愛しきものたち

石仏、民家街並み、勧請縄、棚田景観、寺社、旧跡などが中心です。

米原市清滝 清滝寺徳源院京極家墓所宝筐印塔

2013年06月30日 | 石塔:石造物

近江源氏を祖に、佐々木氏の別家、京極氏の菩提寺「徳源院清滝寺」に約600年亘る京極氏の歴代宝筐印塔が一同に会している。

古式の鎌倉塔から江戸時代の近世塔まで上段下段と岐れその数約35基が居並ぶ姿は、京極氏の栄枯盛衰と相まって圧巻です。

清瀧寺は弘安九年(1286)、京極氏の初代氏信が建立、東海道本線柏原駅、西へ約1km、清滝集落のドン突き山裾に閑静な佇まいで建っている。

墓地は本堂裏、山裾の斜面を二段に分け周囲を白壁土塀で取り囲んでいる。

一段高い上段の白壁土塀を背に向かって右から始祖氏信(うじのぶ)を筆頭に、南北朝時代に活躍した道誉(どうよ)を含む、歴代当主の墓碑宝篋印塔が18基が横一列に並び建つ。

これは22代、高豊(たかとよ)が寛文12年(1672)境内に三重塔を建て、付近に散在していた墓を菩提寺のここ集めたと言われて居ます。

右端、永仁三年(1295)銘を持つ京極氏始祖氏信(うじのぶ)の墓碑宝篋印塔。

京極氏の家名は氏信が京都、京極高辻の地に宿所が在ったことによるとか・・・・。

下段には左から19代あの大河ドラマ「江(ごう)」、浅井三姉妹の次女「初」を娶った京極高次(たかつぐ)の石廟や木廟が並び建つ。

石廟内、高次の墓碑宝篋印塔・・・・、江戸時代初期、笠の隅飾りはそっくり替えっている。

これは24代、京極高矩(きょうごく たかのり)の墓碑宝篋印塔。

下段、廟無し墓碑宝篋印塔。

とても詳しくは書き切れません・・・。

殆どが国の史跡や県の史跡に指定され、兎に角圧巻、一見の価値有り。

撮影2011.8.15


高島市安曇川町 田中神社の石造宝塔・他

2013年06月29日 | 石塔:石造物

田中神社、石段参道脇の斜面に並び建つ三基の石造宝塔と、二基の宝篋印塔・・・。

特に大型古式の石造宝塔が三基も一列に並び建っている姿は圧巻です。

田中神社は湖西線JR安曇川駅北西へ約2km、田中集落奥突きの山裾に鎮座・・・・

背後の山上には継体天皇の父「彦主人王」の墓とされる古墳があり、ここも継体天皇の影が色濃い神社です。

三基並んだ古式鎌倉時代の石造宝塔・・これだけでも充分壮観。

参道側より一基目の石造宝塔

少し頭でっかち感は否めませんが重厚な屋根石、基礎石には格狭間内に開蓮華と三茎蓮。

軸部塔身は、正面のみに鳥居形を刻み出し、首部は特徴的な高欄付き二段で鎌倉後期の造立。

二基目の石造宝塔、四面共に素地の基礎石、やや薄い屋根部、相輪の上部は欠損している。

軸部塔身は四方に鳥居扉型を刻み出すがボロボロ・・・首部は二段

三基目、粗面の基礎石、軸部塔身には二段の首部、屋根石軒下も二段落ち・・・・

軸部塔身正面に舟形を彫り沈め阿弥陀坐像?を刻み出し、鎌倉後期の造立。

その奥にも二基の宝篋印塔が並ぶが一塔は塔身を失っている。

撮影2011.2.20


高島市拝戸(はいど) 水尾神社(みをじんじゃ)の宝塔

2013年06月28日 | 石塔:石造物

先日に引き続き水尾神社(みをじんじゃ)の石塔・・・、庭園の西端に二基並び立つ大型宝塔の残欠。

正面から・・・基礎石は共に格狭間を造り出し・・・

