愛しきものたち

石仏、民家街並み、勧請縄、棚田景観、寺社、旧跡などが中心です。

宇治田原町南字中畑 田原南宝篋印塔(わらじの神様)

2015年12月22日 | 石仏:奈良

 

草鞋の神様として、近在の人達から足腰の病に「霊験あらたか」として信仰篤い宝篋印塔です。

なぜ宝筐印塔が「草鞋の神様」なのかは扠置き、ここは宇治田原町「旧切林村」の公民館北の三叉路を東に入った山裾斜面、宝筐印塔は簡素な拝舎を設け安置されている。

基礎を地面に据え、請花までの高さ約162㎝、相輪先端の宝珠は後補ながらその他各部揃った6尺宝篋印塔。

 基礎側面にはには輪郭を巻いた中に格狭間を造り塔身は金剛界四仏の種子を月輪内に薬研彫りする。

概ね鎌倉後期の造立とされ宇治田原町指定文化財に指定されている。

信楽方面への古道がこの脇を通り、この地が丁度急坂の入口、ここで旅人たちが草鞋の紐を締め直し、先を急いだとか・・・・。

それにしてもこの界隈には鎌倉期の形の良い宝篋印塔が多く残されて居る。

撮影2015.11.6


香芝市穴虫 西墓地の阿弥陀石仏

2015年09月03日 | 石仏:奈良

前回に同じく香芝の古い墓地に残された阿弥陀石仏。 

香芝市西端、穴虫峠を越えて太子町へと続く旧太子道沿いの古い集落「穴虫」の古い墓地。

そんな墓地の龕前堂に立つ阿弥陀石仏・・・元は国道を挟んだ向かいの新池近くに有ったものらしいのですが、近鉄線の施設工事でこの墓地に移されたようです。

この土地らしく凝灰岩性の総高150cm余り、舟形光背を負い、室町期の特徴ある蓮台に立つ像高105cmの来迎印阿弥陀如来。

副ぼには断裂痕が残り痛々しいが 天文十七年戊申七月十四日の銘が有り、室町末期の1548年の造立。

薫香の影響か?少々くすんで居ますが、風化摩耗も少なく良い状態です。

撮影2013.6.16


香芝市 良福寺の地蔵石仏

2015年09月01日 | 石仏:奈良

 

香芝市良福寺の集落に安置されている地蔵石仏。

奈良県香芝市は国中(くんなか)平野の西端部、あの二上山の東側、大阪南河内の太子町と境を接する歴史の古い町です。

そんな香芝市、良福寺集落南外れの立派な地蔵堂に祀られ安置されて居る地蔵石仏。

どうの中央、黒い玉石の上に舟形光背を持つ中型の地蔵立像・・・

古式な蓮台の上、厚肉彫りで刻み出され、右手は腰下に垂れ与願印、左手は腹前で宝珠を抱き、ちょっと珍しい・・・

尊顔は信仰あらたかな証拠の様に摩耗が激しく詳細不明・・・

像高約70cmにて鎌倉後期の造立とされ、貴重な石仏として香芝市指定文化財。

撮影2013.6.12


旧室生村多田 満寿寺の阿弥陀石仏

2015年08月30日 | 石仏:奈良

 

なにげに立ち寄った山里の古寺で見掛けた石仏さん。

ここは旧室生村の北外れ、多田集落の奥手にある日蓮宗 「満寿寺」・・・・本堂は参道石段を登った高台にあるが下段には覆い屋根の薬師堂があり

前の境内には夏草に埋もれる様にして、この石仏や2~3の石造物が残されて居た。

この地は摂津源氏の多田氏の末裔により鎌倉初期頃に栄えたとされています。

石仏は高さ約1m強、舟形光背を負い蓮華座に立つ阿弥陀立像。

光背頂部に月輪内キリークを陰刻、右手施無畏印、左手与願印。

天正二年(1574)の銘があり安土桃山期の造立。

現在スッカリ鄙びた山里になって居ますが華々しい時代も有ったようです。

撮影2013.6.8


生駒市谷田 観音寺の如意輪観音磨崖仏

2015年08月07日 | 石仏:奈良

観音寺境内の小さなお堂の中に祀られて居る如意輪観音石仏。

近鉄奈良線生駒駅と東生駒駅の中間辺り、すぐ西側の小高い丘に真言律宗の観音寺がある。

境内へは民家が密集する旧道脇の「谷田地蔵堂脇」から石段参道を一気に境内まで登る。

生駒市の資料に拠ると磨崖仏となっているのだが・・・・何かの都合で邪魔になり切り出したのだろうか??

