愛しきものたち

石仏、民家街並み、勧請縄、棚田景観、寺社、旧跡などが中心です。

鹿児島県薩摩川内市 倉野磨崖仏

2011年12月31日 | 石仏:九州

倉野磨崖仏は前回紹介の小路磨崖より川内川沿いに国道267号線で遡ること約10分ばかし、樋脇町の北端の倉野は川内川が大きく迂回する南岸の低い丘陵地に有る。

田園地帯をまっすぐに進みきった丘陵地の始まる辺り、明治廃仏毀釈で潰された木下瑞泉庵跡の南面する低い崖面に種子磨崖仏や種子板碑・五輪塔・阿弥陀像などが数多く刻まれている。

何といっても石仏ファンは先ずこの磨崖石仏から・・

崖の表面を整形、中央に屋根型を浅く彫り、その下部を方形石龕の様に深く彫りこみ、中に赤く彩色痕の残る阿弥陀如来坐像?をほぼ丸彫りに近い厚肉彫りで刻み出している。

向かって右手には月輪内の蓮弁に載る種子・・・、左手脇には短冊形の中に二種子を大きく薬研彫り、下部には文保二年(1318)七月八日の文字がしっかり読め、その脇にももう一種子。

左手下部方形の中には浮き彫りの五輪塔。

種子磨崖と同じく文保二年(1318)鎌倉後期の造立、哀しいかな顔部鼻先と手首が欠損、手印が不明なので阿弥陀如来とは断定できないが体躯の張りも良く小像ながら力量感に富む。

少し離れた崖の中央部分には大きい月輪を中央にして六体の種子(梵字)磨崖仏、向かって左手の三体は苔生し崩れ果てたか何が何やら・・・

中央月輪内には見かけたことのない種子、「オーンク」と呼ばれる種子で「両部(近胎)不二大日」を表すと言われ世界中でも此処だけでしか見られないという。

脇には中央よりから、バク(釈迦)・キリーク(阿弥陀)・バン(金剛界大日)の順で大きく方形を彫り沈め見事な薬研彫りで表している。

ここにも文保二年(1318)九月の銘があり鎌倉後期の造立。

崖前の余り広くない空き地には六地蔵石塔と呼ばれる石造物。

瑞泉庵の遺品なのだろう、簡略化された蓮弁上に載る六地蔵、時代はぐう~~んと下って近世のものか??・・・・・。

傍らには首と手首を無くした大きい丸彫りの石像、さて一体何なのでしょうか??はあ~~、良く解りません。

薩摩地方は廃仏希釈の波がことさら強かったとか・・・。 

そう言えば県内結構走ったけれどこれはと思うほどの伽藍には出遭わなかったような・・・・・。

撮影2011.12.19


鹿児島県薩摩川内市東郷町 小路(こうじ)磨崖石仏

2011年12月30日 | 石仏:九州

九州4日目の朝は薩摩川内市(さつませんだいし)のホテルを出発、市街で2~3の撮影を済ませ川内郊外に有るこの地旧東郷町斧渕に入ったのは未だ9時前。

この石仏は川内川中流域、北岸丘陵に築かれた中世の山城、鶴ヶ丘城跡西面岩壁に刻まれた珍しい意匠を持つ磨崖石仏。

何とか探し当てた磨崖石仏は道路の直ぐ横、一段高くなった崖の正面にひっそりとその独特な姿を覗かせていた。

地上高約1.5m強、向かって右手、宝珠形の枠を持つ、その左手下方にはこれも独特な意匠、満月と三日月の火袋を持つ石灯篭??

