愛しきものたち

石仏、民家街並み、勧請縄、棚田景観、寺社、旧跡などが中心です。

桜井市 長谷寺の十一面観音石仏

2006年05月29日 | 石仏:奈良

長谷寺の本尊は右手に錫杖を持つ、所謂長谷寺型と呼ばれる十一面観音で、像高三丈三尺(約10m)の巨大さに参拝する人を驚かす。

この有名な本尊十一面観音のことは知っていても、石仏の十一面観音は知る人も少ないのではないだろうか??。

長谷寺前のタクシー乗り場辺りの背後に隠れたようにたたずんでいて、足を止めて参拝する人も無い。

高さ1mばかしの花崗岩の自然石に舟形光背を彫りくぼめ、半肉彫りの本尊の写しだと思われる十一面観音石仏が刻まれている。

余り良い出来の石仏ではありませんが、表示板も無く無視されているようで、

ちょっと、ひがみ顔になっているようにさえ見える。

石仏さん、ここでは立つ場所が悪すぎますわ・・・このままじゃ誰も振り向いてくれまへえんで。

撮影2006.4.15


桜井市 江包(えつつみ)の勧請縄

2006年05月27日 | 勧請縄:山の神:野神:人形道祖神

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桜井市江包(えつつみ)集落南西の隅で、「大和川」の「綱掛(つなかけ)橋」の手前に「素戔鳴神社」が鎮座している。

祭神は素戔鳴命で、毎年2月11日に「お綱祭」が行われ、:この祭は俗に「お綱の嫁入り」ともいわれている。

 

 

僕がここを訪れたのは5月14日、2月11日に掛けられた綱はすっかり変色していて疲れてはいたものの、異様な姿はそのままに残っていて

まるで芋虫の化け物のようにも見える。

 

 

 

 

 

 

 

大和川の綱掛(つなかけ)橋の西岸の大木から橋の欄干に沿って雌綱から伸びた尾綱が掛けられており、雄綱から伸びた尾綱は神社横の木々に沿って、集落の入り口思しき、辺りまで、素戔鳴神社を中心に約100mほどに張渡されている。

 

 

神社の鳥居の前の雄綱と雌綱は余りの巨大さと異様な形に驚くが、何処が雄綱で、どこからが雌綱なのかは、完全に一体化していてわからない。

素盞鳴神社境内で和合の形を示す儀式をおこなうもので五穀豊作を祈願するものらしく、命の再生産の神秘をこのような形で表したものなのか??。

大西の市杵島神社で長さ5.7m、まわり2.7m、重さ600kgの雌綱が、また江包の春日神社で頭が直径2m、長さ4mで紡錘形、重さ600gの雄綱が作られる。

 

上流から流れてきた素戔鳴命と稲田姫命を江包と対岸の大西で助け、正月に二神が結婚した事に由来し、江包は、男性の象徴を示す男綱を、大西は女綱をつくり、2月11日入舟の儀式(男綱と女綱の合体)がとりおこなわれる。

                撮影2006.4.14

場所はここ。

 


野洲町 妙光寺山地蔵磨崖石仏

2006年05月26日 | 石仏:滋賀

滋賀県に近江富士と呼ばれる三上山(みかみやま)は、名神高速の栗東インター辺りからその秀麗な姿を真近に望むことが出来る。

その三上山の峰続きに妙光寺山という峯があり、そこにこの地蔵磨崖石仏が居られる。

昨日UPの福林寺跡からすぐのところだがちょっと解りにくい。

この石仏への入り口になっている小さな赤い鳥居には、鉄製の扉が付けられているが、それを自分で押しあけて山道へと入っていく。

山道は幾分急で、細いながらも歩きづらい程荒れては居ない、約15分ほど山道を登っていくと

巨岩を汲んだ祠があり岩神大龍神が祀られている。

岩神の前の山道を道なりに進めばすぐにこの磨崖地蔵のまえにでる。

磨崖石仏は、山懐に直立する高さ、幅とも6m以上も有る花崗岩の巨石に高さ1.75m、幅95cmの方形の彫り込みを入れ、像高1.55mの地蔵立像を半肉彫りにしたもので、かおの表情に強い気迫が感じられ、写実性に優れた彫刻です。

