愛しきものたち

石仏、民家街並み、勧請縄、棚田景観、寺社、旧跡などが中心です。

奈良県宇陀市  室生龍口(むろうりゅうぐち)の棚田

2012年12月31日 | 棚田景観

奈良県宇陀市旧室生村は、女人高野として知られた室生寺を有する市街地からは遥かに離れた山里。

山深い旧室生村に有り、更に辺鄙な室生龍口集落は幹線道路からは遠く離れたドン突き集落、特別何があるわけでも無いので余所者は滅多に通る事がない。

室生寺を少し奥に詰めた龍穴神社前の交差点よりよく整備された広域林道で長いトンネルを抜け、更に最初の分岐を右折、道なりに室生西谷集落越えると室生龍口へと至る。

昔ながらの懐かしい建物が見え、集落内道路はよく整備され広いが・・・・・通る車は滅多に見かけない。

室生西谷から小さな谷を越えれば室生龍口、その狭い谷底に小規模ながら絵になる棚田。

棚田の奥、斜面に建ち並ぶのは西谷集落。

谷に架かる橋より振り向けば下流の斜面にも僅かな棚田。

桜が咲いて鶯啼いて、老父が一人で昔ながらの田植えの準備・・・・、その向こうには集落の建物。

なんとなく車を停めてみたくなった景色です。

因に、この地は室生より名張赤目渓谷へ抜ける道筋近くに有り、境界を挟んだ名張市側の集落も竜口(りゅうぐち)集落です。

撮影2012.4.29


奈良県山添村  岩屋の棚田

2012年12月30日 | 棚田景観

山添村はその名も示すように山に寄り添う片田舎、名阪国道が村を横断していてそれほど辺鄙では無いのですが、村内を走っていると余りの交通量の少なさに驚く別天地です。

前回紹介の鵜山とはほど近く、この集落にも殆ど余所者は入って来ず、ましてや集落から離れたこの棚田など余所者の目に留まる事など無いだろう・・・。

山添村岩屋地区は村一番の大きい集落だと言うが、最早小学校は廃校、老齢化、過疎化は止めようもない。

集落は高台斜面に軒を並べ建ち、その落ち込んだ東側の谷を流れる笠間川を挟んだ斜面に棚田は広がる。

棚田の規模は大きくないが周りを濃い緑に囲まれ、水を張った棚田には早苗が優しく揺れている。

聞こえるのは野鳥の囀りばかり、全く人工機械音など聞こえて来ない。

棚田の端に1軒残った懐かしい屋根の下にはもう人影も無い。

しかしこの斜面上にはゴルフ場が有り、その山を越せば直ぐに巨大な新興団地が広がる。

車で10分とは掛からないが隔世の感がする。

撮影2012.5.20


奈良県山添村  鵜山の棚田

2012年12月29日 | 棚田景観

奈良県山添村と三重県伊賀市はその境界を接していて両側に同じ名を持つ集落がある。

これは廃藩置県以前には同じ郷か集落で在った証だろうが・・・・、何故こんなことに成ってしまったのだろう??

この奈良県山添村が接する地域にはもう1ヶ所、同様のところが在る。

そんな話はさて置き、この山添村鵜山も、どの市街からも離れた山間集落、それほど辺鄙な場所では無いのですが中々行くこともない。

奈良県と言えど、最短市街は名張市で生活圏は三重県寄り、奈良県の市街地は遥かに遠い。

名阪国道山添IC近く(念のため、この付近は全く市街地では有りません)、山添村役場より東へ約15分、県道から逸れて名張川沿いの広瀬集落へ・・・・、川を境に三重県だという気がするが鵜山は、その対岸の斜面を登り切った狭い盆地集落。