宝珠の枠取りは高さ約1m、その下部に直径50cmほどの縁付き円形を彫り窪め、中に蓮台に座す磨崖石仏を厚く刻み出している。

円形彫り窪め上には月輪を設け阿弥陀の種字「キリーク」を深く薬研彫りにする。

石仏は一見胎蔵界大日を思わすような宝冠を着け、大きすぎるほどの蓮台に座す像高ほぼ30cm。

頭上の「キリーク」から法界定印の阿弥陀如来だとされ、「紅頗梨色宝冠阿弥陀座像」と呼ばれるように宝冠や体躯に彩色痕が残る。

宝珠枠外向かって右下には永正十四年丁丑(1517年)九月八日の銘があり、室町中期の造立。

因みに「紅頗梨色宝冠阿弥陀如来」とは当時主流で有った阿弥陀如来を、密教の最高仏大日如来に近づけようと宝冠をかぶらせた上、仏身を紅玻璃で塗り飾った石仏で、我が国唯一だとされている。

小石仏で有るものの意匠や形式に独自のものが有って忘れられない石仏になりそう。

撮影2011.12.19


熊本市植木町 円台寺跡磨崖石仏

2011年12月29日 | 石仏:九州

前回紹介、石貫観音横穴より約17~18km南東方向、JR鹿児島本線植木駅の程近く、植木町菱形八幡宮近くの対面する丘陵斜面に磨崖石仏がある。

県道31号線で南下、菱形小学校前で県道113号に左折そのまま道なりに進めば大きくカーブ、左手に半分消えかけたような円台寺跡磨崖の案内板に出遭う。

案内板脇に斜面を登る小径があり、暫く登ると少し開けた場所に出、正面の凝灰岩の岩肌に石仏が刻まれているのに出遭う。

正面岩壁に一体と浮き彫りの三層石塔、背後の岩肌には頭部を山形にした彫り込みが一列に並び、彩画の阿弥陀如来が描かれていると言うが彩色までは確認出来ない。

方形の石板状石材に割り石の庇を載せ、向かって左手には幅の広い舟形光背を深く彫り沈めた中、中肉彫りの阿弥陀三尊像を刻み出す。

中尊の像高約90cm、一光三尊のいわゆる善光寺式阿弥陀三尊像・・・、鎌倉中期の像立。

傍らに三層石塔を配しているのは九州方面の特徴か??畿内では見たことがない。

方や左手上部の岩壁には将棋駒状(家型)の石龕を思わせるほど深い彫りこみの中、彩色も残る独特な手印を持つ磨崖石仏。

両手共に胸元で上品中生の説法印を組み、紅い彩色の二重光背を背負い、大きい蓮台に座す阿弥陀如来坐像。

像高約60cm、深く彫り出した体躯、衣文や蓮台には彩色の痕が良く残っている。

顔の中心部が欠けているのが惜しいが、肩張りや膝張りは力強く写実的、小像ながら目を見張るものが有り鎌倉期の像立。

小さいながらも石塔脇の足元にはこんな阿弥陀石仏も・・・

円台寺は往古大寺で、磨崖仏も500体ほど有ったそうですが現在確認できたのは上記三体だけでした。

円台寺は比叡山延暦寺末で天台密教と結び突いた宇佐の影響による磨崖石仏なのだろう・・・・。

豊後大野方面に見る磨崖石仏に近い。

撮影2011.12.18


熊本県玉名市石貫 石貫穴観音石仏

2011年12月28日 | 石仏:九州

熊本県北部、菊池川流域は一種独特な装飾古墳の多い処、その中でもひときわ異彩を放つ玉野市石貫穴観音横穴を訪ねた。

玉名市市街地を離れ県道4号線で北進すること約5km、石貫地区の北端でそれと解る案内板通りに左折、里山集落道を暫く進むと公民館傍に石貫穴観音横穴への専用駐車場が設けられている。

対面する丘の上、集落の民家の屋根越しにそれらしいお堂が見えてその先田圃の小道を歩き集落の奥に有る目的地へと進む・・・・、この先民家は有るものの車の進入は不能なので要注意。

