愛しきものたち

石仏、民家街並み、勧請縄、棚田景観、寺社、旧跡などが中心です。

京都・伏見区 大栄寺の四面石仏

2015年12月20日 | 石仏:京都

京都伏見 、丹波橋通りの古い町並みに建つ大栄寺に保存された四面石仏。

四面石仏は本堂脇の覆堂に安置された十三重石塔の塔身で、往時伏見城付近にあったのを、ここに移したものだと言われて居る。

塔身は高さ84cm、76cmの花崗岩四面に舟形光背を彫り沈め、中に像高約60cmの顕教四方仏を刻み出す。

正面は西向きに安置されて居ますが、現在弥勒仏が正面になっていますが、大日如来として信仰されているようです。 

左正面の弥勒 右南側が阿弥陀如来・・・

左・北に薬師如来 右・西に弥勒仏

左・南面の阿弥陀如来 右・東面 釈迦如来・・・と言うように90度左に振れて安置されて居ます。

しかしその像容はよく整い蓮座の造りからも鎌倉後期の造立だとされ、これだけの塔身を持つ十三重石塔はさぞかし立派なものだったに違い有りません

撮影2015.11.10


京都市伏見区深草大亀谷 仏国寺の三面石仏 

2015年11月25日 | 石仏:京都

まだ巨椋池の有った頃・・・・京から宇治へ向かう宇治街道八科峠(やじなとおげ)すぐ脇にある仏国寺。

そんな仏国寺の入口脇にオニギリ型の自然石に刻まれた朴訥ながら、古式に見える石仏が置かれて居る。

総高約60cm、正面は像高50cm、中肉彫りで大日如来と言われて居るようですが???

 

如何にも素朴で阿弥陀如来と言われればそうも見えるし・・・決め手は見つかりません

左方向から見るとこんな風に見え・・・

 右側の石仏はこれ・・・左右共に如来型の石仏には違いないのですが・・・すっかり風化摩耗が進んでしまって何が何やら

左手の石仏は小さく、薬師如のようにも見え無いことはない。

伊豆tレにせよ詳細は不明ながら鎌倉期の造立ではないかと言われて居ます

撮影2015.11.21


旧加茂町 千日墓地阿弥陀石仏:六体地蔵 

2015年07月29日 | 石仏:京都

引き続き千日墓地の六体地蔵と共に居並ぶ阿弥陀石仏。

この墓地は二集落の共同墓地と見えて六体地蔵は二箇所にあるが、これは石鳥居の有る法とは逆の西入口に居並ぶ六体地蔵と阿弥陀石仏・六字名号板碑。

中でも僕のお気に入りは、中央の六字名号板碑の後ろに控えるこの阿弥陀石仏

なかなか現代的風貌の童顔イケメンで微かに微笑む・・・・

風化摩耗も少なく彫りも鮮明・・・舟形光背を背に二重蓮座に立つ像高約70cm、天正8年(1580)の銘もしっかり確認できる。

撮影2013.5.25


旧加茂町千日墓地 地蔵石仏(受け取り地蔵)

2015年07月27日 | 石仏:京都

千日墓地で「受け取り地蔵」と呼ばれている地蔵さん。

千日墓地の最奥手、荒れ果てた竹やぶ縁に立ち尽くす大小2体の地蔵さん。

日当たりが悪く、その上誰も世話をしないのか??青い地衣類が表面を侵食・・・像容すら殆ど分かりづらく成って居る。

舟形光背を持つ総高130cm、像高90cm、蓮台に立つ定形地蔵立像

 

室町時代後期 天文十七年 (1548年)の造立・・・当尾では室町期の石仏など問題外だろうが、記録の為にUPしておきます。

撮影2013.5.25 


旧加茂町 千日墓地「阿弥陀・地蔵 双仏石」

2015年07月26日 | 石仏:京都

 

昨日に引き続いて千日墓地の見事な「阿弥陀・地蔵 双仏石」

正面入口、十三重石塔すぐ近くに大きな屋根付きの双体石龕仏が有人目を惹かずには居ない。

正面から見るとこんな感じで如何にも均整が取れ、石仏としても希に見る優品です。

総高165cm、深く彫り下げ隅取りをした石龕内に像高77cmの阿弥陀如来と地蔵菩薩の双体仏。

向かって左の地蔵立像、右の阿弥陀立像ともになかなかの出来栄え・・・・南北朝期の造立で当初は前面に石扉が付いて居たようです。

当尾地域では最大の双仏石です。

撮影2013.5.25


井手町 多賀新田の六体地蔵

2015年06月26日 | 石仏:京都

良い物では有りませんが僕の忘備録のつもりでのUPです。 

 となり村、多賀から山越え道で有王へと向う山道の途上・・・万燈籠山の峠を越えてもう随分有王に近づいた頃、右手に六体石仏の案内板。

その脇道を少し進むとこの六体地蔵に出遇う。

この地は多賀新田として江戸中期に開拓、昭和初期までは集落としての生活の場があったとか??

