イタリアで大騒動『ミス修道女コンテスト』(COBS ONLINE)
「ミス修道女コンテスト」――8月下旬、こんな企画がイタリアで浮上した。アキバ系コスプレ・イベントなんかではない。考案したのは、ナポリの北西50km・モンドラゴーネのアントニオ・ルンジ司祭である。つまり、“プロによるプロのため”のイベントだ。
応募資格は、18~40歳までの修道女または修道女見習い。写真(ベールの有無不問)とともに、自らの人生や神秘体験を記載したものを、ネットを通じて送付する。一般的ミスコンの定番とも言える水着審査はない。
(中略)
「修道女というと、高齢で厳めしいといったイメージを持たれがちですが、実際には聡明で親しみやすく美しい女性たちがたくさんいます。彼女たちの美しさは、まさに神からの賜物なのです」とルンジ司祭。修道女への偏見を払拭するのが狙いだった。
いいのではないでしょうか。応募資格に年齢制限をつけることには賛成しかねますが(ベールの有無と同様に不問とすべきですね)、堅いこと、野暮なことを言うつもりはありません。「高齢で厳めしい」外からのイメージを払拭して、修道女と俗世間の人々との距離を縮めようとする意図も理解できますし、方法論としては面白いものです。しかるに結果は下記の通り。
ところが、開催発表からわずか数日後、ルンジ司祭は「コンテストの開催を断念する」とのコメントを発表した。司祭のもとには「神に仕える修道女の美を競わせるとは何ごとだ。神への冒涜だ」といった批判的なメールや電話が殺到したのだ。結果として、彼のブログまで閉鎖に追い込まれた。
ふ~む、どこでも似たような光景が見られるものですね。当事者が自ら変わろうとしても、外の人間が「こうあるべきだ」と鋳型に押し込めようとする、外の人間が期待するイメージを強要しようとするわけです。サムライ然り、なでしこ然り(参考)、価値観の押しつけは――日本こそが本場だと思えないでもないですが――他所の国でも見られるようです。そしてこの押しつけが往々にして神妙な顔、厳めしい表情を要求するものであり、楽しそうな振る舞いには否定的である点でも、日本の場合と共通ですね(参考)。
修道女志望者のみならず、イタリアでは若い層を中心に教会への関わりや、信仰心そのものさえ希薄になりつつあるのが現状だ。前述したルンジ司祭のような関係者を含め、教会としても危機感を抱かずにはいられないだろう。
ルンジ司祭は「砂浜の修道院」以前にも、これまで聖域として閉ざされてきた修道院を一般の人に開放しようという提案も行っている。離婚問題を抱えた夫婦の悩みを聞くのが目的なのだそうだ。
世論が修道院に求めているのは「厳めしさ」であって「親しみやすさ」ではなかったわけですが、だからと言って要求されるがままに「厳めしさ」を維持し続けていれば、その世間の期待に応えることによって地位を保てるというものではないようです。むしろ反対の方向に事態は進展していますね。人々が理想とする修道院とは厳めしいものであるからといって、その理想を満たしていれば人々から歓迎されるかと言えば、そうなるどころか逆に両者の距離は広がるばかりなのです(参考)。
実際のシスターてユーモアがあって朗らかで、修道院も何度か行ったことがありますが、笑いの絶えない感じでした。
ただ、教育に携わっているシスターは厳しさを漂わせている人も多く、ちょっと怖いですけど。。
世間が厳めしい顔を望んでいる。というよりも、シスターはイエスの花嫁ですし(教義上)、精神的な美が重要で、外面的な美のコンテストとは相容れないからじゃないかと思いました。
壁が出来ないよう、親しみやすくなるような工夫として、段々シスター服を着ないで私服にする修道会が増えています。
ほかの人と区別がつかないので困ったりもするのですが…
上手く伝わらなかったらごめんなさい。
初めまして。argonと申します。いつも理路整然とした語り口に、舌を巻かせられております。
やっと口を挟むことのできるようなトピックに出会いました。
ローマ・カトリックの枢機卿の前で繰り広げられた僧衣のファッション・ショーです。フェデリコ・フェリーニとニーノ・ロータによる映画史上屈指の名シーンの一つです。
この場合はどうでしょう。とりあえず、「それを言い出したら、野菜だけで生活しているお坊さんは現在もいるのか?」と言っておきましょうか。昔から、教会の指導者のお言葉で、良い悪いにかかわらず様々な「善行とされること」が作られてきたわけですが、少なくとも他の敵を作ること(他の宗教とか)で信者を集め信仰心を強めるという方法よりは、はるかによいことなのではないでしょうか。
人々(信者となるような人々)に合わせて、社会(教会側)が変わろうとしているようにも見えるのですが、歩み寄った側から拒否されるのではどうしたらよいものか・・・。まあ、私的には宗教に興味はないんで、親しみやすくなったとしても、入信するつもりはありませんが。(笑)
http://jp.youtube.com/watch?v=CYzRL9YIswQ
