愛しきものたち

石仏、民家街並み、勧請縄、棚田景観、寺社、旧跡などが中心です。

平群(へぐり)の石仏

2006年12月31日 | 石仏:奈良

前回紹介した、奈良県平群町の生駒山系麓の各集落は特徴有る小石仏が多いことで知られている。

北福貴の集落に国の重要文化財に指定されている藤田家住宅の前を通る旧街道の道路わきには北福貴の地蔵堂が古びたたたずまいを見せていて室町期の石仏が並んで立っている。

中央には、自然石の正面を舟形に彫りくぼめ、半肉彫りで特徴のある阿弥陀三尊を置いている。

両脇には、これも室町期の優しい地蔵石仏が置かれていて、懐かしい辻の地蔵さんという感じのする石仏です。

これより少し山手に登った惣墓の小石仏集積の中央にも良く似た阿弥陀石仏がありました。

これより谷ひとつ南側の信貴畑勧請の地にも、地蔵堂が有って舟形十三仏板碑 天文二十一年(一五五二) と舟形如来座像 紀年なし (室町前半期頃)が並んで立っている。

十三仏には連続した赤い小さな涎掛けがかけられていて、信仰の厚さが伺われる。

しかし、地蔵堂の周りには鳥避け用ネットが張り巡らされて、囚われの身のような石仏です。

こうしておかないと野鳥がお供え物を喰いちらかしてしまうそうです。

また、この地は勧請の地と呼ぶように、勧請場でもあり、地蔵堂の横の木にも勧請縄が張られている。

ここから少し登った処にも小さなお堂が有って、タル地蔵と呼ばれている舟形十一面観音立像( 明和五年.1768)が油壷台座の上に立っているが、付近の道路や建物がすっかり近代化されてしまって、のどかな雰囲気とは程遠い景観になっているのはいただけない。

ここから直ぐの広域農道を越え福貴畑の鎮守、杵築神社を訪ねて見ると、拝殿に続く石段の左手の小さな祠には山形頂部を持った特徴有る六体地蔵が祀られている。

人呼んで 十一面観音 六地蔵碑・永禄十一年(一五六八)という、おにぎり形の正面下部に四体の地蔵、上部中央には十一面観音を置きその両側に各1体の地蔵菩薩を配していて非常に珍しい。

撮影2006.6.28

MAP

 


平群町(へぐりちょう) 椿井(つばい)線刻如来石仏

2006年12月29日 | 石仏:奈良

椿井線刻石仏のあるは、奈良県生駒郡に属していて、西の生駒山地と東の矢田丘陵の間を流れる竜田川沿いに開けた盆地で、武内宿禰を祖とする、奈良時代の有力な豪族・平群氏が本拠地としたところです。

平群の矢田丘陵の山裾に有る椿井集落の中ほど、旧道脇にこの笠石仏と銘号碑が並んで立っている

笠石仏は総高約1.5m角柱状花崗岩の正面の枠取をして壷形光背を彫り沈め,蓮華座に立つ如来像を線彫りで彫り刻んでいる。

長い年月に多くの信者が像の正面を撫でさすり、磨耗がが激しく、像上部は殆ど明確には解らない状態です。

また像の周りには15尊の梵字仏画刻まれているらしいがまったく解らない状態でした。

下部の衣文の流れが以前紹介した一針薬師笠石仏に良く似ていて鎌倉中期ごろの作風を表しているといわれています。

本来の像容は、はっきりしませんが、地元ではミロク(弥勒)と呼んで信仰されています、しかし像様などから薬師だとする説があります。

胸の付近で真二つに折損しているが、昔、牛馬をつないでいて引き倒され手折れてしまったという事のようです。

石仏の背後には、この集落の旧家の 白壁土塀が在って、懐かしい辻の石仏と言った風情を醸し出している。

撮影2006.8.26

MAP


旧加茂町 奥当尾の石仏

2006年12月27日 | 石仏:京都

岩船寺へ続くバス道を、当尾小学校を越えてすぐ、勝風口のバス停を左手山の方へ入っていく細い道を暫く進むと 勝風の集落が見えてくるが、道なりに進むとやがて杉木立の中に入る。

