相撲・レスリング・アメフト・ボクシング。スポーツ界のスキャンダルが止まらない。東京医科大学の入試不正疑惑は、底なし沼の様相を呈し始めている。日本の各層で噴出し始めたスキャンダルは、この国の支配層の底無し沼のような腐敗と人間としての劣化を容赦なく露呈し始めている。
その中で安倍晋三首相は、平成天皇退位に基づく恩赦にかこつけて、佐川前国税庁長官の公務員懲戒の軽減を言い始めている。あまりにも見え透いた論功行賞。こういう不正義(悪と言って良い)が白昼堂々と行われている日本では、国民や社会が腐るのも無理はない。
悪とは何か。
「悪と言うものがどこかにあるわけではない。醜いものが悪ではないし、邪道が悪ではない。真実でないものが悪でもない。空虚も悪ではない。災害も悪ではない。
悪は何かに固有のものではない。悪はただ、そこに自由がある時に存在する。人間の自由意志。この意志だけが、悪であることができるものなのだ」(ヴィトゲンシュタイン 哲学)
ヴィトゲンシュタインの説を信じれば、現在行われている政治の悪は、安倍晋三や取り巻き連中やお友達の「自由意志」の発露だと言う事になる。完全な「確信犯」だと言う事である。
数年前からこの掲示板で指摘し続けた「魚は頭から腐る」が、日本の支配層の骨がらみの問題として浮かび上がってきた。この国の支配層(エリート)の眼を覆わんばかりの劣化と腐敗は、完全な確信犯の行為だと言う事になる。こんな支配層が支配する国に、未来はない。
日大アメフト問題で浮かび上がった田中理事長の恐怖支配やボクシングの山根会長の言動に象徴される理不尽な力による支配の共通点は、突出した個人の力を背景に、それをさらに増幅し、さらに過激にし、直接的に下の者へ降ろす「取り巻き連中」の存在である。昔から言う「虎の威を借るキツネ」の存在。彼らの存在が際立ち始めると、その組織が「腐っている」という証明になる。
「忖度」という言葉で一括りにされるが、実はこの忖度野郎が一番困る。一番の権力者に近い存在である事を嵩に着て、権力者の意図に自分の都合(利益)を上乗せして、下の者に要求するのである。この上乗せ部分が下の者を大変苦しめる。これは何もボクシング連盟の話だけではない。ありとあらゆる組織で日常的に起こりうる。
わたしも経験した教育界の話でいえば、文部科学省が新たな教育方針を決定し、地方の教育委員会に伝達する。痩せても枯れても文部科学省の職員は官僚。全国の教育に適用できる「普遍性」を持った方針を伝達する。
ところが、その伝達を受けた各地方の教育委員会は、自分たちがやり易くなるような方針を付け加えて、自らが管轄する現場の教師に伝達する。ありていに言えば、自らの権限強化に役立つような方針を付け加える。
当初の文部省の方針だけならそれほどの負担はないのだが、それに付け加えられた各地方教育委員会の方針のため、現場の教師の負担は過重になる。そのため、文部省の教育方針が浸透しなかったものも多々存在する。
このメカニズムこそが日本社会に根深く残っている「忖度文化」の根源にある。
このメカニズムの淵源は、戦前の体制にある。以前にも何度も指摘したが、戦前の天皇制の本質は、人間の言動の「正当性の担保」=「権威」が、「天皇との距離」=「社会的地位」に正比例する。そして、人間の罪の軽重は、天皇との距離に反比例する。
具体的に書くと、戦争映画で上官が直立不動になり、声を張り上げて「畏れ多くも、天皇陛下の御心だ」という場面がよく出てくる。この時、「何が天皇陛下の御心ですか」などと聞こうものなら大変である。間違いなくボコボコにされる。
「天皇陛下の真意」が何なのか、などは、知る必要がない。ただ、天皇との距離が自分より近いと思われる人間(簡単に言うと社会的身分の上下による)が「天皇陛下の大御心」といえばそれが真実。それを疑う事は、「社会的身分」=「社会秩序」を疑う事になる。天皇制国家では、そういう人間は即排除される。
これが天皇制国家(特に戦前の超国家主義=ファシズム国家)の心理的メカニズムだと考えてそれほど間違いはない。
