愛しきものたち

石仏、民家街並み、勧請縄、棚田景観、寺社、旧跡などが中心です。

旧山城町 綺原(かんばら)神社の勧請縄

2012年02月29日 | 勧請縄:山の神:野神:人形道祖神

我が山城に残る、唯一の白鳳期丈六金銅仏が有る蟹満寺と、在所道を挟んで対峙する綺原(かんばら)神社の勧請縄です。

旧山城町(現木津川市)北端に近い綺田(かばた)は、往古渡来系豪族の秦氏がこの地に住し、その始祖「綺氏」を祭祀した云われるのが綺原(かんばら)神社で正式名称はは綺原座健伊那太比賣(かにはらにいますたけいなだひめ)神社と言う古社です。

木津川に注ぐ天神川南辺、小高い西面斜面、緑濃い境内への石段を登りきった所、弐重塔と書かれた勧請石柱に勧請縄が掛け渡されている。

閏年に係わらず、ここでの下げ飾り縄は12個、それぞれの小勧請には樒(しきみ)?の小枝がびっしり取り付けられている。

この勧請縄は居籠(いごもり)祭で知られた涌出宮の宮座「古川座」の人達が涌出宮の勧請縄と同時期に奉納するとか・・・そう云えばこの地域には古川姓の家が多い。

その昔、涌出宮の鎮座地もこの地と同じ相楽郡蟹幡郷と呼ばれていた。

撮影2012.2.21


京都府精華町舟 春日神社の勧請縄  

2012年02月28日 | 勧請縄:山の神:野神:人形道祖神

精華町下狛舟集落、春日神社鳥居に掛け渡された勧請縄です。

 精華町の北端、京田辺市に近い木津川西岸域に下狛と呼ばれる地域があってその一画、木津川に注ぐ煤谷川南辺に舟集落の春日神社が鎮座している。

下狛地域には春日神社が三社もあって、この地域がいかに興福寺や春日大社との結びつきが深かったのだろうと想像するに難くない。

NET地図では舟という地名は出てこないが、地域の公民館は未だ舟集会所と成っていて古い地名を今に伝えている。

春日神社の周りはすっかり新興団地に囲まれ、新旧混在の中に肩身の狭い神社になっています。

丹塗りの大きな鳥居に掛け渡された勧請縄には小さな藁房が13個、これは閏年を表すものでしょうか??

両脇には独得な大きな藁飾りが吊下げられています。

説明はしにくいですが一寸他では見れない独得な意匠です・・・・、何を現したものでしょうか???

真ん中に長く垂れた縄飾りは蛇か龍の尾の様に見えなくも無い。

割り拝殿の奥、本殿を覗いて見たら同じものが掛けられていました。

我が山城に残る数少ない藁飾りです。

因みに国土地理院の地図には舟という地名は載っていますが他のNET地図では全く出てこない始末です。

撮影2012.2.22


奈良市 藺生(いう)町の勧請縄

2012年02月27日 | 勧請縄:山の神:野神:人形道祖神

石仏行脚の際、たまたま見つける事の出来た勧請縄です。 

名阪国道針ICの有る旧都祁村(現奈良市)は鄙びた奈良大和高原にあっての中心地、そんな中、藺生(いう)町は隣町桜井市と境を接する純里山集落。

この藺生は大和でも早く開けた地であり、葛神社も九頭・国津に等しくこの地域には多い神社で祀雨神、水の神として出雲建雄神を祭祀する。

集落の奥まった南外れ、宮池と言う溜池の南端に式内葛神社が鎮座、前を通る道路上には勧請縄が掛け渡されている。

縄は約7~8m、神社境内脇の勧請木柱から路上を跨いで対面斜面、大樫の勧請木まで吊渡せられている。

髭の生えた太縄中心辺りの三対の小勧請が吊り下げられ常緑樹の小枝が付けられています。

こうして有るべきところに有るべくして有ったという感の強い勧請縄・・・、単純な造形だがやっぱり嬉しい。

撮影2012.2.22


奈良市 下誓多林(しもせたりん)町の勧請縄

2012年02月26日 | 勧請縄:山の神:野神:人形道祖神

奈良春日奥山の原生林を抜け柳生に至る旧柳生街道沿いに有る勧請縄。

集落の名は「下誓多林」・・・、ほとんど地元の人か酔狂なハイカーが歩くぐらいの辺鄙な山里ですが・・・、それがなんとも心地よいところです。

行きかたは色々有りますが、大柳生から田原方面に抜ける県道47号線で大平尾(おびらお)町、その先大平尾の外れから谷底めがけ斜面を降りるような在所道を下りきれば正面にこじんまり軒を連ねるのが下誓多林の集落。

