愛しきものたち

石仏、民家街並み、勧請縄、棚田景観、寺社、旧跡などが中心です。

福井県南越前町二ツ屋(ふたつや) 地蔵石仏/他

2012年03月31日 | 石仏:その他

この奥二ツ屋のすっかり寂れた日吉神社へ巨樹の撮影に来て偶々お目に懸かった石仏さんです。

敦賀湾より北陸自動車道がトンネルで抜ける今庄までを旧国鉄北陸線の軌道上に造られ、深い山中を峠道で抜ける県道207号線沿いの南越前町二ツ屋集落

集落のずっと奥、今は離村してしまったかっての二ツ屋集落跡地、墓場入り口と思しき道路脇に立っていた石仏さんです。

高さ1.5mばかしの舟形状自然石の表面を整形、大きく拙い蓮弁を線彫りで表し、その上部に舟形を彫下げ、像高60cmばかりの合掌地蔵菩薩立像を中肉で刻み出している。

形式化、意匠化してこじんまりまとまった衣文、顔容も穏やかで文政六年銘を持つ江戸後期の石仏ながら、この素朴な感じは景観と共に捨て難い。

集落への入り口県道207号線新道交差点辺りで見かけた地蔵堂には・・・・

像高1mばかしの錫杖宝珠の定形地蔵・・・・、永らく近くで寝ていたものを起こして来たとか??

まあ近世のものでしょうが全く傷みも無く良く出来た石仏さんでした。

こんな雪深い越前山中の小さな集落でこうした石仏さんに出遭えるなど思いもよらなかったけど。

その昔この道筋は越前から近江に抜ける冬には行くに帰るに・・・・豪雪の道。

撮影2009.11.7


佐賀市 無量寺の六地蔵石幢

2012年03月30日 | 石仏:九州

こちらは偶々佐賀県庁近くの国道264号線を走っていて見かけたものです。

県庁から東へ約1km、国道264号線沿い北側に有る白壁土塀に囲まれた無量寺山門、両側に建つ六地蔵石幢です。

石竿は角柱ですが地中まで単体で埋まっています。

向かって左側に建つ六地蔵石幢・・・・銘は刻まれていますが紀年は確認できません。

こちらは右側の六地蔵石幢、円形台座に円形笠石、その上に宝珠 、総高約2m強。

向かって左の六地蔵・・、像高約35cmばかり、ここでも深く刻み出し丸顔。

こちら向かって右側・・・、全く同時期、同作者の物だと思われる像容。

撮影2011.12.17


佐賀県吉野ヶ里(よしのがり)町 妙雲寺六地蔵石幢

2012年03月29日 | 石仏:九州

先日紹介した伊賀鍛冶屋墓地の六地蔵石幢のスタンダードなものは、九州佐賀方面に数多く見られ、佐賀型とか肥前形六地蔵石幢と呼ばれている。

九州方面に出かけたとき偶々2~3見かけ、撮影してきたものです。

吉野ヶ里遺跡の発見で一躍有名に成った吉野ヶ里町、遺跡からは2~3km南方、吉野ヶ里幼稚園傍の妙雲寺門前で見かけた六地蔵石幢です。

<向かって左側の六地蔵石幢>

門前には左右両側に一基づつ建ち、畿内で良く見掛ける灯籠形の六地蔵石幢とは少し趣を異にしている。

<向かって右側の六地蔵石幢>

竿石は角柱の二本継ぎ、その上に丸い台座、円筒形の龕部に六地蔵、笠石は六角で上には宝珠を冠せてある。

現地説明板に拠ると向かって右側 の石幢は明応10年(1501)室町中期の造立。

それ程古くも無いが、深く彫りだされて居るにも係わらず、顔部は溶け出したかの様に爛れています。

柔らかい阿蘇凝灰岩の石質のせいなのでしょうか??

向かって左の石幢は文亀三年(1503)、右側のものの2年後に造立。

こちら見事に六地蔵が残っています。

像高40cmばかり、丸彫り程に深く彫られた素朴な地蔵が見事です。

この感じは畿内で見る事は出来ないものです・・・。

撮影2011.12.17


伊賀市鍛冶屋(かじや)  墓地六地蔵石幢

2012年03月28日 | 石仏:三重

石幢と言えるかどうか?? 稚拙といえばあまりに稚拙な六地蔵。

先日紹介の古山界外集落の隣村、鍛冶屋集落の墓地で見かけた妙な石仏と言うか?石幢と言うか??・・・、とにかく石造物です。

古い集落なのでしょう村はずれの小高い丘に捨て墓があり、その棺台を前にしてこの六地蔵石幢?が建っています。

畿内では灯籠型が多く、こちらは殆どお目に掛からない円筒形(縦卵型)の龕部を持っています。

 