今では全くその面影は無くこの石仏が杉林にひそりと佇むばかり

石仏は明和7年(1771)の銘が確認されている・・・この付近に集落の墓地があったのだろう・・・

この集落は250年ほど前に開拓され、200年も経たずに地上から消えてしまったのだろう??

撮影2013.3.9

 


京田辺市 大住岡村「来迎寺」脇の地蔵石仏

2015年06月21日 | 石仏:京都

 

 散歩がてらの集落で見掛けた地蔵石仏。

見た感じ、それ程それ程新しいものでは無く、充分中世仏の範疇に入りそうなのでひとまずここにUPしておきます。

京田辺市の北端、大住の岡村集落「来迎寺」のブロック塀に簡素な地蔵堂が有り、その中に安置された地蔵石仏。

 地蔵石仏は舟形光背の頂部を欠損、おまけに蓮台上足元で断裂、痛々しいお姿です。

像高約1m足らず、断裂してるとは言え、古式な二重蓮台に立つ定形地蔵立像。

風化摩耗が進み尊顔も覚付きませんが、にこやかに微笑んでいるようにも見えます。

永らく地中にでも埋まって居たのでしょうか?、赤錆色が染み付いて居ます。

この石仏に関するデーターは何一つ見つかりませんが、少なくとも全体から受ける印象では室町期以前の造立では無いでしょうか??

撮影2013.3.10


八幡市 善法律寺の石仏

2015年04月01日 | 石仏:京都

昨日の善法律寺五輪塔の脇に並べられた石仏さんたち。

先日も紹介したように、この脇に建つ五輪塔は近くの廃寺「大乗院」にあったものを移したと言うからこの石仏たちも、きっとそうなんだろう・・・?

一目見た時から、これは京都市内でよく見かける叡山系の石仏だと直感・・・・・嵯峨野大覚寺「大沢池の石仏」に瓜二つ。

 向かって左端に立つ「石地蔵」と間違われている阿弥陀石仏?。

像高約1mばかり、頭頂の丸い舟形光背を負い、半肉彫り。

その右手、一見大日如来のようにも見えるが・・・・右手は肘先で欠損、左手も見つからず、どうも不自然。

 その上、右肩先には蓮華を掲げているように見える突起が有る・・・

観音菩薩のように見えなくもないが判らない。

三体坐像石仏の中央に置かれて居るのは・・・

この石仏・・多分「釈迦如来」では無いだろうか??

いかにも叡山系の石仏を彷彿させ、厚肉彫りで刻み出されて居る。

 最後は左端のやっぱりよく判らない如来型石仏。

両腕欠損、腰部で断裂、哀れこの上ないが・・・・良腕を下げて居そうなので定印阿弥陀では無いだろうか??

しかしいずれにしてもまだ廃大乗院」の地には他の石仏達が地中深く眠っているのでは無いだろうか??

どうにも良くわからない石仏さんたち。

撮影2013.2.9


八幡市 旧巣林庵の阿弥陀三尊石仏

2015年03月29日 | 石仏:京都

 

散歩がてらの八幡「石清水八幡」、男山山裾在所辻で見掛けた石仏さん。

取り立てる程の石仏では無いのですが自分自身の記録のためのUPです。

 

