愛しきものたち

石仏、民家街並み、勧請縄、棚田景観、寺社、旧跡などが中心です。

明日香村檜前(ひのくま) 薬師如来石仏

2012年08月31日 | 石仏:奈良

明日香村檜前(ひのくま)はつい先だっても取り上げた於美阿志(おみあし)神社の在るところ。

檜隈寺跡の一角、於美阿志(おみあし)神社前の農道を道なりに進めば右手に一間四方の簡素な小堂が建ち、中に写真のような薬師石仏が祀られて居る。

格子扉は例に依って鍵をかけられていますが幸いなことに涎掛けは有りません。

この地の人はこれが薬師仏と解ってそうしているのか?石仏と言うだけで涎掛けを掛けるところも多いのですが・・・。

もともと堂内に祀られて居た物か目立った傷みも、摩耗風化も大したことは無く、保存状態は良好です。

棧が邪魔をして下部がどうにも見えませんが総高約90cm、蓮華座に座する薬師如来です。

像高約60cm、略式化と形式化が進んだ稚拙っぽい彫りです。

右手の施無畏印、左手の薬壺を持つ手もどこかしら幼児のお絵かきの様ですが・・・。

光背右面は天正二年(1574)の銘が有り安土桃山時代の造立。

撮影2011.8.25


高取町  子嶋寺不動石仏

2012年08月30日 | 石仏:奈良

高取城の城下町、土佐(高取の旧名)に有る子嶋寺境内に立つ不動明王石仏。

<高取城二ノ門遺構>

高取城は我が国最大規模を誇った山城ですが明治の廃藩置県で廃城となり、明治20年頃にはほとんどの建物がうち壊され、この子嶋寺にはその二ノ門が移築され今に伝えられて居ます。

子嶋寺は天平勝宝四年(752)頃創建の古刹の様ですがその面影を見出すことは難しく、現在の本堂は江戸末期の建立。

山門を潜った左手、小さな築山の木立の下にこの不動明王石仏が建って居る。

高さ約1.4mの舟形状自然石に像高約80cmの剣、索を持つ不動明王立像を中肉彫りで刻み出して居る。

後背面には火焔と矜羯羅(こんがら)童子、制多迦(せいたか)童子の種子を刻みつけ、室町後期天文24年(1555)銘が有る。

それほど良い出来栄えの不動明王とは思えませんが、中世後半期の子嶋寺をどんな目で見てきたのでしょうか??

撮影2011.7.13


桜井市忍坂(おっさか) 忍坂道辻堂の石仏

2012年08月29日 | 石仏:奈良

忍坂道伝承地の道標脇、小さな覆屋の中とその脇に立つ石仏さんたち。

今はその面影すら有りませんが、神武天皇が九州より東征のおり、熊野から吉野、宇陀を越えこの忍坂街道を通り奈良盆地へ進出したといわれ、日本最古の街道と呼ばれています。