杉木立の中、右頭上に小さな青地蔵の表示板が見える、ただし余程注意深く見ていないと見過ごしてしまいます。

地蔵自身も杉木立の下草に隠れるように立っています。

なぜ「青地蔵」なのかは一目見るなり解ります、青っぽい石の地蔵です。

地元では「北向き地蔵」と呼ばれているそうで室町期の像立、仏像が北向き立っていることはひじょうに珍しい事だそうです。

この先を少しそのまま進むと左手の小さな広場らしき奥のほうに赤地蔵と呼ぶ地蔵石仏が立っています。

ここは勝風墓地への入り口にあたる場所で、この地蔵石仏は赤っぽい花崗岩で、永禄八年(一五六五)像立、どちらが先に色の名前で呼び始められたのだろうか??

この先左手の勝風墓地には「迎え地蔵」元亀二年(一五七一)が、半分草むらの中にうずもれて立っています。

赤地蔵の作者と同じなのか瓜二つの顔をしています、もう忘れ去られたような風情ですが??.

墓地から戻って道なりに進み、つぎの三差路を左手に進んで行くと大畑の集落に入る。

集落は道路の下手に肩を寄せ合うように建ち並んでいるが、左手山手に集落の会所と、白山神社の小さな祠が有る。

この入り口に地蔵堂が建っていて大きな地蔵石仏が祀られている。

細長い舟形光背を背おうが、自然石の形をそのまま使っているのか?妙な形に削れているのがちょっと不思議な気がします。

見た通りのペンシル型地蔵石仏で室町中期の永享十三年(一四四一)の像立、像高約2mとスマートな姿をしています。

撮影2006.12.01

MAP


奈良市 忍辱山(にんにくせん)墓地の石仏

2006年12月24日 | 石仏:奈良

前回紹介の円成寺の道路を挟んで対面側の少し奈良寄りのところに採れたて野菜の直売所があって、そのてまえの山道が旧柳生街道、奈良春日の原生林を越えて奈良市内へと続くハイキングコースにもなっている。

この山道に入って直ぐのところに古びた石仏が木の根っこに凭れかけている、いわゆる忍辱山墓地のお迎え地蔵さん。

天文6年(1537)の銘が入っています。

もうた立っていることにすっかり疲れ果てたのか?木の幹にしっかり全身を預けて居るようです。

左手の道脇には6体地蔵さんが、その手前を上のほうに登っていくと古びた墓地が広がっています。

墓地の中ほど、墓石に隠れるようにして一石に九尊の阿弥陀を浮彫にした九尊阿弥陀石仏があって永禄元年(1558)の建立、

直ぐそばには、一石七尊如来石仏、元亀二年(1572)建立もあって、石仏としては余り見かけることの無い珍しい物です。

また、少し奥に進むと大きい五輪塔がでんと座っている、総高2.6m、鎌倉期の元亨元年(1321)の建立、堂々たる五輪塔で、 大和系の複弁式反花座と二重の基壇を設けていて、国の重要文化財に指定されている。

他にも室町期の小石仏がそこかしこにあって、この墓地の古い歴史を物語っている。

撮影2006.11.8

MAP


奈良市 円成寺(えんじょうじ)の石仏

2006年12月22日 | 石仏:奈良

奈良から柳生へ向かう道筋に忍辱山(にんにくせん)円成寺(えんじょうじ)という古刹があって、かの運慶が25歳頃に刻んだ第一作の 国宝・大日如来像が安置されていることで知られている。