上流、上誓多林の春日原生林より流れ出した白砂川沿いの旧柳生街道はこの集落内を抜け、川沿いに大柳生、柳生へと至る剣豪の道。

村外れ、白砂川が少し蛇行する川瀬の林内を行く道路を跨いでこの勧請縄が掛けられている。

細い縄の両端を自然木に結わえ約5m、小勧請は五ヶ所に分けて五本づつ、各々の小勧請には青葉の小枝が取りつけられている。

この様式は、これから下、白砂川沿いに有る大柳生内に有る二ヵ所の勧請縄とは少し違い、多武峰(とうのみね)方面で見かけるものに良く似通っている。

しかしこの旧街道沿いには僕の好きなものがよく残っていて、なんとも気分がほころびます。

撮影2012.2.12


伊賀市寺田 三体磨崖石仏

2012年02月25日 | 石仏:三重

北向き地蔵の在る大光寺参道から寺田地蔵の辻堂までの在所道傍らに大切に祀られている小さな磨崖の石仏さん。

元々この地に在ったものかは不明ですが?形の良い一寸小振りな五輪塔を傍らに置き、簡素な藤棚の下、コンクリートブロックで一画を設えられ、五輪の残欠や小板碑などと共に置かれています。

石仏は幅、高さ共に約1.5mの苔生した三角オニギリ状自然石、表面にそれぞれ独立した長方形枠取りの中、像高約50cmばかりの三尊が薄く刻み出されて居ますが殆ど岩に同化・・・像容も判然としません。

長方形の縁取り枠などは地蔵堂の様式を真似たようにも思えますが?勿論その技量や美意識は月とスッポン・・・

三体は共に定かでない蓮台の上に立つ立像・・、中央は阿弥陀でしょうか?右手はどうも地蔵のように思えます。

左手の一体は全く判然としませんが・・・・。

いずれ近世、近在の素人石工の手に拠るものでしょうが・・・この素朴で単純な姿は周りの景観とも溶け合って、尚愛しくほのぼのとさせて呉れます。

撮影2012.1.22


伊賀市寺田 地蔵堂の地蔵石仏(再UP)

2012年02月24日 | 石仏:三重

この石仏も新しい写真に変えて再UPです。

三重県伊賀市の中心部、上野市街の南東部寺田の集落の地蔵堂に祀られている地蔵石仏、近くの毘沙門寺奥の院大光寺参道の北向き地蔵尊によく似た姿をしています。

集落の中心部、懐かしい景観の残る在所道、辻の片側に有る地蔵堂内に手厚く祀られています。

地蔵堂は格子扉で閉ざされていますが誰でも自由に開けられ問題なく撮影が可能です。

堂内は意外と広く、小石仏や五輪塔、六字名号板などに囲まれるようにして奥壁一杯に祀られている。

石材は凡そ1m四方の扁平な花崗岩を方形に整え、表面を高さ53cm、幅38cmの彫りくぼめの中、前回紹介の「北向き地蔵」に殆ど同様の三重敷茄子付蓮華座に坐す地蔵坐像を厚肉彫りで刻み出しています。

光背像容共に「北向き地蔵」に瓜二つですが、信仰篤い事の証だろうか??なんとも惜しいことには顔容も覚束無いほどツンツルテン・・。

しかしどう見ても見事な彫りです、「北向き地蔵」同一作者の手に拠るものだと考えられ、造立期も相前後期だと考えられる。

顔の磨耗はともかく細部の表現は優れ、少々小振りですがほかの地域ではあまり見かけない像容です。

撮影2012.1.22


伊賀市寺田 北向き地蔵磨崖石仏(再UP)

2012年02月23日 | 石仏:三重

 もう5~6年も前、このブログページを始めた頃に取り上げた磨崖石仏・・・、近場でも有り最近又ちょくちょくあの辺りも訪れ、再度撮影もして来たので再UPです。

名阪国道中ノ瀬ICで降り、163号線を東進、木津川の上流域の服部川に架かる寺田橋を渡れば目の前の集落が寺田、集落の東方山裾に毘沙門寺と言う鄙びた山寺が有る。

毘沙門寺脇より続く山上、「大光寺」への参道途中にこの磨崖石仏が静寂の中、殆ど訪ねる人も無く佇んでいる。

石仏を刻んだ大岩は幅、奥行き共に3m余り、高さ約1.5mばかしの花崗岩自然石。

参道側より見る正面を平らに整形、ほぼ中央に幅約1.5m、高さ約70cmの澄み切りの有る長方形に深く彫り沈め中に厚肉彫りで独得な意匠を持つ三体の地蔵を刻み出している。

