそうだ。

講演の、具体的な内容となると、記憶は全く定かでない。もちろん、こんな場にテープレコーダーなど持ち込むわけもないし、メモをとる筋合いのものでもないので、以下に書く講演のハナシはいずれも記憶が頼りの、手許に一切記録もなければ証明もできない、おぼろげであいまい、不正確極まりないもの、高名な氏には非常な失礼を承知の上での、これはあくまで私自身の中でだけの、いわば「こころに刻み込まれた記憶の書きとめ」であるとだけ、予めここでお断りさせていただく。

私個人の、氏に関する何の予備知識もない状態での、講演に於ける「おぼろげな」記憶に頼れば、氏の話は自分が戦前生まれで靴関係の職人かそれに近いご両親の息子であり、両親ともに、特に母親が終始、自分を慈しんでくれたこと、中学卒業間際に、たまたま熱心に氏のご両親を説き伏せ続ける方がいて、高等学校に進んだが、たしか三年生途中で退学したこと、何故か絵を描くのが好きだったこと、それとこれも何故か若くして夭折した画家の絵が好きだったこと、その中のある著名な天才画家を巡って織りなされた自分の人生のハナシ、などである。

これも多少違うかもしれないが、若い頃はちょうど日本が高度成長期で東京オリンピックなどもあり、小さな酒場を経営していたが、忙しくて人手が足りず店員を募集したら一人しか来ず、その方にはずいぶん苦労をかけたが、それが奥さんであること、とにかくそのころは時代の空気として、皆が夢を持っており、自分もトヨペット(現在のトヨタ)のクラウンを買ったことなど、自分も「そういう中」の一人であったのも、隠さなかった。

その酒場には有名人がたくさん客として来ていたらしく、その飲み方が如何にもかっこよかったこと、そこで出会った先生の一人が、窪島氏が多分カウンター内にさりげなく置いていた、前述の著名な、若くして夭折した天才画家の絵を観て「マスター、この画家の絵が好きなのか」。そしてある日、「絵の対談」ということで、出版社か雑誌社から声がかかり、その対談場所である超高級な料亭か何かの席に出向いてみたら、何とその先生が対談相手で、対談が始まる前に先生が「……俺は、お前と非常によく似たマスターを知っている」と仰った、等々。

これもおぼろげな記憶な中でのハナシだが、氏によると、人には二種類、あるという。映画を観て「監督になろう」「役者になろう」と思うタイプ。もうひとつは、「こういう作品を上映する映画館を作りたい」と思うタイプ。あるいは氏は、後者のタイプだったのかもしれない。それが、私設美術館「信濃デッサン館」や、これも有名な「無言館」を作る一因にもなったのかもと、思ったりもする。

とにかく、若い頃から、「若くして夭折した画家の絵」を集めるのが好きで、それをどうしようということもなく、コレクションというわけでもなく、ただ買っていたらしい。それがこれも、どうという理由も浮かばないのだが、現在に至ったというハナシだったようにも記憶している。

ただ、戦没者の絵を集めようと、氏がある先生にそれとなく感触を確かめようとしたら、その先生は急に形相を変え、恐ろしいほどまでに怖い顔をしながら、「君、自分の言っていることがわかっているのか」。氏は眠れないながらも、その先生に何度も何度も手紙を書いたという。そしてある日、「先生」はついに、「君がそこまで言うのならば、どうなるかわからないけれども」と、ともに日本全国を訪ね歩いた、と。

この、窪島氏の、28日の講演を聞いた私自身の中でだけの、『こころに刻み込まれた記憶の書きとめ』」は尽きることなくあるのだが、私自身がズブの素人ながら今も時々、ピアノを弾くせいか、これも多少内容は違えるかもしれないが、概ね以下のようなハナシが一つ、強烈に私の記憶の中に焼き付いている。

特攻を翌日に控えた二人の音大生が、土地で「ピアノは、ありませんか。ピアノを、弾かせて下さい」と、訪ね歩いたという。あるところでそれ(ピアノのある家)を見つけて頼み込み、加えて楽譜はありませんかとの問いに、その家の家族が「子供の使っていた、『月光』ならありますけれど……」、その楽譜を手にした二人は何時間にもわたってそれを弾き続け、やがてその二人は「ありがとうございました。これで心置きなく、行けます。もう、悔いも心残りもありません」