道路左側の木立ちのなかに浄土式庭園の小さな池があり、桧皮葺きの楼門、舞台付寝殿造りの阿弥陀堂(本堂)は共に重要文化財の遺構であり、小さな春日堂・白山堂も日本最古の春日造り社殿として国宝に指定されている名刹です。

本堂に向かって右側の小さな社の奥に、三体の石仏が正面を向いて並んでいる。

右から、阿弥陀坐像、地蔵立像、そして左には、ほぼ丸彫りに近い地蔵坐像石仏の三体で、特に左端の地蔵の顔はおどけているようにも見えて親しみやすい顔をしている。

右端の阿弥陀坐像石仏は舟形光背を背負う定印の阿弥陀で、頭上の光背にキリークの梵字が刻まれ、二重連弁の上に座す天文十九年(一五五〇)、室町末期の像立。

中央の、地蔵立像石仏には永禄元年(1558)、左端の地蔵坐像石仏も同時期の像立だと考えられています。

左端の阿弥陀が一番大きくて約1m強、ちょっと苦笑いしているような面相、500年ばかしもこうして3人1組で立っていると苦笑いでもしたくなるのかな??。

撮影2006.11.12

MAP


旧加茂町 千日墓地の石仏

2006年12月20日 | 石仏:京都

もうちょうど1年前、念願の千日墓地に行ってきました。

12月19日、2~3日前に降った雪が薄っすらと残る、山里の道をデジカメ片手に歩きました。

当尾小学校のある辻の集落から、岩船寺方面に向かって最初の辻を右手に、チョッと下り坂、直ぐに道路につきあたる。

その右手に小さなお堂があって、中に不動と地蔵の刻まれた磐がある。

この辺りにはそこかしこに、こうした石造仏を見ることが出来る。

突き当たりの道路は車道で地元の人の生活道路で車でもOK

この道路を右手にとっておよそ10分程度で左手に石碑のたった三叉路に出会う、左手に小川も流れているので間違うことはない。

この三叉路を左手側に進んでいくと小さな橋があって右手おくの空き地に小さな地蔵石仏や無縁石塔などが集められている。

ここから少し上り坂になっており、歩く事10分ばかしで待望の千日墓地に到着。

一目見るなり、この墓地の古さと言うか特異性というか、田舎に住み慣れたぼくの目にもかなり特異なものとして写った 。

墓地正面の石積み階段の奥に石の鳥居、其の直ぐ脇には十三重の石塔永仁六年(1298)、これもかなり大きく立派な物で ,鎌倉期のもの、基壇の四方仏もなかなか立派な物で、ただの墓地の物とは思われません。

石塔の先右手には双体地蔵石ガン仏、笠石も完存していて南北朝時代 室町期像立、このての物としてはかなり大きく立派な物です。

また、基礎部分には、臍穴があって下は扉がつけられていた物だと考えられています。(笠石も現存していてほぼ完璧)

「種子十三仏板碑」も 永禄三年(1560)

「受け取り地蔵」は天文十七年(1548)

六地蔵と共に「六字名号板碑」 永禄六年(1568)と「阿弥陀石仏」 天正八年(1580)

