心の風景

晴耕雨読を夢見る初老の雑記帳

梅雨の季節に「能」と「歌劇」に戯れる

2021-06-04 21:01:12 | Weblog

 梅雨の季節を迎えて雨が降ったりやんだりと落ち着きのない日々が続いていますが、庭の一画で二つ目のアジサイが開花しました。我が家では初めてのお披露目です。
 そんなある日、長雨で伸び放題のハーブたちのお手入れをしました。刈り取ったハーブは、カモミール、セージ、ローズマリーの三種。ラベンダーとレモングラス、タイムとミントはもう少し様子見です。
 ひと休みしたあと、カモミール酒、セージ酒、ローズマリー酒の仕込みをしました。ホワイトリカーと氷砂糖を加えて、あとは数カ月の辛抱です。3か月もすれば夏バテ防止の清涼剤(食前酒)になります。むかし湖北の山小屋に通っていた頃は、タンポポの根っこを採取してタンポポ酒をつくったこともありました(笑)。
 さて、今週は事務所に2回も出かけました。久しぶりに都会の空気を吸ったものだから、なんとなくウキウキ。気分を良くして帰りに日本橋の中古レコード店DISC.J.J.さんに立ち寄りました。最近、歌劇を観ることが多いので何か掘り出し物はないかと品定めすると、ありました、ありました。モーツアルトの歌劇「コジ・ファン・トゥッテ」とワーグナーの歌劇「さまよえるオランダ人」。
 まず観たのはモーツアルトの歌劇「コジ・ファン・トゥッテ」でした。舞台はナポリ。相思相愛の二組の男女が登場しますが、老獪な老人の入れ知恵で女性の貞操の固さを試すというなんともおかしなお話でした。でも、さすがモーツアルトさんです。レチタティーヴォ、二重唱、三重唱、アリア、合唱と素晴らしい歌の数々を楽しみました。この作品は2006年の夏、ザルツブルク祝祭大劇場で上演されたものでした。
 その一方で、時間を持て余しているお爺さんは、録画したばかりのNHKEテレ「古典芸能への招待」を観ることに。演目は能「山姥 白頭」金剛流です。山姥の舞で人気を博していた都の遊女が、善光寺参りの途中で本物の山姥(鬼女)と出会い、山の世界(あちら側の世界)に暮らす山姥の素性と生業ついて話を聞くというストーリーです。色即是空。こちら側の世界とあちら側の世界。不思議な舞台でありました。
 日本の「能」と西洋の「歌劇」。ここ数日、頭の中が少し混乱しています.......。
 ストーリー自体は、歌劇であろうがお能であろうが、あるいは吉本新喜劇であろうが、大きな違いはありません。その多くが男と女にまつわるもの、強いて言えば歌劇がこの世の中を舞台に繰り広げられるのに対して、お能の方は現世と来世、幽霊、精霊、あるいは物事の表と裏の情念を独特の発声で歌い演じます。
 内に秘めた「情念」を謡と囃子に併せて演じる能の世界では、能楽師の仕草にある種の「型」があります。時に激しく時に静かに演じます。その間、(狂言を除いて)観客は押し黙って見入っています。眠っている人さえいます。上演中は拍手はありません。曲が終わり、演者が揚幕に入っていく頃になって、やっと拍手が起きます。
 これに対して歌劇は、愛、喜び、哀しみ....内に秘めた「思い」が歌に込めてほとばしります。観客は、上演の途中であっても盛大な拍手を送り、ブラボーという大きな声まで聞こえてきます。それを舞台の上の歌手が満足そうにうなづいている。幕が下りても拍手が鳴り止まずカーテンコールが続きます。
 場内の雰囲気はこれほどまでに違うのに何か変。「動」と「静」。それほどの違いがあるのに、舞台と観客との間に生まれる高揚感は、お能にも歌劇にもあります。共通する心の高まりがあります。一体なんなんでしょう。もうしばらくお付き合いをしながら考えてみたいと思っています。この歳になって愛や恋やと言われてもなあと思いつつ、のめり込んでしまう私でありました(笑)。

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