愛しきものたち

石仏、民家街並み、勧請縄、棚田景観、寺社、旧跡などが中心です。

不明の石棺仏

2010年12月31日 | 石仏:兵庫

加西市池上町の春岡寺から同じく市村町の「腰折れ地蔵」へ車で移動中に見つけた石棺仏。

かなり時間がたってしまって記憶が飛んでしまっているが・・・・。

道路進行方向右手、田園風景の続く道路わきの空き地(多分廃寺跡か?)のケヤキだと思われる根元に二体の石仏と諸々の石造物の残欠。

野晒しの仏としての景観が素晴らしく思わず車を停めてしまった。

彫りの稚拙な定印の阿弥陀如来坐像、この風情がたまらなく良い・・・・・。

傍らになんとなく地蔵だと思われる石仏・・・、加西では何処に行っても石棺仏に出会えるような気がする。

何の表示板も無く記憶も定かでない・・・・、永らく放っておいた僕が馬鹿なんだけど、この石仏さんを知ってる人があれば教えて下さい。

撮影2007.12.8


加西市 春岡寺(しゅんこうじ)石棺仏

2010年12月31日 | 石仏:兵庫

中国自動車道加西ICの北東方面に位置する加西市池上町の田圃の中に小さな薬師池を囲み込む様に緑濃い森が広がり、池を前面にして小さな本堂の春岡寺がひっそりと建って居る。

僅かな境内の片隅に粗末な覆い屋根を架け、その下に石棺仏が祀られている。

腰の辺りで大きく二つに折れているが高さ2m、幅98cmの大きな家型石棺蓋石の内面に阿弥陀坐像を浮き彫りで刻んでいる。

脇から覗いて見ると大きな縄掛け突起・・・横顔はそこはかと微笑んでいるよう・・

腰で大きく割れているところから腰折れ地蔵とも呼ばれ信仰篤いとか???

大きい石のわりには像高約60cmと小さいのは石棺の縁枠が立派過ぎるほど太いからかな??

撮影2010.12.8


奈良町 徳融寺(とくゆうじ)の笠塔婆四方石仏

2010年12月30日 | 石仏:奈良

奈良町は元興寺を中心に懐かしい家波が軒を並べ訪ねる者達に懐かしさと安らぎを与えてくれる。

奈良町記資料館から南西方面へブラブラ歩いても約五分、小さな寺の多い一画に結構大きな境内を持つ融通念仏宗の徳融寺がある。

平安時代の子安観音を祀る小さな観音堂南脇に珍しい笠塔婆石仏が有る。

石仏は四角柱の上に方形型の笠石を乗せ、それぞれに顕教四仏を中肉彫りで刻んでいる。

正面北面には薬壷を持った薬師如来・・・左側東面には釈迦如来・・

南面には阿弥陀如来・・

西面が弥勒仏となっている・・・・。

何故だか方向が四仏とずれているのは後世に位置を移動して据え違えてしまったのだろうか??

花崗岩、高さ 115cm 像高約80cm 幅 40cm  鎌倉時代後期の造立。

ここは中将姫ゆかりの寺として名高い。

撮影2007.3.4


大津市坂本、大文字屋の地蔵石仏、早尾地蔵石仏

2010年12月27日 | 石仏:滋賀

大津市坂本は比叡山延暦寺の里坊で開けた門前町、日吉大社境内前に穴太(あのう)積みと呼ばれる石垣や懐かしい建物が軒を連ねて独特の景観を見せている。

11月の中頃、少し早い紅葉でも見に行こうと日吉大社を訪れ、坂本の街並みをブラブラ散歩・・・・。

ふと歩を停めた懐かしい店先で立ち話をしているおばあちゃん。

その軒並みに目を留めた小さなお堂・・・覗きこんでいたら先ほどのおばあちゃんが「お地蔵さん みとくれやす」と言って近づいて来てくれた。

ありがたき幸せ。

正面扉の枡障子??・・・・・小さな八角吊り灯篭がよく似合う。

障子を開けて見せてくれた地蔵さんは大きな白木の厨子におさまっていた。

この地蔵石仏は、元々今の比叡山中学校の敷地にあった廃寺に祀られて居たそうですが寺が火事になり倒されていたのを、当家「大文字屋」さんの何代か前の当主が

ここまで持ち帰り、お堂を造りお祀り大切にしてこられたようです。

地蔵石仏は石棺蓋石にでも見えるような花崗岩の扁平な石に中肉彫り、等身大の像高を持つ立派なもので、「亀の錫杖が立派でしょう」と説明してくれたが銘や下部については確認する術も無かった・・・・・・ただ火事に逢ってか?大きな亀裂が2箇所ほど確認出来た。