民家を抜けると正面には一気にお堂へと続く急な石段・・・、民家の軒先を歩いても誰に出遭うでもなくひっそり長閑な里山風情。

問題の横穴古墳はこの拝殿?の奥、ちょうど本殿の位置に三基の横穴が「雪のかまくら」のような石室が口を開けている。

 三基の大きな横穴は入口が三重の飾縁となっており、外側は二重アーチ形で、中でも異彩を放つのは中央の横穴石室、アーチ形の飾縁には赤色顔料の連続文様が確認できます。

中に入って驚くのは正面奥壁に設えられた石屋形、それも軒丸瓦のような円筒状突起が有り、その下部を石龕の様に彫り窪め堂内に見立てその奥壁ほぼ中央に細身のの千手観音立像、脇には舟形光背を持つ十一面千手観音座像石仏。

像高約1m、薄肉で稚拙な彫り、清水形のスマートな体躯、しかし殆ど苔生し石室内の薄暗い光ではこれが限界・・

石室奥壁に刻まれた石仏・・・相ふさわしい気もするが見慣れないので奇異な感じも受けなくはない。

いくらか近寄ってみても最早表情までは解らない、頭部には十一面らしき突起のようなもの。

所謂これがこのお堂の本尊ということに成るのだろう・・・・、しかしどうした事だろう、古墳時代に仏教は伝来していたのか?、はたまたこの千手観音は後刻なのだろうか??。

掲示板による説明だと石仏も当初のもの、石室築造の時期を八世紀前半と下げているが・・・・、そうなのかなあ???

その頃にも・・・・千手観音を奥壁に刻んでいるにも係わらず、朱の同心円紋装飾古墳??、やっぱりちょっと納得がいかないような。

傍らに置かれた十一面千手観音石仏・・・・、この石仏もかなり古い時代の物と見受けられるが如何なんだろう??

一説には中世以前の石仏だと??

大正10年、国の史跡指定。

石仏、磨崖仏からは一歩逸脱したような気もしないでもないが・・・。

近くには装飾古墳群として良く知られている石貫ナギノ横穴群がある。

装飾痕が良く解ると言うが、殆ど人も訪れないのか結構荒れ果ていました。

2011.12.18


福岡県嘉麻市 山野五百羅漢

2011年12月27日 | 石仏:九州

九州気ままな一人旅、石仏の手始めはここから・・・。

前日夜遅くに車で京都を発って、関門海峡を越えたのはまだ真っ暗な午前5時頃、九州に入り何箇所かの撮影を済まし、僕たち関西人には馴染み薄のこの地に着いたのが午前9時を少し回った頃・・。

<若八幡神社>

山野運動公園脇の空き地に車を留め置くと、目の前に見えるのは若八幡神社、その対面する丘の上(頓宮山)に目指す須賀神社が有る。

この地域は往古九州の石造文化に大きな影響を与えたという宇佐八幡の神領地・・・、この羅漢石仏もまさしくその影響を色濃く受けたものとされいます。

丘の参道をを登り詰めると簡素な須賀神社の社殿、その裏側一段高くなった台地に大きな覆堂が建ち、その中に約390体とも云われる羅漢石仏が林立している。

覆い屋は丘の斜面をバックに東西に立っており周りには立ち木、正面は拓けた空間になっているものの大きな桝目の扉や窓は開かず、格子よりレンズを差し込み撮影するしかなかった。

昭和40年に粗末なトタン屋根が出来るまでは全く野ざらし状態、その後平成6年に今の覆い屋が建てられ、今の状態になったと言う。

羅漢石仏は殆どが1mにも満たない砂岩の素彫り、風化磨耗がひどく顔容なども定かでないものが多い。

しかし圧倒的なその量の多さには圧倒される。

五百羅漢というからには当初五百体以上の石仏が並べられていたのだろうが・・・

有るものは笑い、有る者は泣き叫び、有るものは首を失い、最早石塊となり石仏の体を為していないものまで・・・しかし此処の羅漢はみな何処と無く素朴で親しみやすい雰囲気が有る。

