愛しきものたち

石仏、民家街並み、勧請縄、棚田景観、寺社、旧跡などが中心です。

篠山市今田町 「瀬戸地蔵」

2015年11月20日 | 石仏:兵庫

丹波篠山、 今田町へ茅葺民家の撮影に行き、たまたま見つけた磨崖の石仏。

国道372号線から立杭方面に向かう県道141号線、芦原公民館の少し手前の東条川沿いに「瀬戸地蔵」の看板を発見、これはと思い立ちよってみた。

民家の前、小さな空き地の様な駐車場に車を停めると磨崖仏までは約100m程・・・河沿い崖道を奥へ進むと山手に祠の小さな神社。

神社も有って石仏も有ると言うことは、この川沿い崖道が旧街道だった様です。

高さ3m程の直立する岩盤の、ちょうど眼の高さほどの位置、向かって右側に舟形地蔵石仏・・・

左手には蓮台上、月輪の中に梵字を刻み付けて居ます・・・残念ですか摩耗のため文字までは不明でした。

「瀬戸地蔵」の名前で呼ばれる地蔵磨崖仏は舟形光背を彫り沈めた中に、蓮台に乗る像高40cmばかりの定形地蔵立像を中肉で刻み出している。

駐車場の案内板によると 室町時代のものらしいが・・・随分蓮台が簡略化されて居るような??

多分旅の安全と東条川の安寧をこの石仏と、先の祠に祈って旅を急いだのでしょう・・・・

 撮影2015.10.21

 


たつの市 觜崎(はしさき)地蔵磨崖石仏

2011年04月16日 | 石仏:兵庫

兵庫県たつの市の揖保川東岸にそそり立つ觜崎屏風岩に連なる南側の岩壁に刻まれた磨崖石仏です。

たつの市街から国道179号線で揖保川沿いに北進、約4km先の船渡の交差点で県道724号に入り揖保川を渡りきった觜崎橋東詰の信号で左折して河川敷道路に車を進めると左手の頭上高くで地蔵さんが迎えてくれる。

<磨崖石仏前の流れは「地蔵の瀬」と呼ばれている>

現在ではこのように近くまで車で進入することも出来また磨崖直下まで近づいて拝むこともできるが、昔は揖保川の対岸に遥拝所が有りそこから此の石仏さんを拝んだ様です。

因みに川幅は約200m近くも有り、とても石仏の存在すら解らない。

大岩壁の下から約7m程上方の岩壁に、舟形を彫り窪め蓮台上に立つ地蔵立像を厚肉彫りで刻み出している。

像高約130cm、定型地蔵、花形後背中に円形頭光を刻み、南北朝中期の北朝年号、文和3年(1354)の刻銘がある。

地蔵の三方向には臍穴と深い線刻が残り地蔵を覆う何らかの設備が設けられてたようで、地元では「イボ取り地蔵」と呼ばれ信仰されているようです。

約15m上流の岩面には四体の地蔵磨崖仏が刻まれている。

下方に二体を大きくその上方に小さな一体、後の一体がどうも見当たらない。

右手上方にそれらしき痕跡は有るのだが・・・・・・・地衣類が邪魔をしているのだろうか??

やっぱり臍穴と線刻が有って架け覆いが設けられていたのだろう。

播磨に在って石棺仏ではなくこれほどの磨崖石仏が有ると言う事は別の文化圏だったのだろうか・・・・・??

撮影2009.3.22


小野市 浄土寺地蔵石棺仏

2011年02月11日 | 石仏:兵庫

加古川からの帰り道隣町の小野市にも石棺仏が有ると居うのでここ浄土寺にも寄っって見た。

石仏だけの予備知識のままに現地を訪れこの古式豊かな建物に出会いただただ呆然、それもそのはずこの寺院は行基の建立した前身寺院の跡に東大寺大仏殿の鎌倉復興に尽力した俊乗坊重源が実質開山したという名刹だそうです。