軸部塔身には扉を刻み出し、首部は二重構え・・・

しかし屋根部は共に宝篋印塔の物を転用している。

基礎部、軸部は優秀な物だけに惜しまれる 。

撮影2011.12.4


高島市拝戸(はいど) 水尾神社(みをじんじゃ)層塔残欠 

2013年06月27日 | 石塔:石造物

同じく高島市拝戸(はいど)、水尾神社(みをじんじゃ)境内脇の新しい庭園に建つ二層塔の残欠、寄せ集め二宝塔。

完品は何一つ無いのですが・・・・、それはそれなりに見事です。

高島市役所より西へ約3Km、県道296号線脇に一際目を惹く立派な神社・・・・「古事記」や「日本書紀」にも登場するような神代から連綿と続く旧い神社。

一昨日にも紹介した「三重生(みおう)神社」と多分同じ語源だと思われる水尾神社(みをじんじゃ)、このあたりは継体天皇の故地、三つ子の第三子に因み、三尾、三重生、水尾などと書くが読みは皆「みお」と読む。

因に継体天皇の母「振姫」は当社の拝殿を産所とし、三児を同時に安産したと伝えて居ます。

拝戸古墳群に囲まれるようにしてある境内、その南側を利用した巨石の庭園が造られ三基の古石塔が並び建っている。

向かって左手は別にして、中央と右手は層塔の軸部と屋根部の残欠、屋根部と塔身は寄せ集めでしょうが・・・・。

向かって右端の層塔残欠、軸部には舟形の中に中肉彫りの四方仏

正面は北面してるが・・・・これは阿弥陀

これは左北面、右西面・・・・

左西面、右南面・・・、四方仏の方向も間違っている様ですが、鎌倉時代中期 仁治二年(1241) 滋賀県の層塔では最古の紀年銘を持つ。

中央の層塔は側面四方に格狭間を持つ三茎蓮を刻み二段台の基礎石の上に建つ。

右側、正面を北向き、深い舟形の中厚く四方仏を刻み出す。

西側の四方仏

こちら南面の四方仏・・・

こちら、南西方向から・・・・・宝篋印塔の基礎石、軒先を欠損した笠石は宝塔の転用・・・・取り敢えずという感じ。

一方こちらは・・・・、残り物の寄せ集めという感じ、おまけに層塔の屋根を逆さに積んだり

ジグソーパズルの様に積み直してみたら一塔ぐらいはまともに成るかも・・・・。

撮影2011.12.4


高島市新旭町 大善寺石造宝塔

2013年06月26日 | 石塔:石造物

最澄開基と伝える古刹「大善寺」の境内脇墓地に建つ中型の石造宝塔。

安曇川左岸、高島市役所より南に約1km足らず、旧い在所道脇にひっそりと建つ、最澄開基の古刹とは言え、織田信長の兵火で 焼失、その後この地に再興されている。

石造宝塔は本堂正面に集めた小石造物や墓石の中央に建っている。

少し小振りに感じるが姿の良い宝塔、大きい基礎石には格狭間内に三茎蓮文様を刻み、塔身には舟形を彫りくぼめ、定印の阿弥陀坐像を半肉彫りしている。

基礎石正面左に鎌倉後期の正和二年(1313)の紀年銘を持ち、総高186Cm

屋根石の軒ぞりの力強さと、塔身の定印阿弥陀坐像の釣り合いが実に良い。

撮影2011.12.4


高島市安曇川町常盤木 三重生(みおう)神社の宝塔

2013年06月25日 | 石塔:石造物

前回に同じく湖西高島市、安曇川右岸、三重生(みおう)神社の石造宝塔。

三重生(みおう)神社とはまた聴き慣れない名前の神社だと調べてみると「三つ子の母の社」とも呼ばれ、三つ子の第三子として産まれた第二十六代継体天皇ゆかりの神社だそうです。