なんともユニークな像容の三体地蔵は平坦背面に薄くレリーフ調に二重円光背と単弁八葉の頭光を刻み付け、同じ像容の三重敷茄子付蓮華座上に坐す地蔵菩薩坐像三体を並べて居る。

像高55cmとそれ程大きくは有りませんが何といってもこの三重敷茄子付の蓮華座は見事で他では殆ど見かけたことが有りません。

三体共に右手に錫杖は持つが、左手に宝珠を持たず、丁寧に刻み出され、優しく慈悲に満ちた笑顔で見るものを迎えて呉れます。

刻銘は見つからない様ですが鎌倉後期から南北朝初め頃の造立。

しかしまあ、いつ行ってみても名前の通り木漏れ日の差す薄暗い北向きに有り、余り納得の行く画像には成らない。

この磨崖石仏脇には自然石に刻まれた稚拙ながら、野趣豊かな小石仏がおられました。

方形の中に双石仏・・・具象性に欠け、こけしを二つ並べた様・・・、尊名も定かでは有りませんが何処と無くほのぼの・・・。

両者の落差の大きさに、ちょっと苦笑い。

撮影2012.1.22


旧安土町 桑実寺(くわのみじ)地蔵石仏

2012年02月22日 | 石仏:滋賀

琵琶湖東岸、白洲正子の「かくれ里」でも紹介された鄙びた古刹の石段参道途中に有る石仏です。

桑実寺(くわのみじ)は、西国三十三箇所観音霊場、観音正寺の在る繖山(きぬがさやま)西麓に有る名古刹、藤原鎌足の長男、定恵が白鳳6年(677年)に創建したと伝えられ、唐から持ち帰った桑の実をこの地で栽培、日本で最初に養蚕を始めたことに由来するという。

本堂は里の集落より約20分、乱積み石段参道を登りきった山中に有り、檜皮葺きで威厳の有る建物が建つ。

この本堂脇を抜け、観音霊場、観音正寺へも参詣道は続いている。

因みに石仏とは関係ありませんが本堂内須弥壇、本尊は薬師如来ですが秘仏のようです。

本題の石仏は、里の集落より参道を歩き初めて直、参道右脇の簡素な地蔵堂に祀られています。

薄い縦長自然石の表面を舟形光背状に削り整え、像高約120cmの地蔵と思われるローカル色豊かな石仏を薄いレリーフ調に刻み出している。

右手に錫杖、左手に宝珠を持っているように見えますが・・・・、どうも頭部が妙です。

上部に滲み状菌糸が繁殖、見辛くなっていますが、頭部が段違い・・・これは僧形じゃなく如来形。

儀軌には反するが地方色豊かな地蔵さんとしてありえる事かな??

因みに南北時代の造立だとか。

撮影2010.2.13


京田辺市宮津白山 西念寺地蔵石仏

2012年02月21日 | 石仏:京都

もう40年ほど前、この寺のを訪れ、茅葺屋根の本堂を背景に立つ地蔵石仏が妙に気に掛かるので最近に成ってここを訪れてみた。

京田辺市は我が山城、木津川西岸から北河内方面に繋がる丘陵地に広がる歴史深い土地柄・・・・・

西念寺の有る宮ノ口地区は京田辺市の南端、精華町と接する京阪奈丘陵裾に有る古い集落、この地の白山神社は継体天皇が筒城宮に居た頃勧請されたと言う古社で本殿は国の重要文化財にも指定されている。