他にも見るべき石仏が多くあり、石仏ファンならずとも嬉しいところです。

但し墓地を忌み嫌う人にはオスメできません。

撮影2006.12.19

MAP


旧加茂町 森八幡の磨崖石仏

2006年12月18日 | 石仏:京都

JR加茂駅から岩船寺に向かうと、新興住宅街から左手のほうに入っていくとやがて森集落へはいっていく三差路に出る。

集落の一番奥まった辺りに小高い山があって古めかしい八幡宮が鎮座している。

鳥居をくぐって急な石段を登って、社殿の右奥に入っていくと、高さ1mばかしの自然石が2個並んで建てられている。

自然石に輪郭を彫り込み、表面を磨いた中に像高1mの線彫り毘沙門天と不動明王を刻んでいる。

毘沙門天、不動明王ともに、正中3年、(1326)鎌倉期のもので、毘沙門天が刻まれている磨崖などは見た事が無い。

いつも見慣れている石仏とは、ちょっと風変わり、毘沙門天と不動明王は仏法の守護神であると同時に、鬼門の守護神として信仰されています。

本地垂迹思想から八幡神随神の本地仏として造られたらしい。

撮影2005.12

MAP


旧加茂町 長尾の阿弥陀如来磨崖石仏

2006年12月14日 | 石仏:京都

前回紹介の、たかの坊地蔵から、浄瑠璃寺方面に少し上っていくと道路が大きくカーブしている辺り左手のガードレールに長尾の阿弥陀如来の表示板がある。



石仏自身は対面する山の斜面の上方に有って、車で走っていると間違いなく見逃してしまうような頭上位置にあります。


長尾の阿弥陀如来磨崖石仏といわれている石仏で、山の崖からせり出した瓜型の高さ2mばかしの石の正面を上方の角を取った角型に彫りくぼめ、大きな蓮弁の上に座す、阿弥陀如来を半肉彫りにしている。



像高76cmの定印を結ぶ阿弥陀如来で、徳冶2年(1307)の銘があり鎌倉期の像立、磨崖石仏であるのに笠石を頭上にいただく珍しい姿です。


像の頭をかすめて斜めに大きな割れ目が走っていているのが気にかかるが、割れて落ちてくるという事はなさそうです。


像立当時はどのような状況だったのかはわかりませんが、今見ている限りでは何故あんな場所に石仏をと考えてしまいます。



この石仏の少し左側の道路わきには割れてしまって一部無くなってしまった三尊石仏?がある。



中尊は如来のように見えるが定かではない、しかしこの石仏にも花が手向けられ近所の人たちが大切に信仰しているのがわかる。


兎に角この、当尾の地は石仏とは切り離せない土地のような気がする。


撮影2006.12.01


MAP


旧加茂町 たかの坊地蔵

2006年12月11日 | 石仏:京都

前回紹介の ツジンドの焼け仏から、バス道を浄瑠璃寺へ向かって車を走らせると右手の一段高くなった所に西小会所があって小さな広場を前にして、小石仏が一列に並べられているのが見える。

その中で一体だけ、ひときは大きな舟形光背を背負った地蔵石仏が有って、「たかの坊地蔵」と呼ばれている。

詳しい資料が無いのでよく解りませんが、錫杖を持たない矢田型の地蔵石仏で、大きな舟形光背の中に半肉彫り、風化がかなり進んでいるのと、立っている場所も木立が生い茂って居て暗く、面相もはっきりとしません。

像高約1m、鎌倉期の像立だと言われています。

ここより少し行くと西小墓地の無縁石仏群画道路右手に見えてくる、雑木林を背負って野の仏としての風情が良いが特記すべきものは見つからない。

西小墓地の入り口には古風な五輪塔が左右に分かれて一基づつ立っているが、これは、重要文化財に指定されています。

また墓地の道路を挟んで地蔵石龕仏と銘号碑当が5~6体並んでいるのが見える。

撮影2006.12.01

MAP


旧加茂町 ツジンドの焼け仏

2006年12月09日 | 石仏:京都

京都方面から、24号線を南下して、加茂町の当尾を訪ねるには木津町の市坂より左折、加茂町へと向かうが、加茂町にはいって直ぐの浄瑠璃寺口の信号を右折して当尾方面へと入っていく。

当尾への幹線道路であるこの通りに最初にみえる集落が西小、幹線道路より集落に入っていく旧道の細い坂道を少し登ると,この石仏に出逢う。

両脇の椿の樹に囲まれるようにして、焼け爛れて大きく割れ目の入った姿が痛々しい。

ツジンドは西小、大門、高田、尻枝への道の十字路にある辻堂からきたもので、ツジンドの焼け仏と呼ばれていますが、昭和二年(1927年)九月に消失し、見るも痛ましい焼け仏になったようです。