石仏は高さ約背丈程の舟形状自然石の正面を整形・・・蓮台に半跏する。

通常「如意輪観音像」は六臂のものが多くこれもそうだと思われるが風化摩耗のためか?はっきりとは確認できない。

右手第一手を頬に当て思惟相を示していて、いわゆる典型的な半跏思惟像に成って居る。

像高約1m足らず、天保三年(1832)の銘があり江戸時代後期の像立。

石仏の多い奈良地域にあっても如意輪観音石仏は滅多に見掛けない。

磨崖仏の内に見てみたかった・・・

撮影2013.5.12


天理市福住町 上入田墓地一石六体地蔵

2015年08月02日 | 石仏:奈良

天理市上入田墓地の入口に置かれている一石六体地蔵石仏。

名阪国道福住インターすぐ近くの旧道脇、この時期夏草に埋もれるように在る上入田墓地の古い墓地、一石六体の他にもこんな六体も・・・。

夏草に足許を掬われて建つ一石六体地蔵は高さ約1m、山県頂部に唐破風を造り、その直下に阿弥陀種子のキリークを表し珍しい。

六体地蔵は上下に三体づつ、下部の三体だけが蓮華座に立ち、像高約35cmの薄肉彫り。

 江戸時代中期の貞享元年(1684)十一月の銘が有り、数多くある大和高原の一石六体地蔵の中でも珍しい意匠を持って居ます。

撮影2013.5.26


奈良市 奈良坂町墓地石仏

2015年07月31日 | 石仏:奈良

奈良へのチャリ散歩帰り道、立ち寄った奈良坂町墓地で見掛けた石仏さん達。

旧奈良街道、奈良豆比古神社と般若寺の中間ぐらいに在る古い墓地。

墓地の一画には各種石造物の集積が有る。

入口脇の簡素なお堂の中にはこんな阿弥陀石仏・・・阿弥陀にしては頭部が妙な気がするけど??

 こちらは小さいけれど間違いなく阿弥陀さん。

 古い墓地には古い石仏さが居るもんですね。

撮影2013.3.7


天理市龍王山 阿弥陀磨崖仏

2015年07月08日 | 石仏:奈良

天理市龍王山山中の山道を少し外れた斜面に、すっかり忘れ去られたような磨崖石仏。

もう1度言ってみろと言われても、どうも自分ひとりでは多分行き着けないかも??実は石友さんのお供で行き着いた。

天理ダムから県道247号線途中右折して竜王山方面へと山道を行く・・・龍王山城跡駐車場に車を置き山に入ったがその先は一体どう歩いたかはさっぱり覚えて居ない。

萱生道と呼ばれる山道を約小1時間程歩いた処で斜面を少し登り詰め、斜面に突き出たこの磨崖の石仏に出遇う。

 

石仏は舟形光背を彫り沈めた中に中肉彫りの来迎印阿弥陀立像を刻みだしている。

龍王山には数多くの石仏が残され、石仏ファンを惹き続けて居る

撮影2013.4.14


奈良石切峠 芳山(ほやま)の二尊石仏:[写真更新]

2015年07月07日 | 石仏:奈良

柳生街道の峠の茶屋を少し柳生方向にくだった処に小さな神社があって、その横手の山道を分け入っていく。

途中、金網の扉があるが鍵は掛かってなく勝手に押し開けて進んでいく、途中小さな登り下りがあって、次は一気に芳山に向かっての登りになるが、神社からだと約20分足らずの歩きでこの石仏の前に到着する。

ここを訪れたのはもう4年も前の初秋、ツクツクボウシが行く夏を惜しんで盛んに鳴いている頃。

昨年の秋に再度訪ねようと神社付近まで行ってみたのですが、がけ崩れのため通行不能と言うことになっていてしぶしぶあきらめて帰って来ました。

その後のことはわかりませんが、あの道がダメだと成ると何処から入っていけるのかまったく解りません。

斜面を登りきると前方に平らに開けたところがあって、その奥まった所にこの石仏だけが佇んでいる。

何か、いかにもとってつけた感じがするのですが、ここには一体何が在ったのだろうか??