また、風化に依る磨耗も少なく、全体的によく整った美しい磨崖石仏で、木靴を履いている近江地蔵石仏の特徴も持っている。

像の銘によって、元亨四年七月十日(1324)の造立と知られていて、鎌倉後期の近江石仏として貴重な石仏さんです。

撮影2006.4.16

場所はここ。


野洲町 廃福林寺跡の石仏-2(十三体地蔵磨崖石仏 他)

2006年05月24日 | 石仏:滋賀

これは、ユニークな、現在アートと言われても通用しそうな石仏さん。

地中から頭を覗かせたような大きな石の二つの側面におどけた顔のお地蔵さんが十三体ならんでいる。

彫りが稚拙でいかにも素人彫りのような素朴さがなんともユニークでほほえましい。

江戸時代後期のものらしく時代的な価値は薄いそうだがなんとも心魅かれる石仏ではある。

この地蔵さんの奥には巨岩の前に数体の小石仏が並び、その前に「福林寺跡」と刻まれた石柱が立っている。

この大きな磐にも稚拙な石仏が何体こ彫られている。

この樹林のそこかしこに、地中から頭を除かせた板碑や小石仏が確認できる。

また、表示板のあるところから右手に少しあるくと、小さな谷川の向こう側にも大きな四角形をした岩が在って、この岩の側面にも

モチーフ化されたような石仏が短冊形の枠を窪めたなかに刻まれていて、これも又趣があって面白い。

ここの稚拙な磨崖石仏群は、その造形のユニークさと素朴さがとても親しみやすく、野趣豊かで魅力深い。

撮影 2006.4.16


野洲町 廃福林寺跡の石仏ー1(三体磨崖石仏)

2006年05月23日 | 石仏:滋賀

栗東ICから国道8号を彦根方面に向かい、約10分野洲中学校の信号を右折、学校正門前の道をさらに左折していくと墓地があり、そこが駐車場になっていました。

その駐車場から案内板に沿って遊歩道を行くと廃福林寺跡の石仏の看板がある。

右手に小さな橋があり、それを渡ると深い杉木立の一帯が福林寺跡で、非常にたくさんの磨崖仏や石仏がある。

どうしても訪ねて見たい石仏だったので感激ひとしおです。

一番見事な磨崖仏は如来像二体と観音立像一体が刻まれており、特に、観音像は、最も美しい姿をしているといわれ、巨岩の岩肌に舟形光背を彫り窪め、それぞれに半肉彫りで、室町時代初期の像立。

ほかにもたくさんの磨崖仏があったとされますが、大正9年の調査時点で礎石を割り取って大阪方面の富豪の庭に持ち去られたとありました。

一番美しい観音磨崖仏にもノミ跡が痛々しく、欲望の爪あととして今も残っている。

福林寺は、奈良時代の創建、近世まで、名残をとどめていたらしいが、今では鬱蒼とした樹林の中で石仏だけが佇んでいる。

この石仏群は今、参る人もなく、手向けられる花も無く、樹林のなかに埋もれている。

石仏好きにはたまらない風情の仏さんです。

撮影2006.4.16

場所はここ。


桐の花

2006年05月21日 | 風物:陵墓

今日は朝から近頃に無く、珍しい5月晴れ。

奈良、生駒平群方面にデジブラにでかけました。

道中で見かけた桐の花が余りにも見事に咲いていたのでパチッてきました。

薄紫色の小さな花が樹一杯に花をつけていて辺り一面に甘い香りが漂っていました。

「桐」は日本では古くから材として、軽く、割れにくく、火に強くて燃えにくく、 湿気を通しにくく、木目や材の色が優れていることから、家具、特に、箪笥とか木 箱材として、僕が子供のころには桐の下駄を履いていたことがあった。