石仏は阿弥陀三尊だったらしく,中尊には残っている指の型から阿弥陀如来立像、左脇侍は長谷寺形十一面観音、右脇侍は地蔵の両菩薩像であると推定されて居るようです。

像高1.67m、正面は赤く変色、焼け爛れていて、実際には目視で殆ど見分けることは不可能な程痛んでいます。 

銘文も残っており、元亨三年(1323年)六月八日造立とあり、鎌倉末期の像立。

しかしこのように焼け出され痛んだ石仏にも季節の花は欠かさず手向けられ、痛々しい割れ目には賽銭の10円玉などが挟まれて、この石仏への愛着が伺われる。

僕が生まれるずっとまえに焼けたので、顔を拝むことは不可能だったが、ひと目だけでも見て見たかった。

撮影、2005.4.9   2006.12.01

MAP


旧加茂町 首切り地蔵(阿弥陀石仏)/ 大門無縁仏石像群

2006年12月07日 | 石仏:京都

前回紹介の、藪の中三尊石仏の辻を北に向かうとすぐ左側の小高い土地に地域の会所と野小屋が建っていて、野小屋の左奥にこの石仏が見える。

この地は その昔釈迦寺のあったところで、この北方には、処刑場が在ったらしく首切り地蔵と呼ばれているらしい。

一時流出して、ほかの地に姿を消していたのを、村人の努力で釈迦寺跡の現地へ戻されらしい。

「首切り地蔵」と呼ばれていますが定印の阿弥陀石仏で、高さ1.2mの長方形切り出し花崗岩に変形のつぼ型光背を彫りくぼめ像高97cm阿弥陀座像を半肉彫りにしてる。

いしの上部には笠石を載せる為の突起があって元々は笠石が乗っていたものらしい。

顔つきが何処と無く、藪中三尊の阿弥陀に似ているような気がする、因みに銘によると弘長2年の像立、藪中三尊と同年号を持っている。

同一作者が平行して刻んだ物であろうか??。

よこに、長谷寺型の杓杖を持った十一面観音石仏があってほほえましい顔立ちが良い。

前の道は大きく右手に折れていてそのまま進むとやがて墓地の横をとおり,左に直角に曲がり,しばらく行くと「大門無縁仏石像群」に出逢う。

右手には小さな春日神社の社があり、昼なおくらい木立ちのなかに無縁仏が2ヶ所に分れて何段にも積み上げられている。

慣れない人には少しおどろおどろしい感じがする場所かもしれない。

近くに在った阿弥陀寺跡や鎮守社の石仏、石塔などを寄せ集めて、ここに安置しなおした石像群らしい。

集積された中にこれはと思う石仏が2~3体在った。

 撮影2006.12.01

MAP


旧加茂町 薮の中地蔵(観音・地蔵・阿弥陀磨崖)

2006年12月06日 | 石仏:京都

浄瑠璃寺の門前にある駐車場から岩船寺に向かう道路を歩く事約5分。

当尾では有名な野菜の直販スタンドの並ぶ辻の右手、薄暗い木立の中にこの磨崖石仏がある。

薮の中の二つの岩に、右から十一面観音立像、地蔵菩薩立像、阿弥陀如来坐像が彫られている、とても珍しいものです。

中央に立つ地蔵と十一面観音は一石に彫られていて左側の地蔵は船形光背のなかに厚肉彫り、像高1.52m、この地最古の年号弘長二年(1262)と、石大工、橘安縄の銘があって知られている。

右の十一面観音は右手に杓杖を持つ長谷寺方十一面観音で、舟形光背の中に像高約1mの厚肉彫りで、穏やかな面相が素晴らしい。

左には別石に彫られた阿弥陀坐像だけが浄瑠璃寺のほうを向いていて、同時代の作。

ここを離れてすこし行った旧道との辻には愛宕灯篭が建っていて、石仏散策コースのシンボルのように成っている。

奇妙な形の自然石に四角い彫りくぼめを付け、灯明を献じれるようになっている。

撮影2005.4.9  2006.12.01.