あとである人々が調べたところ、一人は戦死がわかっていたが、もうひとりは記録になく、確認できない。やがてそれから数十年が経ち、その「もうひとり」が生きていることがわかり、ある演奏会に、その方が呼ばれた。当日、その演奏会で番が来て自分の名前を呼ばれた、その方は非常にためらいがちに、「もう、弾くことはないと思っていました……」と言いながら、鍵盤に手を置いたという。

これには加えてもう一つ、ハナシがあって、この二人が弾いたピアノというのが、ある音大にあったのだが、「もう古くて使い物にならないから、処分しよう」ということになった。そこに一人、老婦人教授がやおら立ち上がって、このピアノの由来をとくとくと述べ、結果、そのピアノは今も残されているそうである。このピアノを巡る以上二つのハナシは、私は終生、忘れ得ないだろう。

最後に窪島氏が仰るには、「『無言館』というのは反戦、平和ということでマスコミ等にも取り上げられるし、それはそうなのだけれども、戦没画学生の方々は、反戦や平和のハチマキ(鉢巻)をしめていたわけではなく、ただ愛するものを絵に描いた」。これに続けて、平和に関する思い(想い)を、語っておられた。

私は講演後も、考えていた。この、最後に氏が呟いたお言葉について、である。

芸術というものとも関係するのだろうけれども、これにもし、ある一面的な、得手勝手な解釈を無理矢理付け加えるのが許されるのならば、これはあるいは、それがどのようなものであるにせよ、イデオロギーや宗教、思想哲学、歴史観等の持ち主等が潜在的に抱いている可能性のある、あらゆる意味や形での「暴力」に対する、氏なりの静かな答え、とまではいかないにしても、何がしかのコトバ、問いかけではなかったか……。また氏は、こうも仰っていた。「親が子を殺し、子が親を殺す、そんな世の中になっていますけれども……」。人を愛して止まない方ならではの、本物の想い、と記したら、氏は恥ずかしがるだろうか。

そんなこともつらつら考えながら、講演後の「アピールウォーク」もした。先頭の人が何かアピールの言葉を発して、それに皆が呼応して声を出すのだが、私も含めて前にいない参加者はときどき、「よく聞こえんぞ」「いまのは長すぎて、よく言葉が続かん」などと言い合いながら、ウォークしていた。何とも間の抜けた、と思うだろうが実際、そうだったのだから仕方がない。しかしそれでも私達は声を発しながら、講演会のあったセンターから芦屋駅まで、予定された約三十分の短い道程を歩いた。

このウォークの参加者は、約60名だった。ウォークの最後に、JR芦屋駅に通じる二階通路を出たところの、屋外広場で皆、思い思いに発言した。私はコトバがまとまらないままに、そのうち散会となったが、参加者誰もが、静かな笑顔だった。ただ、私もウォークしていて気づいたのだが、私達がウォークしているのを見る、人々の目は、当たり前だが、さまざまなようだった気がする。広場で発言した中にも、この方はおそらく、運動のベテランだったろうが、その種の問題意識を抱いている方が、いらっしゃった。

「愛するとは……」、さまざま考えるのである。

「護憲+BBS」「イベントの紹介」より
P.P.G

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新宿焼身自殺事件について (通りがけ「東行(高杉晋作)系でコメントします 」)
2014-06-30 19:52:27
さゆふらっとまうんどさんのブログへ書き込みました。
http://sayuflatmound.com/?p=1944#comment-11860

>さゆふらっとまうんどさんが新宿焼身自殺の事件を動画であげられております。
>https://www.youtube.com/watch?v=SZeTZp14Rhk
>川口さん2014/06/30 07:33

彼の大和魂を見ました。
靖国招魂場に筆頭で祀られている「身ハたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも留置まし大和魂」吉田松陰の言葉を捧げます。

「死して不朽の見込みあらばいつでも死ぬべし。生きて大業の見込みあらばいつでも生くべし。」

弟子である高杉晋作の「男子たるもの死すべきところはどこなのか?」という問いに答えたもの。この年に松蔭は処刑される。

出典:幕末ガイド 吉田松陰
http://bakumatsu.org/men/view/67


高杉晋作については別途参照:例
http://bakumatsu.org/blog/2013/06/takasugi.html
返信する
「大和魂は武士道忘己利他菩薩行である」 (通りがけ)
2014-06-30 22:05:43
>創価学会は・・・
>私だけは仏様に守られている、我が子だけは神様に守られる等々お考えの様でしたら、それは似非善人と呼ばれる事でしょう。
>プロフィア乗りさん2014/06/30 19:29
ttp://richardkoshimizu.at.webry.info/201406/article_197.html