誰でもが知っている名前なのに、今までゆっくりと見たことが無い。

桐の材に接する機会は多くても、花の時期にゆっくりと観察する機会 の少ない植物です。

淡紫色の筒状のつりがね形の花、それぞれがうつむ いて咲いていました。

撮影2006.5.21


奈良市 米谷庵山の磨崖双仏石

2006年05月20日 | 石仏:奈良

この石仏さんに出合うのは大変でした、直ぐ近くまで車でいけるのですが・・・道がありません。

名阪五ヶ谷インターで降りると米谷の集落はそこ・・・しかしそこから先がわかりません。

今回二度目の訪問なんとしても逢わなきゃと・・・米谷の集落に入ると直ぐに、右手に自然石の石灯篭があり、目指す石仏は道を挟んで対面の山の上、頂上辺りにおられるのですが新入路はまったくありません。

都合よく、近所のお年寄りが通りかかったのでおたずねしました。

道らしきものは、何年も前に無くなって今は殆ど誰も近づかないという事で、山 の裏手から尾根道らしき所を探していくしかないという事でした。

しかし、人が通った形跡はまったくありません、すぐ近くに民家の裏庭が見えたりするのですが????。

鬱蒼とした杉木立の木漏れ日の中、もう永らく訊ねるひとも無いという風情で、阿弥陀さんと地蔵さんが、仲良く黙ってたたずんで居られるというかんじです。

小さな小石仏が一体足元におられました。

たぶん、このままほとんどたづねる人もなく忘れ去られてしまうように思われます。

前置きが長くなりましたが、「米谷庵山の双仏石」は高さ150cm、幅330cmの花崗岩南面に、右手に像高68cm地蔵、左手に像高72cm阿弥陀を半肉彫り、天文十一年(一五四二) の造立。