MAP


旧加茂町 弥勒磨崖仏(弥勒の辻)・三体地蔵

2006年12月02日 | 石仏:京都

岩船寺から、奈良方面に続く道路を2~3分車で走ると弥勒の辻という所に出る。

山の間を、走ってきてしかいの広がった弥勒の辻の右手の山際の高さ5mの巨岩に高さ2.5mの「弥勒磨崖仏」が線彫されている。

勿論、「弥勒の辻」の地名はこの石仏からつけられたもので、奈良方面からの岩船南口バス停もこの場所にある。

この弥勒石仏は、室生大野の磨崖石仏と同じく、ここからは、すぐ近くの笠置山大弥勒石仏を手本に作られたもので有ると考えられています。

確かに、京都仁和寺に残された、笠置山弥勒磨崖石仏の写しによく似ていて、衣文の流れなどはそっくりそのままのような印象を受ける。

ぞうの右横には銘が刻まれていて、文永十一年(1271・鎌倉中期)大工末行とあり、伊末行の事で、この石仏を作って13年後には、前に紹介した「わらいぼとけ」を作っている。

ちなみに、「わらいぼとけ」には、この前の道を右手に10分ほど歩けば到着する。

ただただ、おしいことに線彫り石仏のため、風化磨耗,苔等により、像の上部が非常に解りづらく、見えづらくなっている。

この辻から踵を返し岩船寺の方へ100mほど歩くと右側の山へ登って行く細い道が在り、そこを登って5~6分歩くと右手山際、上方の岩肌には「三体地蔵」が彫られています。

横長の岩壁に長方形の枠を彫りくぼめ、像高約90cm、鎌倉後期作の地蔵を三体、半肉彫りにしている。

特にこの地蔵の面相は優れていて、温和な童顔に慈悲深い地蔵が感じられ、三体共左手に宝珠を捧げ、右手に錫杖を持って、

三界(欲界、色界、無色界、または、過去、現在、未来)の萬霊を供養する為に発願(ほつがん)されたものと云われています。

廻りは雑木林が有るだけの里山然とした小道で、なんともこの風景に溶け込む、この磨崖の地蔵には郷愁を覚える。

撮影2005.12.18  2006.12.01

MAP


旧加茂町 からすのつぼ阿弥陀地蔵磨崖石仏、他

2006年12月02日 | 石仏:京都

前回紹介の「笑い仏」から、のどかな里山道を浄瑠璃寺方面に下っていくとこの磨崖石仏に出会う。

この辺りは「からすのつぼ」と呼ばれていて、石仏近くに横たわる石の唐臼(カラウス)から「からすのつぼ」と転化したものだそうです。

この石は、もしかして唐臼でなく寺院の礎石だったのかも知れないと言われています。

以前(もう30年も前)に見たときは、この石仏の前は確かに小さな田圃があって、稲が植えられていたように思うが、今は整備され小さな広場のようになっていて、黄金色の稲穂越しに石仏は見られなくなってしまった。

この突き出した岩の正面には舟形光背の彫りくぼめの中に像高70cm定印の阿弥陀坐像を半肉彫りにして、像の右側に灯篭を線彫りで表し、火袋は彫り窪めて灯明を点けることが出来る様になっている。

向かって左岩面には同様の地蔵立像が彫られている。

正面の阿弥陀には康永二年の銘が有り南北朝時代の作、また地蔵も同時期のものだと考えられています。

 

この、石仏の右手の小道を少し登って行くと左手崖上に一鍬地蔵と呼ばれる線彫りで等身大の石仏が見える。

しかし、かなり高い場所にあって真近に近づく事は不可能で、像容も肉眼では判別しがたい。

撮影2005.4.9

追加撮影2006.12.01

MAP