集落は一筋に下る棚田の両脇斜面に並び建ち、その景観がなんとも一輻の絵を見るように素晴らしい。

手植えをする農婦の姿も、見るものをほっこりさせてくれます。

こんな処で暮らしが成り立つのであればストレスも溜まらないと思うのですが・・・・・そうはいかないのが世の常なのかも・・・・。

撮影2012.5.20


三重県名張市 上長瀬の棚田

2012年12月28日 | 棚田景観

三重県名張市最南端 、旧三杉町太郎生(たろう)地区と接する鄙びた山間集落のある棚田。

名張市街の近鉄大阪線、桔梗が丘駅の脇を通る国道368号線で一路南へ12km、比奈知湖を越え、名張川沿いに約20分。

最上流に近い名張川も、もうこの辺りでは、ほんの5~6m程の川幅・・・・、因にこの辺りの標高は345m。

谷を行く名張川と国道を挟んだ曽爾山系のなだらかな斜面に棚田は造られている。

もう今は危なしくって、車は通行止めに成ってしまった吊橋を前景に流れの向こうに棚田が広がる。

棚田に点々と建つ茅葺き屋根にトタンを懸けた懐かしい形の民家、まるで絵に描いたような田舎風情。

棚田の規模は大きくないけど、なんとも落ち着ける景観。

田舎がどんどん疲弊していく中、もうこんな佇まいを見られるのは、そう永くは続かないような気がする。 

撮影2012.4.8:2012.3.7


奈良市下狭川町 下垣内の棚田

2012年12月27日 | 棚田景観

おおよそ時期外れなこの時期にUPするのは気が退けますが・・・・。

五月、大和高原の竹薮は一時葉を黄色く染める、その頃小さな里山集落の棚田には水が張られ首だけ出した早苗が薫風に騒めく。

五月は大和高原が一番輝く季節。

此処、奈良市下狭川は京都府と境を接する大和高原北端域、僕の山城からだと木津川沿いの笠置町より、県道33号線で白砂川を遡ること約5~6分、最初の辻を右折しきつい登りの中垣内の集落を越え、ドン突きがこの下垣内。

棚田は集落の奥、なだらかな斜面に野道を挟んでおよそ30~40枚、小さい棚田ですが絵に書いたような曲線が美しい。

殆ど外部の人間など訪れない小さなドン突き集落、早苗が手植えらしく妙に歪んでいるのも嬉しい。

誰が愛でるでもない大和高原北端域の長閑な棚田も、この時期だけは色めきだって居る様に見える。

誰も居ない棚田を独り占め出来ます。

撮影2012.5.13


岡山県高梁市有漢(うかん)町 保月六面石幢/保月石造宝塔

2012年12月26日 | 石塔:石造物

前回の三尊板碑より少し上に登った道筋左側の斜面上に多くの五輪塔などと一緒に立って居ます。 

今はこうして棚田に囲まれるようにして在る集落ですが、やっぱりこのようにたくさんの石造物が並んで居ると、この近辺には古刹が有ったんだと確信するが、やっぱりNETでは全く引っかからない。

