老人党リアルグループ「護憲+」ブログ

現憲法の基本理念(国民主権、平和、人権)の視点で「世直し」を志す「護憲+」メンバーのメッセージ

続・生存権の現在

2011-11-23 10:02:13 | 憲法
前回は主要な判例に触れたが、今回は最高裁が依拠する「抽象的規範説」を検討して、生存権の現在(その状況)を明らかにする。

まず、抽象的規範説は一応プログラム規定説とは異なり「権利性」を認めないわけではないとするが、前回挙げた判例を見れば分かるように、朝日訴訟ではそのあまりにも過酷な生活保護の給付額(しかも朝日茂さんの見つけ出した兄が仕送りした金額がほとんどであり、行政は600円しか渡していない)の内容をつぶさに検討すれば、生存権の規定する「健康で文化的な最低限度の生活」からかけ離れたものでしかなかった。

思うに、抽象的規範説のように「25条は国民に生活を保障する具体的権利を定めたものではなく、国家の立法の指針を示したにすぎない」というのではプログラム規定説の別バージョンと言えるのだ。さらに言うと、抽象的な権利を認めたものだという解釈であるが、権利に抽象的なものがあるとすれば、それは権利とは言えない。

権利は歴史的な発生過程をすべて辿っても、抽象的な権利という性格の権利は存在したためしがないのではないか。もしそういうものが存在するならば絵に描いた餅:画餅にすぎない。

このことから生存権が登場するまでの歴史をフォローしてみると、最初の起源はイギリスのエリザベス救貧法(エリザベス女王が定めた法令)にたどり着く。17世紀のことだ。1980年代に生活保護を申請して拒否された母親が餓死した事件があったが(重要な事件であるはずだ)、この時のある学者(御茶ノ水女子大の教授)の論文で「もし、17世紀のイギリスならばこの事件を引き起こした担当者は刑務所行きだったであろう」というコメントが今でも印象深い。

そして、現在であるが、周知のように生活保護を拒否された人々の餓死事件は後を絶たない。なぜか。最高裁の判例が暗黙の法となって生存権の権利性を制限しているため、生活保護の基準は行政(とその前段階としての立法裁量)にすべてお任せになっているからである。生活保護を「基準」に適合しないとして拒否された人が餓死しようが首をつろうがお構いなしというわけである。

ただ、この基準も区々であり、北九州市のように勝手に死んでくれという所もあれば、大阪市のように外国人にも保護を認めている所もある。このように基準がばらばらという結果であるが、生存権の権利性を剥奪している判例の解釈に問題の根源があることは意外と重要だ。

生活保護という制度は憲法の「具体的な」実現であり、権利の保障なのであるから、憲法次元で抽象的な権利にすぎないと言えば、法律であって法律ではなくなる。基準が抽象化しているため何でもありになり、法としての規範命題が限りなく形骸化して行政官はどのような解釈も可能になるからだ。これは法としてはざる法である。どんな抜け道もありうる。エリザベス救貧法以前に歴史が逆戻りしているかのようだ。

「護憲+コラム」より
名無しの探偵
コメント
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