いつの頃か火災にでも遭ったのだろうか?なんとなくそんな感じも受ける。

筑前続風土記には「山野村の内に小高き所に石仏一処に多くあり、是を五百羅漢という・・・・」と有って往古より知られていたことが解る

中にも入れないのに背中には白いペンキの粗雑なナンバーマーキング。

十王を思わせる様なこんな像もあったり・・

この堂内で一番大きかったのはこれら二体の等身大仁王像。

堂内で鍵をかけられ動物園の小動物でも見るかの様な感じです、出来れば何とか直にそばまで近づいて自由な角度で撮影したいものです。

「願主神宮寺座主妙道、文永八年(1271)辛未十二月奉納」の板碑があり、鎌倉期に妙道という人が奉納したたものであると推定でき、山野の石造群として福岡県の有形民俗文化財に指定されている。

どこかあの国東半島の石仏達に近い大らかさを持っていて、出来れば青天の野の仏の時に出遭いたかった・・・・

撮影2011.12.15


伊賀市老川岡部 松の本磨崖石仏

2011年12月26日 | 石仏:三重

もう一ヶ所、この老川に磨崖石仏さんが居るというので連れて行ってもらいました。

少し人里離れた山中に有る棚田脇の小川沿いにその磨崖石仏は佇んでいます。 

地元民でも、この付近で耕作している者でないと全く来ることも無いような農耕道路の奥深いところです。

林から流れ出す細い小川沿いの大岩にその石仏さんは刻まれ「野の仏」の風情ぴったりに立ち尽くしていました。

周りをすっかり笹薮に囲まれ、岩は苔生し、頭上には蔓性植物が繁茂しています。

像高約80cmぐらい、結構立派な定型地蔵菩薩立像です。

この前も老川如来への参詣道が続いていたのでしょうか・・・・

まだまだ目鼻立ちもはっきりしていて保存状態も良いのですが・・・

全く訪れる人も居ないのでしょう?のんびり穏やかに目の前に広がる棚田を目を細めて眺めているようでした。

でもすっかり苔生して居ますね地蔵さん・・・・。

撮影2011.4.24


伊賀市老川長坂柳瀬 磨崖地蔵石仏

2011年12月25日 | 石仏:三重

全く人知れず、今は斜面の林となってしまい、全く忘れ去られた古道脇の岩肌に刻まれている地蔵さんです。

<橋上より老川集落の佇まい>

前回紹介の延命地蔵から戻ること約300mばかし、若宮神社の対面に有る橋を渡って直ぐ右手、全くそれと解らない林の中にこの磨崖石仏が佇んでいます。

この古道は往時隆盛を極めたと言う極楽寺、老川如来への参詣道でも有ったのでしょうか??

殆ど古道とも見分けもつかない、日も差し込まないような林の中の岩肌に舟形光背を彫り沈め、その中に像高約70cmばかりの定型地蔵菩薩立像が刻まれています。

石友さんが近くの古老に教えてもらったと言う磨崖の石仏さん。

最早忘れ去られようとするかの様に永らく全く誰も近づいたような形跡も有りません。

前回紹介、延命地蔵の小振りな石仏さんにどこか似たような容相・・・。

もう「わしの役目は終わった」とでも云いたそうな佇まいです。

こうして忘れ去られ消え去っていく石仏さんも数限りなく有るのだと思うと尚愛しい。

撮影2011.4.24


伊賀市 老川延命地蔵磨崖仏

2011年12月24日 | 石仏:三重

伊賀市、阿保方面から県道29号バイパスで南進、老川集落入り口辺りの交差点を右折、川沿いの道路を遡り、集落の中ほど、大きく道路がカーブする辺りの左手、集落内路の小高いところに二体の磨崖石仏が立っている。

前の県道が新しく整備されたため本来の場所から切離され此処に移動されたもののようですが???