> 釈迦の言葉
http://www.asyura2.com/13/senkyo158/msg/472.html#c149
(出展はインド原始経典「スッタニパーダ」などで、実際の釈迦の説法に、かなり忠実であるとされる)

「母と父とは子らに対して多大のことをなし、育て、養い、この世を見せてくれた。」

「母、または父が老いて朽ち衰えていくのを養わないで、自らは豊かに暮らす人、これは破滅の道である。」

「親の義務とは、子を悪から遠ざけ、善に入らしめ、技能を習学させ、適当な妻を迎え、適当な時期に相続させることである。」

「子らは、すみかであり、妻は最上の友である。」
・・・
「人の価値とは、生まれや身分によるものではなく、清らかな行いによって決まる」
・・・
「自分よりも愛しいものはない。同様に他の人々にも、自己は愛しい。故に自己を愛するものは、他人を害してはならない。」

「生き物を自ら害すべからず。また他人をして殺さしめてはいけない。また、他の人々が殺害するのを容認してはならない。」
・・・
 「あらゆる生物にたいして暴力や悩みを与えてはならない。独り、サイの角のように歩め。・・・」

「世界はどこも、とどまってはいない。すべての方角も揺れ動いている。私は、安住の地を求め探したが、どこにもなかった。すべて、死や苦しみにとりつかれている所ばかりだった。殺そうとしている人々を見よ。武器をとって打とうとしたことから恐怖が起こった。すべてのものは、燃えている。欲望と怒りと愚かさによって。」

・・・・・

吉田松陰が語ったといわれる言葉。人柄や当時の心情が見えてきます。http://bakumatsu.org/men/view/67

「夢なき者に理想なし、理想なき者に計画なし、計画なき者に実行なし、実行なき者に成功なし。故に、夢なき者に成功なし。」

「諸君、狂いたまえ。」

「満開となれば、やがて花は落ちる。太陽は南中すれば、やがて陰りはじめる。人は壮年を迎えれば、やがて老いていく。百年の間、必死で勉強すべきであり、ゆったりとくつろぐ暇などない。」

「人間はみななにほどかの純金を持って生まれている。聖人の純金もわれわれの純金も変わりはない。」

「宜しく先ず一事より一日より始むべし。」

「みだりに人の師となるべからず。みだりに人を師とすべからず。」

「死して不朽の見込みあらばいつでも死ぬべし。生きて大業の見込みあらばいつでも生くべし。」(弟子である高杉晋作の「男子たるもの死すべきところはどこなのか?」という問いに答えたもの。この年に松蔭は処刑される)

「人間が生まれつき持っているところの良心の命令、道理上かくせねばならぬという当為当然の道、それはすべて実行するのである」吉田松陰『講孟箚記』より。

「かくすれば かくなるものと知りながら やむにやまれぬ大和魂」

「学問の上で大いに忌むべきことは、したり止めたりである。したり止めたりであっては、ついに成就することはない。」吉田松陰『講孟箚記』より。

「自ら顧みてなおくんば、千万人ともいえども我行かん」(意味は「自分で自分の言動を顧みて、正しいと思うのならば、たとえその道を一千万人が塞ぐことがあろうとも、私は全うする」)

「悔いるよりも、今日直ちに決意して、仕事を始め技術をためすべきである。何も着手に年齢の早い晩い(おそい)は問題にならない。」吉田松陰『講孟箚記』より。


「君子は、何事に臨んでも、それが道理に合っているか否かと考えて、その上で行動する。小人は、何事に臨んでも、それが利益になるか否かと考えて、その上で行動する。」吉田松陰『講孟箚記』より。

「人を信ずることは、もちろん、遥かに人を疑うことに勝っている。」この後に続く言葉。「わたくしは、人を信じ過ぎる欠点があったとしても、絶対に人を疑い過ぎる欠点はないようにしたいと思う。」吉田松陰『講孟箚記』より。

「賞誉されて忠孝に励む人は珍しくない。責罰されてもなお忠孝を尽す人物こそ、真の忠臣孝子である。武士たるものが覚悟すべきこと、実にこの一点にある。」吉田松陰『講孟箚記』より。