集落の中ほどに有る小さな社殿の神社ですが・・・・・因に祭神は継体天皇の両親である彦主人王と振媛と成っている。

石造宝塔は社殿背後の玉垣に沿いの一段高い位置に建つ。

基礎石側面には全てに輪郭付きの格狭間設け、低く安定感がある。

総高2.5m塔身は粗面で、上に載る屋根部はやっぱり重厚で力強く、鎌倉中期末から後期初頭の造立だと考えられている。

撮影2011.2.20


高島市新旭町 森神社の石造宝塔

2013年06月24日 | 石塔:石造物

昔流に云えば・・・前回紹介の針江集落の西隣り村の鎮守に有る宝塔です。

この辺りの地域では何処に行ってもこうした石造宝塔にぶち当たる・・・・まるで犬も歩けば状態です。

今でこそ住所表示に森の字は使わなく成ってしまったが、以前は新旭町旭字森という標示だったようで、この森神社という社名も納得出来る。

神社は在所道、辻の一角に南面して建ち、家並の中に在っても緑多い神社です。

そんな神社境内への南東入口脇に西面して建っている。

古風な石造宝塔は花崗岩製の高さ約2.15m、基礎石向かって右側面には輪郭をの中、格狭間を作るが主部塔身には何の装飾もなく、首部は一段。

上に載る屋根部は比較的重厚で下部に二段の斗拱部を持ち、屋根上の相輪部は何処も同じように一部欠損。

鎌倉時代中期の造立と言われ、旧新旭町の文化財に指定されて居た。

撮影2011.12.4


高島市新旭町針江  日吉神社石造宝塔/大日種子板碑

2013年06月23日 | 石塔:石造物

湖西、高島市の中心域、湖岸地帯は石造宝塔の密集地帯としてよく知られて居り、そんな一つ新旭町針江集落の日吉神社には宝塔を中心に三基の石造物が並び立って居る。

針江集落は湖岸穀倉地帯、「生水(しょうず)里」と呼ばれ、豊かな湧水が水路となり集落を潤し、人々の生活と蜜着してきた。

そんな水路を跨いだ日吉神社は、永仁2年開基の石津寺の鎮守社として寺と同時に創建されたと伝えられるが、石津寺はすっかり衰退、小さなお堂が境内の片隅に残されて居る。

そんな小堂の前、大きなタブノキの根元に、古式然とした石造が並んで居る。

所謂、石津寺の遺物なのだろう??中央には十尺塔と呼ばれる大きく立派な宝塔、向かって左手には二梵字板碑、右手には層塔の残欠。

宝塔は基礎石に鎌倉時代後期の徳治二年(1307)の銘を持つ花崗岩製、

軸部と二段の首部は一石から成り、軸胴部は粗面で何の装飾も見られない。

屋根部は二段落ちの斗拱部を持ち、重厚で力強い軒そりが時代を現しているが・・・軸部に対して屋根部が少し貧弱。

現行、屋根部直下までの高は約2m、上部相輪は間に合せの五輪塔残欠を載せているが総高は3mとなり、十尺塔として造られ、宝塔の多いこの地域に於いても珍しい。

宝塔右サイドに有る二梵字板碑は前後で一柱、後方の石柱はその下部、枘で繋がれ前方の上部がその上に載っていた。

上部は山形の頭部造り出し、その下に二段の切込みをいれ、塔身に金剛界大日如来の種子「バン」と胎蔵界大日如来の種子「ア」を大きく彫り沈めている。

上下合わせると3mにも及ぶ巨大な「金胎大日種子板碑」と言えるものです。

左サイドには層塔残欠が四方仏を刻んだ初軸部の上に笠石を一層載せ、五輪塔の水輪らしき間に合わせ石を載せている。

この残欠は寄せ集め感の強いものですが、中世に遡る石造物に違い無く、ほのぼの良い味出してます 

撮影2011.12.4


高島市新旭町 阿弥陀寺石造宝塔/他

2013年06月22日 | 石塔:石造物

 

前回紹介の高島市新旭町、阿弥陀寺墓地の豊かな石造物の中では、この石造宝塔が一番よく知られて居る。

一列に並び立てられた五輪塔の中、見事な石造宝塔が一基、特別な存在感を持ち立って居る。

総高190Cmに及び、塔身の四方仏が風化摩耗も進んだ中でも存在感を強く示して居る。

真正面から見る宝塔はどっしりとして重厚、塔身四方にそれぞれ舟形を彫り沈め顕教四仏を中肉彫りで刻み出して居る。

これは東面、薬師如来坐像?。

相輪をを除いた高さ約130Cm、鎌倉中期の造立、旧新旭町指定文化財。

こちら西面阿弥陀如来坐像??