NHKスペシヤルが「ノモンハン事件 責任なき戦い」の特集をしていた。
https://www6.nhk.or.jp/special/detail/index.html?aid=20180815
これは大変良く出来た作品で、旧日本陸軍指導層の無責任体質を容赦なく暴き出していた。これぞ、天皇制国家のメカニズム(無責任体制)の象徴だと言って良い。
参加した兵士2万人近くが戦死。精神主義と根拠なき(データなき)楽観主義に支配された関東軍幹部の無能力ぶり、その敗戦の責任を現場の将校などに押し付け、自決を迫る。その失敗の反省もなく責任を下に押し付けるため、最後は、事件そのものをないものにする発想になる。太平洋戦争でも同様な過ちを繰り返した。(※現在の歴史修正主義者たちのやり口そっくり)
ノモンハン事件は、司馬遼太郎が最後まで書こうとして書けなかった事件。あまりの無責任ぶりに、司馬の憤怒があまりにも強すぎたのが原因だとされている。
その他では、五味川純平の「ノモンハン事件」がある。五味川純平の「人間の条件」は、旧陸軍の非人間的やり口があますところなく書かれていて、胸が痛くなる。映画では、仲代達也が主人公を演じた。
https://www.youtube.com/watch?v=J3m0e8MTGTI
さらに、ETV特集「自由はこうして奪われた~治安維持法 10万人の記録~」で、超国家主義の国家は、どのような理屈をつけ、どのように国民を弾圧したかが、克明に放送されている。(NHKの放送では、国内・植民地併せて10万人強とされていた)当初、共産党や共産主義弾圧を目的にした法律(1925年)から、如何に一般国民へ弾圧の矛先を拡大したかが、詳細に語られている。
https://www.nhk.or.jp/docudocu/program/20/2259621/index.html
国民は、ファッショ体制の国家が持つこの理不尽な「暴力性」を厳しく認識し、二度とこのような法律が作られないように監視しなければならない。
ファッシズム体制の恐ろしさ
①無責任体制(責任の軽重は、社会的身分に反比例する。身分が低いほど、責任は重くなる⇒国民の怒りに対するスケープゴートにしやすい)
②体制維持のための「暴力」が日常化する。⇒理性、知性が喪失し、理不尽が支配する体制。⇒管理教育体制≒似非ファシズム体制≒現在の教育体制 ⇒東京オリンピックのボランティアに授業を休んで大学生に参加させろとか中学・高校生なども参加させようとしている(戦前の勤労奉仕とか学徒動員を彷彿とさせる)
※ナチスドイツのベルリンオリンピック利用を彷彿とさせるオリンピックの政治利用
③ファシズム体制は、有能な官僚によって支えられる。⇒戦前は、「革新官僚」と呼ばれた若手の官僚たちが支えた。
⇒現在は、官僚の人事権を掌握した内閣府に有能な官僚が集まりつつある。⇒内閣府が、各省庁を統御、支配している。⇒戦前内務省直轄の「特高警察」が治安維持法取り締まりに当たったように、いずれ内閣調査室や公安などが、内閣府直轄になり、国民弾圧の最前線に立つだろうと予想できる。
⇒その先触れが、前川前文科省事務次官に対するスキャンダル仕掛け事件。今回の文科省幹部の汚職事件摘発なども、内閣府主導事件と読める。(加計事件、森友事件、財務省公文書改竄事件等々を忘れさせるためのスピン事件)
★戦前のファッショ体制の再来だと見てそれほど間違いはない。
このように見てくると、現在問題になっているスポーツ界の不祥事のメカニズムは、戦前の超国家主義を支えた国民の心理的メカニズムと同根である事がよくわかる。戦後70有余年。日本人の権利意識の希薄さは変わっていない。
日大の教職員組合員の恐怖は、戦前の天皇制国家に反逆した共産党員や学者、知識人、労働組合員の恐怖に他ならない。アメフト部の暴力性もこの種のやり口に共通している。チアリーデイング部のパワハラ(というより、いじめ)問題も日大執行部との距離の差により起きている。
治安維持法の恐怖は、これが普通の国民に広がったものである。
「護憲+BBS」「メンバーの今日の、今週の、今月のひとこと」より