撮影2006.5.14

場所はここ。


湖南市 善水寺旧参道阿弥陀磨崖石仏。

2006年05月19日 | 石仏:滋賀

善水寺の参道に面していたと言うのに、参道は痕跡も無く消えていました。

今ではすっかり景色も変わったようで、磨崖石仏の背後にはコンクリートで固めた堰堤が聳えていて、参道らしき雰囲気は何処にも見出だせない。

ただ、石仏の前方、コンクリートで固められた谷川をはさんで、山の方へ上る階段がみえていた。

全高約150cm、像高90cmの阿弥陀如来坐像、連弁の両脇に火袋を彫りくぼめている。

江戸時代の像立でみなぎる力強さはなく、像容も決してよくは無いが誰も見向きもしないような・・・忘れ去られたようなこの石仏さんに何かしら愛着を覚える。

毎日毎日この石仏は待っていてくれたのかも知れない。

たまに花を変えてくれる近所のおばあちゃん、滅多に訪れることの無い、物好きな石仏好きのおっちゃん・・・。

撮影2006.4.9

場所はここ。


湖南市 岩根山不動明王磨崖石仏

2006年05月18日 | 石仏:滋賀

岩根山不動明王磨崖石仏へは、昨日UPの車谷不動磨崖石仏から、取って返して、そのまま善水寺への道を進んでいく。

途中、善水寺への進入路があり、それをやり過ごすとやがて右手高台に、きれいに整備された小さなお堂が見える。

岩根山不動寺は無住ですが、お堂はには鍵もかかって居らず誰もが自由に入れるようになっている。

不動明王磨崖石仏は、高さ6m以上も有るかと思われる巨岩の岩肌に刻まれている。

其の前方に舞台のような足場を組んでお堂が設けられ、お堂の正面奥の格子障子から背後の不動明王の顔が真近に拝めるようになっている。

堂の下に出て、大岩を仰ぐようにして石仏を見ないと全容を見ることは出来ない。

岩肌に2.2mの舟形光背を彫りくぼめ、像高1.55mの不動立像を高肉彫りにしている。

右脇に有る刻銘から建武元年(1334)南北朝初期の造立であることが解る。

面相に風化が進んでいるとはいえ、実に堂々とした忿怒相をあらわしていて力強い。

撮影2006.4.9

場所はここ。


湖南市 車谷の不動磨崖石仏

2006年05月17日 | 石仏:滋賀

滋賀県、湖南市の十二坊温泉の駐車場の手前に不動磨崖石仏の表示板が出ていて道に迷うことはない。

表示板のの方向に車を進めるとやがて進入禁止の立て札、車はここで乗り捨てるしかない、駐車には事欠かない大きな広場が有る

車も充分通れる道路をぶらぶら歩くこと15分ぐらいで右手の谷越しにこの磨崖仏が見える。

対岸の石仏を丁度対岸に見えるところ辺りに、谷を渡ってこの石仏の前に出る参道が付けられている。

確かに仰ぎ見る不動明王は大きく迫力が有る、高さ6~7mも有る巨岩に像高4mばかり。

厚肉彫りの不動明王は、大きさとしては迫力が有るけどちょっと何かが足りない感を否めない。

石仏にみなぎる内面の力不足を感じてしまう江戸時代の像立。

顔も仏さんには悪いけど余りよくは無い、けど・・・・巨体の割には微笑ましい。

奈良の石仏を見慣れてしまうと、この不動明王は大きさの割には頼りなさを感じてしまう。

元、善水寺十二坊の修験場と成っていたところ。

撮影2006.4.9

場所はここ。


栗東市 蜂屋の阿弥陀石仏

2006年05月16日 | 石仏:滋賀

名神栗東インターのすぐ傍、こんな交通の要所のすぐ傍にあって蜂屋の集落は,まだ遠い日の集落のすがたをここかしこに残してはいるが、開発の波には抗しきれなさそうに感じがした。

 

小さな小川をはさんで、民家が寄り添っているのは、環濠集落であった証なのだろうか?? 小川沿いには、生活道路が通っていて交通量もかなり多く、道路と小川の間に,この石仏がおられる。

 

この石仏(実際には風情)を写真で見たときから、ぜひ逢いたい石仏だった。

しかし実際には、排気ガスまみれでそのうち交通事故の犠牲にでもならないかと心配せずにはおれないような状況であったが、何処かに移動してしまうのもちょっと違うような気がするし・・・・・。

この阿弥陀石仏は、高さ、1.5m、幅80cm、奥行き85cmの石龕の中に居られて、鎌倉初期,仁治二年の銘が確認されている。

奥の壁面の阿弥陀は、像高50cm、風化が進んでいて像様は定かでない。

 の左右の石灯籠には不動明王の文字があり、不動尊として信仰されているという。 小川沿いの素朴な石龕(せきがん)に郷愁を覚える石仏である。

 撮影2006.4.16

場所はここ。


湖南市 少菩提寺跡の閻魔石仏

2006年05月15日 | 石仏:滋賀

昨日の三体地蔵の少し奥まった、小高いところにこの石仏がぽつんと立っている。

嘘をついたら「えんま」さんに舌を抜かれるなどと母親などによく聴かされた、あのえんまさん。

閻魔は、亡者の罪行を裁断し、その本地仏は地蔵菩薩となっていて地蔵菩薩を信仰していれば、其の罪行が問われても往生できると言う。

閻魔と地蔵は同体ともいわれており、同時に並べて造立される事も多い。

この石仏は高さ1.6m、幅1.6m、花崗岩の頂部を山形にした駒形板状石材に 彫られている。

上部中央の駒形彫り込みのい中に閻魔像を半肉彫りにしていて、像高82cm、左右に地蔵と阿弥陀を配していて、室町時代像立???。

このような形の石仏も珍しいし、又閻魔像が主尊の石仏も見かけたことが無い。 ただ中央右側に大きな割れ目が走っているのが気にかかる。

 撮影2006.4.9


湖南市 少菩提寺跡の石仏

2006年05月14日 | 石仏:滋賀

少菩提寺は、我が家から約1時間少し、滋賀県湖南市菩提寺にある。

ある程度の予備知識と地図を持って出かけて見たが良く判らない、どうろ脇のガソリンスタンドで訪ねてみても判然としない。

それならばと、石仏さんの匂いのする方へと車を進めてみると・・・・・・ いました、いました、お待ちかね、県道脇の民家の間を少し山手に入ったところ、道路には何の表示板も無く、石仏の前まで行って初めてそれだと解る有様でした。