僕が素晴らしい建築物だと思ったのは、浄土堂(阿弥陀堂)、で快慶の代表作である阿弥陀三尊立像が収められていて共に国宝に指定されている。

その浄土堂の前に心字池が配されその畔に石棺仏が三体並べたって居るが元々は近くの墓地に在った物を 移設したもののようです。

説明板では板碑というように説明されているようですが・・・、向かって右側には首が断裂して補修された地蔵菩薩立像。

石棺の底石だと思われる石材に、ちょっとにんまり微笑んだ像高約1mの地蔵立像を半肉彫にしていて、写真のようにちょっとユニークな姿の地蔵さんです。

 残りの二体は中央には阿弥陀三尊来迎図、向かって左手の物は曼荼羅が彫られてるようですが何がなにやらさっぱり状態です。

撮影2008.9.14


加古川市 上西条成福寺墓地の石棺仏

2011年02月10日 | 石仏:兵庫

加古川の南岸域、県道65号線の上荘橋東詰からJR加古川線の線路を越えて直ぐ、右手田圃の中に木立が見え、宮山農業公園の南の丘に臨済宗成福寺と言う寺が有る。

本堂左手に墓地が広がっていて二体の地蔵石棺仏が並んで立っている。

向かって左側には石棺材だと思われる地蔵菩薩立像を薄肉彫り、他方右手には石棺の蓋石を利用して彫られた同じく地蔵菩薩立像を薄肉彫りにしているがいずれも苔むして、左側の石仏は胴の辺りで断裂している。

この地域の石棺仏としてはさほど特徴もなく彫りも稚拙で室町時代後期の作だと思われている。

撮影2008.9.14


加古川市 中津の石仏

2011年02月04日 | 石仏:兵庫

国道2号線の加古川南詰めにある河原交差点を神戸方面から来ると右折、商店街のはずれ中津北の信号一っ手前の筋を左折そのまま家並を縫って進むとやがて権現神社に突き当たる。

この神社境内の直ぐ奥は加古川の堤防でこの地は、戦国武将梶原十右衛門の構居跡だと言われている場所で、境内には小さな権現神社の社が建っています。

神社の前はマッチ箱の様な新興住宅が建ち並び石仏と神社の在る景観には似つかわしくない。

石棺材を使ったと思われる石仏は神社に向かって左隅、境内と道路を分けるフェンスを背にして道路脇に数体の小石仏と共に並べ立てられている。

風化が激しく顔容も殆釈然としないが全体像から阿弥陀如来座像であろうと想像出来る。

川の氾濫や増水に依って尊像が削られたとは言うが顔などは凹んでいて子供がいたずらでもしたのだろうかと思ったり??

脇侍もありそうな空間が虚しいけど摩耗がひどすぎる。

撮影008.9.14


永昌寺阿弥陀三尊石棺仏(寺本地蔵)

2011年02月03日 | 石仏:兵庫

加古川東岸を河沿いに走る県道18号を河口方面から遡ると河が大きく蛇行するJR神野駅付近に小高い城山が有ってその西裾に永昌寺という寺があり。その前の道路わきの小さな祠の中にこの阿弥陀三尊石棺仏が祀られている。

辻の地蔵さんと言う風情で、真新しい花や線香も手向けられ地域の中に今も新興が行き続けていることが手に取るように伺える。

勿論「寺元地蔵」と呼び習わされているがごらんの通り阿弥陀さん。

一見、石棺だとわかる等身大の家形石棺材の裏へ定印の阿弥陀如来坐像、その下方左右に勢至菩薩と観音菩薩の立像を刻むというが殆ど確認できない。

銘文が刻まれ南北朝時代 康永二年( 1343年)追善供養のために作造されたもので、現在地は道路拡張とともに移動されたものだそうです。

像高約60cm、彫りは稚拙で野趣に富んでいて微笑ましい。

撮影2008.9.14


姫路市 八家(やか)地蔵

2011年02月02日 | 石仏:兵庫

前回紹介の福円寺から直ぐ目と鼻の先、福泊漁港の最先端、コンクリート岸壁に囲まれたおおきな地蔵堂が有ってこの見事な丸彫りの大地蔵石仏が祀られている。

堂内中央に鎮座するこの地蔵石仏は鎌倉時代に造られたと伝えられる地蔵菩薩半跏石仏で子授け地蔵として江戸時代に書かれた「播磨名所巡覧図絵」にもその名が載せられているようです。