鎌倉期のものだろうか??「大文字屋延命地蔵」と言われているようです。

また日吉大社正面鳥居の脇には立派な六角地蔵堂が在って延暦寺開闢の伝教大師最澄が自ら刻んだと伝えられる地蔵石仏が祀られている。

直ぐ傍に石段上に有る早尾神社に由縁か「早尾地蔵尊」、「かくれんぼ地蔵」、「子育て地蔵」などと親しく呼ばれ、今なお篤い信仰を集めている。

地蔵石仏は花崗岩を舟形光背型の厚肉彫り、ただ信仰が激し過ぎたのか手擦りに寄る磨耗が激しく、目鼻立ちも良く判らない程・・・・

お前立ちに阿弥陀に見える石仏さん。

石仏としての歴史的美的価値は疑問だが、信仰の篤さは延暦寺や日吉大社とあいまって飛び切りです。

立派なお堂の奥で大切にされてるからか、野の石仏に抱く素朴な良さは感じるべくもないけれど・・・・

撮影2010.11.13


滋賀県東近江市 廃村旧大萩集落

2010年12月27日 | 街道街並集落 景観 

<無くなった集落の小道に残された主の居なくなってしまった小さな祠>

奥永源寺の蛭谷や君が原の木地師集落を訪ねた帰り道、県道34号線をそのまま進んで萱原集落へと思って居たが、12月に入って萱原への県道は冬季閉鎖で通行止め、仕方が無いので道成りに進む県道229号で山中から出ることにした。

県道34号が大きく迂回し道成りの道路がそのまま229号へと名称を変えて直ぐに出会うことに成る哀しい景色

此処は旧大萩集落跡地、麓から来れば一番奥まったところに唯一残っている建物、此処は旧愛東村二代目村長の辻仁一氏の生家、

隣の土地には氏を讃える碑と胸像が建立され、萩の宮と書かれた小さな神社もある。

集団離村後も住まわれていたのだろう、この家だけが原型をとどめていた。

正面からは立派に見えるこの建物も灯が消えてから相当時間がたつのか裏に廻ればひどく荒れていて目を覆うばかり・・・。

今から約40年前の昭和47年9月の台風20号に拠る山崩れのために壊滅的な被害を受け、それが引き金となって昭和50年の4月集団離村、旧大萩は廃村の道を辿ったという。

集落の中ほどと思われる道端には金色の観音さん、かつての集落の地図、大萩についての解説が刻まれた碑などがある。

集団離村当時60戸、263人とある。

道路を挟んで、旧大萩集落の屋敷跡の石垣が主をなくしてしまって累々と続く。

鎮守の白髭神社は荒れているもののまだまだ手入れは行われているようで哀しい姿にはなっていない。

集落外れの墓場は寂しい風景ながら良く手入れされ、両墓制の墓地がそのまま残っていてる。

1982年に映画化された『茗荷村見聞記』の上映がきっかけとなり、大萩地区に「茗荷村」が実際に誕生することとなり、心打たれた地元住民らが土地の無償貸与を約束し、翌年開村の運びとなった事もこの廃村集落をすっかり山野に帰ることを食い止めているだろう。

撮影2010.12.11


滋賀県多賀町 後谷(うしろだに)集落

2010年12月26日 | 街道街並集落 景観 

この集落への道はかなり険しく遠い。

県道17号線が栗栖集落を越へ、やがて二又に分かれる所を左手にとり、県道239号線へと入ると直ぐに右手山肌へ駆け登る林道が見える。

<途上から谷間を眺める・・・下の道路は県道17号線>

此処から先は車1台がやっと通れる林道?屏風集落 、後谷集落へと続く唯一の道路だが車の通行は殆ど無さそうな・・・

険しい山道を登りきるとやや広く開けた辺りに屏風集落との分岐点、しかし集落への進入道にはバリケード、廃村に近い集落に入ってイタズラをする輩からの自衛策だろうが哀しい現実です。

