老人党リアルグループ「護憲+」ブログ

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陸軍登戸研究所のこと・一兵卒のその後

2007-07-23 11:04:51 | 戦争・平和
7月20日に地元の9条の会は、会員の和田一夫さんから陸軍登戸研究所のお話を伺う機会を得ました。

同研究所は、1937年川崎市東三田(現在明治大学理工学部のあるところ)につくられた、新型の強力な電波(怪力電波)兵器の開発を目的にした、陸軍科学研究所の巨大な秘密の実験場が始まりでした。その後、謀略のための秘密兵器研究を行うようになり、1940年には中国の経済を混乱させるための「偽札」の製造を行うなど、秘密戦、謀略戦のための基地になっていきます。

同研究所で行われたこと:
・毒薬その他の化学兵器、生物兵器の研究、開発
・スパイやゲリラ戦用のさまざまな謀略兵器・・・無線、電話の傍受・盗聴、暗号の解読、隠し撮り用の小型カメラ(ボタン型、ライター型、マッチ型など)、爆破剤、缶詰型爆弾、放火剤などなどの研究開発
・風船爆弾の開発製造・・・和紙をこんにゃくのりで何枚も張り合わせた、直径10メートルもある風船爆弾を、千葉県一宮や福島県勿来などから、ジェット気流に乗せて飛ばし、アメリカでは子供を含む6人が死んでいる。

現在、木造の2棟とコンクリートの1棟が残っているが、木造は老朽化が激しいので、大学側は木造棟は壊して、コンクリート棟を資料館として残す方向で話をすすめているとのことです。(木造棟の保存を望むグループが運動しているが、問題が多く、難しそうだとのこと。)                     
 
講演者の和田氏は、1923年生まれ。高等小学卒業の1年後の1938年に登戸研究所に就職。1943年徴兵、翌44年中国山東省に派遣され、作戦に従事。1945年8月から1950年7月までソ連軍に抑留されシベリヤで強制労働。1950年7月中国戦犯管理所に収容、56年7月中国特別軍事法廷にて不起訴、釈放。帰国後、中国帰還者連絡会を結成、戦争体験の語り部、その他平和活動等に参加。(中国にも謝罪に行ったが、今はあちらに行くと歓迎される、ともおっしゃっていました。) 

レジメのなかに「中国戦線での私の戦争犯罪」として、「国家国民のため、大東亜共栄圏確立のための聖戦だ、と騙され侵略戦争に参加し病院襲撃、初年兵の生体刺突訓練、集落へ大砲の実弾射撃訓練等“日本民族の優越性”を信じこまされ、敵国民を人間視しなかった」とあります。         
 
最後は「政府と国民が過去の戦争の歴史的事実を認め、過ちを反省謝罪する事、2千万以上のアジヤ諸国民と3百万人以上の日本国民を犠牲にした過去の反省から国民が手にした現憲法を、絶対改正改悪させてはならない」と結ばれました。 

登戸研究所のことは少しは聞いていましたが、こういうことをしていたとは知りませんでした。戦争をするということは、こういうこともするということだと思い知りました。                               
 
和田さんは私より3歳上なだけです。19歳で徴兵され、1年半の兵隊生活の後、計11年抑留、収監されていたことになります。帰国されても、レッドパージなどもあってまともな職に就けなかったとの事でした。人生の盛りの二十数年を台無しにされています。日本の若者に二度とこういう思いをさせないように、二度と戦争をしないようにと、願うこと切です。

「護憲+BBS」「戦争体験者の証言」より
松林 

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