そんな旧道脇だと思われる場所に数体の石仏が置かれていますが、あまり手入れも行き届かなく草茫茫と云う感じは否めません。

ここは国道166号線忍坂集落の南外れ、忍坂東の信号を少し北に歩いた東側。

お堂の中には首と足許で断裂し、接合せた地蔵石仏、顔もツルツル何が何やら状態の定形地蔵菩薩。

危なかしくて涎掛けも取れません、総高約1m、ちょっと気の毒な姿です。

脇の一体はの庚申講の青面金剛像。

堂外、向かって右脇には、高さ約1mの自然石に薄肉彫りの不動明王立像。

右手に宝剣、左手には羂索(けんじゃく)を持ち目を釣り上げてはいるものの少しも怖くない不動明王石仏。

稚拙で親しみやすい江戸期のものでしょうか??。

銘はあるのですが読みくだせません。

向かって左手には・・、こんな阿弥陀如来だと思われる石仏。

自然石の上部を庇に見立て下部を削ぎ落とし厚肉彫りで蓮華座に坐す。

弥陀定印を組み、像高約70cm。

いずれ民間信仰と共に生きてきた石仏さん達でしょうが・・・素朴な味わいがなんとも素敵な石仏さん達です。

撮影2006.6.24:2011.8.25


大阪府堺市 大野寺土塔

2012年08月28日 | 石塔:石造物

石塔シリーズ、今回の締めくくりは石塔では無く土塔ですが・・・、十三段の土段の表面を60000枚にも及ぶ瓦で葺かれた十三重の塔です。

当時荒れ果て、小山の様になっていた土塔は平成21年4月、発掘調査の上、復元整備により創建当時の姿も再現されました。

よく似た構造物に奈良の頭塔が有りますが、あちらは七段の土壇を石で囲み石仏を設けて居る。

大阪堺市中心街より南へ約7km、名だたる大古墳地帯の南外れに土塔町と呼ばれる地域があり、今は公園と成った中に、真新しい瓦を葺いた土塔が有る。

我が国唯一の遺構だとされる土塔は、堺出身の奈良時代の高僧、行基が建立したとされる四十九院のひとつ、近くの大野寺の仏塔で、平安時代の「行基年譜」には神亀四年(727)起工とあり、鎌倉時代の記録にも、本堂・門とともに「十三重土塔」と記された塔が描かれているようです。

実際に目の当たりに見る復元された土塔は、瓦を覆い被された何か超近代的な方形墳のようにも・・・・

近代的なモニュメントのようにも見えたり・・・・、一見してこれが十三重の仏塔だとは説明板がなければ誰もそれとは気がつくまい。

発掘調査によると土を盛り上げた底辺は、一辺53.1m、高さ8.6m以上(十三層目の建物が不明なため)、各層は瓦で覆われ「神亀四年」と記された軒丸瓦も出土しているようです。

現在の姿は一部発掘状況が解るようにし、全体を盛土で保護、十二層まで復元、約2分の1の面を創建当時のままに再現されています。

まあ見事なんだけど・・・、どう見ても新しすぎてやっぱりシンボルモニュメント・・・・、これが仏塔だとい言われてもなんだかなあ・・・・。

整備しないで置いておくと、ただの築山だし・・・・。

非常に貴重な遺跡のため昭和28年(1958)国の史跡に指定されています。

撮影2010.1.10


奈良市針町 観音寺十三重石塔

2012年08月27日 | 石塔:石造物

走り慣れた大和高原中央部、名阪国道針IC近くに有る観音寺の十三重石塔です。

寺伝によると宝亀年間(770~779)に小堂を建てたのに始まると言われていますがその後の詳細は解りません。

針ICを出て国道369号線を右折、名阪の陸橋を渡り最初の信号で左折、針の在所道に入ってすぐ左手に観音寺と鎮守春日神社が併存している。

道路から宝筐印塔の並び立つ急な石段を登ると瀟洒な山門・・・・

山門を潜ると狭い境内の正面に本堂、向かって左手、寺墓の中央に姿の良いこの13重石塔が建って居ます。 

正面を東に向けて建つ十三重石塔は、高さ約4.7m基壇と基礎石の間に大和地方独特の複弁反花(かえりばな)座を設け、基礎石の上にバランスの良い初軸部と屋根部、相輪を積みあげて居る。