今では、ここより2kmばかり離れた臍帯寺の管理物と成っているが、元よりそうでは無いだろう・・・。

この地に建つ、向かって右、六面石幢と左、ちょっと妙な形の石造宝塔も、あの三尊板碑の作者、鎌倉時代の名工井野行恒の手に依るものです。

一見、バランス良く見える六面石幢は総高約2.6m、幅約30cm程の六角柱石の上に笠石を載せ、その上に小五輪塔の空・風・火・水・地輪を載せて居る。

元は請花、宝珠だったようですが亡失、現在の形に置き換えられた様です。

幢身には六面にわたり、二重光背を持つ坐像石仏と下部に銘文や偈文(げぶん)が刻まれている。

上方に十二の尊像、その  保月は、伊派の名工 井野行恒(いのゆきつね)の作品で、鎌倉時代後期 嘉元四年(1306)の銘があり、名品として知られている。

小さいながら深く彫られた二重光背に坐す阿弥陀如来と、その下の脇侍種子も素晴らしい。

鎌倉時代後期 嘉元四年(1306)造立、銘のある石幢では最古、名品とされ国の重要文化財に指定されて居る。

三尊板碑が嘉元三年だから一冬はこちらに居たのだろう・・・・。

片や並び建つ宝塔は嘉元三年の銘が確認され、三尊板碑と同じく作者も造立年も全く等しい。

塔身は失しなわれ、他の層塔の軸j部を流用、二重石塔の形をして本来とは全く別物に成って居る。

軸部に刻まれた三尊像・・・・、六角石幢の尊像には比ぶべくもないが、高梁市の文化財に指定されて居る。

失われたこの塔身部が、どこからか出てこないものだろうか??まるで違った印象を受けるに違いない。

撮影2012.12.3


岡山県高梁市有漢(うかん)町 保月三尊板碑

2012年12月25日 | 石塔:石造物

岡山県、中国山地の真っ只中、山陽道と中国道を繋ぐ岡山道沿いに旧有漢(うかん)町が有り、国の重要文化財に指定された板碑や石塔が残されて居る。

それらは保月の名を頭に冠して呼ばれているが、この「保月」が妙に気になり、調べてみるがさっぱり判らない。

多分この辺の古い小字名か?とも思うが、何処を探してもその説明がない。

なだらかな斜面に広がる棚田にポツポツ小さな集落のある上有漢・・・・・・

小さな集落と集落を結ぶ田舎道、そんな峠に近い道沿いに、この存在感の有る板碑が、ぽつんと立ち尽くしている。

高さ315cm、43cm、一見方柱のようにも見えますが、やっぱり板碑らしく厚みは30cm足らず。

兎に角見事に背の高い板碑で、僕にはこれだけ大きいものは、奈良「般若寺の笠塔婆」ぐらいしか思い当たりません。

頭部山形、下に二段の切込を入れ、その下部には上から釈迦如来坐像、阿弥陀如来坐像、地蔵坐像を配し、その下には次の刻銘がある。

「心王念法、不可破壊」、「嘉元三季(1305)乙巳十一月十三日」

「大願主漆真時、一結衆二十八人敬白、大工井野行恒」

二重光背の中の三尊像は共に力のこもった見事な彫りで、刻銘通り、中央、奈良で活躍した伊派の名工「井野行恒(いのゆきつね)」の名を汚さない出来栄え。

わざわざ奈良から名石工の誉れ高い井派の石工を呼びつけるような、名刹が有り、権力者がこの地に居たと言う事なのか??

今では鄙びた棚田集落に過ぎないけれど・・・。

鎌倉後期の嘉元三年(1305)造立、因に奈良市「南田原阿弥陀磨崖石仏(切りつけ地蔵)」も同作者の手によるものです。

撮影2012.12.3


岡山県倉敷市児島 総願寺跡石造宝塔

2012年12月24日 | 石塔:石造物

鎌倉初期の刻銘が有り、全国的にも極めて貴重な石造宝塔。

倉敷市街の南、瀬戸自動車が瀬戸内海を跨ぐ本の少し手前、一昔前は学生服、現在でも国産ジーンズの拠点として広く知られる旧児島市の下之町にある。

染物工場の玄関先、総願寺跡に建つ王子権現社拝殿脇、鉄製アングルで組んだ簡素な覆い屋の中に安置されて居る。

この宝塔は畿内、特に近江で数多く見慣れた宝塔とはちょっと趣を異にした方柱状の塔身を持ち、上に大きな屋蓋を載せ、その上に相輪を置いて居る。

屋根が直線でなく温もりのある曲線なのが特に印象に残る・・・・・。

基礎は円形を成す花崗岩自然石、総高2.8mの花崗岩は火災により特に塔身部の傷みが激しい。

塔身は膨らみを持たない角柱を大きく面取り、各面には枠を残した長方形を彫り沈め、四方仏を薄く刻み出して居る。

南面する正面には多宝如来と釈迦如来の二尊座像・・・・、この面の傷みが酷い。

右回りに西面は・・・・・ゲエ、これはどう見ても阿弥陀では有りません。

こちら保存良く、像容も良く整い端正な尊顔、蓮座に座する弥勒仏・・・像高60cmばかりか?