 男山、南山裾から男山散策道への在所道に巣林庵なる石柱道標が建ち、その脇の空き地に小さなお堂と・・・・

 小さな空き地には小石仏や一石五輪塔などの集積が有り、寺跡だと言う事が分かる。

明治の廃仏希釈で「巣林庵」は男山の地を離れ桂へと移転したらしいが・・・・

 ちょっと面白いと思ったのは小さなお堂の中の石仏さん・・・・

笠を無くした阿弥陀三尊石仏なのだが・・・・・脇侍に観音勢至像が刻まれて居るのは覚えが無い。

 一見するにそれほどの出来でもなく、中型石仏で見栄えもしないが、何故か脇侍の頭辺りの高さに一筋白化してるのはどうした訳だろう・・・

撮影2015.3.23


長岡京市 神足墓地石仏群

2015年02月20日 | 石仏:京都

長岡京市、神足墓地の大きな丸彫り石仏群。

JR長岡京市と阪急長岡天神駅に挟まれた神足小学校脇の広大な惣墓、その入口辺りに、ほぼ等身大坐像の石仏が並び立つ姿は、他で目にすることがなく圧巻・・

墓地入口右手には新しく造られた現代風基台の上に六体地蔵としては珍しい坐像石仏が横一列に並んでる。

六体地蔵は時代や地域に拠っていろいろなものが造られ、呼び名もまちまちだそうですが・・・・・ここでは右端に、宝珠を抱くもの・・・

二体目は如意を持つ・・・・

 三体目は幡を持ち

 四体目は錫杖を持つ・・・・それぞれ六道輪廻の役割を与えられた地蔵石仏・・・

蓮華座に坐し像高凡そ等身大と大きく重量感が有る。

中央龕前堂前の植え込みを背にして十王像の内五王が並んでいる・・・・元々五王だけだったのだろうか??ちょっと不思議な気もしないでは無い・・・

中央に大きく閻魔大王・・・

向かって右端の司録(平等王)

 左端は司命(初江王)と言う事らしい・・像高は共に六体地蔵に等しく等身大、ただ中央の閻魔大王だけは1回り大きくなって居る。

六体地蔵並びの奥には釈迦と阿弥陀の二体の一際大きな坐像石仏が並んで居る。

向かって左に弥陀定印の阿弥陀如来、右には釈迦如来・・・・

こちら釈迦如来ですが・・・・総約1.4m高、江戸時代の特色ある蓮座に座して居られます。

背には尊名と多数の結縁者名を刻むが紀年銘は刻まれて居ない。

しかしこれらは誰が見ても江戸後期の造立・・・・これだけの石仏が一同に会してるのは珍しく、庶民信仰が具体的な形として残された石仏群です。

撮影2012.10.7


長岡京市 海印寺寂照院の地蔵石仏

2015年02月19日 | 石仏:京都
 
長岡京市奥海印寺の寂照院と言う寺に残された中型の箱石仏。
 
 
あの長岡天満宮前の信号より車で約5分、奥海印寺通りを西山方向に1.5km、奥海印寺の走田神社を背に負う様に近代的建築物の海印寺寂照院が建って居る。


新興住宅街に囲まれた山門を入ると真新しい寺墓があり、その入口と思しき辺りに簡素な堂を設け、石仏が安置されて居る。
 
 
石仏は所謂面取りをした枠を残して彫り沈め、中に地蔵立像を刻む石龕仏。
 
 
真新しく造られた基台に乗る高さ75cm、しかし笠石も全く違う石質で本来のものでは無さそう??。
 
 
像高55cm、蓮華座に立つ定形地蔵立像ですが、龕内奥壁には三茎蓮を活けた花瓶を良足元に配し珍しい。
 
その様式から南北朝期の造立と考えられて居ますが、大和地域で多く見られるこうした石龕仏も京都地域では珍しい。

撮影2012.10.7


大山崎町 山伏塚の大日さん

2015年02月17日 | 石仏:京都

一見、大日如来なのか?阿弥陀如来なのか?判然としない古石仏・・・・・大日にも阿弥陀にも見える。

阪急京都線「西山天王山」駅を線路沿いに約500m程大阪寄りに行くと、田畑の中にこんもりとした緑の杜が有り・・・・・

中に簡素な横長の覆い屋が有り、大小二体の石仏が祀られて居る。

見たところ、大日如来の宝冠なのか?阿弥陀如来の肉髻が大きく盛り上がって居るのか ??それではとちょっと失礼、涎掛けをたくし上げると・・・

蓮座に結跏趺坐・・・・・早速手印を見るが、胎蔵界大日の法界定印を組んでいるのか?弥陀定印を組んでいるのか?やっぱり判然としない。

まあ、「山伏塚の大日さん」と呼ばれて居るようだからそれに従っておきますが・・・・

 因みに高さ約1m、幅広で頭の丸い舟形光背をを負い、鎌倉後期の造立だと言われて居ます。

この石仏に纏わる昔話は・・・ 

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その昔、時代は江戸末期の天保(1830~1844年)のころ。円明寺村(大山崎町円明寺)に農業を営む兵左衛門の家が火事で焼けた。