初軸部塔身には顕教四仏を・・・・、屋根石は穏やかな反りを持ち、その逓減率のバランスも良い。

南面基礎石に「正平七年壬辰二月十五日 造立之大工 行就」の銘が有り、鎌倉期の石塔を彷彿とさせる南北朝前期、 正平七年(1352)の造立。

正面(東面)には二重光背を彫り沈めた中に蓮華座に坐す薬師如来を・・、右側北面には同じく弥勒仏を。

裏側、西面には定印の阿弥陀如来、左手南面は釈迦如来。

名石工、伊(猪・井)一族の流れを汲む石工の名が有り、顕教四仏も小さいながら鎌倉期の流れを良く伝えた秀作です。

屋根石、相輪も一部欠損は有るものの全て揃っていて、旧都祁村の文化財に指定されて居ます。 

撮影2012.4.14


滋賀県湖南市 長寿寺石造多宝塔

2012年08月26日 | 石塔:石造物

さすが石塔王国の感が有る滋賀県、全国的にも数が少ない石造多宝塔が旧石部町東寺の長寿寺参道脇に建ち尽くして居る。

<桧皮葺の瀟洒な長寿寺山門>

石造多宝塔ではそう遠くない旧甲西町少菩提寺跡多宝塔が重要文化財指定として有名ですが、よく似た形と大きさを持ちながら、ここ長寿寺の物はあまり紹介される事もない。

長寿寺は琵琶湖の東、所謂湖南アルプス西斜面山懐の鄙びた東寺集落奥に建つ古刹、寺伝では、奈良時代に聖武天皇の勅願により、良弁が紫香楽宮の鬼門を封じるために創建したと伝えられ、 鎌倉初期の古式な桧皮葺本堂は国宝にも指定されているほどの名刹です。