石仏は円形光背、台座を含めると2m以上有り本体と光背は共に一石から刻みだし、地蔵菩薩石仏としては希に見る大きさで半跏像と云うのも石仏には珍しい。

左手に宝珠、右手に錫杖を持ち、おおきな白毫を持つ張りのある穏やかな顔容は精緻で生き生きとした木造を思わせる程の見事な彫りです。

<両脇侍の尊名は僕には解らないが風化磨耗が激しく顔容も定かではない>

作造様式から鎌倉中期の作だと言われる地蔵菩薩半跏石仏は脇侍に見慣れない二仏尊?を従えていて、こんな方式の地蔵石仏も始めて見たような気がする。

地蔵を中尊に後の世に祀られたであろう不動や阿弥陀石仏などを従えていて妙な気もする。

外部境内には風化磨耗の激しい石仏が林立、その一体毎に可愛い帽子・・・・。

岩壁が造られるまでは播磨灘の波や潮風がじかに石仏の身体を削っていたのだろう?最早原型を留めないものも多い。

現在、潮止め岩壁に周りを囲まれ窮屈そうですが・・・

撮影2008.9.14


姫路市 福円寺の石棺仏

2011年01月31日 | 石仏:兵庫

前回の真禅寺から南へ約10km弱、海沿いの町、的形町福泊に有る福園寺に石棺仏としては珍しい不動明王像が有ると言うので訪ねてみた。

福泊の漁村の匂いがする集落に入ると直ぐに福泊神社が有りそのまま道なりに進むと直ぐに福園寺脇に到着する。

福園寺の小さい境内を奥に進むと案内板が有って裏山の墓地へ登る参道(山道)を登りきると斜面に墓地が開けている。

開けた墓地前の木立の中に粗末な波板覆いが有ってその中にこの不動明王三尊石棺仏が立っている。

これが石棺か?赤い石棺、それは取りも直さず赤不動・・・・。

このように赤い石棺を見つけてそれに不動明王を彫りつけた・・・、それは故意で有ったのか偶然であったのか??

高さ 160Cm 幅 83Cm の赤い石棺材に燃え盛る火炎、躍動感溢れる像高1mばかしの不動明王立像

制叱迦童子(せいたか)  矜羯羅(コンガラ)童子の両脇侍。

石棺材を意識させないほどに大きく彫り出されていて最早原型をとどめていない。

赤い石棺材に燃え盛る不動明王・・・・・、偶然なのだろうか??

これは最早石棺仏とは呼べないのかも???

この不動明王に派手な波板囲いの覆い屋は似合わない。

撮影2008.9.14


真禅寺の石棺仏

2011年01月27日 | 石仏:兵庫

前回紹介の黒岩磨崖石仏より北方へ約4km、10分も走らないで着いてしまう距離。

姫路市とは言う物の加古川市や高砂市に接した地域で一連の石棺仏が見られる地域です。

国道2号線少し北に入った別所町北宿集落の奥まった前面に長閑な田園が広がる山裾に真禅寺はあって、境内の西側の墓地の真ん中目指す石棺仏は立っていた。

しかし石仏に在ってこんれ程までにデフォルメされた石仏も珍しい、高さ130cm、幅75cmの家型石棺の蓋に阿弥陀如来座像を薄肉彫りにしているが写真のようないでたちでまるで現代モニュメントのようにも見える。