教義上イエスの花嫁と仰るなら、建前上ミスコンといえど容姿だけではなく内面の美しさも問うわけですから、そこは許容範囲ではないかと思ったのですが、どうしたものでしょう。むしろ精神的な美を重んじるあまり外面的な美を相容れないものとして退けられてしまうようですと、精神的な豊かさを追い求めるあまり物質的な豊かさを否定する日本社会のような息苦しさにも繋がる気がしますし。
思い出したのは日本赤軍を題材にした映画で、赤軍幹部が化粧をしてきた女性を詰って総括を迫るシーン、別に外面的な美しさと革命は相容れないものではないと思うのですが、禁欲的な理念を報じる組織では往々にして、何かを追求するために何かを捨てることが求められるようです。私は外見上の美しさの追求と信仰は何ら矛盾することはないと思うのですが、いかがなものでしょう? 化粧をしてきたら革命に対する「本気」を疑われる、それと同じことは信仰においても言えるのでしょうか。
>argonさん
これはなかなか面白いですね。当時の反響はどうだったのでしょう? 映画の中ならと留保付で許されるのか、それとも保守層の反感を買ったのか、すんなりと受け容れられたのか、あるいは気に留める人が少なかったのか、それによって文化の成熟度が窺えますね。
>GXさん
むしろ外の人間の方が保守的、内部の人間の方が変わろうとする意識が強いケースも多々あるでしょうね。外の社会に合わせるために変わろうとしているのに、外から「変わるな!」と迫られる、じゃぁどうしろと言うのだと。mぁ世の人々はなかなか我儘なのです。無自覚に。
>内面の美しさも込みでコンテスト
修道女や修道士というのは、容姿の良し悪しなどの世俗的な価値観や価値基準から乖離したところ(物心両面とも)で生活しているからこそけっこう魅力的だったりするもので、「えっコンテストで競っちゃうの?」と思いまして。。
元記事の方を昨日はケータイで読めなかったので、今日パソコンから読んでみたのですが、場合によってはおもしろいイベントができるだろうな、と思いました。それこそ高齢のシスターが参加できればもっとおもしろそうですけど。
>禁欲的な理念を報じる組織では往々にして、何かを追求するために何かを捨てることが求められる
ブラザーやシスターになろうって人は、それを十分承知の上でなるので、問題ないのでは?どうしても合わない人は、自らの意思で養成期間中に辞めるか還俗するか在俗会に入るかすると思います。
(ちなみに、神父さんは「貧しさを花嫁に」と言って生涯人々に尽くすことを誓います(自ら望んで)。だからと言って、信者もそうであるべきというわけではありません)
>外見上の美しさの追求と信仰は何ら矛盾することはないと思う
その通りだと思うのですが、教会関係者は学校運営などの他に信者からの献金でも生活していますから、制約がつきまとうようです。やや見張られている感じと言いますか。。
日本赤軍の例のような組織は、行き過ぎればカルト(セクト)として、教会の上層部が改善に乗り出すと思いますよ。
それにしてもルンジ司祭て純粋でおもしろい人ですね。でも信仰とか教会の人気を取り戻すって、、すごい難しいだろうなぁと思ってしまいました。
丁寧に化粧をしてもブスはブス、ノーメイクで不潔にしていても美人は美人ですよ。
外見は努力ではどうにもなりません。
>それを十分承知の上でなるので、問題ないのでは?
細を穿つようで意地悪な見方かも知れませんが、これは危険な考え方だと思います。同様のロジックは、例えば教職員に国歌斉唱を強要すること、これの正当化にも使われたはずです。「自分の意思で」その選択をしたのだから、その選択の結果として下されるものは受け容れるべきだ、気に入らない奴は出て行けばいいではないか、そうした考え方が罷り通るような組織ならば、批判的に扱わざるを得ません。
>nanamiさん
う~ん、今回は「容姿で判断をしちゃダメ」という建前が勝利を収めたようですけれど。パッケージの写真とビデオの中身で「別人じゃねーか!」と言いたくなるようなこともしばしばあるだけに、工夫の余地はありますよ、きっと。
もし管理人さんがおっしゃるようなロジックで排除されるような事があればもちろん問題です。そういう場合は、司教なり、大司教、枢機卿、ローマ教皇に訴えることもできますし、バチカンの裁判所に訴えれば良いと思います。それが自浄能力のある組織というもので、カルト(セクト)にならないための必至要項の1つです。
ちなみに管理人さん、「宗教的態度=排他的」とのお考えがあると見受けられますが、さっきの第2バチカン公会議で「カトリック教会に属さないキリスト教徒たち、ユダヤ教徒、イスラム教徒たちも唯一の神において互いに結ばれていると言明」されましたし、他宗教との対話や交流も活発だったりするので、必ずしも排他的じゃないんですよ。
自由に行動できているのなら結構です。しかし「自分でそこに属することを選ぶこと」が「そこで決められたことに従うこと」を当然視させる、その正当化に使われることの危うさには自覚的であって欲しいと思います。「清貧」であろうと「国歌斉唱」であろうと、そのロジック自体が危険なのです。それから特定の宗教が掲げたスローガンが開放的であるとしても、「宗教的」という言葉の一般的な意味を覆すのは無理かと。