少菩提寺は、天平三年、僧良弁の開基、金勝山の、金勝寺を大菩提寺と称して、ここを少菩提寺と称したという。

 

寺は室町期に、小田信長、佐々木氏の戦禍で消失、廃寺になったという、しかし寺跡には、巨大な石塔や、石仏がみられる。

石塔は、多宝塔と呼ばれるもので、高さ4.5m、巨大な花崗岩製で、重要文化財にしていされている、仁治二年(1241)鎌倉中期の造立、また基壇の周りには、小石仏が数多く集められている。

メインの石仏は、民家の裏手と山裾の間小さな空き地に忘れ去れたようなたたずまいである。 いつのころか地蔵祭りが行われていたのか、鉄製の杭が赤さびていて、手向けられる花もなかった。

石仏は三体地蔵で中央が主尊、笠石を頭上に戴く等身大、像高1.6m、写実的な表情に鎌倉期の特徴がよく現れています。

阿弥陀三尊の脇侍のように二体の地蔵石仏があるが、この二体は室町期のものであるという。

しかし、その昔この辺りも奈良仏教の影響下にあったのだと実感させられ、その勢力範囲の大きさにおどろかされました。

撮影4.15.

場所はここ。


奈良市 正暦寺道の石仏

2006年05月13日 | 石仏:奈良

正暦寺は一条天皇の発願により、関白九条兼家の子兼俊が正暦3年(992)に創建。秋は“錦の里”と呼ばれるほど、紅葉が美しいことでも知られています。

菩提山川に沿って山の方へ車を進めると途中に出垣内の集落が在って、道路際の仮堂に中央に等身大の地蔵立像石仏、左に南無阿弥陀仏の名号板碑、右に小さ目の地蔵石仏を安置している。

中央の等身大地蔵石仏は、第二室戸台風(1961)で地蔵堂と共に転倒、肩、腰の部分で折損、顔面はほとんど欠落しているが、像高、163cm、円光背の丸彫り立像で、木彫仏に近い優れた石仏で鎌倉中期の像立。

はなきれ地蔵と呼ばれていて、いまでも信仰が厚く丁寧に清掃されていて季節の花が手向けられている、しかし「はなきれ」どころか「のっぺらぼう」で、その面相は計りようがない。

道なりに川沿いをさかのぼっていくと、やがての老樹の生い茂る正暦寺域内にはいる。

南大門跡の近くに二本の杉の大木が聳えていて、その根元に「なきわらい地蔵」と呼ばれる二体の地蔵石仏が待っていてくれる。

舟形後背を背負う右側の地蔵は享禄四年(1531)室町後期の作、左側の丸彫り地蔵は室町末期?の作。

大杉の下で泣き笑い地蔵??? 僕の好きな巨樹と石仏、二つ重なってとても嬉しい気分になれる風景です。

しかし、どちらが「泣き」でどちらが「笑い」なのか????。

撮影2006・4・8

場所はここ。


天理市 桃尾不動石仏/ 他

2006年05月10日 | 石仏:奈良

旧国道25号線で天理の山越えの上り坂に差し掛かる少し手前、道路の左手に桃尾の瀧の掲示板があって解りやすい。

古来「布留の瀧」として知られた瀧で、古くから修験者の瀧行が盛んに行われていて、今でも其の水量は豊富で、周囲は心地よいマイナスイオンで充満している。

瀧に向かって、左脇の岸壁に不動明王立像と脇侍が二体刻まれている。

不動明王は長方形の彫りこみの中に刻まれており、枠をはみ出した火炎は珍しい。

像高 約1m、鎌倉中期の作だと云われている。

不動磨崖の傍には如意輪観音石仏が有り、像高43cm、南北朝の作だといわれている。

瀧の前には、竜福寺への急な坂道の参道があって暫く登ると、小さな谷川のに岩にも南北朝時代の小さな不動明王が刻まれている。

撮影2006・4・08

場所はここ。