室町期のこの石棺仏は、形式化がすすみ表現力に劣るといわれているが此処まで来ると別の意味での魅力を感じないわけには行かない。

石棺にデフォルメされた抽象的・幾何学的表現の石仏にどこか異質な文化を感じないでもない。

一方、本堂前に立つ高さ約1m、幅90cm程の石棺の蓋石を利用した如来座像石棺仏が有る。

像の周辺を彫り窪めレリーフ調に定印??の阿弥陀如来を刻みだしでいる。

像の左右に「文永二年乙丑」「十一月十日」の銘があって、在銘石棺仏としては最古だそうです。

大阪府柏原市山ノ井町の瑠璃光寺石棺仏に良く似ておりそれを真似たものだといわれているようです。

撮影2008.9.14


黒岩(くろいわ)十三仏磨崖仏

2011年01月27日 | 石仏:兵庫

加古川市の西となりに有る高砂市、その西端あたり姫路市の境界近くを流れる天川の橋を渡り直角にカーブを切ると国道250号線は川沿いに南下する。

橋を越え突き当たりに有るのが住吉神社、それを行き過ぎて直ぐ左斜面の崖に少し分かり辛いが磨崖石仏が彫られているのが見える。 

国道250線脇の斜面に沿った階段を登ると草が茂った、粗末な鉄柵の先に黒岩十三仏がある。

斜面に露出する花崗岩に幅 170Cm、高さ約70Cm、横長短冊型の彫り窪みを造り上下二段に13仏を刻みだしている。

上段には向かって左端から金剛界大日如来、虚空蔵菩薩 、阿閃如来 、阿弥陀如来、勢至菩薩のそれぞれ坐像。

下段は同じく左端から観音菩薩、薬師如来、弥勒菩薩、地蔵菩薩、 普賢菩薩、文殊菩薩 、釈迦如来 、不動明王の各坐像

「于時永正二年(1505)乙丑十一月二十八日、逆修尼衆、敬白」の刻銘が有り室町中期、逆修供養のために刻まれたもののようです。

500年以上も風雪と共に有り全体的に磨耗・風化が激しく判然としない。

しかしこの地域でまさか磨崖仏が見られっるとは思ってなかったので新鮮な驚きでした。

撮影2008.9.14


西之山墓地の石棺仏

2011年01月24日 | 石仏:兵庫

平荘町池尻の地蔵寺から加古川に架かる池尻橋を渡って加古川南岸を走る県道18号線を少し南下、左手への進入道を西の山集落に入る。

集落の入り口、左手野なだらかな斜面に墓地が広がり、入り口辺りに一目でそれとわかる二体の石棺仏が佇んでいる。

墓地の入り口に有って都合二石棺に六体の石仏が刻まれて居て六体地蔵かなとも思うが・・・そうでもない。

集落では六体地蔵としてこの墓地に祭られてるようだが・・・??良く見ると阿弥陀ばかりで地蔵はたったの一体、向かって左側の上段に錫杖を持って立っている。

向かって左手、石棺の側石だと思われる高さ130cm、幅約70cmの石材に上下2段に光背を持つ石仏が薄肉彫りで刻まれている。

向かって右側上段の地蔵菩薩のみが立像で円形光背??、残り三体の阿弥陀は全て舟形光背で坐像、下段の阿弥陀などはかなり省略された彫りに成っている。

向かって右側も同じく石棺側石部材ですが少し小さく、頭部は緩やかに角が取られています。

上部に二体の阿弥陀如来が刻まれていますが、殆ど隣の下段二体と変わらない彫りに成っていて南北朝時代、同作者によって彫られたものだとされています。

こういう古びた共同墓地で死者を救う為の六体地蔵として祀られたこの侘びた感じも、野の仏としてのたまらない魅力を感じさせてくれる。

撮影2008.9.13


西神吉町 宮前の石棺仏

2011年01月23日 | 石仏:兵庫

四方皿池の交差点より約2km程南方西神吉町宮前公民館脇に有る真福寺の境内、公民館との堺の辺りにも二基の石棺仏が並んで建っている。

小さなお堂の脇、最近整備されたのか砂利を敷き詰められた一角に立つ二基のうち一基、大きい方の石棺には何のあと加工も施されなくてこれは石棺仏とは言えないだろうが??これも信仰の対象に違いない。