九州地方では良く見かけ、このような形が主流のようですが・・・

六地蔵の像容が余りにも稚拙で素朴すぎて一寸笑ってしまうほどですが、その分墓地なのに温もりを感じてしまいます

撮影2011.4.27


伊賀市古山界外  双体地蔵磨崖石仏/他

2012年03月27日 | 石仏:三重

先日紹介の光明寺裏山に有り、紡績地蔵とも呼ばれる双体地蔵磨崖石仏です。

裏山と言っても光明寺境内から直接上がれるでもなく、住職によく訊ね、山詣道を教えてもらった。

山裾を大きく迂回し、西北山裾の民家脇から続く参詣道を登ること約15分ばかり・・・簡素ながらも新しい覆い屋を掛けられた丸い大石が有る。

大石は幅、高さ共に約1.5m足らず、正面のほぼ中央に約70~80cm角の方形を浅く彫り沈め、中に定形地蔵と合掌地蔵の二体を薄肉で刻み出している。

像高約60cmばかり、二体の顔の間にはキリークを彫り沈めている。

像容も定かでは無く、稚拙な彫りの江戸期中期の像立だろうか??

昔、山姥(やまんば)がこの石のたもとでを紡ぎ、里人に教えたという言い伝えが残るという。

傍らにはこんな地蔵石仏と・・

自然石に単純化された線彫りの五輪板碑。

この地には一体何が在ったのだろうか??、光明寺の関係だけではないような・・・。

撮影2011.4.17


伊賀市古山界外(ふるやまかいげ) 光明寺六地蔵石幢/他

2012年03月26日 | 石仏:三重

先日紹介、安場(やすば)の隣村、古山界外の天台宗真盛派の寺院に有る石幢、石仏の紹介です。

直ぐ近くにはあの書家の大御所、「榊獏山さん」の屋敷もあって知る人ぞ知る、鄙びた景観の残る伊賀の里山です。

集落の南外れ、光明寺の山門を潜った本堂の前に有る六地蔵石幢は総高約2.5m、六角形の火袋部の高さは約35cm。

その一面毎に像高約24cmの各地蔵菩薩立像を半肉彫りで配している。

南面よりの火袋部・・・受台には各面に其々穴があり、供花や線香を供えるためのものなのだろう・・・

現在灯明は写真のような形で供されている。

南西面から・・・・、ここからそう遠くない美杉村上多気や曽爾村に有る石幢にも共通するものが有る。

本堂裏手に有る地蔵石仏は総高約1.2m、像高約80cmの定型地蔵、四等身と頭デッカチでローカル色豊かな像容ですが・・

天文二十三年(1554)室町末期の刻銘があります。

<北西面から・・>

六地蔵、特に錫杖地蔵の像容と天文二十三年の地蔵とはよく似ていることから、同一作者に依る物ではないかと言われています。

撮影2011.2.26/2011.4.17


伊賀市安場(やすば) 黒岩の磨崖仏

2012年03月25日 | 石仏:三重

原始巨石信仰が引き継がれ、近世に成り石仏が刻まれ依り身近な信仰対象となって、大切に祀られている。

伊賀市街から名張に抜ける国道368号線(上野名張バイパス)のちょうど伊賀市と名張市の境界近く、安場(やすば)集落南外れの林の中にこの黒岩の磨崖仏が有る。

道路脇の参道から直ぐに少し拓け、巨大な二個の球石に簡素な覆屋が掛けられ、其々に石仏が刻まれている。

参道脇左手のまん丸オニギリ状巨石には大峯山上三十三度と刻まれ、脇には薄い浮き彫りの中、稚拙な線彫の「役行者」像・・

大峯山供養塔なのだろう・・、右脇の四角い彫窪み供台なのだろうか??10円玉が2~3個無造作に置かれている。

真正面奥のまん丸巨石にも・・・・・大きい石に似合わず小さな小さな石仏さん。

周りを少し舟形光背状に彫り下げ、20cmばかりのこけしのような仏を刻んでいますが・・・、地蔵さんやら阿弥陀さんやら???