向かって左側の一体、像高50~60cm・・・

彫り沈めた舟形光背を持ち、中肉彫りの定型地蔵菩薩像です。

どこか荒っぽい彫りの様に見受けられ、形式化略式化は否めませんが、中々落ち着いた表情が良い。

もう一体、隣りにも少し小振りな地蔵さん。

同じような造りですが全く作者が違うようです。

こちらの顔容は幼っぽく、少し稚拙な感じもします・・・・・、延命地蔵の表示が有るだけで何も解りませんが??

同じ花崗岩のようですが石質が全く違うようにも見え、元は別々にあったものなのでしょうか。

いずれ旧街道、川渕の岩肌に在ったものなのでしょうが、今となっては想像するしか有りません。

撮影2008.11.30


伊賀市 老川極楽寺の磨崖石仏 他

2011年12月19日 | 石仏:三重

伊賀市の最南端、三重県旧美杉村から続く青山高原域、小さな集落が谷間に三々五々軒を寄せ合う山里の一つに老川集落がある。

国道165号線青山町付近の新しい県道29号線分岐で山手に車を進めて約10分余り、木津川ひとつの源流域の小川沿いに軒を連ねる老川の集落に出会う。

集落のほぼ東端、、右手の小高い境内まで石段が一直線に延びる極楽寺が見える。

石段奥に、山村にしては大きな山門・・・・。

この寺には長野善光寺の分身仏である「老川如来」を本尊に奉り、古くは遠近の参詣者で大いに賑わったといわれる名刹だそうです。

そんな参道石段口左手には地蔵石仏と庚申板碑などが並べられ、なんとも良い雰囲気を醸し出しています。

ほぼ等身大に近い三角頭の舟形光背を持つ定形地蔵立像・・・・全体に乾いた白い苔がびっしり付いたローカル色豊かな地蔵さん。

山門を潜って境内左手、小堂脇の大岩に地蔵菩薩の磨崖さん。

岩の上には五輪の残欠と丸彫りの阿弥陀如来、脇には大きく歴住塔と刻まれた板碑・・

磨崖の地蔵は、深く彫り窪められた舟形光背の中、かなり厚い中肉彫りで刻み出されて居ます。

像高約50~60cm?供台の石板にも何やら刻まれていて、板碑利用したものの様にも・・・。

像容はシンプルにまとまり、尊顔の白毫(びゃくごう)が中々立派。

両サイドに銘が有りますが読み下せません、向かって右は願主・・・・左はどうも日付の様ですが??

保存も良く、ちょっとニンマリ、したり顔にもみえる地蔵さん。

地蔵右上部、丸彫り阿弥陀の下方、苔の隙間にこんな磨崖仏。

素人彫りのような稚拙さですが胸で合掌している様にも見えます。

付近の景観と共になんとなくほっと出来る山寺でした。

撮影2008.11.30


甲賀市信楽町 北山地蔵

2011年12月16日 | 石仏:滋賀

信楽周辺の地図を見ていたら「北山地蔵」と書かれている場所があったので家からもそう遠くなく、どんなものかと見てみたくなって出かけて来ました。

信楽から伊賀方面に抜ける国道422号線で神山へ、その先家並みの外れで新しくなった県道50号線に左折、暫く行くと道路脇に小さな地蔵堂があり扁額には「北山延命地蔵尊」の文字。

正面の格子扉にはしっかり金網が張られていますが、扉は簡単に開きます。

中に入って目の前に立ってもこの状態、赤い涎掛けが殆ど全身を覆っていて何が何やら・・

又例のごとく一苦労して・・・、ちょっと失礼、周りの蓮華を移動するのはちょっと無理。

高さ約1mばかしの板状砂岩自然石に円形頭光背を持つ定型地蔵立像を線彫りで絵画調に刻んで居る。

浅い線彫りながら衣紋は細かく表現されて所どころ朱も残って居ますが尊顔は殆ど消え去っています。

像高約70cm、江戸期のものでしょうがこの地域でこうした線彫りの地蔵石仏は珍しい。

傍らの農道と化してしまった旧信楽街道にはこんな道標・・。

右、うえのいせ(上野伊勢) 左、まきやまごう(槙山郷)・・・。

街道を見守る地蔵さんとして信仰されたのだろうか・・・・、此処は信楽街道の要所だったのかも??