勝手古墳のそこに眠っていた石棺が何の理由か掘出され、それを建て仏と見立てて信仰したものだろうからこれもまさしく石棺仏に違いない。

片や小型の家型石棺蓋石内側に大きく掘り込んだ舟形光背の中に像高約50cmの阿弥陀如来座像を中肉彫りで刻みだしている。

頭部は長い歴史の中、信仰の摩擦摩耗に依るものか目鼻立ちも覚束無い程にツルツルピカピカ・・・・。

当初から螺髪もなかったのだろうか??これも信仰のたまものか??本当にツルツル・・・。

撮影2008.9.13


四方町 皿池二尊石仏

2011年01月22日 | 石仏:兵庫

加古川平荘町の隣町、四方町の中心付近に有る県道65号線と県道515号線が交わる四方皿池交差点の直ぐ脇、北西隅に皿池という溜め池があって

池脇の細い堤の行き当たりに開けた広場があって池を背にしてこの二尊石棺仏が祀られている。

これは正しく野の仏、多分少し前までは背後に建ち並ぶ建物などもなく長閑を絵に描いたように佇んでいた事だろう・・・・。

背が高くのびた南天の脇に高さ1m弱の石棺部材(側石かな??)に向かって右に蓮華坐に坐す定印の阿弥陀如来坐像、

左手には同じく右手に錫杖、左手に宝珠を持つ地蔵菩薩坐像が薄肉ではあるが意外にはっきりと残っている。

二重光背の中に刻まれた石仏は共に像高30cmばかり、室町前期の造立だと考えられています。

この辺り溜池と石棺仏は何処に行っても出逢えそう・・・・。

 撮影2008.9.13


大日寺の石棺仏とキリシタン地蔵。

2011年01月21日 | 石仏:兵庫

がらんと開けた田舎寺という雰囲気の境内、その片隅に横一列に並べられている数体の石仏さんたち。

元々こうではなかっただろう、加西市の文化財に指定されたのでこのように横一列に並べられ、大日寺石仏群と呼ばれてるのでは・・・。

まあそんな事は同でも良いけど、やっぱり目に付くのが大きな石棺の蓋石に刻まれた阿弥陀さん・・・

像容も顔容もおぼつか無く、如来とだけは何とか判る・・・その上あかい涎掛け、坐像だと思うけど確信はない。

涎掛けも良いけどちょっとその裏に隠れている姿も見てみたいとおもう、それでも光背に化仏が三体は見える。

実は七体あるらしい。

実は有名なのが後に立ってる大きな丸彫りの何でもなく見える地蔵さん。

表は何でもないけど・・・・後に廻ればこの通り、しっかりクルスを背負っています。

加西とキリスト教の結びつきが余り良く判らないけど、近くには何体かこういう石仏が有るようです。

撮影2007.12.8


地蔵寺の石棺仏

2011年01月21日 | 石仏:兵庫

地蔵寺は石棺銀座の平荘町の一画、県道65号線と県道79号線が交わる西山交差点から南へ2km弱、加古川に架かる池尻橋近、本村集落の東脇、丘陵裾の斜面にこの地に在って珍しく石造仁王の立つ地蔵寺が有る。

石段を上り山門を潜ると境内のすぐ左側に二基の石棺仏が迎えてくれる。

向かって右側に建つのは石棺の側石を利用した二重光背の中に立つ地蔵菩薩を刻んでいる。

これだけなら珍しくも無いが裏に廻れば胎蔵界大日如来の種子である「ア」の種字が薬研彫りされている。

下部には弘安四年(1281)四月廿日と刻まれており鎌倉初期の造立。

現在表に成ってる地蔵立像はそれより何年かあとに刻まれたようで本来奈良こちらは裏側になるのかな??

一方向かって左手には家形石棺蓋石の内側を利用して、上方二段には三体づつの六地蔵、下段の二体は被供養者の男女であろうといわれて居て加古川市の文化財に指定されている。

地蔵立像の石棺仏とよく似た彫りや同様の二重光背から同じ頃の造立と考えられて居るようです。

撮影2008.9.13