それでも、鄙びた里山らしい素朴な野の仏も良いもんです。

撮影2011.2.26


平群町平等寺 辻堂地蔵石仏

2012年03月24日 | 石仏:奈良

平群の旧村、平等寺集落、西入口辻堂に立つ地蔵石仏です。

平群町は生駒山系と矢田丘陵に挟まれ、大和川の支流滝田川 (たったがわ)沿いに開けた歴史深い里山地域ですが、最近は宅地開発も激しく新旧入り混じった町です。

そんな中、旧い集落の景観を良く残した平等寺集落はあの法隆寺と矢田丘陵のなだらかな山を挟んで西側の山裾に位置しています。

蔽い屋根だけの辻堂に立つ石仏は総高162cm、舟形光背を背負い、右手に錫杖を持つ定形の地蔵菩薩立像。

光背頂部には月輪内に「カ」の種字を配し、像高110cmの中肉彫。

像容は良くまとまり、穏やかな童顔ながら眼光には鋭いものがある。

天文二十四年(1555)七月十五日、室町後期の像立 。

この直ぐ近く隣村の椿井集落には鎌倉中期の「椿井(つばい)線刻如来笠石仏」も有る。

撮影2006.8.27


旧加茂町岡崎 地蔵石龕仏・他

2012年03月23日 | 石仏:京都

南山城、旧加茂町木津川畔の小高い丘に有る岡崎集落、そんな共同墓地にある石仏さんです。

現在木津川市の一部分になっている旧加茂町は石仏の里として良く知れ渡っているが、岡崎集落の有る 瓶原(みかのはら)地区は、また往古、恭仁京(くにきょう)と言う短命ながらも我が国の中心地で裳あった土地柄。

万葉集に残る「みかの原わきて流るる泉川いつ見きとてか恋しかるらん」は余りにも有名でこの地域を訪れる歴史ファンも多い。

国道163で木津川を遡り恭仁京跡を過ぎた辺りで右手木津川方面へ左折すると右手目の前に見える小高い丘が岡崎の集落。

丘の頂上辺りに公民館と共同墓地があり、地蔵堂の中にこの石龕仏が祀られています。

床に足元や基台は隠れていますが、この手の箱型石龕仏としては中々立派なもので、総高約1m以上もあろうか・・・。

笠石も良く残り風化磨耗も少なく、像容も優れ南北朝頃の造立だと考えられています。

少し笑みのこぼれる顔つきがなんとも印象的な石仏さんです。

 

傍らのコンクリートブロックの祠には室町期の造立だと思われるこんな地蔵さんも・・・・

こちら風化磨耗激しくツンツルテン、涎掛けを外すとあの白っぽい虫の卵が一杯で気持ちが悪い。

撮影2006.9.18


桜井市瀧蔵 十三仏板碑石仏

2012年03月22日 | 石仏:奈良

生駒山系の奈良西部地域や大阪河内方面では良く見かける十三仏も大和高原地域ではそう多くはない。

瀧蔵は前回紹介の笠より一山東に超えたやっぱり山中に有る鄙びた集落・・・・、その地の瀧蔵神社は長谷寺の奥の院として、又境内に有る権現桜も良く知られている。

集落の東外れ、小字峠の辻には辻堂があり十三仏板碑石仏が祀られて居る。

高さ約1.2m足らず舟形板碑に15cm足らずの十三仏を三体ずつ四段に配し、最上部に天蓋を持つ虚空蔵菩薩を配した通常型。

二段目と三段目の間で断裂、一部剥離もあり気の毒な状況ですが、永禄7年(1564)八月十五日の銘が確認され室町後期の造立。

この地は長谷寺、小夫・福住、室生へと続く古道の重要な三叉路であったようですが、現在この辻堂だけがその面影を伝えているようです。

でも十三仏と古道の辻堂って馴染まないような??

撮影2006.4.15


桜井市笠 笠山荒神閼伽井(かさやまこうじんあかい)不動明王石仏

2012年03月21日 | 石仏:奈良

早い話がもう6年もの間僕のパソコンで居眠りさせてしまった石仏さんです。

取りあえずUPして置かなきゃ又忘れてしまいそう・・。

僕の住む京都山城では何処に行っても竈、火伏の神は愛宕神社と決まっているが、奈良地域ではそれが笠山荒神と変化する。

箸墓の近く、巻向から県道50号線で三輪山、巻向山の谷間を東進する事約20分足らず、田舎感の強い大和高原にあってもかなり辺境、笠荒神前駐車場に着く。

最近UPされた写真などを見ると整備が行き届き、この写真とは随分とイメージも変わっているが・・・・、参道脇の閼伽井には小さな祠があり、一体の不動石仏が祀られている。

6年前はこんな感じのブロック囲いの簡粗な祠に祀られていましたが、現在もっと立派なお堂になっているようです。

不動石仏は総高1.3mの舟形光背を削りだした花崗岩に、像高約1m、一寸力強さに欠ける不動明王を中肉彫で刻み出している

弘法大師空海がこの閼伽井で水行をされ、此処に不動明王をを祀ったと有るが・・・、それはこの不動石仏ではない

この石仏は形式化が進み個性の無くなった室町後期の造立で全く時代が合わない・・・・・それでも他には在りそうにもないけれど。

撮影2006.3.25


奈良県桜井市 谷の勧請縄

2012年03月20日 | 勧請縄:山の神:野神:人形道祖神

周囲の都市化と共に集落の結界も判別とはしないがこの勧請縄が唯一それを示しているようです。

現在すっかり歩道となってしまった旧道だと思われる一角に六字名号と小石仏の地蔵堂が有り、傍らに建つ金属ポールと、歩道を挟んだ勧請木にシンプルな勧請縄が掛け渡されている。