多宝塔は山門から本堂への参道右脇の木立の中にその独特な姿で建ちつくしている。

小さな切石を何個も並べて二段の低い基壇を設け台形の薄い繰り出しを持つ基礎石を載せ塔身、屋根石、饅頭型などを積みあげて居る。

総高約3.6m、あの重文指定の少菩提寺跡のものに比べても決して退けを取らない。

基礎石に載る塔身は四面共に粗面で銘らしきものはなく、少し細めで背が高い。

饅頭型上部の屋根石の上に更に笠石を載せ、相輪に変え宝珠を置いているが、上層屋根石から上部は妙にアンバランス。

造立銘がなく確定できませんがその様式や酷似性から少菩提寺跡多宝塔(鎌倉中期)を、そう下ることはないと考えられて居る。

境内傍らにはこんな石塔の残欠も有り、この相輪がもしやと思ったり・・・・。

撮影2010.2.20


京都府京田辺市天王 極楽寺九重石塔/阿弥陀三尊種子板碑

2012年08月25日 | 石塔:石造物

昔流に言えば昨日紹介の高船の隣在所、天王集落極楽寺にも九重石塔と阿弥陀三尊種子板碑が、新しくなった境内山門脇に立っている。

高船からは尾根道伝いに約2km北東へ、大阪枚方の尊延寺(そえんじ)からも約2km、ここもまた幹線道路とはすっかり離れた山懐の隠れ里。

はるか東に山城平野を貫く木津川を見渡す山襞に軒を連ねる。

極楽寺より奥の斜面に鎮座する朱智神社牛頭天王(ごずてんのう)を祀る事からこの名が付けられたと言われています。

集落西端高台にある極楽寺は、鎌倉時代の嘉暦年中(1326~1328)開山、つい最近の平成18年境内が整備され本堂や庫裡が新築されて真新しい。

真新しい山門を入って直ぐの右脇、境内石垣ギリギリに瀟洒な九重石塔と先の尖った板碑が並び立って居る。

九重石塔は高さ約3.3m、相輪は途中で欠損、九層目屋根石は後補、基礎石に寛正五年(1464)の銘を刻み、室町時代中期の造立。

初層軸部には線彫り月輪の中、薬研彫りの金剛界四仏を刻み込んで居る。

南西に向かって建つ本堂に対峙する石塔は、東面を正面に向け、阿シュク如来の「ウーン」を刻む。

向かって左側は北面、不空成就(ふくうじょうじゅ)如来の「アク」を刻む。

種子の薬研彫りは室町中期の物にしてはかなり深く、味わいが有る。

傍らの板碑の山形頂部は鋭く、額には二条線を持ち、正面に鎌倉様式の蓮台に載る、向かって右に観音種子の「サ」、左に勢至種子の「サク」。

その上部、幅いっぱいに確かな線彫りの月輪の中、阿弥陀種子の「キリーク」を鋭く深い薬研彫りで刻んでいる。

下部には鎌倉末期正中二年(1325)の銘を刻み、総高107cm、近くの共同墓地から移されて来たようです。

京都では珍しい鎌倉時代の板碑で、国の重要美術品に指定されている。

撮影2011.3.31


京都府京田辺市高船 極楽寺五重石塔/阿弥陀種子板碑

2012年08月24日 | 石塔:石造物

我がふる里、南山城を南北に貫く木津川左岸、京田辺市の隠れ里、高船にある五重石塔二基と板碑です。

<極楽寺参道から振返る高船集落>

京田辺市街地より南西に約10km、山城、大和、北河内の國境、生駒山系から迫り出したなだらかな丘陵山懐にひっそりと肩を並べる高船集落がある。

<参道より見る本堂>

京田辺方面から奈良県生駒市方面に抜ける幹線、府道65線「打田(うった)」で分岐する林道を?を約2km強、高船集落の中心部に建つ極楽寺境内に有る。

こんな人里離れた山懐集落にあっても、この集落はまだまだ健在、っみょうに暗い雰囲気がない・・・、それは都市圏に近いと言う地理的条件と冬にも雪が無いという気象条件に恵まれているからだろう???。

 桃山時代の天正年間(1573~1591)に拓かれた西山浄土宗の寺院だと言うが、この寺もまた古い廃寺跡に再興された寺なのかも・・・・境内に有る石造物はそれを物語るように鎌倉期を下らない。

本堂前方、境内片隅、木立の陰には古式なバランスの良い 五重石塔 。

相輪や屋根石に一部欠損は見られるものの、初層軸部には月輪内に薬研彫りの金剛界四仏の種子を刻み込み、鎌倉時代後期の造立。

正面を西に向け本堂と対峙する西面軸部の深く薬研彫りされた阿弥陀如来の「キリーク」・・・、屋根石は分厚く、軒反りも穏やかです。

一方境内の北隅、庫裡の傍らには、ちょっと寸足らずで元七重石塔だと思われる層塔が建っている。

相輪は途中で欠損、初段屋根石とその上部では奇妙に軒ぞりが違ったり・・・・。

軸部の四方仏の方向もずれている

こちらが正面、二重光背を深く彫り沈めた中に中肉彫りの阿弥陀如来を刻み出している。

実際は南面しているので90度逆時計回りにずれています。

左手、本来南面の釈迦如来坐像・・・しっかり左手が触地印。

裏側は北方向、実際には東面の薬師如来坐像。

最後、東側の面には北面の弥勒に変えて錫杖宝寿の地蔵坐像・・・・いずれも身の丈30cm足らず。

この規模の石塔にしてはなかなかの四方仏で、鎌倉後期の造立。

本堂右手片隅、寺墓脇に立つ板碑。

頂部を錐先のように尖らせ、彫りの浅い二条線と小さな額を持つ。

その直下にはもう確認もできない程薄い月輪の中、阿弥陀種子の「キリーク」を薬研彫りで刻み出している。

総高約1.8m、種子の下部には何も刻まれず、一説には未完成の板碑だとも言われている。

いずれにしても鎌倉こ後期の造立・・・・・。

この地には元、どんな寺があったのだろう??

撮影2012.5.3


伊賀市喰代(ほおじろ) 永保寺宝塔

2012年08月23日 | 石塔:石造物

3mにも及ぶ程の総高を持ち、見慣れない造形で建つ伊賀には数少ない宝塔です。

永保寺は喰代(ほおじろ)と言う曰く因縁の有りそうな難解地名の土地に建つ古刹ですが、今は無住となりその広い境内は地域老人のゲートボール場と化して居る。

永保寺の在る喰代(ほおじろ)は、伊賀市街中心辺りより南東方向に約10km、県道56号線喰代交差点から南方、すぐ見える位置に建って居る。

周囲は懐かしさの残る里山地域、すぐ近くには伊賀流忍術の百地砦も有り歴史ゆかしい土地柄です。

そんな境内の片隅に立つ宝塔はどうも見なれない奇妙な塔姿、やけにのっぽ過ぎます。

素人の僕が見てもおかしいのは塔身と基礎石の間に入った、まるで国東塔の特徴的な蓮華座と反花が在り、基礎石の下部にはまだ四段の切石を組んだ基台を設けて居る。

どう見ても蓮華座と反花、四段の基台は新しく江戸時代以降のもの・・・・。

笠部、塔身、基礎石は古様で鎌倉期を彷彿とさせるが、基礎石に記銘は見つからない。

部材の大部分は新しく、江戸時代の後期、一連の安政大地震の前触れとして起きた伊賀上野地震に依る倒壊、破損で再興する際、大きくより立派に見せるため継ぎ足しされたものだろうと思われる。

もしかして笠部や相輪部も、それより以前に後補されたものかも???