周りを石組みが囲んで居て建物の礎石らしいものは無いが何かの祭祀跡には違いない。

高さ約2m足らず、幅約1.5mの花崗岩の直角に隣り合う二面に壷型後背を深く彫りこみ、その中に各一体づつの如来像を中肉彫りにしている。

像の位置関係から南方向きを釈迦、西方向きを阿弥陀と呼んでいるようです。

先ずは正面、東面する釈迦如来だと思われる石仏さん、蓮華台に立つ像高約1.3m、なで肩にすっぽり被った納衣。

胸元で結ぶ印は中世鎌倉期以後には見かけない特殊な印で狛坂寺跡磨崖石仏に共通するものを感じ無いでもない。

顔容優しく、どちらかと言うと西面如来より少し長く感じるが??

西面する石仏も像高、像容共に殆ど等しい。

正面から見ると・・

ちょっと斜め後方からは・・・・・

印相も東面如来に、うり二つ・・

ただ東面如来よりは、張りの有るまん丸顔に見えますが???。

後に廻ればこんな様子でひび割れ痕だけ・・・、あとは何も見出せない。

天平後期の様式を示す石仏であるとして高く評価されていて、奈良時代後期の作だと言われています。

しかしあの山頂の平地にあのような石が突出していたとも考えられず、近くから運んだものにせよ、重機のない時代によくもあんな大きな重い物を移動してきたものだと考えさせられた。

石仏としては魅力深い仏さんです。

撮影2004.9/2011.7.9


天理市上仁興 地蔵磨崖仏

2015年07月06日 | 石仏:奈良

天理市山間部、上仁興の村外れ、修理枝に抜ける間道脇に磨崖の地蔵さんが有りました。

上仁興は市街から旧国道25号線で天理ダムを越え、しばらく走ると右手に仁興町への看板が有り、その通りに右折・・・・山間部に下仁興町、その奥に上仁興町と小さな鄙びた集落がある。

勧請縄の掛けられた九頭神社を越え、間道の上り坂にそれと判る岩が有る。

高さ約1m程の丸みを帯びた花崗岩が斜面から飛び出し、その正面に舟形を彫り沈め、像高70cm程の地蔵石仏が中肉彫りで刻み出されて居る。

右手錫杖、左手宝珠の定形定形地蔵立像・・・・旧道脇で旅の無事を祈る石仏だったのだろう??。

信仰篤かったと見えて上半身はつんつるてん・・・・それでも近世じゃなく、中世仏の臭いがする。

撮影2013.4.14


桜井市 今井谷阿弥陀磨崖仏

2015年07月05日 | 石仏:奈良

 談山神社への旧道が抜ける今井谷に残されて居た磨崖仏。

 

県道37号線倉橋から明日香村八釣へと抜ける市道で、談山神社への分かれ道を過ぎて集落の中心部辺り・・・・

談山道への廃道紛いの旧道脇に大岩が突き出し、その前に小石仏などが集められ、信仰の拠り所となっている。

その大岩の上部に舟形状の窪みを造り、中に像容も覚束ない石仏が刻み出されて居る。

岩肌が垂直に立っていてすぐ近くまでは近づけず、おまけに風化摩耗も激しく一体何様なのかも定かでは有りません。

像高約50cm、見た目にはどうも宝珠か薬壺でも持っていそうに見えますが・・・阿弥陀如来だと云うことでした。

大岩の前にはこんな小石仏達が・・・ 

撮影2013.4.14


桜井市 高家(たいえ)の阿弥陀磨崖仏

2015年06月27日 | 石仏:奈良

 

桜井市・高家(たいえ)の山裾に残された磨崖仏です。

明日香八釣から談山神社への旧道に当たる高家集落の南山裾、家並が途切れた辺りに・・・・

斜面から突き出た大岩が有り、その上方に磨崖仏が刻まれ、岩前にはその信仰の証か?石灯籠が建てられている。

磨崖仏は二重光背を彫り沈めた中、定印を組み、蓮座に座する阿弥陀如来坐像を浅く刻み出している。

石仏は小さいながら像容は良く整い、童顔にて眉目秀麗・・・・なかなか腕の良い石工の手に寄るもにだと思われます。

全体の印象からは室町期以前??の様な気がします。

岩肌は斜めに石英が斑に走り、肝心の磨崖仏も見づらく成って居ます

撮影2013.4.14

 