居並ぶ五輪塔の中に一際目立つ均整の取れた美しい五輪塔・・・・・鎌倉後期の正安銘が確認されて居るようです。

撮影2011.12.4


高島市新旭町 阿弥陀寺六地蔵石幢

2013年06月21日 | 石仏:滋賀

高島市、旧新旭町阿弥陀寺(あみだじ)墓地に立つ、ちょっとほのぼの感のある六地蔵石幢。

阿弥陀寺は湖西線新旭駅直ぐそばに有り、寺伝によれば「厩戸皇子(聖徳太子)」の開基のそうそうたる古刹のようです。

しかし現在小さな本堂と、その裏に小さな墓地を残すだけの田舎寺院に成ってます。

六地蔵石幢は六角反花座の基台に載る高さ約1m強、丸みを帯びた六角柱に笠石と宝珠を乗せ・・

六角柱軸部上方に舟形を浅く彫り、中にそれぞれ一尊づつの地蔵菩薩立像を薄く刻み出す。

下部には回向者名??だと思われる文字が刻まれている。

撮影2011.12.4


高島市安曇川町永田  長盛寺の地蔵石仏

2013年06月20日 | 石仏:滋賀

先日紹介の南鴨より更に南へ500m、永田集落の長盛寺山門脇に佇む地蔵石仏。

やっぱり湖岸穀倉地帯、田園に囲まれた一かたまり、約30軒が軒を連ねる小さな集落。

長盛寺は古い時代に栄えた様ですが今は無住の田舎寺、駐車場代わりの空き地のような境内奥に本堂が建って居る。

地蔵石仏は本堂を裏に廻って、簡素な四脚門の内側に五輪塔や小石仏を従えるように立つ。

総高約1.7m、舟形光背を持ち反花座の有る複弁蓮座に立つ、高さ約130Cmの定形地蔵を中肉彫りで刻み出して居る。

ここまで書くと誰でも気付くだろうが・・・・・、この地蔵石仏も宿鴨や、南鴨の地蔵石仏に瓜二つ。

あちらでは見れなかった蓮座や木靴も見え、近江型地蔵石仏の特徴をよく表して居る。

短く、大きい錫杖を掲げ持つ姿も、二つの鴨集落の物に相等しい。

その上殆ど摩耗した尊顔の輪郭までが似かよい、「鎌倉時代後期~南北朝期」同一作者の手によるものだろか?