ここまで、県道17号分れから約10分、集落の入り口辺り・・・ぬくもりは感じられない。

集落中心部辺りに到着・・・・ロッジ風の建物が在って、ちゃんと生活臭も有る。

もともとの住民だろうか??新しく新天地を求めての移住組だろうか??

立派な車が停まっていて定住しているよう・・・・・、まだまだ捨去られた集落ではない。

建物は約5軒ほど、懐かしい萱葺き屋根を覆うトタン屋根・・・その1軒には洗濯物

通り一遍の旅人の目には懐かしく美しい景観・・・、残る建物よりも空き地を支える石垣が目立つ。

そして哀しい姿をさらす建物も・・・・滅びの美学という言葉も有るように見るものを立ち停らせる。

大きな公孫樹の裸樹が聳える集落の寺、光辺寺だろうか??建物は真新しく公民館も兼ねているのだろうか??

以前この集落の背後にはセメント鉱山も在ったようで多くの人が暮らしていたようだが・・・・・・今、その面影すらも無い。

宿舎跡だったのだろうか?

グーグルアースの画像から・・

撮影2010.12.11


彦根市 男鬼(おおり)集落

2010年12月24日 | 街道街並集落 景観 

この集落も霊仙山中真っ只中に有って冬季は全く雪に閉ざされてしまい冬季廃村の集落のようです。

<落合集落から男鬼(おおり)集落へと続く道>

僕は11月の下旬に多賀町側、芹川最上流付近の霊仙落合から一筋に延びる林道で辿りつきましたが、この集落へ入る道路は他にも2~3有って彦根市側からや米原市側からは冬で有っても辿りつけるのかも知れません。

此処は霊仙山中に有っても行政的には多賀町ではなく彦根市に属していますが、しかしいずれにしても冬場は厳しい環境下の集落で有ることには違いありません。

多賀町霊仙の谷間を縫って流れる芹川源流部の小川沿いに10軒足らずの民家が建ち並ぶがやっぱり深い山中の静寂に包まれている。

男鬼と書いて「おおり」どうしてそう読むのかは知らないけど、この土地にまつわる由緒歴史も有るのだろう??

これは集落の入り口辺りの景観。

畑には動物除けの網などもかけられ日常的に人の出入りは有りそうな気がしますが、この日は誰にも遭わなかった。

萱葺き屋根を覆ったトタン屋根の景観は懐かしく,長閑な山村を思わせるが心無い人のいたずらか?窓ガラスには投石に拠るものだと思われる大きな穴。

そんなおかげでこういう集落を訪れる余所者は怪訝な目で見られがち・・・・・

手入れは行き届いているもののやっぱり人の住む温みは伝わってこず・・・・・・門戸は硬く閉ざされている。

集落中ほどに有る誓玄寺と男鬼町の看板、寺本堂入り口のブルーシートが物語るものは???

その左斜面には苔むした日枝神社の参道と石鳥居。

ここからまた車で山道をいくらか走ったところには、比婆神社と呼ばれる神社も有って古い歴史を有しているようですが今回は時間の関係も有って寄れなかった。

此処はさしずめ比婆神社の里宮と言うことなのだろうか??しかし名前が違うなあ・・・・。

全く別物だろうか??

集落中ほどの立派な佇まいの民家、まだまだ充分に生活できそうです。

しかし周りの荒れ様は隠しようも無い。

集落の奥?の方、足場を組んで茅葺き屋根の葺き替えをしている民家。

まだ吹き替え途中のようだったがこのまま冬を越すのだろうか??

いずれ此処に人が入れるのは雪が解けてからだろう??