流水
その中で安倍晋三首相は、平成天皇退位に基づく恩赦にかこつけて、佐川前国税庁長官の公務員懲戒の軽減を言い始めている。あまりにも見え透いた論功行賞。こういう不正義(悪と言って良い)が白昼堂々と行われている日本では、国民や社会が腐るのも無理はない。
悪とは何か。
「悪と言うものがどこかにあるわけではない。醜いものが悪ではないし、邪道が悪ではない。真実でないものが悪でもない。空虚も悪ではない。災害も悪ではない。
悪は何かに固有のものではない。悪はただ、そこに自由がある時に存在する。人間の自由意志。この意志だけが、悪であることができるものなのだ」(ヴィトゲンシュタイン 哲学)
ヴィトゲンシュタインの説を信じれば、現在行われている政治の悪は、安倍晋三や取り巻き連中やお友達の「自由意志」の発露だと言う事になる。完全な「確信犯」だと言う事である。
数年前からこの掲示板で指摘し続けた「魚は頭から腐る」が、日本の支配層の骨がらみの問題として浮かび上がってきた。この国の支配層(エリート)の眼を覆わんばかりの劣化と腐敗は、完全な確信犯の行為だと言う事になる。こんな支配層が支配する国に、未来はない。
日大アメフト問題で浮かび上がった田中理事長の恐怖支配やボクシングの山根会長の言動に象徴される理不尽な力による支配の共通点は、突出した個人の力を背景に、それをさらに増幅し、さらに過激にし、直接的に下の者へ降ろす「取り巻き連中」の存在である。昔から言う「虎の威を借るキツネ」の存在。彼らの存在が際立ち始めると、その組織が「腐っている」という証明になる。
「忖度」という言葉で一括りにされるが、実はこの忖度野郎が一番困る。一番の権力者に近い存在である事を嵩に着て、権力者の意図に自分の都合(利益)を上乗せして、下の者に要求するのである。この上乗せ部分が下の者を大変苦しめる。これは何もボクシング連盟の話だけではない。ありとあらゆる組織で日常的に起こりうる。
わたしも経験した教育界の話でいえば、文部科学省が新たな教育方針を決定し、地方の教育委員会に伝達する。痩せても枯れても文部科学省の職員は官僚。全国の教育に適用できる「普遍性」を持った方針を伝達する。
ところが、その伝達を受けた各地方の教育委員会は、自分たちがやり易くなるような方針を付け加えて、自らが管轄する現場の教師に伝達する。ありていに言えば、自らの権限強化に役立つような方針を付け加える。
当初の文部省の方針だけならそれほどの負担はないのだが、それに付け加えられた各地方教育委員会の方針のため、現場の教師の負担は過重になる。そのため、文部省の教育方針が浸透しなかったものも多々存在する。
このメカニズムこそが日本社会に根深く残っている「忖度文化」の根源にある。
このメカニズムの淵源は、戦前の体制にある。以前にも何度も指摘したが、戦前の天皇制の本質は、人間の言動の「正当性の担保」=「権威」が、「天皇との距離」=「社会的地位」に正比例する。そして、人間の罪の軽重は、天皇との距離に反比例する。
具体的に書くと、戦争映画で上官が直立不動になり、声を張り上げて「畏れ多くも、天皇陛下の御心だ」という場面がよく出てくる。この時、「何が天皇陛下の御心ですか」などと聞こうものなら大変である。間違いなくボコボコにされる。
「天皇陛下の真意」が何なのか、などは、知る必要がない。ただ、天皇との距離が自分より近いと思われる人間(簡単に言うと社会的身分の上下による)が「天皇陛下の大御心」といえばそれが真実。それを疑う事は、「社会的身分」=「社会秩序」を疑う事になる。天皇制国家では、そういう人間は即排除される。
これが天皇制国家(特に戦前の超国家主義=ファシズム国家)の心理的メカニズムだと考えてそれほど間違いはない。
NHKスペシヤルが「ノモンハン事件 責任なき戦い」の特集をしていた。
https://www6.nhk.or.jp/special/detail/index.html?aid=20180815
これは大変良く出来た作品で、旧日本陸軍指導層の無責任体質を容赦なく暴き出していた。これぞ、天皇制国家のメカニズム(無責任体制)の象徴だと言って良い。
