あすの日曜日は所用で京都に出かけるために、きょう土曜日はお休みをいただきました。晴れ渡った秋空のもと、愛犬ゴンタと街を散策しなが、「小さな秋」をたくさん見つけました。
このところ考えることが多くて、気の抜けない毎日が続いています。来る日も来る日も難題山積み。何ひとつ出口が見えない。でも、少し距離をおいて眺めてみると、底流に流れているものは意外と単純なことが多いのも事実です。いずれドーンと片付くのでしょう。そう自分に言い聞かせると心の重荷も幾分和らいで、妙に知識欲が頭を擡げます。今週は、積んでおいた岩波新書「シュンペーター~孤高の経済学者~」(伊東光晴・根井雅弘著)をぱらぱらとめくっていました。
わたしは経済学のことは音痴です。ただ、シュンペーターのことは全く知らないのに、『創造的破壊』という言葉が好きです。だから、一度は原典をと思いながら専門書を読む勇気もなく、この新書を手にしたのですが、長い間本棚で寝そべっていました。
でも、目の前にこれだけ難題が山積みになると、大声で『創造的破壊』を叫びたくなります。妙な理屈を捏ねまわすよりも、ずいぶんシンプルな展開が期待できそうに思うからです。そんなわけで、その発信源であるシュンペーターに接近を試みることになった次第です。時代は19世紀後半から20世紀初頭のオーストリア。ドイツ、イギリス、アメリカ....。第二章「政治の季節」に読み進むと、なんとM・ウェーバーを対極においた記述が登場します。「カフェでの応酬」など楽しい展開です。
そんな時代環境を夢見ながら同時代の日本を思うと、「篤姫」の時代を過ぎて明治の頃。私の祖父が生まれたのが明治5年(1872年)ですから、祖父が生きていた時代に、欧州はウィーンの街角のカフェで二人が出会い、ロシア革命の評価をめぐって議論する場面を想像すると、なんとなく遠い存在が身近なものとして思えてきます。
夜になると、その余韻を楽しむかのように、ウイスキーを片手にグスタフ・マーラーの交響曲を立て続けに聴くも良し。きょうの土曜休日は、子供のような好奇心をもって1日を過ごしました。我が孫君も、50年先には、そんな思いで私(祖父)を思い出してくれるでしょうか。いや、時代が違うのでしょうよ。きっと。
(注)写真は手元にある本の口絵を飾る祖父の写真です。古き良き時代の面影です。これなら横にシュンペーターやウェーバーがいてもおかしくないですね。と言っても、私が生まれたときには既に過去の人だったのですが。
このところ考えることが多くて、気の抜けない毎日が続いています。来る日も来る日も難題山積み。何ひとつ出口が見えない。でも、少し距離をおいて眺めてみると、底流に流れているものは意外と単純なことが多いのも事実です。いずれドーンと片付くのでしょう。そう自分に言い聞かせると心の重荷も幾分和らいで、妙に知識欲が頭を擡げます。今週は、積んでおいた岩波新書「シュンペーター~孤高の経済学者~」(伊東光晴・根井雅弘著)をぱらぱらとめくっていました。
わたしは経済学のことは音痴です。ただ、シュンペーターのことは全く知らないのに、『創造的破壊』という言葉が好きです。だから、一度は原典をと思いながら専門書を読む勇気もなく、この新書を手にしたのですが、長い間本棚で寝そべっていました。
でも、目の前にこれだけ難題が山積みになると、大声で『創造的破壊』を叫びたくなります。妙な理屈を捏ねまわすよりも、ずいぶんシンプルな展開が期待できそうに思うからです。そんなわけで、その発信源であるシュンペーターに接近を試みることになった次第です。時代は19世紀後半から20世紀初頭のオーストリア。ドイツ、イギリス、アメリカ....。第二章「政治の季節」に読み進むと、なんとM・ウェーバーを対極においた記述が登場します。「カフェでの応酬」など楽しい展開です。
そんな時代環境を夢見ながら同時代の日本を思うと、「篤姫」の時代を過ぎて明治の頃。私の祖父が生まれたのが明治5年(1872年)ですから、祖父が生きていた時代に、欧州はウィーンの街角のカフェで二人が出会い、ロシア革命の評価をめぐって議論する場面を想像すると、なんとなく遠い存在が身近なものとして思えてきます。
夜になると、その余韻を楽しむかのように、ウイスキーを片手にグスタフ・マーラーの交響曲を立て続けに聴くも良し。きょうの土曜休日は、子供のような好奇心をもって1日を過ごしました。我が孫君も、50年先には、そんな思いで私(祖父)を思い出してくれるでしょうか。いや、時代が違うのでしょうよ。きっと。
(注)写真は手元にある本の口絵を飾る祖父の写真です。古き良き時代の面影です。これなら横にシュンペーターやウェーバーがいてもおかしくないですね。と言っても、私が生まれたときには既に過去の人だったのですが。