倉野磨崖仏は前回紹介の小路磨崖より川内川沿いに国道267号線で遡ること約10分ばかし、樋脇町の北端の倉野は川内川が大きく迂回する南岸の低い丘陵地に有る。
田園地帯をまっすぐに進みきった丘陵地の始まる辺り、明治廃仏毀釈で潰された木下瑞泉庵跡の南面する低い崖面に種子磨崖仏や種子板碑・五輪塔・阿弥陀像などが数多く刻まれている。
何といっても石仏ファンは先ずこの磨崖石仏から・・
崖の表面を整形、中央に屋根型を浅く彫り、その下部を方形石龕の様に深く彫りこみ、中に赤く彩色痕の残る阿弥陀如来坐像?をほぼ丸彫りに近い厚肉彫りで刻み出している。
向かって右手には月輪内の蓮弁に載る種子・・・、左手脇には短冊形の中に二種子を大きく薬研彫り、下部には文保二年(1318)七月八日の文字がしっかり読め、その脇にももう一種子。
左手下部方形の中には浮き彫りの五輪塔。
種子磨崖と同じく文保二年(1318)鎌倉後期の造立、哀しいかな顔部鼻先と手首が欠損、手印が不明なので阿弥陀如来とは断定できないが体躯の張りも良く小像ながら力量感に富む。
少し離れた崖の中央部分には大きい月輪を中央にして六体の種子(梵字)磨崖仏、向かって左手の三体は苔生し崩れ果てたか何が何やら・・・
中央月輪内には見かけたことのない種子、「オーンク」と呼ばれる種子で「両部(近胎)不二大日」を表すと言われ世界中でも此処だけでしか見られないという。
脇には中央よりから、バク(釈迦)・キリーク(阿弥陀)・バン(金剛界大日)の順で大きく方形を彫り沈め見事な薬研彫りで表している。
ここにも文保二年(1318)九月の銘があり鎌倉後期の造立。
崖前の余り広くない空き地には六地蔵石塔と呼ばれる石造物。
瑞泉庵の遺品なのだろう、簡略化された蓮弁上に載る六地蔵、時代はぐう~~んと下って近世のものか??・・・・・。
傍らには首と手首を無くした大きい丸彫りの石像、さて一体何なのでしょうか??はあ~~、良く解りません。
薩摩地方は廃仏希釈の波がことさら強かったとか・・・。
そう言えば県内結構走ったけれどこれはと思うほどの伽藍には出遭わなかったような・・・・・。
撮影2011.12.19