参加した兵士2万人近くが戦死。精神主義と根拠なき(データなき)楽観主義に支配された関東軍幹部の無能力ぶり、その敗戦の責任を現場の将校などに押し付け、自決を迫る。その失敗の反省もなく責任を下に押し付けるため、最後は、事件そのものをないものにする発想になる。太平洋戦争でも同様な過ちを繰り返した。(※現在の歴史修正主義者たちのやり口そっくり)
ノモンハン事件は、司馬遼太郎が最後まで書こうとして書けなかった事件。あまりの無責任ぶりに、司馬の憤怒があまりにも強すぎたのが原因だとされている。
その他では、五味川純平の「ノモンハン事件」がある。五味川純平の「人間の条件」は、旧陸軍の非人間的やり口があますところなく書かれていて、胸が痛くなる。映画では、仲代達也が主人公を演じた。
https://www.youtube.com/watch?v=J3m0e8MTGTI
さらに、ETV特集「自由はこうして奪われた~治安維持法 10万人の記録~」で、超国家主義の国家は、どのような理屈をつけ、どのように国民を弾圧したかが、克明に放送されている。(NHKの放送では、国内・植民地併せて10万人強とされていた)当初、共産党や共産主義弾圧を目的にした法律(1925年)から、如何に一般国民へ弾圧の矛先を拡大したかが、詳細に語られている。
https://www.nhk.or.jp/docudocu/program/20/2259621/index.html
国民は、ファッショ体制の国家が持つこの理不尽な「暴力性」を厳しく認識し、二度とこのような法律が作られないように監視しなければならない。
ファッシズム体制の恐ろしさ
①無責任体制(責任の軽重は、社会的身分に反比例する。身分が低いほど、責任は重くなる⇒国民の怒りに対するスケープゴートにしやすい)
②体制維持のための「暴力」が日常化する。⇒理性、知性が喪失し、理不尽が支配する体制。⇒管理教育体制≒似非ファシズム体制≒現在の教育体制 ⇒東京オリンピックのボランティアに授業を休んで大学生に参加させろとか中学・高校生なども参加させようとしている(戦前の勤労奉仕とか学徒動員を彷彿とさせる)
※ナチスドイツのベルリンオリンピック利用を彷彿とさせるオリンピックの政治利用
③ファシズム体制は、有能な官僚によって支えられる。⇒戦前は、「革新官僚」と呼ばれた若手の官僚たちが支えた。
⇒現在は、官僚の人事権を掌握した内閣府に有能な官僚が集まりつつある。⇒内閣府が、各省庁を統御、支配している。⇒戦前内務省直轄の「特高警察」が治安維持法取り締まりに当たったように、いずれ内閣調査室や公安などが、内閣府直轄になり、国民弾圧の最前線に立つだろうと予想できる。
⇒その先触れが、前川前文科省事務次官に対するスキャンダル仕掛け事件。今回の文科省幹部の汚職事件摘発なども、内閣府主導事件と読める。(加計事件、森友事件、財務省公文書改竄事件等々を忘れさせるためのスピン事件)
★戦前のファッショ体制の再来だと見てそれほど間違いはない。
このように見てくると、現在問題になっているスポーツ界の不祥事のメカニズムは、戦前の超国家主義を支えた国民の心理的メカニズムと同根である事がよくわかる。戦後70有余年。日本人の権利意識の希薄さは変わっていない。
日大の教職員組合員の恐怖は、戦前の天皇制国家に反逆した共産党員や学者、知識人、労働組合員の恐怖に他ならない。アメフト部の暴力性もこの種のやり口に共通している。チアリーデイング部のパワハラ(というより、いじめ)問題も日大執行部との距離の差により起きている。
治安維持法の恐怖は、これが普通の国民に広がったものである。
「護憲+BBS」「メンバーの今日の、今週の、今月のひとこと」より
流水
https://nationalinterest.org/print/blog/skeptics/why-america-should-pull-out-okinawa-29112
理性のあるアメリカ人はそう考えるのである。