国道165号線、橿原市方面から桜井市に入って直ぐ、谷信号の次の信号を右折すると、左手歩道上に勧請縄が掛けられているのが見える。

ポプラの樹からポールまで約6~7m、太縄の中央には3本足の小勧請・・・・。

小勧請の縄には三段に分けて常緑樹の小枝が結わえられ、御幣も添えられている。 

ポプラ勧請木の根元には、籾付稲藁、青竹御幣、常緑樹の小枝・・・それらが荒縄で結わえられている。

場所や飾り物から道切りと五穀豊穣を願って掛け渡された縄なんだろう・・・。

周りの景観や騒々しさは都市化の波に飲み込まれてしまっていますが、何とかこの勧請縄だけは残って欲しいものです。

撮影2012.3.3


奈良、天理市福住町 南田(みのだ)の勧請縄

2012年03月19日 | 勧請縄:山の神:野神:人形道祖神

本来掛け渡されるべき谷を名阪国道の高架橋に乗っ取られ、傍らに追いやられ形だけ残され続けられてる勧請縄。

此処は名阪国道福住IC依り東へ直ぐの谷間に細く軒を並べる南田(みのだ)集落の北入り口に当たる場所、空撮地図を見てもらうと解るように南田集落への入り口付近を名阪国道が高架橋で横切っている。

元々名阪高架橋の有る位置に高く掛けられていたようですが、国道側からの苦情でこんな片隅にこんな状態で置かれているようです。

高みに掛け渡されると脇見運転で危険だからと言う理由なのだろうが、高架橋に目隠しすればそれで済む事なのになあ・・・。

仕方なしに高みに掛け渡されずに丸められ、低い木の枝に吊り下げられた勧請縄です。

もうこんな形になって永らく経つそうですが、偶々通り掛かったお年寄りは・・・・、「もうこんなになってしまったらお終いですわ、縄の綯い方も間違いなら赤い南天の実も要らないものやのに」と・・・・。

間違いなく伝えようとしてもそれが正しく伝わらないことも一杯あるし、まあ形だけでも残ってるほうが有り難いけど・・・、

もうこの福住地域にはこの縄だけしか残って無いようです。

撮影2012.3.3


橿原市太田市(おだいち)町 天満神社の勧請縄 

2012年03月18日 | 勧請縄:山の神:野神:人形道祖神

見事な無患子(ムクロジ)と椋(ムク)の勧請木に長く掛け渡された勧請縄です。

奈良、国中(くんなか)平野の南東寄り、橿原市の太田市(おだいち)町は大和川の支流寺川そのまた支流の鏡川(かがり)川が集落の東側を流れる田畑の中に有る小さな集落です。

集落の北端に村の鎮守、天満神社がすっかり木立の少なく成ってしまったような、がら~んとした明るい境内に建って居ます。

石段の奥、境内入り口に勧請縄は掛け渡され、石の鳥居はその奥にある。

道路を挟んだ向こうの空き地にも同じような椋の木が有るのがどうも気に掛かる・・・、昔は道路を挟んであの椋の木との間に掛け渡されていたのではないだろうか??

掛け渡された太縄は約10m以上も有ろうか?中央には妙な形の二つの飾り勧請が吊り下げられている。

大和地域では良く見かける類で藁房は見たとおり♂のシンボル、傍らの小枝の塊は♀のシンボル。

見事なタマタマとモジャモジャの女性自身・・・・実にあっけらかんと白昼堂々ぶら下がっています。

命の再生と五穀豊穣を何よりも願う農民の心が今に伝わる素朴な庶民信仰なのだろう。

撮影2012.2.26


奈良県天理市 長滝町の勧請縄

2012年03月17日 | 勧請縄:山の神:野神:人形道祖神

天理市長滝町、集落の入り口に掛け渡された勧請縄です。

今は名阪国道が出来、余り利用されなくなった旧国道25号線、天理市街より東方、天理ダムを越え、大和高原域入り口に有る小さな山間集落の長滝町。

旧国道25号線より谷沿いに北方へ約1kmも登り詰めると長滝集落 ・・、集落の入り口と思しき辺り、両側の木立から木立まで、細いながら長い勧請縄が掛け渡され、僕の好きな景観をかもし出しています。

縄はシンプルで3箇所に藁房を下げ、樒の小枝を付けて居るだけの単純さ。

まさしく道切り・・、これから先邪悪なものは通せんぼ・・、と云わんとばかり・・。

撮影2012.3.3