撮影2011.3.12


三重県名張市箕曲中村(みのわなかむら) 福成就寺十三重石塔

2012年08月22日 | 石塔:石造物

三重県伊賀市の隣町、名張市箕曲中村の福成就寺の十三重石塔も又、見慣れない姿で建っている。

<一段高くなった箕曲神社からの石塔>

近鉄名張駅より南へ約2km、山手に新興住宅の広がる山裾にある集落、箕曲中村の外れに箕曲神社と境内を共にするように福成就寺が在って、その境内中央にこの奇妙な姿の十三重石塔が在る。

力強い軒反りを持ち、程良い逓減率を持つ屋根石に較べ初層軸石下部からのアンバランスさは否めない。

軸石の下に反花、その下に本来の基礎石、続いて蓮座、反花、又二重の基礎台を設け基壇の上に立つ。

高さ4.8mと聳える様に高いが足元がどうも覚束ない。

初層軸部には江戸期そのものの蓮弁上に月輪を置き、中に金剛界四仏の種子を刻むが全体に貧弱で後補。

二重基礎台の五輪塔複弁反花座は桃山時代、その上の請座は江戸中期、軸部下の五輪塔複弁反花座は南北朝時代の寄せ集めとされている。

本来の基礎石部、北面には鎌倉後期の正應元年(1288)の銘が確認されて居る。

正面(東面)基礎石部には追刻された「享保十二年(1727)、丁未天、三月五日、再建村中」文字がある。

相輪も完品ですが江戸時代の後補・・・・

<西面から>

石塔の前には自然石に刻まれた碑文が有って・・・・・。

「奉拝御塔大日如来・正暦元卯四月廿八日建立為成就・慶長元年七月五日大地震ニテ落・享保十弐年迄中絶同年ニ再建・嘉永七六月十四日大地震ニ落建立・甲寅八月廿八日」 と有る。                    

正暦は正應の読み間違い、二度の大震災に遭い、倒壊を破損を繰り返したのだろうが、なんとかその度に復興されたようですが、当初の物は屋根石のみ(それも全てがそうだとは思えない)・・・・・・・・。

いずれにせよ原形は忍ぶべくも有りませんが、鎌倉時代後期の十三重石塔として重要美術品に指定されて居ます。

撮影2012.8.16


奈良県生駒市小倉寺町 教弘寺(きょうこうじ)十三重石塔

2012年08月21日 | 石塔:石造物

今はひっそりとした生駒聖天宝山寺への参詣道筋、小倉寺町の斜面、昼なお暗く忘れ去られた様な・・・・教弘寺境内に建つ十三重石塔です。

<左手、朽ち果てたような中之坊??>

生駒山南面山麓に建ち、役行者(えんのぎょうじゃ)が開闢したという伝承が残る山岳寺院・・・・弘法大師もこの地で修行、中世には奥之坊、中之坊、新坊(あたらしぼう)、大門坊、岡之坊の五坊が建ち並ぶ名古刹だったそうですが、現在は見るも無残な状態になって居ます。

その脇の参道石段を登ると瀟洒な山門。

山門を正面に向けて建つ本堂、その右側にひっそりと立つ十三重石塔は総高約4m・・・・、まるで別の時間が流れている様な静寂な空間です。

正面を本堂と同じく東に向け、少し華奢ながら力強く建っています。

基礎石は四面共に素面、初層軸部月輪内に金剛界四仏の種子を薬研彫にしている。

東面は阿シュク如来の「ウーン」・・、月輪の線も弱く、薬研彫りは深いながら少し弱い筆致。

背後西面、阿弥陀如来のキリーク・・・、やっぱり少し力足らずを感じる鎌倉期を踏襲した南北朝期の造立??

現在こうした名古刹が寂れて行くのは忍びないが・・・・それはひとえに時代に乗り遅れ取り残されただけなのかも??

