私の母の戦争体験です。母は、満州の大都市、大連で生まれました。母の父、私の祖父は、大日本帝国の大蔵省の技術官僚で、大蔵省が専売権を持っていた塩の製造技術者でした。祖父は満州に渡り、そこで、満州国の満州塩業と言う国策会社の役員として天下りをしていました。大蔵官僚当時の官舎での隣人は岸信介だったそうです。
国策企業の重役として、母が生まれたときは、大連の龍臥台と言う高級住宅街に邸宅を構え、お手伝いさん2人に、全館暖房のための石炭ボイラーを焚く釜焚き人夫を抱える、裕福な生活を送っていたようです。
しかし、時代は敗戦を迎えます。敗戦の時、母は、まだ9歳でした。敗戦直後、母は理由を教えてくれませんが、私の祖父母は相次いで亡くなったようです。その後、約1年の後の引き揚げと、日本に帰ってからの間の、わずか1年あまりの間、母の兄弟姉妹、全部で5人は、10代後半の長男を筆頭に、父母を失い、敗北により異国となった満州で、現地の人からの略奪や迫害にさらされながら、子供だけで生き抜くことになってしまいまいました。
母も幼かったし、思い出したくないのでしょうか、何も語ってはくれませんが、この敗戦から引き上げ後数ヶ月の間に、母の兄、姉3人は、略奪や暴行の横行する中、兄妹5人の毎日の食を確保するために奔走し、何とか引き揚げ船に乗るために、必死に奔走していたようです。
そして、まだ満州にいる間に、長男と長女が病に倒れて死に、母は、一つ下の弟とともに、次男の兄とともに引き揚げてきたそうです。その兄も、結核に犯され、引き上げ後1年を経ずに、四国の結核療養所で死亡しました。
母は詳細を語ってはくれません。しかし、この話を聞いて、私は、涙を流さずにはいられません。裕福な生活から一転して、敗戦後の厳しい異国での生活に放り出された中で、最年長でも18歳の兄弟姉妹が何とか生きぬこうとし、そして、年長の者は、自力では何も出来ない、9歳の母、8歳の叔父の2人を生かすことを最優先にして、必死に兄妹を守り、年齢が上の順番に、1年余りの間に、若い命を失って行ったのです。
私は思います。顔も知らない、私の伯父や伯母たち。彼らが、自らの命をなげうってまで守った、幼い妹であった母が、彼らのおかげで生き延びたからこそ、兄と、私。兄の子供2人の命の連鎖をつないでもらうことが出来たのです。その、幼い妹弟を守ろうという責任感と愛。そして、自らの命を失いながらも守り通した幼い命。この人たちのおかげで、私の今の命があるのです。
陳腐な表現になると思いますが、命を賭してまで妹弟を守ろうという愛。年齢が上の順番に死んでいってしまうという、責任感。大連と言う大都市にいたから違うとはいえ、生き延びるために子供を置き去りにすることを余儀なくされた人々もいました。それとは違う形ですが、幼い者を守るために命を亡くしていった、私の伯父、伯母たち。
私は、彼らの行為の前に、言葉を失います。ただひたすら、彼らの犠牲のおかげで今の私の命があることに、感謝と、その愛のすごさに畏敬の念を感じます。愛国などと強制する以前に、このような、家族愛が基本にあってはじめて、共同体への愛もあるのでしょう。あの当時、共同体である国家が崩壊した中、家族愛だけで、自らの命を犠牲にしながら、幼い母と叔父の命を守った、顔も知らない親族を思うたびに、私は涙を抑えることができません。
国家に翻弄された家族。そして、多くの犠牲の上に生き延びた母。その息子であることを私は、大切に思い、いささかの誇りを持って、今後も生き抜いて行きたいと思います。命の連鎖は重い。そう思わせる実話です。
「護憲+BBS」「メンバーの今日の、今週の、今月のひとこと」より
眠り猫
国策企業の重役として、母が生まれたときは、大連の龍臥台と言う高級住宅街に邸宅を構え、お手伝いさん2人に、全館暖房のための石炭ボイラーを焚く釜焚き人夫を抱える、裕福な生活を送っていたようです。
しかし、時代は敗戦を迎えます。敗戦の時、母は、まだ9歳でした。敗戦直後、母は理由を教えてくれませんが、私の祖父母は相次いで亡くなったようです。その後、約1年の後の引き揚げと、日本に帰ってからの間の、わずか1年あまりの間、母の兄弟姉妹、全部で5人は、10代後半の長男を筆頭に、父母を失い、敗北により異国となった満州で、現地の人からの略奪や迫害にさらされながら、子供だけで生き抜くことになってしまいまいました。
母も幼かったし、思い出したくないのでしょうか、何も語ってはくれませんが、この敗戦から引き上げ後数ヶ月の間に、母の兄、姉3人は、略奪や暴行の横行する中、兄妹5人の毎日の食を確保するために奔走し、何とか引き揚げ船に乗るために、必死に奔走していたようです。
そして、まだ満州にいる間に、長男と長女が病に倒れて死に、母は、一つ下の弟とともに、次男の兄とともに引き揚げてきたそうです。その兄も、結核に犯され、引き上げ後1年を経ずに、四国の結核療養所で死亡しました。
母は詳細を語ってはくれません。しかし、この話を聞いて、私は、涙を流さずにはいられません。裕福な生活から一転して、敗戦後の厳しい異国での生活に放り出された中で、最年長でも18歳の兄弟姉妹が何とか生きぬこうとし、そして、年長の者は、自力では何も出来ない、9歳の母、8歳の叔父の2人を生かすことを最優先にして、必死に兄妹を守り、年齢が上の順番に、1年余りの間に、若い命を失って行ったのです。
私は思います。顔も知らない、私の伯父や伯母たち。彼らが、自らの命をなげうってまで守った、幼い妹であった母が、彼らのおかげで生き延びたからこそ、兄と、私。兄の子供2人の命の連鎖をつないでもらうことが出来たのです。その、幼い妹弟を守ろうという責任感と愛。そして、自らの命を失いながらも守り通した幼い命。この人たちのおかげで、私の今の命があるのです。
陳腐な表現になると思いますが、命を賭してまで妹弟を守ろうという愛。年齢が上の順番に死んでいってしまうという、責任感。大連と言う大都市にいたから違うとはいえ、生き延びるために子供を置き去りにすることを余儀なくされた人々もいました。それとは違う形ですが、幼い者を守るために命を亡くしていった、私の伯父、伯母たち。
私は、彼らの行為の前に、言葉を失います。ただひたすら、彼らの犠牲のおかげで今の私の命があることに、感謝と、その愛のすごさに畏敬の念を感じます。愛国などと強制する以前に、このような、家族愛が基本にあってはじめて、共同体への愛もあるのでしょう。あの当時、共同体である国家が崩壊した中、家族愛だけで、自らの命を犠牲にしながら、幼い母と叔父の命を守った、顔も知らない親族を思うたびに、私は涙を抑えることができません。
国家に翻弄された家族。そして、多くの犠牲の上に生き延びた母。その息子であることを私は、大切に思い、いささかの誇りを持って、今後も生き抜いて行きたいと思います。命の連鎖は重い。そう思わせる実話です。
「護憲+BBS」「メンバーの今日の、今週の、今月のひとこと」より
眠り猫