愛しきものたち

石仏、民家街並み、勧請縄、棚田景観、寺社、旧跡などが中心です。

大阪市天王寺区 四天王寺の石仏

2012年06月30日 | 石仏:大阪

言わずと知れた四天王寺の巨大境内地に有る地蔵堂内に祀られた石仏さん。

撮影中にも絶え間なく参拝者は訪れ、その薫香でむせ返るほど、重い程にに掛けられた真っ赤な涎掛けを剥がす事などとても出来ません。

小学校や中学生の頃にも習う「聖徳太子」が創建した我が国最古の寺院ですが、度重なる戦火や天災に見舞われ、境内地の殆どはつい最近建築物となっている。

所謂四天王寺式の中心伽藍も昭和20年(1945)の大阪大空襲で焼失、昭和38年(1963)再建された鉄筋コンクリート製でイマイチ感は拭えない。

そんな中、境内西入り口に建つ石鳥居は鎌倉時代の永仁2年(1294)の造立、傍らには「大日本佛法最初四天王寺」の石柱が誇らしげに立つ。

この石鳥居は重要文化財に指定され、扁額には「釈迦如来 転法輪処 当極楽土 東門中心」と有り、此処が極楽の入口である事を示し、往古これより外は大阪湾の波が打ち寄せていたとか・・・。

この石鳥居脇に建つ四天王寺学園の校舎を挟んで中の門参道脇には目的の地蔵堂。

明治時代頃より境内や近辺から集められた石仏数十体を合祀、地蔵堂と呼び慣わしている。

絵図では右端下に有る地蔵堂内に今回目的の二体の石仏が安置されている。

向かって左側には重量感の有る阿弥陀坐像石仏、右手にはしたり顔で笑顔の地蔵立像。

何処から来たものなのか?何故か勝軍地蔵の名で呼ばれる阿弥陀石仏は、二重円光背を背負う総高130cm、像高91cm、端正な尊顔、頭上の肉髻(にくけい)が大きく盛りあがっている。

一寸失礼、お許しを・・・涎掛けを首まで巻き上げると・・・、堂々とした体躯で結跏趺坐、膝上で定印を結び、厚肉彫りで刻み出された阿弥陀坐像です。

しかし尊顔は目鼻立ちも覚束無い程ですが、その像容から鎌倉時代中期の造立だと考えられています。

片や右手に居られる地蔵石仏は元、近くの安居神脇に在った逢坂清水と呼ばれる井戸と共に、この地に移されたその名も「融通地蔵尊」。

総高約170cm幅75cm、砂岩の自然石を舟形上状に整え、浅く彫り出した円頭光を持つ、右手錫杖・左手宝珠の定型地蔵立像です。

厚肉彫りで深く刻み出した像高は135cm、蓮台は欠損したのか真新しく後補されそぐわない。

鎌倉時代後期 、正和六年(1317) の銘が有り府の文化財にしてされている。

名の通り、何事にも融通をつけて呉れると言うこの地蔵さん、参拝の絶える事無く、涎掛けも半端ではなく捲り上げる事すら出来なかった。

鎌倉期の石仏にしては磨耗風化が少なく、口を歪めての笑顔が印象的な地蔵さん。

撮影2012.6.23


天理市萱生(かよう)町 天満宮の石仏

2012年06月29日 | 石仏:奈良

ちょっと、珍しい十一面観音石仏が奈良山之辺の道、萱生(かよう)町に在る。

歴史好き、奈良好きにはお馴染み、山之辺の道萱生(かよう)町は古墳群に囲まれ、古い佇まいを良く残す環濠集落。

 