撮影2011.12.12


伊賀市荒木 地福寺の大釜(おおかま)地蔵

2011年12月14日 | 石仏:三重

伊賀市荒木は伊賀上野の中心地「上野城」より東へ約5km、木津川支流の服部川南岸に広がる旧伊賀街道沿いに有る長閑な里山。

<地福寺・・・、向かって右端のお堂が地蔵堂>

そんな集落奥手、山の斜面に再建された真新しい地福寺と言う寺があってその境内の地蔵堂には「 大釜地蔵 」と呼ばれる珍しい半跏地蔵石仏が祀られて居る。

<地福寺境内より見る荒木集落遥か向こうは上野方面>

集落への入り口辺り、国道163号線寺田橋たもとにはこの地で生まれた剣豪「荒木又右衛門」の誕生記念碑が有り、この傍らにあった石仏が国道改修の際、地福寺に移されたようです。

寺田橋に有った時からこういう状態だったのか??ちゃんとした磨崖石仏だったのだろうか??、今はこうして高さ約2m足らず幅80cmほどの岩塊に成ってしまっています。

岩の上部がせり出し、それを庇に見立てその下部を舟形に削ぎ落し、岩座に半跏する地蔵菩薩を厚く中肉彫りで刻み出している。

左爪先からの像高、約80cm程か??なかなかしっかりした彫りで右手錫杖、左手宝珠は定型。

保存良好、良く張った膝に強い意志は感じますが、室町後期の像立でしょうか??右手下部2つの大きな臍穴は一体何のためのものだったのでしょうか

それにしても中々紹介されることも無く「 大釜地蔵 」と呼ばれる由縁をついぞ見つける事が出来ません。

現在寺田橋にはレプリカの大釜地蔵が延命地蔵として祀られているようですので間違い無きよう・・・・・。

撮影2011.12.12


伊賀市 よきとぎ地蔵

2011年12月13日 | 石仏:三重

「日本昔はばなし」にも「よきとぎ地蔵」として取り上げられている石仏ですが、そんなことは知ってか知らずか??訪れる人も殆ど居ない集落の傍ら、小さなお堂に祀られています。

伊賀から信楽に抜ける旧信楽街道、現在県道674号線となっている伊賀市千貝(せがい)集落の丘に在って大切に祀られています。

<広々と広がる里山を目の前に・・・>

石仏は丘斜面から突き出した岩に刻まれた磨崖石仏、書院窓が邪魔をして全体は良く解らないが・・・高さ約2m、幅約1m程の正面に大きく舟形光背を彫り沈め、岩面に直接に線彫りした二重連弁に立つ二尊を中肉彫りで刻み出している。