この先道は彦根、米原方面へと続いているのだが・・・。

 撮影2010.11.27


滋賀県多賀町 桃原(もばら)集落

2010年12月23日 | 街道街並集落 景観 

先日紹介した霊仙向之倉廃村と峰続きに有る山上集落、その昔はお互いに尾根道で続きの隣村であったのだろうが?今では谷底を走る県道17号線から全く別の谷間を車で登ることと成る。

GOOのマップを目一杯拡大しても桃原集落への進入道路は出てこない、もはやそれは見捨てられまるで存在しないかの様な・・・・。

国土地理院の地図には進入道も集落の家並みもちゃんと消えずに載せられているのでちょっとは胸をなでおろす。

県道17号線栗栖の集落を越して暫く行くと右手に伸びる枝線が桃原への進入路、芹川にかかる小さな橋を渡って山肌をグネグネ10分弱も駆け登ると桃原(もばら)集落の入り口。

入り口辺りには立派な公民館?、その脇は大きな広場になっていてバスの転回場だったのかも・・・・。

此処もやっぱり全くの静寂さだけが包みこむような佇まい・・・。

集落内の道路を進めていくと右手高台の民家から温もりの有る煙が・・・・・。

この集落で唯一見かけた生活臭のする民家だったが・・・・・・。

沈黙の中に佇む民家はどれも門戸を硬く閉ざしていて物音一つ聞こえてこない。

手入れは良く行き届いていてまだまだ廃家と言うまでにはいかないが・・・

それでも人が住まない建物と言うのは何処と無く空虚・・・

こちらの建物群などは今にも元気な洟垂れ小僧が飛び出して来うな佇まい。

しかし、此処も冬季の雪が多いのか道路わきには目印のポール。

それがやがて崩れ去る景観だとしてもやっぱり美しいものは・・・・

美しく・・・・・そしてやがて哀しい。

この辺りの寒村では良く目にする萱葺き屋根を覆う紅いトタン屋根、夏には賑やかな子供の声が聞けるのだろうか??

それにしても立派な屋敷。

此処はまだまだ廃村とは云いがたいが集落としての機能の大部分はもう蘇らないのかも??

此処の昔を知る人から、この地には以前スキー場が在ったという情報を頂きました。

その頃この地を訪れた人たちはどんな集落を見たのだろうか??

時の流れはこの山村を情け容赦なく飲み込んで行くようだ。

撮影2010.11.27

http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.aspx?b=351432&l=1361907・・・・・・これは国土地理院の地図


滋賀県多賀町保月(ほうづき)集落

2010年12月18日 | 街道街並集落 景観 

保月はかって鈴鹿山系北部、滋賀県犬上郡旧脇ヶ畑村の中心をなした集落で、小学校、役場、郵便局、なども有り昭和初期まで,保月には「北村屋」という宿屋が存在したという。

旧脇ヶ畑村には、この手前の杉集落、更に奥地の五僧集落の三集落からなっていて、昭和の初め頃には約50軒の民家が軒を連ねていた。

三集落は彦根から鈴鹿を越えて岐阜、美濃に抜ける山道でつながり島津越えと呼ばれ歴史上にも名高い。

しかし昭和35年頃からの産業構造の変化、主に鉄道や自動車による交通が広がっていくに連れ徒歩交通は途絶え,脇ヶ畑村は「陸の孤島」の様相を深めていき、杉は昭和48年,五僧は昭和49年に廃村,保月は昭和51年に冬季無人集落となったようです。