そんな集落の中心に位置する天満神社境内は児童公園にもなり、集落の会所にもなり、片隅には石仏が並び立てられて居る。

一列横隊に建ち並ぶ石仏は右から、大きいものだけでも「役行者」「庚申さん」「十一面観音」とまるで脈絡無しのバラバラ状態・・。

この地には神社と共に神宮寺も併存していたのだろうと思わせる様に、小石仏も多く並んでいる。

小石仏の真ん中に立つ十一面観音石仏は大きい幅広の舟形光背を持ち右手錫杖、左手蓮華瓶の所謂長谷寺型十一面観音立像。

奈良には多いキツネ目を持ち、総高ほぼ1m、像高80cmの中肉彫り。

光背面にはしっかり天文2年(1551)の刻銘が在り室町後期の像立。

向かって右端にはこんな役行者石像、前の花立には天満宮御宝前とあって神仏混交が窺える。

華奢な足許を岩座垂らしているが、こんな足許では山岳修行など、おぼつきもしないだろうに・・・・。

江戸時代も中期以後の造立だろうか・・・、体躯が妙にアンバランスです。

こちら庚申さんの青面金剛像、高さ約60cm足らずで、江戸時代の造立ながら中々しっかり彫られて居ます。

大和の古い在所に残る石仏さんたち。

撮影2011.5.21


天理市  浄土院十三仏板碑石仏:他

2012年06月28日 | 石仏:奈良

前回と同じ旧「中つ道」脇の浄土院に有る十三仏板碑石仏、小さな三連涎掛けが上下四段にも掛けられていて手に負えません。

花園寺から旧街道を道なりに南に200mも行くと浄土院の小奇麗に整備された小さな山門があり、本堂前には境内墓地も有る。

墓地を背に、本堂を目の前にして小さなありきたりの六体地蔵が並べられ、その後列中央にこの十三仏石仏が置かれている。

高さ約160cmの舟形板碑に高さ約15cmの十三仏を三列四段に配し、頂部にはお決まりの虚空蔵菩薩を置くが、とてもこの可愛い涎掛けを剥がして総て確かめる気には成れなかった。

天文銘が有り十三仏としては古い室町後期の造立だと云う事です。

後ろの工場の壁が何とも不釣合いですが・・・、墓地脇に並べられた小石仏の集積に一際大きな地蔵石仏が有り目を惹く。

前の小石仏が邪魔をしてどうにも全体像は撮れなかったけど。

頂部を欠損した様にも見える舟形光背を負い、現高約130cm、像高も見た通り同じ高さで蓮華座に立つ。

風化磨耗も加わりその上地衣類が纏わりつき像容も定かでは有りませんが、右手は腰まで下げ左手に宝珠を抱く矢田型地蔵立像。

丸彫近くまで深く刻み出し、もし単独で立って居たなら中々のものなのになあ・・・と思ったり。

大永5年(1525)の銘が在り室町後期の造立。

撮影2011.5.21


天理市 花園寺(けおんじ)の石仏

2012年06月27日 | 石仏:奈良

形の良い阿弥陀板碑石仏が天理市街の旧街道沿いの花園寺に有る。

天理市は言わずと知れた天理教本部の有る宗教都市、しかし古くは「大和まほろば」とも言われ、古い文化財も天理教の影に隠れるようにして多く残されている。

花園寺は所謂古代官道「中ッ道」脇に建つ浄土宗の寺院ですが境内には多くの石造物が残され、中でもこの阿弥陀板碑は秀逸です。

山門を入ってすぐ左手、一寸無粋なコンクリートブロックを背に、2~3の石造仏と共に建っていて一寸気の毒。

阿弥陀石仏板碑は井戸城主 井戸若狭守良弘と父 覚弘の供養碑で、高さ約1.5mの舟形板碑中央に中肉彫の阿弥陀立像を刻み出し、頂部には阿弥陀の種子「キリーク」刻み、形の良い蓮華座のうえに立つ。