奈良市 佐保川地蔵

2015年06月19日 | 石仏:奈良

「佐保川地蔵」の名で呼ばれる、いわゆる大正九年奈良市の佐保川流域上水道工事で出土した石仏群です。

奈良市北端に近い今在家町の路地裏に天棚機姫神社(佐保姫神社)と桜七所明神社、二社の小さな祠の境内地が有り、そのムクロジの古木脇に地蔵堂が建てられ中に多くの石仏が安置、信仰されて居る。

堂内向かって左手入口脇にはこんな地蔵石仏・・・舟形光背を負い、蓮華座に立つ総高150cm程の定形地蔵。

大きな錫杖に大きな宝珠の定形地蔵・・・おそらく全容から室町後期の造立。

永らく金気の水に浸かっていたのか赤錆色が全体に付着している。

正面奥中央には丸彫りの地蔵立像石仏

その脇には丸彫りの地蔵坐像石仏・・・いや地蔵にしては右手の位置がおかしい。

頭部と体部の色が全く違うと言う事は頭部が後補という事なのだろう??・・・一体どんな頭部だったのだろうか??

この坐像石仏などは室町期以前の造立の様な感じがします。

こちらは大和地域で比較的多く見られる特徴を持つキツネ目の地蔵菩薩。

やっぱり錆色に変色している。

同じく阿弥陀だと思われる箱石仏。

この地域にはまだまだいっぱい石仏が埋まっているのかも知れない

撮影2013.3.7 


白毫寺参道前 薬師如来石仏

2015年06月18日 | 石仏:奈良

滅多に見かけない丸彫り立像の薬師如来石仏です。

白毫寺への参道手前、私設駐車場の片隅に掘立て小屋の様な簡素なコンクリートブロックの覆屋があり、その中に祀られて居る。

石塔の四方仏や十二神将の中尊としての薬師如来坐像は良く見かけるが、単尊で尚且つ立像の薬師石仏は殆ど見かけない。

石仏は見慣れぬ方形の二重蓮台に立ち、円頭光をもつ丸彫り立像・・・・しかしなんの解説板もなく詳細は一切不明。

像高およそ120cm程、右手肩先で施無畏印、左手は胸元で薬壺を抱く。

どのようないきさつでここに祀られて居るのか不明ですが、隣には江戸時代中期の庚申塔も同居している。

さりとてこの薬師石仏は、それ程新しいものでは無い。

撮影2013.3.7


奈良市 奈良坂町「西福寺」の石仏

2015年06月17日 | 石仏:奈良

チャリで奈良へ出かける序に寄った奈良坂町「西福寺」の石仏さん達。

奈良街道、奈良坂のちょうど頂上ぐらい、奈良豆比古神社の隣にあるのが西福寺。

西福寺は貞観年間の開創、古い歴史の古刹と伝えられるがだが詳細は不明・・・・・僕は逆だと思っていたが、奈良豆比古神社は西福寺の鎮守社であったと言う。

貞観仏の残る古刹も現在、見る影もなく浄土宗の小さな檀那寺と成っている。

旧奈良街道に面した山門を入り右手の土蔵脇に一列石造物が並べられて居る。

中程には凝灰岩製、高さ約2mの六字名号板碑、慶長14年2月24日造立。

向かって左端には十一面観音菩薩立像。

総高1m足らず、づ上に11面化仏を戴き右手に宝瓶?を抱いて、多分江戸期の造立。

その右手には像高50~60cmの定形地蔵石仏・・・像容蓮台から室町末期の造立。

その脇にも室町期の阿弥陀石仏。

右端には中央の大きい「六字名号板碑」と同高ぐらいの地蔵菩薩立像。

元禄16年の銘が有り、江戸時代中期の造立。

本堂の前には見たことも無い様な八角の石灯篭・・・そもそも石灯篭か??どうかも解らないけど。

撮影2013.3.7