杉から約5km、地蔵の大杉を越えるとなだらかな下りの杉林の向こうに山中とは思えないほど視界が開けてポツポツと建物が見え出す。

集落入り口右側には小学校の跡地、校舎は既に無く一部便所だけが残され公衆トイレとなっている。

右手は、こんな感じで新しいプレハブも建ち、生活のにおいがする、しかし集落には物音一つせず静まりかえっている。

山仕事のためか??雪の無い期間だけ此処で生活してるのだろう・・・・・。

プレハブの奥にはまだまだ新しく見える八幡神社・・。

少し奥に進んで行くと立派な鐘楼

「出船山 照西寺」・・・・・手入れが良く行き届き建物に傷みは見えない。

30数年も以前に廃村同然になった集落とは思えないほど・・・・

荒れた感じは全く感じられ無いが何処と無く灯の消えた感はぬぐえない。

時間が止まった集落と言うのは一種独特な風が吹く・・

やがて来る雪は一体何を運んでくるのやら・・・・。

この建物は教職員住宅の跡らしい。

集落のはずれは・・

既に荒涼として

音と時間の止まった空間が広がる。

小学校脇 の高台にあった民家、此処にもまだ生活のぬくもりは感じられないが、畑地は利用されて居るようです。

集落はずれからの帰り道・・・・・

集落内の電柱の真新しい「ふれ愛タクシー停留所」の看板

この集落は廃村ではない、その後も入れ替わり立ち替わり人の手入れが続けられて居ることは想像に難くない。

それは「ふるさと」の記憶を消さない為の作業でもあるのだろう。。

撮影2010.11.27


滋賀県多賀町 杉集落

2010年12月17日 | 街道街並集落 景観 

県道17号線から車1台がやっと通れるぐらいの殆ど林道に近い県道139号線に入り8km、約15分も走ると山間の開けた台地に突然現れる杉集落。

しかし変わり果てた姿の集落は雪を真近に控えて最早人声の響くことはない・・

 

集落の入り口辺りは広く開けて

広場の中ほどには「公明寺之跡」という石碑があり,お寺は1977年(昭和52年)に移転したとのこと, この地はこの奥に有る保月、五僧の両集落とあわせて脇ヶ畑村となり、そのご昭和30年に町村合併により多賀町となったが現在では地図でその名は探せない

グーグルアースで見てもたったこれだけ、画像は今年の4月のものだとか・・・

広場正面には比較的崩れの少ない建物

もう相当以前から廃村のようだが、つい最近まで使われていたのか

さまざまな道具や物はまだまだ使えそう・・・

グーグルアースで見える右手の民家、此の建物は一番最後まで生活してたような??

ちょっとの手入れでまだまだ住めるような・・・・???

かたやその右手の家は殆ど荒野に飲み込まれようとしてる。

左手に目を移すとこんな状態・・・・・・

もう、今にも原野に帰りそうな左手の民家

やがて元の山野に戻るとき集落は記録の中でしか生きられない・・・。

杉集落を後にして保月へ向かう。

もうこの道路も雪解けの春まで進入禁止。

撮影2010.11.27


滋賀県多賀町、大君が畑(おじがはた)集落

2010年12月16日 | 街道街並集落 景観 

大君ヶ畑地区は多賀町の東端,鞍掛峠の県境を挟んで「いなべ市」と接する山深い鈴鹿山中の集落ですが、今では国道306が良く整備されそれほどの辺境感は有りません。

しかし大君ヶ畑地区は多賀町でも最奥に位置し,その手前にある「佐目」からでも峠を越え車でも10分程度かかってしまう

この国道の無い頃にはさぞかし辺境の地、隔絶集落では無かったのだろうか??

また、「大君ヶ畑」と書いて「おじがはた」という読み方は木地師の始祖だと言われる惟喬親王伝説に纏わるものだと言われていて鈴鹿山中、この辺り一体に共通した伝説が残って居る。

集落は犬上川上流の流れに沿い約50軒ばかりが大きく3地区ばかりに分かれ、国道306が集落を突き抜けて居る。

犬上川右手集落上手地区の佇まい、かやぶき屋根にトタン覆いを掛けた懐かしい民家が建ちなんで居る。

新道と旧道を分ける犬上川に掛かる橋付近から・・・、しっかり戸閉され、ぬくもりの感じられない家屋もある。

旧道に入るとこんな感じで、停まっている車は軽四トラックに紅葉マーク付き・・・

古い街道筋の姿をよく残して居る様な佇まい・・ここでも懐かしいトタン飾り屋根が目立つ。

山村風情に欠かせない薪を一杯に積んだ家、しかしこの家にも、もう生活臭は消え失せていた。

この奥入の家もしっかり雨戸を閉ざしていた。

https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/40/6b/53c48e305365f76bf0560abbeadd5107.jpg