像高60cm、来迎印を結び穏やかな顔で立つが、体躯全体的に形式化の進んだ室町後期、天文二十二年(1553)の造立。

向かい側にはまだ新しい六地蔵堂が在り後列には・・・

多くの地蔵石仏と共に一寸珍しい舟形の六地蔵板碑が並び立っている。

高さ約115cmの舟形板碑上部に、像高30cmにも満たない地蔵立像を三体づつ二段に刻みだした所謂一石六体地蔵です。

天文九年(1540)の銘が有り室町後期の造立。

境内墓地に見るべき小石仏も多く二列三段の一石六地蔵も有ったり・・・・。

それより何より僕の目を引いたのは、懐かしい面影を残す近くの辻堂に有った、小さな石仏。

向かって左端、堂内では一番大きな石仏の涎掛けを外して見ると・・・・、こんなん出て来ましたあ~~~。

赤っぽい凝灰岩だろうか、自然石の表面に方形枠を彫沈め、弥陀定印の結跏趺坐する阿弥陀坐像を刻み出す。

阿弥陀三尊なのか?顔の両脇には判別のつかない程小さな石仏。

中尊の阿弥陀は像高40cmばかりと小さいながら漲る力強さ表し、鎌倉期の石仏を彷彿とさせる。

古い道筋には古い石仏さん。

撮影2011.5.21


奈良市大保町 尾羽根墓地一石六体地蔵石仏

2012年06月26日 | 石仏:奈良

柳生の奥、大保町尾羽根の墓地に大和高原や名張方面に多い一石 六地蔵がひっそり佇んでいる。

僕が勝手に大和高原ハイウエーと呼ぶ国道369号線、そのうち唯一曲がりくねった細い道路のまま残る大保町尾羽根地区。

尾羽根の墓地は国道から少し外れた集落を見下ろす小山の上に有る。

墓地は昔の埋め墓形式を残す古い形態で懐かしい白木の墓標が点々と建つ・・・、まだ現に土葬も生きてるのか?真新しい墓標も見られ、ここで自然に帰る人生も有るのだと思わされる。

墓地入り口正面には青竹で組まれた鳥居が有り、その鳥居型上部中央には、これも青竹を加工した多分「六本に分れた蝋燭立て」が結わえられている。

こんな形態の墓地入り口は見たことが無く非常に興味深いものでした・・・・、新仏を迎え入れた印なのかも??

一石六地蔵は墓地入り口のほんの少し手前、ちょうど曲がり角になるふくらみにぽつんと置かれている。

幅約1m、高さ70cm足らず、山形に整形加工した花崗岩の写真のような長方形を彫り沈め六地蔵を刻み出している。

蓮台は枠外に薄くレリーフで表すが、単純なデザイン化された蓮台で、最早中世のそれでは無い。

六地蔵は像高約40cm、素朴で野趣豊かな石仏さんです。

撮影2011.5.15


柳生下町 打滝川畔磨崖石仏

2012年06月25日 | 石仏:奈良

もう訪ね尽くしたと思っていた柳生の里に、まだ人知れず磨崖石仏が在ると言うので訪れてみた。

もう何度と無く通い、走り慣れてる国道369号線、柳生中学校前で大きく蛇行する打滝川、その右岸に沿う野道脇に一体、その奥の山側斜面にも、もう一体の磨崖石仏がある。

民家の脇を失礼して川沿いに少し進むと・・・アングルを組んだ簡素な覆屋、その奥に磨崖の石仏さん。

ちょっと縦長の高さ1m足らずの丸い岩に、赤い涎掛けを掛けた地蔵石仏が刻まれている。

高さ50~60cmの舟形光背の中に立つ地蔵立像は右手錫杖、左手宝珠の定型地蔵。

風化磨耗で像容もはっきりしない。

しかし、尊顔には何処となく気品を感じさせるものが有る。

手前勝手な印象からは室町後期の像立だろうか??

片やこちらはもう少し奥、畑越の斜面上に有る磨崖の石仏さん。

斜面には自然石の踏み場が設えられ、石仏の真近まで近づく事が出来る。

やっぱり今度は眩しい白の涎掛け・・・・。

斜面に突き出した丸い岩にここでも像高40cm足らずの地蔵石仏。

舟形光背の中、しっかり蓮台に立つ地蔵立像。

こちらはすっかり青白い苔が全体を蔽い像容も定かでは有りませんが、右手は腰まで下げて与願印、左手は胸で宝珠を抱く所謂「古式地蔵」の様見える。

顔立ち、衣文等も殆ど見えないが、そう新しくなく前述のものに相等しい造立だろう。

苔を落として拓本でも取れば何か銘が出てきそうな気がする磨崖です。

撮影2011.5.15


笠置山 八丁坂の阿弥陀笠石仏(名切地蔵)