白山神社の神宮寺で有った法雲寺が早くに廃寺となり、その遺仏を祀った観音堂が再建され、西念寺として現在まで引き継がれています

西念寺は白山神社裏手、山裾を回りこんだ斜面上一角に有り、茅葺屋根に赤いトタンを被せた簡素な本堂。

本堂より一段上がった境内に簡素な観音堂が建ち十一面観音が祀られて居るのですが無住寺のため、京都国立博物館に寄託されているようです。

石仏は観音堂脇、40年前とは場所が移動してますが・・・、何体カの石仏と一列にコンクリート基壇の上に並べられています。

中央に居る少し頭デッカチの地蔵さん・・・・・少しはにかむような顔付きで昔見たときと同じ表情。

像高約70cm、大きな錫杖を持つ定型地蔵。

永正十五年十月(1518)の銘が有り、室町後期の造立です。

やっぱり40年も経つと世の中すっかり様変わりしてしまいます。

撮影2012.2.4


京都旧加茂町岩船 観音寺跡石仏、笠塔婆/他

2012年02月20日 | 石仏:京都

何の変哲もない、何処にでも転がって居そうな箱石仏ですが・・、こうも見事に二段に横隊して見せられると、音の消えた空間と相マッチして心に染み入る景観です。

しかしとても夏場には蚊の群集攻撃で近づけそうに無いじめじめ緑の中に有ります。

ここは岩船辻から少し西に入った観音寺跡・・・何年か前までは使われていたであろう寂れた児童公園の片隅、木陰に覆われ誰も寄り付かないような空間にただ時の流れに身を任すようにっ佇んで居ます。

箱石仏は約三十体、行儀良く二段一列横隊、中央上段に一番大きな地蔵箱石仏が置かれて居ます。

 上段中央の一体、 別に取り立てて云うほど特別なものではありませんが・・・。

こちらちょっとは知られた笠塔婆と六字名号板碑・・・、これがこの地のハイライト。

笠塔婆は金剛界四仏種子を月輪内に刻み、笠を持つ室町時代後期永禄七年(1564年)、六字名号板碑は南北朝時代の造立。

往古、観音寺と云う寺が在り、廃れ・・・その後又その地に児童公園が作られ、それも少子化の影響か?廃れ・・・・・。

もうこの地に足を踏み込むのはちょっと怪しい親父だけかも・・・。

撮影2011.9.10


京都旧加茂町 尻枝(しりえだ)金蔵院の石仏

2012年02月19日 | 石仏:京都

鼻先をなくし風化磨耗も進み・・・足元辺りで断裂している石仏さん。 

石仏の有る金蔵院は前回紹介の尻枝集落中心部辺り、小高い斜面上に在る小さいながら唐から渡来した金銅十一面観音像を安置する古刹です。

峠道より続くの参道奥に簡素な山門、山門奥右手脇に石塔や板碑と共にこの石仏が置かれている。 

取り立てて云うほど良いものでは無さそうですが、分厚い舟形光背を持ち、総高約1mばかし・・・

方形自然石の台石に乗り光背と一体化した薄肉彫り蓮坐上に立ち、分厚く刻み出された阿弥陀如来立像。

像高約70~80cm、どうもぎこちない手印ですが来迎印阿弥陀如来立像・・・足首の上で断裂。

鼻をとられて少し泣きっ面、石仏の多いこの当尾地域では殆ど目立たない存在ですがそれ故、尚愛しい。

多分室町期の造立です。

撮影2011.9.10


京都旧加茂町 尻枝(しりえだ)地蔵堂の阿弥陀石仏

2012年02月18日 | 石仏:京都

尻枝の地蔵堂には地蔵さんとして地域住民の篤い信仰の有る・・・・その実阿弥陀石仏が祀られています。

旧加茂町、 JR加茂駅から石仏の里「当尾」方面に向かう府道47号線、「当尾小学校」の少し手前を西に入った山懐に尻枝(しりえだ)集落の中心部が懐かしい里山景観そのままにある。