温もりのある家、無い家が混在していて・・・・・

橋を渡った奥には惟喬親王も合祀する鎮守白山神社。

山紫水明、集落を取り巻く自然はやるせないほど美しい、その反面自然は過酷できびしいに違いない

グーグルアースから

撮影2010.11.27


滋賀県多賀町 向之倉(むかいのくら)集落{廃村}

2010年12月15日 | 街道街並集落 景観 

その歴史を閉じてしまった集落、向之倉は芹川右岸から山肌を縫うように登る集落への進入道路を車で5分以上も駆け上がった山肌中段に開けた台地状平地に、かって集落として存在した廃村です。

集落への登りはそれほどきつくはないですが冬場は近づけません。

ここへ足を延ばすのは2度目、前回は集落の鎮守、井戸神社に聳える桂の巨木を訪ねて2006年の真夏に訪れた。

<3年前に唯一残っていた画像>

季節も違うのか、3年という歳月は周りの景色も大きく変えている様に思えた。

集落左手の脇の高台に有った民家。

現在の同じ場所だと思われるところはこの通り建物も崩れ果て・・

なんとも・・・・・・

何とか小さなトイレと・・・

土蔵は崩れ去ることを逃れているようですが・・・・

順番が逆に成りましたが集落入口辺りにぽつんと・・・この野小屋は3年前と同じ佇まい。

左手に伸びる道が井戸神社への参道。

集落中心部へ村の路・・、石垣の上にかっては温もりの有る暮らしが有ったのだろうが・・・・

脇には小さな石仏さん・・最早手を合わせる人も、花を手向ける人もいなくなってしまって・・・・

路の傍らにはこんな姿をさらけ出す崩屋

崩れ果てた建物跡には暮らしの名残。

奥まった屋敷には立派な門

朽ち果てる母屋・・・・

何とか原形をとどめて居る土蔵・・・・・、しかしやっぱり物哀しい。

今度訪れる時には???

撮影2010.12.11


滋賀県多賀町 霊仙入谷(りょうぜんにゅうだに)集落

2010年12月14日 | 街道街並集落 景観 

前回紹介の霊仙落合集落より少し手前のの谷を遡った斜面にへばりつく山間集落。

殆平地らしい土地がが無いため急斜面の山肌に必死にしがみ付いているように見えるが、その殆が廃家化しており、ここも冬季廃村状態の集落です。

県道17号線、河内風穴で知られた河内集落で大きくカーブ,その先道なりに進むとちょっと異様な建物群にぶつかる。

建物群は木炭を搬送するリヤカーなどを収めて置いたもので、平地集落では主屋と並んで建っているのだろうが、ここでは道路脇の平地に建てられていて山岳斜面生活の苦労を物語る。

建物群の横手に看板、ここが霊仙入谷集落への進入口。

進入路を一気に登るとと見上げるばかりの斜面に点々と建ちつくす民家。

目のまえには軽トラックが停まって居て雪の降る前の最後の手入れだろうか??

 目の前の大きな老木の根元には・・・・、毎月第一日曜「故郷(ふるさと)の日」、想起・感謝・奉仕・しましょう・・、とある。

左手斜面上に有る了眼寺(りょうがんじ)境内に登ってみると眼下には崩れ果てた民家。

斜面に積み上げた石垣は高く、すっかり苔生している。

対面斜面にも朽ち果てた倉庫のような建物。

寺から等高線沿いの人が通れるだけの集落道脇には手入れの行き届いた民家、しかし扉や雨戸はしっかり閉ざされている。

 

まだまだ生活の匂いが残る民家も・・・・・・もうそろそろ雪の季節になって無人集落となる。

 