それを僕等は風情と云う二字で片付けているのかも・・・・。

撮影2012.6.3


京都府旧加茂町 岩船寺(がんせんじ)十三重石塔

2012年08月20日 | 石塔:石造物

間違いなく鎌倉後期期の雄姿をを持つ完品の十三重石塔、寺伝では正和3年(1314)妙空僧正の建立と伝えて塔姿像容に合致する。

毎回ながらこの地、当尾(とうのお)岩船寺前に立つと、どうも方向感覚が狂ってしまう。

それは奈良側から入ろうが、瓶原(みかのはら)方面から入ろうがクネクネと細い山道を走って来る「隠れ里」からなのかも・・・・。

僕の感覚では参道の向こうに北向き建っていると思っていた山門が実は正反対の南向き・・・・、難儀なことに俄には方向感覚は戻らない。

何度も訪れる岩船寺、今回はこの石塔と2~3の小石仏を目的に来たので一直線に石塔まで・・・。

大きな石積壇上に建ち、高さ5.3m、屋根石の軒反りも逓減率もバランスも良く安定感がある。

岩船寺十三重石塔は東向きに建つ本堂と相対峙するよう正面を西向けに建ち、基壇に低く巻いた切石上へ基礎石を載せている。

基礎石は四面共に粗面で刻銘は無し、初層軸部にはそれぞれ、金剛界四仏の種子を深く鋭い薬研彫りで刻み込む。

蓮の花が咲く阿字池を左手に、塔の左より本堂を見る。

天平元年(729)聖武天皇の発願により行基が開基、後変遷があり弘仁二年(813)堂塔伽藍も整備されたという名古刹です。

初層軸部正面、分厚い屋根石、力強い軒反り・・・・、

深く刻まれた阿弥陀如来のキリーク・・・・・、これぞ鎌倉期の薬研彫り。

右手、北面には不空成就の「アク」を刻む・・・・資料には月輪内と成っているがどうも僕の目では確認出来ない。

向かって左側、南面は宝生如来の「タラーク」

背後の東面には阿シュク如来の「ウーン」

昭和18年積み直し修復の際、軸石凹みより水晶製の五輪舎利塔が見つかっている。

因みにこの十三重石塔は、国の重要文化財に指定されて居る。

撮影2012.8.11


奈良市柳生坂原町 南明寺十三重石塔

2012年08月19日 | 石塔:石造物

柳生坂原、南明寺の古式な重要文化財指定の本堂脇、境内南西隅に建つ十三重石塔です。

前回紹介の円成寺より道なりに柳生方面へ約5km足らず、大柳生の里を越え、次に広がる里山が柳生坂原

僕のお気に入り、暇あるごとに訪れても飽きない所・・・・・、畦道や川淵に磨崖の野仏が点在していたりして至極の時間を過ごせます。

下脇在所の旧道脇に鄙びて古式な南明寺がある。

南明寺は飛鳥時代に天竺僧により拓かれたとされ、幾多の変遷後、鎌倉時代の建立になる重文本堂や藤原時代の重文木彫仏が何体も残されて居る。

本堂屋根ひさしの提灯は当日夜の地域盆踊りの飾り付けです。

境内西端、北面から見た十三重石塔はどうも少し華奢で屋根石の逓減率も良くはない。

こちらは東方から見た石塔、基礎石も少し高く、鎌倉期の作風を伝える南北朝の造立だろうか??