二尊は向かって右に来迎印の阿弥陀如来、左に定形の地蔵菩薩、共に立像で像高は約70cmと双石仏としては中々立派なものです。

引き締まった像容も定型化は否めないものの良く整い室町後期の像立。

傍らには小石仏が並べられ、特別な場所で有ることが伺われる。

傍らの説明板。

此処より少し信楽寄りに進んだ小道にもこんな双仏石、こちらは阿弥陀と地蔵が逆になっています。

この近辺もこうした石仏があちこちの旧街道筋に多く見られるところです。

縄飾りなどの跡も有って山の神として祀られているのかも知れない??。

磨耗風化がかなり進んで痛々しいけど・・・

撮影2011.2.26


津市白山町 成願寺(じょうがんじ)山門石仏

2011年12月12日 | 石仏:三重

三重県津市白山町は伊賀盆地の南端地域の名張市から国道165号線で青山高原を越え、伊勢地域に入って最初に出会う町です。

青山峠を下り上村集会所脇の辻を左折、「初瀬街道」とも呼ばれる伊勢街道青越え道の旧街道に入ると右手、こんな田舎町にしては似つかわしくないほど立派な寺院が見える。

この寺は、この地域出身の「天台宗真盛派」の宗祖「真盛上人」が開山創建されたと伝えられ、同宗の中本山だそうです。

街道左手小川に掛かる朱塗りの橋を渡り山門に近づくと、両袖部分に大きな石仏が見えてびっくり・・・、本来は仁王像でも置くのになあ??

向かって右手には地蔵立像、その丈凡そ2mばかりだろうか?

右手錫杖、左手宝珠の定型地蔵、しかし火災にでも遭ったのか??赤茶く焼け爛れた様な痕が残り、目許はすっかり剥離、巨像も胸元で断裂したのか?補修されている。

左光背には永正十年(1513)の銘があり室町中期の造立、しかし全く何処を探しても無名です。

向かって左袖にはこれも同じく造高2mにも及ぶ不動明王石仏。

火炎光背を背負って通常型の不動明王像ですが顔付が何処と無くアンバランス、どう見ても憤怒相には見えません。

こちらはその銘から享保二十年(乙卯)1735年の造立。

この寺は天正12年(1584)兵火により焼失、寛永16年(1639)に復興されたと成っており、この地蔵は何とか難を逃れ、方や不動石仏は復興後再顕されたものだろうか??

元はどんな姿で並んでいたのだろう??それにしても地蔵と不動、それも石仏の迎えてくれる山門は珍しい。

撮影2011.2.26


伊賀市 伊賀街道の石仏-4

2011年12月11日 | 石仏:三重

暫く進んで行くと太神宮、八幡宮、春日宮などと刻まれた岩が山裾に次々次に現れ・・・・・

やや行くと小さいながらも斜面に露出した岩壁に石仏さんが「あっちにもこっちにも」状態・・・・。

一番手前から釈迦如来立像・・

隣の岩には文殊菩薩・・・

斜め左上の岩には普賢菩薩と賑やかなものです。

少し離れた大きい岩には定型の地蔵立像・・

何処と無く顔付が現代風・・しかしこの磨崖群の中では一番まともかな??

傍らにはこんな薬師如来・・・・、如何の磨崖石仏さんも妙にアンバランス、余り良い出来だとは言えません。

大正時代に刻まれたようです。

この川べり、真泥集落に近い岩面にも目無し地蔵と呼ばれる地蔵石仏。

合掌地蔵のようですが目鼻立ちもままならず目無し地蔵も納得な様相です。

いずれにしても、この道約2kmは少なくとも石仏、「野の仏」の道で有ることには違いありません。

撮影2009.10.24


伊賀市 伊賀街道の石仏-3

2011年12月10日 | 石仏:三重

次に現れたのは半身土に埋もれてしまった磨崖の六体地蔵??、いや七体有るから中央は阿弥陀さんかも??

鬱蒼とした竹林が続く細い山道、 何とか車は通れるがちょっときつい。

こんな所にも御参りは有るようで真新しい高野槙が七つの花筒に手向けられている・・・・、花はちょっと失礼して ・・

やっぱり中尊が一番丁寧な彫り・・・・それでもやっぱり良く解りませんが??

その先には弥勒菩薩坐像磨崖、頭の上には容赦なしの竹林・・・

可哀想なほど泥がこびりついています・・大きな二重の蓮弁に結跏趺坐。

頭に宝冠、両手は膝の上で禅定印を組んでいるが・・下部にはしっかり弥勒菩薩の文字が読み取れる。

像高約50cm、すっかり忘れ果てられたような場所にあってもこの景観はとても良い。

撮影2009.10.24