山裾を縫うように行く在所道を道なりに進めば小字「裏城」、その大きくカーブして下り坂になる直前、道路左脇にこの尻枝(しりえだ)地蔵堂がある。

三々五々ウオーキングでこの道を歩く近所の人たちがこの地蔵堂の前で必ず立ち止まり、手を合わせて行くほどに信仰篤い石仏さんです。

地蔵堂は間口が広く開いた三方腰板と覆い屋根の簡素な造り、石仏ファンには何処からでも撮影出来る嬉しいお堂です。

石仏は自然石の舟形光背を持つ等身大、来迎印を結ぶ阿弥陀如来立像。

残念ながら石仏は肩先と首元で大きく断裂、拙い素人のセメント補修が顔部頭部にまで及び、まるで下手なマスクでも被っているようでぎこちない。

頭上の肉髻(にっけい)が三段構えで泣きべそ顔・・・・どこかいたずら小僧のようにも見えますが・・・・・。

少なくとも室町後期からは遡る頃の像立か・・・・・、これほど大きく痛んでいなければ結構注目された石仏さんだったろうに・・・・・

当尾の石仏巡りもここまで足を延ばす人は皆無です。

撮影2010.3.22/2012.2.04


旧加茂町高田 高田寺(こうでんじ)の石仏

2012年02月17日 | 石仏:京都

旧加茂町、石仏の里「当尾(とうのお)」からは、少し外れた旧い集落の古刹に佇む石仏さん。

集落の名は高田、その中心部にある高田寺はJR加茂駅南方約5km、府道44号線が浄瑠璃寺道と分岐する西側のなだらかな鹿背山丘陵山裾の高田集落にある古刹です。

小さな山門を潜って右手、奥に墓地の広がる白壁土塀沿いに古式な石仏が一列に並べられています。

中でも目を引くのは中央に置かれたこの石仏さん。

二重光背を持つ一見古式地蔵かと思えるような像容・・・しかし頭部には如来特徴の肉髻(にっけい)を思わせるような段差が見え、右手は肩先に挙げ右手施無畏印、左手に持つ宝珠だと思えるものを薬壺と見れば、これは薬師如来石仏??。

でも左手はやっぱり宝珠のようでもあり・・・。

この寺の本尊が国の重要文化財に指定された平安時代造立の薬師如来であるという事を考え合わせると符合するような・・・それでもやっぱりしっくり来ませんが。

像高約70~80cm、下部蓮台は土中に埋もれ確認できません・・・、勿論造立期も確認できませんが、室町期もかなり遡った頃の造立でしょうか??

向かって左隣に立つ、この中では最大の石仏さん。

頭上光背に地蔵の種子、カを刻み込む地蔵菩薩立像・・・・、像高は約1m足らず。

向かって右端の箱型石仏、龕状にかなり深く彫りこんだ中にかなり厚肉彫りの地蔵さん。

時代を感じさせるには充分の像容ですが・・・・・。

その隣には頭でっかちの石仏さん、これも頭のてっぺんが盛り上がってる様でもあり、錫杖も見当たらず何様なのか良く解りかねます。

古い寺には、古い石仏さん。

撮影2011.6.22


木津川市 観音寺(かんおんじ)の地蔵石仏

2012年02月16日 | 石仏:京都

集落の中ほど車通りの脇、簡素な地蔵堂に大切に祀れている地蔵石仏です。

木津川市観音寺地区は以前から紹介している鹿背山丘陵の南斜面、山裾を回り込むように伸びる府道324号線沿い、長閑な里山景観に包まれた僕達田舎育ちの熟年人間には懐かしい匂いのする集落です。

集落の名は観音寺、往古この地には観音寺と言う地名にも残るような御寺でも有ったのだろうか??

この御堂もしっかり格子戸・・、このままではどうにも不自由、涎掛けも外せはしないと、扉の前を整理しておもむろに扉を開けて失礼しました。

総高約1.8mばかし、荒削りな舟形光背を背負い像高150cmばかし、殆どノッペラボウの顔を持つ定型地蔵。

真っ赤な涎掛けを外しても格子戸から差し込む日射が強く大して変わりなし・・・

応永六年(1399)室町初期の刻銘があり、中々立派な地蔵石仏です。

撮影2011.7.23/2012.2.4


木津川市鹿背山 立ケ尻(たてがじり)地蔵石仏

2012年02月15日 | 石仏:京都

地元ではどう呼ぶのかは解りませんが?小字名をそのまま被せて立ケ尻地蔵石仏としました。

<集落内を縦断する田舎道風情>

前回紹介の集落道を道なりに丘陵尾根から下って行くと鹿背山の集落を縦断する道路に突き当たる。

その辻の少し手前、大和棟の三角屋根を背景、青田の畦淵に石仏や五輪塔の並べられた一画がある。

中で目を引くのは奥の地蔵さん、足元をすっかりコンクリートで固められていますが・・・。

地蔵盆を真近に控え青竹が立てられ、提灯を吊るす用意なんでしょうか??

像高約1m足らず、舟形光背をを持ち、大きな錫杖と宝珠を持つ定型地蔵・・・・・厚肉に彫りだされた頭部はどこか遠くを見つめているようです。 

光背に何か刻まれているようですが判読不能、室町期の造立でしょうか??

片脇にも少し小振りですが、すっかり腰まで固められた地蔵石仏が有りました。

いかにも里山の野仏風情がなんとも愛しい石仏さんたちです。

撮影2011.7.23