北面の全塔身・・・屋根石は13層ほぼ完品で残るが相輪部は九輪途中で欠損。

基礎石、初層軸部共に腰が高く華奢な感じは否めない。

正面がどちらかは分からないけど本堂の向きに合わせ北面を正面と見る。

基礎石は四面全て素面でその上に載る初層軸部には目立たない程薄い月輪で囲み、中に金剛界四仏の種子を薬研彫りにする。

北面には不空成就の「アク」を刻むが・・・・、薬研彫りの筆致が心なしか弱く感じます。

左手、境内への入口向きの東面には阿シュク如来の「ウーン」

右手、西面は阿弥陀如来の「キリーク」

最後に裏面の南面は宝生如来の「タラーク」を刻む。

境内西端、石塔の傍らに並び立つ中の宝篋印塔。

九輪の上部を欠損するもかなり古式な佇まい。

こちらも塔身に金剛界四仏の種子を薬研彫りにして鎌倉後期の造立だと考えられて居る。

殆ど訪れる人とてない片田舎のなんでもない日常の片隅です。

撮影2012.8.11


奈良市忍辱山(にんにくせん)町 円成寺(えんじょうじ)十三重石塔

2012年08月18日 | 石塔:石造物

建ち尽くすだけでも不思議な程に大破した平安時代後期の十三重石塔です。

柳生街道奈良市街から柳生へのちょうど中間点辺りに在る隠れ名古刹、円成寺の境内林に怪しく立ち尽くして居ます。

鄙びた山里の古寺ですが、名仏師「運慶」のデビュー作である国宝「木造大日如来坐像」を所蔵する事でも全国的に知られ、いつ訪れても他府県ナンバーの車が駐車して居る。

国道369号線から池の周りをめぐる浄土式庭園を左手、昼でも暗い林の中に忽然と現れる。

背の高い近世の宝篋印塔、その横に建つ最早全形を留めない十三重石塔。

南面を正面にして凝灰岩製、現存高約4.5m。

九層目から上部の屋根石はまるで自然の石塊を積んだよう・・・頂部には五輪の空風輪が転がって居る。

基礎石は殆ど土中に埋まり初軸部の底部も侵蝕がひどく、今にも倒れてしまいそうです。

しかし10年ばかし前に見た時と何も変わってはいない。

正面の南面・・・周囲を丸く削り落とし、浮き上がらせた薄肉の月輪内に平安後期独特の平底彫りの顕教四仏、南面の釈迦如来種子「バク」を刻む。

この平底彫りの種子は明日香村「於美阿志(おみあし)神社層塔(十三重石塔)」にそっくり。

向かって左手、西面は阿弥陀如来の「キリーク」も上部を残すだけ・・・・・。

向かって右側、東面は薬師に変えて阿シュク如来の「ウーン」を刻む・・・よくわからないけど。

裏側北面は弥勒の「ユ」を刻み込んでいるがやっぱり底部に痛みがひどくて気に掛かる。

こんな状態でどうして倒れないのか不思議なくらいです。

重要美術品に指定されて居る。 

撮影2006.11.12/2012.8.11


京都府旧加茂町 燈明寺(とうみょうじ)十三重石塔

2012年08月17日 | 石塔:石造物

JR加茂駅東出口北東へ約500m程の山裾に鎮座、御霊神社の北側に隣接する燈明寺本堂跡に建つ十三重石塔。

寺伝によれば燈明寺は、聖武天皇の勅願により僧 行基が開基したという古刹、なんの因果か本堂(重文)や三重塔(重文)は横浜市にある三渓園に移築され保存されている。

兎並の新興住宅付突っ切り小川を渡ると正面に一直線の石段参道が有り、境内奥に朱塗りの御霊神社が鎮座している。

境内から振り返るとこんな景観・・・背後の高い建物は加茂駅そばの高層マンション。

御霊神社は元「燈明寺」の鎮守社で同境内に併存していた・・・・現在御霊神社に隣接して燈明寺境内があり、宝物館と鐘楼、他にこの十三重石塔や石燈籠(摸作)が置かれている 。

十三重石塔は山裾の木立を背に西向きにすくっと建つが・・・頂部、相輪を欠く。

少し南東の斜面に倒壊していたものを復元したという事ですが・・・・、 豪放さに欠ける華奢な塔容で鎌倉末期から南北朝の造立。

基礎石は低くなく枠取りをした中に格狭間を造り、奈良文化圏の南山城では珍しい三茎蓮文様をを刻み出して居る。

初層軸部、華奢な塔身には金剛界四仏の種子を大きく刻んでいる。

正面(西面)、阿弥陀如来のキリーク

向かって右側、南面の三茎蓮はご覧の様に大きく破損、塔身には宝生如来のタラーク。

向かって左、北面、基礎石の三茎蓮と塔身には不空成就如来のアクを刻む。

裏側東面、阿�罠如来のウーンをきざむ。

現在伝わっている五体の遺物は例年11月3日に一般公開されているようです。

付近、兎並集落の景観。

撮影2012.8.11