裏側北面には何故だか不動明王立像・・・、こちらも傷みが目立ちます。

最終東面は見事な二重蓮台に坐し、弥陀定印を組む阿弥陀坐像。

どうも、いつもの四方仏とはかってが違います。

塔身の隅に建仁三年(1203)の刻銘が有り、 鎌倉時代の在銘石造宝塔では、全国で二番目に古い造立。

撮影2012.12.3


広島県尾道市 浄土寺の石塔

2012年12月23日 | 石塔:石造物

前回の続き、尾道「浄土寺」には国の重要文化財に指定された納経塔と呼ばれる宝塔や宝篋印塔がある。

<阿弥陀堂、多宝塔>

境内には名古刹の名古刹の名に恥じず、古い形の阿弥陀堂や多宝塔が建ち並び、

多くの建築物も国宝や重文に指定されて居る。

裏口から境内に入ると白壁塀の前に並立する宝塔と宝篋印塔。

向かって右に立つ宝塔は総高2.7m、塔内に法華経などを奉納したとされ、納経塔と呼ばれて居る。

基壇上に格狭間入の基礎石を置き、塔身には珍しく胎蔵界四仏の種子を刻み出すが力強さには少し欠ける。

首部には特徴的な帯状刻み出しが見てとれる。

塔身に 弘安元年(1278)戌寅十月十四日:「沙弥光阿弥陀」「孝子光阿 吉近敬白 大工形部安光」の刻銘が有り、尾道では最古の銘をもつ鎌倉中期造立。

片や、向かって左側に立つ宝篋印塔は、高さ3.2m、塔身下の請座は二重に成っていてこの地の特徴を表している。

塔身蓮華座上、月輪内には金剛界四仏の種子を薬研彫り、貞和四年(1348)戌子十月十日の刻名が有り南北朝前期の造立。

傍らに在った五輪卒塔婆・・・、高さ約2.3m。

尾道は良質の花崗岩の産地でも有るのだろうか・・・・・。

撮影2012.12.2


広島県尾道市 浄土寺不動明王磨崖仏

2012年12月22日 | 石仏:山陽

尾道きっての名古刹、浄土寺は遠く飛鳥の昔、聖徳太子の開創と伝えられ、文化財の宝庫「国宝の寺」として良く知られるが、また背後「瑠璃山」の岩塊には巨大な不動磨崖仏が刻まれて居る。

遠くへ出かけると少々の雨でも無理を承知で予定をこなしてしまう・・・、ちょうどこの日も午前に因島、鞆の浦と廻り午後2時頃に宿のある尾道まで帰ってくると初冬の冷たい雨が降りだした。

風光明媚な尾道水道を下ろす高台に建つ、浄瑠璃寺山門前からの景色も冷たく泣いている。

尾道は狭い坂の街、浄土寺山門前の参道も寺院の規模にしては狭く、車では行きづらいが、到着すれば境内は広く、駐車場も用意されて居る。

境内に着き、そぼ降る雨の中裏山の磨崖仏までの道を訊ねると、その巨岩までは約20~30分の山登りだと言う・・・・・、暫く躊躇したがこれくらいの雨ならと意を決して強行、山頂付近の不動磨崖を目指す。

西国霊場石仏が置かれる参道を雨に打たれ、もう止めようかと思い始めた頃に大岩が見え出し、なんとか対面。

巨大な岩塊が屹立する高さ7~8mも有ろうかと云う花崗岩の波打つ壁面に薄肉彫りの不動石仏が見下ろして居る。

像高約4m、右手に利剣、左手に索を持つ、お決まりの定形不動明王立像です。

大きい目玉に真一文字に結んだ口元、憤怒相には違いありませんが大きい割にはリアリティーが感じられず、何故か紙に描いた漫画のような薄っぺらさを感じてしまいますが・・・・・(サラサラけなすつもりでは有りません。)

江戸時代中後期、大峰山信仰講中の奉納。

そそくさと戻った境内、 開山堂奥斜面には千体石仏が並ぶべられ壮観。

最上段にはこれはと思う如来形、多分阿弥陀石仏も見えるが・・・、これ以上は近づけません。

境内片隅に置かれていた小さな不動明王石仏。

どことなく、いなせな若者がが風を切って歩いているような・・・・。

裏口近くに有った山形板碑・・・舟形の中に地蔵立像を刻み付ける。

他の石造物は次回に続く。

撮影2012.12.2

磨崖

広島県福山市鞆町後地(ともちょううしろじ) 安国寺地蔵石仏

2012年12月21日 | 石仏:山陽

広島県福山市の南、沼隈半島南端にある古い港町鞆町は万葉集にも詠まれるほどの古い港町。

瀬戸内海のほぼ中央に位置する鞆の浦は「潮待ちの港」として大いに栄えたが、近代には瀬戸内の交通手段も陸運が主体となりすっかり取り残され、古い港町がそのまま残り2007年には「美しい日本の歴史的風土100選」にも選ばれた。