探せばこの近辺にはこの手の石仏が他にも見つかるかも??。

撮影2011.12.4


高島市安曇川町 南鴨三体石仏

2013年06月19日 | 石仏:滋賀

「南鴨三体石仏」と呼ばれる宿鴨の石仏によく似た三体の石仏。

前日紹介の宿鴨集落から田圃を挟んで南に約300m、南鴨集落の南外れの簡素な地蔵堂に立ち並んで居る。

地蔵堂の片隅には小石塔や小石仏の残欠が並べられ、古い時代にはそれなりの寺が存在した事を窺わせる。

石仏は向かって左に地蔵立像、右二体は右手施無畏印、左手与願印の阿弥陀如来・・・・

やっぱり大きい供台が邪魔になり膝から下は隠れて見えません。

左端の舟形光背の上部を欠損、左手に宝珠、右手に大きな錫杖を掲げ持つ像高約140cmの地蔵立像。

この地蔵は大きさ像容共に宿鴨の2体地蔵に瓜二つ・・・・・・、この地蔵と宿鴨の2体地蔵は「三体地蔵」として路傍に置かれていたものだと考えられて居る。

一方こちらは二体の阿弥陀石仏のうち保存の良い中央の一体。

像高約130Cm足らず、人間臭い笑みを湛えて居ます。

最後の一体は右端の阿弥陀如来、ちょっと貧弱で形式かの進んだ体躯。

尊顔は風化摩耗によりのっぺらぼう、墨で目鼻立ちを書き加えまるで悪ガキ

阿弥陀石仏は共に室町期の造立と考えられ、阿弥陀二体と地蔵石仏は元々別の場所に有ったものに違い無い。

撮影2011.12.4


高島市安曇川町 宿鴨(しゅくかも)の二体地蔵

2013年06月18日 | 石仏:滋賀

湖西北部、旧安曇川町の湖岸に広がる穀倉地域、宿鴨集落の地蔵堂に立つ2体の地蔵石仏。

湖西線安曇川駅より南に約2km、鴨川右岸の一面に広がる田園に囲まれた宿鴨集落の在所道端に立派な地蔵堂。

豊かな水の流れの小川に囲まれた地蔵堂は綺麗に保たれ地域の信仰厚い事が窺われる。

正面の格子戸は自由に開けられ誰でも気安くお参りでき、都会地域のそれとは大違い。

正面に並ぶ2体の地蔵石仏は大振りな供台を前に並列する共にに舟形光背の大型定形地蔵。

往時路傍に逢った為なのか風化摩耗が激しく赤錆色の変色も気にかかる・・・・・、もしかして水中に沈んだ時期も有ったかも??

共に足元は固められ、つま先蓮台は見ることが出来ません。

向かって左側の一体、総高約1.8m程か?舟形光背に大きなひび割れが有り痛々しい姿ですが・・・・、像高約1.4m、大きな錫杖を掲げ持つ中肉彫りの古石仏です。

右側の石仏も同様どう寸法と考えられ、その作風から同一作者の手による物だと考えられて居ます。

2体共に特に尊顔の摩耗が激しく、それだけに信仰厚い石仏だったのだろう。

良く整った像容、技巧から南北朝期の造立だと考えられて居る。

湖西北部地域には優秀な石造品が密集している。

撮影2011.12.4


京都府久御山町 東一口(ひがしいもあらい)山田家長屋門

2013年06月17日 | 街道街並集落 景観 

細長い家並が続く東一口(ひがしいもあらい)の中ほどに、壮大な長屋門を有する山田家の屋敷があり、巨椋池は無くなった今も当時の面影をよく伝えて居る。

国道1号線、京都南ICから大阪方面に向かい宇治川を越えると、前方には巨椋池を埋め立て造った一面の水田地帯が広がる。

それが昭和16年に完工した巨椋池の干拓地、その北西部、巨椋池にあった細長い中州に沿って古い建物の残る町並みが続き、細長い集落の両脇には、干拓で整備された排水路の前川と古川が流れ、巨椋池での漁業を忍ばせます。

ベンガラ出格子虫籠窓・・・・現在ではこんな民家も少くなった。

この通りに面した山田家はその昔、巨椋池漁業権の総帥であり、御牧郷十三ヵ村をまとめていたという大庄屋で当時の姿を今に伝えています。

若い頃、たまたま何の予備知識もなくこの前を通って驚きの極みだった事を昨日の事の様に思い出す。

豪壮な長屋門は、東西15間(27メートル)、奥行2間半(4.5メートル)、2間半の入口には、観音開きの大きな扉がありますが、現在固く閉ざされています。

屋根はすべて「丸に五つ引き」の家紋瓦で本瓦葺き、棟(むね)の両端の鯱は重厚な白壁とよく調和し、まるで城下町の武家屋敷のようです。

現在保存工事が進められ、近く一般公開されるとか??もうされたかも・・・・・。

撮影2013.4.1


大津市下坂本 盛安寺阿弥陀石仏/他 

2013年06月15日 | 石仏:滋賀

穴太の町外れ、下坂本盛安寺墓地に立つ石仏さん。

前回紹介の石薬師堂から北へ約300m足らず、穴太積の石垣に守られるようにして天台真盛宗の盛安寺がある。

重文の木造十一面観音立像や長谷川派の極彩色障壁画などが有って訪れる歴女も多い。

本堂脇の墓地に入ると先ず目に付くのがこの石仏。

山形自然石に浅い舟形を彫り沈め、中に蓮台に坐す定印の阿弥陀如来坐像を薄肉彫りで刻み出す。

蓮台下方には供養者??と思われる蔵も刻まれている。

像高50cmばかりだろうか、中世仏のような気位や力強さは失せた江戸期の造立??

真盛宗は元々石仏好きの宗派・・・、墓地入口片側にも板碑状石仏。

彫りが稚拙なのか??それとも風化のせいか殆ど像容も定かでは無い。

しかしなかなかの風情です。

撮影2011.12.4