此処は懐かしい景色の宝庫です。

 集落からの下りはそれこそ奈落の底に落ちて行くようなな急勾配がまた怖い、其処に枯れ葉が積もってロックブレーキを踏むわけには行かない。

急坂の下り途中にあった土蔵を持った大きな屋敷

しかし最早、主屋は見る影も無く荒れ果てている。

撮影2010.11.27 : 12.11


滋賀県多賀町 霊仙落合(りょうぜんおちあい)集落

2010年12月13日 | 街道街並集落 景観 

鈴鹿山系最北端、霊仙山の南西、芹川最上流部、源流域の二つの谷からの流れがこの集落で落ち合う処からの名称だろう。

<車載カメラの画像です>

国道307から県道17号で芹川沿いにひたすら走りきり、これ以上はこの時期「冬季閉鎖」で進めなくなる所にある集落が霊仙落合。

<写真は雪の残るものが2008年の3月、雪の無いものがつい最近の12月のものです。>

まだ新しく見える建物もしっかり戸締りされていてこの時期全く人の気配はない。

集落は細い流れになった芹川ぎりぎりに行く車の車幅いっぱいの県道17号線、その道際の石垣上に建つ民家、懐かしい風情があるが最早人の気配は感じられず物音一つしない。

 此処は霊仙山への登山口、集落の中心辺りの公民館前広場はこの通り駐車場になる。

 

集落の奥に進むと道路は左に大きくカーブするがこの奥は既に冬季閉鎖中、12月1日から3月20までは冬季閉鎖で進めない。

このエリアの家は比較的手入れがされていて、それほど痛みもひどくない。

集落最奥から・・・・、左に見えるのは寺院、寺らしくない建物に蓮の字がみえる。

正面から見ると、まるで小学校か公民館の様にも見えるが、軒先肘木には象鼻があって寺として建てられた建物だと納得できる。

軒先につられた梵鐘も妙なアンバランスが印象的です。

寺の境内より見た集落(下は寺左側民家と土蔵)、約3年前に在った土蔵は崩れ果て解体されたのだろう・・・。

細い芹川の左手の民家は、まだまだ人が住めそうな立派な屋敷で土蔵もしっかり残っている。

川の右手エリアには有る民家はどれも痛みが酷くてすべて廃家状態、もう何年も人の手が入った気配さえ無い。

残念ながら今や崩れ去るのを待つばかり・・・・。

崩れかけた土蔵も、その脇におかれた石仏も過ぎ去った過去を思わせる以外の何者でも無いのが哀しい。

撮影2008.3.16 : 2010.12.11


滋賀県多賀町、大杉集落

2010年12月10日 | 街道街並集落 景観 

滋賀県多賀町は琵琶湖の東岸側鈴鹿山中にある、紅葉の赤が心に沁みるような美しい谷間の集落。

何も好き好んでの限界集落じゃない、マスコミや評論屋さんはなんだかんだと小難しいことを云うけど誰もそんな集落で生活したことなど無いんじゃない??。

鈴鹿山系滋賀県側の麓多賀町、犬上ダムから流れる犬上川南谷に沿うように走る県道34号で遡るとほど無く左手谷より流れだす大杉川に出合う。

谷川を詰め登って行くと直ぐに大杉集落のの入口辺り、此処から見る集落はびっしりノキを連ねているように見える。

集落への道は此処で川沿いに延びる新道と右手集落内を通る二手に分かれる。

まずは川沿い道を・・・・・

谷川の流れはあくまでも清く、川向には高い石垣を積み上げた懐かしい建物が軒を並べる。

こちらは裏側になるのだが・・・・・・。

左手高台に鮮やかな紅葉、その奥にに朽ちかけた和洋折衷様建物・・・・・。

登ってみるとこんな感じ、和洋折衷の建物は人の気配が消えたお医者さん、隣には庄屋さん風の大きな建物、きっとこの村の名士であったに違いない。

苔むした石垣の上に土蔵、診療所、萱葺屋を覆ったトタン屋根、真ん中に公孫樹の古木、両側には真っ赤な紅葉、山郷の古き良き時代を髣髴とさせる風情です。

左手高台に有る鎮守へと上る道沿い。

集落は約20軒余り、しかし人の気配が感じられない民家も・・・・。

 神社付近から見降ろす集落はどの家も立派で美しい。

しかし何軒もの民家には夜になっても灯が点かない。

 帰りは寺の有る集落内道を・・・

この建物は一体なんだったのだろう??今は公民館として利用されてるようだが・・・・、廃校跡・・・・違うかも??

主の居ないブランコが木枯らしに揺れる・・・時として美しいものには哀しさも潜んでいる。

撮影2010.11.27