瀬戸内海を前にし、狭い道筋には由緒ある寺が19ヶ寺も林立、その繁栄ぶりを垣間見ることが出来る。

鞆の浦の旧市街北端近く、臨済宗「瑞雲山安国寺」と云う古刹が有り、その境外参道脇には古めかしい地蔵堂が建ち、地方仏だとは思えない立派な地蔵菩薩坐像が祀られて居る。

安国寺は鎌倉時代の文永十年(1273年)『金宝寺』として開基、後、室町時代に「安国寺」と改められたと言われています。

石仏は少し顎を突き出した容姿に特徴のある地蔵菩薩坐像・・・・・・、

本格的な格狭間入り八角框の上に反華座、敷茄子、蓮台と置き、上に結跏趺坐する地蔵菩薩を置いている。

幅のそう広くない舟形光背と殆ど丸掘りの仏身は一石で彫り出し、光背には円頭光を浮き彫りで刻み出す。

右手は錫杖を持たず肩口で施無畏印、左手は膝の上で宝珠を持ち、所謂矢田型の地蔵菩薩坐像です。

まるで瞑想するような半眼は印象的で畿内石工の手に依る石仏ではないかと考えられる。

国の重要美術品に指定され、総高219cm、像高120cm、光背裏面には元徳二年(1330)の銘が有り鎌倉末期の造立。

当時の「鞆の浦」の繁栄ぶり、経済力を偲ばせる石仏です。

撮影2012.12.2


広島県尾道市因島重井町 白滝山の石仏-2

2012年12月20日 | 石仏:山陽

先日の因島白滝山石仏の続きです。

急な参道を登りきり、小さな白滝山と書かれた山門を潜ると・・・・・・

観音堂と庫裡の建つ境内・・・、その脇に背の背の高い自然岩を基礎石にしたちょっと妙な多宝塔。

基礎石の四方には多くの磨崖石仏。

これらは一体何様なのか・・・・・観音様、羅漢さん??。

いずれも中肉彫りで力強く刻まれています。

かたや、こちらは観音堂前の巨岩に刻まれたり、上に置かれたりしている石仏さんたち。

この岩に刻まれた磨崖仏は三体、この石仏は如来形なのに蓮華を掲げています。

正面左脇にはマリア観音と呼ばれるこんな磨崖石仏、一面六臂の一肢に十字架を掲げて居ます。

 

岩塊に置かれたこんな小石仏・・・天狗らしいのですが??

儀軌に捕らわれず、自由奔放な像容は総てを採り入れた新興宗教が成せる術なのでしょうか??

この石仏たちは「一観教」教祖「柏原一観」が目指した曼荼羅、理想郷だったのかも??

石仏は歴史の瞬間を切り取ったかのように其処にある。

撮影2012.12.2


広島県尾道市因島重井町 白滝山の石仏-1

2012年12月19日 | 石仏:山陽

兎に角すごい石仏の数でどれからどのように紹介して良いのやら・・・・・・。

<白滝山から見た「しまなみ海道」尾道方面>

ここ因島は本四連絡橋の「しまなみ海道」が貫き、尾道市と成って陸続きのように成っているが古くは村上水軍の島、瀬戸内の砦として知られ、歴史・観光の島として注目されている。

その因島北IC近くの白滝山は村上水軍の将、村上吉充によって、15世紀のはじめ観音堂が建立された風光明媚な古代岩座霊場。

この頂上付近一帯に約七百体奇妙奇天烈な石仏が瀬戸内の海を眺めるように置かれ佇んでいる。

駐車場から急な石段参道を15分も登ると狭い境内・・・・・石仏が並び、眼下には海と島のパノラマが展開しています。

その奥にはまるで石仏の展示場よろしく、おびただしい石仏の羅列。

この地に立つ多くの石仏達は江戸時代後期の文政年間(1818~1830)、近く重井町に生まれた新興宗教「一観教」の教祖「柏原伝六(一観)」の意思により尾道の石工達が刻んだものだと言われて居る。

「一観教」は神道・仏教・キリスト教・儒教を一つに融合した新興宗教・・・・、彗星の如く表れわずか10年足らずでその姿を消し、この地に居並ぶ多くの石仏たちだがその生き証人として残された。

