老人党リアルグループ「護憲+」ブログ

現憲法の基本理念(国民主権、平和、人権)の視点で「世直し」を志す「護憲+」メンバーのメッセージ

「太平洋戦争の真実 そのとき、そこにいた人々は何を語ったか」

2023-08-15 21:36:11 | 戦争・平和
「カミカゼの幽霊: 人間爆弾をつくった父」と同じ著者が書いたものです。
その著書の要約文(抜粋)を転記します。こんなことで、こんな軍人のせいで日本人300万人以上が戦死したわけです。

◆太平洋戦争の真実 そのとき、そこにいた人々は何を語ったか( 2023/07/06発刊、神立尚紀著、講談社)

「戦争は壮大なゲームだと思わないかね」――終戦の直前、そううそぶいた高級参謀の言葉に、歴戦の飛行隊長は思わず拳銃を握りしめて激怒した。
「私はね、前の晩寝るまで『引き返せ』の命令があると思っていました」ーー艦上攻撃機搭乗員だった大淵大尉が真珠湾攻撃を振り返って。
「『思ヒ付キ』作戦ハ精鋭部隊ヲモミスミス徒死セシメルニ過ギズ」ーー戦艦大和水上特攻の数少ない生存者・清水芳人少佐が、戦艦大和戦闘詳報に記した言葉。
「安全地帯にいる人の言うことは聞くな、が大東亜戦争の大教訓」――大西中将の副官だった門司親徳主計少佐の言葉。
「私は『決戦』と『手柄を立てる』という言葉が大嫌いでした。決戦というのはこの一戦で雌雄を決するということなのに、決戦だ、決戦だとなんべんも。そんな掛け声で部下をどれほど失ったかわかりません」ーー零戦初空戦を飛行隊長として率い、終戦まで前線で戦い続けた進藤三郎少佐。
「戦後、GHQの占領政策を聞いたときにガッカリしました。なんだ、二・二六の青年将校がやろうとしていたことと同じじゃないかと」ーー日米開戦前に中国戦線からのベテラン搭乗員。二・二六事件の折は、予科練の生徒で鎮圧軍として出動した。角田和男中尉。
「日露戦争でロシア軍の捕虜になった人が、日本に帰れずにアメリカに渡って浄土真宗の僧侶になっていて、マッコイに会いに来たことがありました。立派な人でしたが、我々も日本がもし勝っていたら帰れなかったでしょうな。負けて、日本に軍隊がなくなったから帰ってこれたようなもんですよ」――戦中、捕虜となって米本土の収容所にいた中島三教飛曹長。

https://www.amazon.co.jp/gp/product/B0C9TKXW7K/ref=dbs_a_def_rwt_hsch_vapi_tkin_p1_i1

「護憲+BBS」「明日へのビタミン!ちょっといい映画・本・音楽・美術」より
猫家五六助
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「カミカゼの幽霊: 人間爆弾をつくった父」 (神立 尚紀 著)

2023-08-15 21:22:13 | 戦争・平和
終戦記念日の今日、webでこの記事を読みました。ヒコーキ好きの私が長年、「特攻」や「桜花」について軍事・航空専門誌を読みつつ、「なぜ、こんな無謀な作戦が承認され、実機の製作に至ったのか」を補完してくれる内容です。

人間爆弾「桜花」と新幹線0系、その数奇な関係 殉職したはずの「発案者」、実は生きていた(筆者;神立 尚紀さん)

神風特攻隊を発案・実行した軍人は、みずから特攻したり自決したりしています。しかし、自分の命をもって償うなど、私は認めません。皇国・天皇を信奉して国民を兵器の部品にした時点で、無責任の極みなのです。

精神論でカッコイイことを主張し、安全圏にいるヤツほど無責任で、自分に死が迫るとトンズラする。戦時中の軍部・大本営然り。満州の関東軍、然り。戦後78年経っても彼らをかばい、検証してこなかった国粋主義者、それにブラ上がるネトウヨ、そして今の政治家も然り。

人間爆弾「桜花」を発案した男は戦後を生き延び、家族を持ち、布団の上で死んだそうです。その点を含め、神立さんがルポルタージュした書籍。即、amazonで発注しました。

カミカゼの幽霊: 人間爆弾をつくった父
(2023/6/30発刊、神立 尚紀 著、小学館、1,980円)


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猫家五六助

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戦争の体験と平和への思いを語り継ぐ

2023-08-15 13:39:40 | 戦争・平和
「機銃掃射逃れ九十路(ここのそじ)の終戦忌」 藤原日出(90)

これは、戦後78年目の終戦の日の今日、「東京新聞」一面トップに掲載された「平和の俳句」です。

この俳句を読んで、私は、「護憲+」発足当初からのメンバーの一人が2009年に投稿した「東京大空襲」という記事を思い出しました。
https://blog.goo.ne.jp/rojinto_goken/e/f8b6123ff922586518f56ac795d1e841

『・・・1945年3月10日の東京大空襲から2、3日経って日暮里駅の橋の上から浅草方面を眺めると、見渡す限り廃墟となった街の向こうに、国際劇場の大きな白い壁だけがぽつんと残っていました。ここに住んでいた人々は、大切な物も思い出も、中には命まで失ってしまった。無念の情が当てもなくさまよっている気配に、私と友はしばし言葉もなく立ちすくむばかりでした。そして明日はわが身の不吉な予感も。
・・・
4月13日の夜、ラジオの「関東海面警戒警報発令」の報に飛び起きました。
・・・
案の定しばらくすると空襲警報が発令され、B29特有の不気味な爆音が響き始めると「逃げろ!」と声がかかり、あわてて近所の公園に。途中でぽんぽんと石でも落ちるように焼夷弾が降り注ぎ、肝を冷やしたもののなんとか無事でした。あの時防空壕を出るのが少しでも遅れたら、きっと蒸し焼きになっていただろうし、弾がちょっと外れたら頭が木っ端微塵になっていたに違いない。
・・・
燃えやすい木造の日本家屋に注目して、焼夷弾による冷酷非情な無差別爆撃を計画したカーチス・ルメイ少将は「この空襲が成功すれば、戦争は間もなく終結する。日本降伏を促す手段は火災しかなかった」。トルーマン大統領の原爆投下の理由も似たようなもの。戦争はすべてを正当化してしまうのです。』

「東京新聞」は、戦後70年以降、毎年8月に「平和の俳句」の募集・掲載を続けてきましたが、「平和の俳句」の選者の一人、夏井いつきさんは、今日の選者の言葉の中で、「誰もが希求するのは、三度三度のご飯が当たり前にいただける平穏な生活が続くこと。平和な風が吹き続けること」と言っています。本当にそのとおり!

「明け染める 天つ美空は 爽やかに」
この俳句は、終戦直後に生まれた私に母方の祖父が、「明子」の名前と共に贈ってくれたものです。

この句には、終戦の前年に学徒出陣にとられた長男(母の弟)が、フィリピンに向かう航空母艦の沈没で戦死するという喪失を経た祖父の、ようやく訪れた平和への希望と明るい未来への願いが込められています。

「護憲+」発足から20年が経ち、当初積極的に発言して下さっていた戦争を知る世代のメンバーは、皆さん掲示板から去り、残念ながらお話を聞く機会がなくなりましたが、祖父が俳句を通して私に託した思いを胸に、先輩たちの戦争の記憶と平和への意志を受け継ぎ、これからも語り継いでいきたいと思います。

「護憲+コラム」より
笹井明子
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