兵左衛門は、どうして家を直そうかと考えあぐねた末、先祖代々耕してきた山伏(円明寺の小字名)の土地を、同じ村の弥衛門に買ってもらうことにした。 

その次の日からだ。弥衛門の夢まくらに大日如来が立つようになったのは。そして如来は呼び続けた。

 「兵左衛門、早く帰してくれ」 兵左衛門が手離した土地の中に“山伏の塚”という小さな森があり、この中に大日如来地蔵がまつられていたのだ。 

気の毒な弥衛門。この大日如来の毎夜の出現に気味悪くなって兵左衛門と相談、「たたりでもあれば恐ろしい」と、結局、元どおり兵左衛門の所有地として、この大日如来地蔵を守っていくことにした。 

この「兵左衛門早う帰して」の話は、やがて村中に広まった。その後、この森の神木といわれるカキの木を切り取ったため、災難にあったという話や、また、不治の病にかかり医者からも見離された村人が大日如来に日参、おかげで完治した話などが伝えられた。

村人の間では 「粗末にするとたたりが恐ろしいが、大切にまつっていると、願いをかなえて下さる」と、この“山伏の塚”を訪れる人が増え、いつしか“大日さん”の呼び名で、村の地蔵さんとして親しまれるようになった。

因みに小石仏はこれ・・・

撮影2012.10.7


大山崎町 宝積寺の九重石塔/他

2015年02月16日 | 石仏:京都

 

今にも倒れて来そうな程、弓なりに建つ九重の石塔。

天下分け目の天王山、その中腹建つ宝寺(たからでら)と呼ばれている真言宗智山派寺院。

<宝積寺三重塔(重要文化財、桃山時代 慶長九年 1604年建立、本瓦葺、高さ19.5m>

山崎の合戦の折には羽柴秀吉が一時この寺を陣所とし、山崎の合戦で亡くなった人を弔うため一夜で建立したという「秀吉一夜の塔」は良く知られている。

そんな本堂に向かって左脇、見るからに不安定な石塔が建っている。

宝積寺は、奈良時代 神亀四年(727)に聖武天皇の勅願寺として僧「行基」開創・・・、石塔には聖武天皇御塔の伝承がある。

 九重石塔(町指定文化財)は、元、五重であったといわれ・・・良く見ると上層三笠は確かに違う、そう言えば三層目の屋根石も明らかに違う様な気がする。

初層軸部には四方仏・・・正面には二重光背形を彫りくぼめ、中に薬師如来坐像を半肉彫りする。

四層目軸部には仁治二年 (1214)の銘があり、鎌倉時代中期の造立。

一方こちらは境内脇、「秀吉一夜の塔」近くで見掛けた石造物。

小石仏は殆どが室町後期から・・・・

 江戸初期までの物が多いような気がします。

眼下に木津川、宇治川、桂川の三川が合流して淀川と成る景観を見渡せる。

撮影2012.10.7


長岡京市 弥勒谷十三仏

2015年02月15日 | 石仏:京都

柳谷参詣道から、古刹「乗願寺」への岐れ道角に有る石仏。

道路際の岩斜面に弘法大師像を中央に置き、その背後に苔むした石仏を配している。

僕達が見慣れた十三仏は大抵一石に十三仏を纏め、種子か小さな像で3列4段に並べられてる物が多い・・・・・。

しかしここでは十三仏の一尊ごと、単の石仏として表されて居る。

しかしこれがどういう並びに成って居るのか?まとわり付く苔と、石仏には何でも涎掛けと言う庶民信仰のおかげで全く像容も覚束なく、何が何様やら???

中央は不動明王??、まあしかし、石仏として取り上げるには余りにも大量に類似仏の多い江戸期の石仏さん・・・・石仏の有る景観としては楽しめるかも??。

撮影2012.10.7


長岡京市 浄土谷の大日如来

2015年02月14日 | 石仏:京都

京都西山山間部、柳谷観音道途上、山中に有る石仏さん。

長岡京市街から約15分、4.5km、柳谷道から分かれ、古刹「乗願寺」への道をしばらく行くと左手に、それと判る案内板が立っている。

竹藪道を100m程も歩けば、竹藪斜面に自然石と笠石を組み石龕を設け・・・

中に智挙印を組む大日如来を安置している。

大日如来石仏は座高63cm、背部に光背面が有った痕跡がのこって居る。

膝から下は土中に埋まり確認できないが、蓮華座が有るらしい・・・・。

智挙印を組み結跏趺坐する金剛界大日如来石仏など奈良文化圏では見たこともないが・・・・流石にここは京都文化圏。

全体の像容から鎌倉期の造立・・・・・・・、もう全く人跡も途絶えた藪中で人待ち顔の大日如来でした。

撮影2012.10.7