「士たるものの貴ぶところは、徳であって才ではなく、行動であって学識ではない。」吉田松陰『講孟箚記』より。

「私心さえ除き去るならば、進むもよし退くもよし、出るもよし出ざるもよし。」吉田松陰『講孟箚記』より。

「志定まれば、気盛んなり。」「汝は汝たり、我は我たり。」吉田松陰『講孟箚記』より。

「世に材なきを憂えず、その材を用いざるを患う。」

「だいたいにおいて世間の毀誉(悪口と称賛)というものは、あてにならぬものである。」

「ただ非常の人のみ即ちよく非常のことを為す。」『無逸に与う』より

「権謀と申すは実は無策なれど策ある貌(顔)をし、直言極論はせざれども直論貌(顔)をすることなり。」入江杉蔵宛書簡より。意訳『権謀というのは、なにも策などないくせに策があるように思わせ、面と向かって言及などしないくせにそうしているように振る舞うことである。』

「一人の策を積みて一家の策を為し、一家の策を積みて一国の策を為し、一国の策を積みて天下の策を為す。御努力これ祈る。」兄 杉梅太郎宛の書簡より。内容は「社会を変えていきたいのであれば、 まずは己の周辺から始めなさい」

「世の人は善し悪しごとも言わば言へ。賤が心(自分の心)は神ぞ知るらん。」白井小助宛の書簡より

「あまり怒りよると、とうとう腹もなんにも立たぬようになる。」入江杉蔵宛の書簡より

「君子は、理に合うか否かと考え行動する。小人は、利に成るか否かと考えて行動する。」

「賞誉されて忠孝に励む人は珍しくない。責罰されてもなお忠孝を尽す人物こそ、真の忠臣孝子である。武士たるものが覚悟すべきこと、実にこの一点にある。」吉田松陰『講孟箚記』より。

「17、18の死が惜しければ、30の死も惜しい。80、90、100になってもこれで足りたということはない。半年と云う虫たちの命が短いとは思わないし、松や柏のように数百年の命が長いとも思わない。天地の悠久に比べれば、松柏も一時蠅(ハエのような存在)なり。」品川弥二郎宛の手紙より

「牢獄で死ねば禍いのようだが、この場所で学問をし、己のため、他人の為に後世に伝えることを残し、身は失っても死にはしない人たちの仲間入りすることができるならば、この上もない福というもの。」妹・千代宛の手紙より。吉田松陰の江戸送致が決まる直前である。

「死生は度外に置くべし。世人がどう是非を論じようと、迷う必要は無い。」高杉晋作に送った言葉。吉田松陰は牢獄の中であった。

「父母を喜ばせるために妻を持ち、宮仕えするのもよいでしょう。但し、正論を通しなさい。ならば必ず放逐後退の時期が来る。その時に書を読み、心を練り、十年後の大事に備えるのです。」高杉晋作に送った言葉

「小生、獄に坐しても首を刎ねられても天地に恥じ申さねばそれにてよろしく候。」中谷正亮宛の書簡より

「命が惜しいか、腹が決まらぬか、学問が進んだか、忠孝の心が薄く成ったか、他人の評は何ともあれ、自然と決めた。」『自然説』より。(入江杉蔵宛)

「末の世において道義を実践したならば、必ずその時の人々から極端だといわれるであろう。もしまた、世人から極端だといわれるくらいでなければ決して道義ではないのであって、すなわち世俗に同調し濁った世に迎合したものにすぎない。」吉田松陰『講孟箚記』より。

「大器を作るには急ぐべからずこと。」

「一日一字を記さば一年にして三百六十字を得、 一夜一時を怠らば、百歳の間三万六千時を失う。」

「草莽崛起(そうもうくっき)」草莽は「在野の志士」、崛起は「立ち上がれ」の意。

「心甚だ急ぎ、飛ぶが如し、飛ぶが如し」父の友人である瀬能吉次郎にあてた手紙より。吉田松陰の興奮が伝わる前後の文は以下。「浦賀へ異船来たりたる由につき、私ただ今より夜船にてまいり申し候。海陸ともに路留めにも相なるべくやの風聞にて、心はなはだ急ぎ飛ぶが如し、飛ぶが如し。」

「山は樹を以て茂り 国は人を以て盛(さかん)なり」
意味は、「山が樹木によって茂るように、国というのは人によって豊かになっていくのである。」

転載終わり
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