前列中央には両翼に沢山の石仏を従えた大きい丸掘りの「釈迦三尊像」が高くそびえていました

その裏側には羅漢石仏が居並んでいます。

五百羅漢小石仏の居並ぶ参道奥には「三大師座像(達磨大師・弘法大師・道元承陽大師)」その背後の基壇には「一観教」教祖、柏原伝六と妻の像と書かれていた石仏・・・・、なぜか右側が一つ空席のまま残されています。

キリスト教まで融合した「一観教」は藩からキリシタンの疑い掛けられ、教祖は投獄、翌年には獄中で不慮の死を遂げる。

居並ぶ石仏目の前にして石仏たちの哀しい物語を知らされると、一つ一つの石仏の事など語るべくもない気がする。

ただ物言わぬ石仏が瀬戸内の海を見下ろしている姿は印象的な景観です。

撮影2012.12.2


広島県尾道市 済法寺(さいほうじ)磨崖石仏

2012年12月18日 | 石仏:山陽

尾道千光寺山西斜面に建つ曹洞宗「済法寺」は「げんこつ和尚」と呼ばれた「物外不遷和尚」の寺として知られるが、また其の裏山斜面に多くの磨崖の羅漢像が刻まれていることでも知られている。

尾道は狭い坂の街としても有名なように、この「済法寺」も僕の車では門前までは辿り着けず、近くのスーパーに車を置き狭い路地坂道を歩いて訪れた。

<墓地斜面より見た済法寺境内と尾道の町並み>

済法寺も大きいお寺で、裏山斜面の急崖にしがみつくように多くの墓地が幾段にも有り、斜面に突き出した大岩には十六羅漢石仏などが刻まれて居る。

境内からも斜面の大岩に刻まれて居る石仏は確認できるが、斜面墓地への通路を登って最初に出逢う大岩には実に多くの羅漢さん。

羅漢像は概ね100cm~150cmの中肉彫りの坐像が大部分を占める。

石仏好きを辞任する僕も羅漢の個々の名前までは殆ど知らないので尊名個々の説明まではできませんが・・・

斜面頂上付近の大岩には見下ろす様な禅定印の釈迦如来坐像・・・・大きな舟形光背の中、二重光背を持ち、像高135cm。

この斜面はきつく、足元も覚束無い僕は望遠レンズでやっとここまで。

主尊釈迦如来より一段下の羅漢さん達・・向かって左手は飛雲に乗り合掌して居ます。

済法寺七代住職・牧元喝童和尚の享和年間(1801~1803)、江戸中期以後名を馳せた尾道石工により刻まれたものです。

近隣の豪商などの喜捨により裏山を曼荼羅図に見立てた様です。

動きもあり、ちょっとグロテスクに見える像も有りますが、写実的で力量のある尾道石工の素晴らしい技量の程がよく伺える石仏が多い。

畿内では見かけられない優秀な近世石仏だとされて居ます。

撮影2012.12.1


広島県尾道市 千光寺磨崖石仏・他

2012年12月17日 | 石仏:山陽

昨日の続き、尾道千光寺の石仏さん達・・・・。

千光寺二体目の磨崖石仏は境内背後に折り重なる巨岩の足許、巨岩を支えて居るかの様な山形花崗岩が有り、中央に大きく舟形を造り中に三尊形式の石仏を刻み出して居る。

脇には墓標らしき彫り込みも有る。

中尊は像高40cm余りの来迎印阿弥陀立像か?脇侍にはそれぞれ僧形仏が立ち、小像ながら像容は良く整って居る。

本堂脇、石鎚権現を祀る岩塊「くさり山」の岩壁には「からす天狗」の線彫り磨崖像。

像高約1m、雲上に載り羽を生やし、遠い昔に漫画で見たような像容です

参道脇、石積み前に置かれた阿弥陀逆修塔。

高さ約1.4mの山形自然石に先日紹介の双体逆修塔によく似た像容の阿弥陀如来立像。

「天正十七年(1589)、己丑、二月廿五日」 :「阿性禅定尼逆修」と有り、同じ年、同石工の手に依るものだろう。

撮影2012.12.1