2012年06月24日 | 石仏:京都

なだたる石仏の多い我が南山城笠置山、八丁坂と呼ばれる旧参道脇の大岩に隠れるよう、人知れず立つ笠石仏です。

笠置寺山門近くに「名切り石」と呼ばる巨岩があり、「元弘の変」の戦死者名を刻み付けていたようですが、安政の大地震で反転、刻面は下になり現在は全く見えません。

この戦死者供養の為に造立されたのか定かでは有りませんが、脇に立つ一体の「名切り地蔵」の名で呼ばれ、その実、阿弥陀笠石仏がた立っている。

総高ほぼ1mばかり、別石宝形型の笠を持ち、下部は四隅に面取りをした箱石仏で中に蓮座に立つ阿弥陀如来立像を中肉彫で刻みだしている。

右手施無畏印(せむいいん)左手与願印(よがんいん)、像高凡そ60cmばかり、小石仏と言う印象は受けない。

像容はやや痩身で重み無く、室町中期頃の像立でしょうか??。

でも、この地に有るから目立たないだけです。

撮影2011.5.14 


四条畷市 清滝峠石仏群

2012年06月23日 | 石仏:大阪

峠道に突き出した大岩と大岩の隙間を石龕に見立て「役行者」を安置、傍の岩には小さな磨崖の地蔵も刻まれています。

清滝街道と呼ばれる旧国道163号線、現在はその下を新国道がトンネルで一気に越えるが、旧道は峠の逢坂集落を巻きながらうねうね登る。

新道に取って代わられすっかり交通量の少なくなった旧国道筋の逢坂集落は喧騒から逃れて静かな佇まいを取り戻している。

大岩は集落の外れ、改修成ってすっかりコンクリート壁に囲まれるようにして竜王川を挟んだ国道脇の小山裾に突き出している。

自然石龕の中央には切石を基壇に紡錘状自然石に舟形を彫り沈め、岩座に腰を掛ける役行者像を中肉彫りで刻み出している。

集落の信仰の中心でも有るかの様に周りには、この小山の上に有ったという墓地から小石仏も集められ、傍らに安置されている

小さな役行者像ですが、やっぱりこの地が生駒文化圏只中であることを充分認識させてくれる石仏です。

像高約50cm足らず、江戸期造立のものでしょうか??

傍らに突き出した岩には磨崖の定型地蔵石仏、強い雨に打たれたのか?下半身が泥はねだらけ。

山形岩の正面に高さ50cm程の舟形を彫り、中に略式化、形式化の進んだ像高40cmばかりの地蔵立像を中肉彫りで刻みだす。

大きな藤蔓が絡みつく集落の祭祀場と言う感じの場所です。

撮影2011.12.7


交野市星田  共同墓地の石仏

2012年06月22日 | 石仏:大阪

旧、星田邑共同墓地の石仏さんたち。

墓地はずっと昔から変わる事無く同じ場所に有るのですが・・・、すっかり周りが変わってしまって、今では大きい遊興施設と工場裏に隠れて

全く余所者には分かり様も有りません。

新関西製鉄裏の府道20号線脇、墓地道入り口につながる町工場のフェンス前に佇んでいる地蔵さん。

フェンスの向こうでは僕の知らない言葉で談笑する従業員・・・・、勿論僕が写真を撮っていても全く我関せず・・・・。

地元では「新仏、道しるべ地蔵」と呼ばれていて、昔星田からの葬列が通る辻に新仏の道しるべとして立っていたのだろう・・・。

現在その地は工場となりこの地に移されたという。

舟形光背を持つ総高約90cm、光背よりせり出した蓮台上に立ち、像高約55cmの定形地蔵立像。

痩身で頭でっかち、単純化された体躯に風化磨耗が加わり殆どその尊顔も分からないほど。

しかし江戸期までは下らず室町末期から安土桃山期の造立。

墓地への進入路、やっぱり三面側溝、ガードレールを設えられた小川の前に立つお迎え地蔵とその一団・・。

一番手前に立つのがこの墓地のお迎え地蔵、自然石を舟形状に整形、舟形光背を深く掘り沈めた中に定型の地蔵立像を中肉彫りで刻みだす。

総高1m強、像高は約70cm足らず、室町後期風の単弁蓮坐の上に立つ。

風化磨耗が激しく殆どツンツルテンながら、やっぱり近世仏にはない匂いをを醸し出して居る。

造立は室町後期。

地元では、この地蔵に花や香を上げると迎えが早く来ると言われ、あえてお参りはしなかったと言う。

脇にはこんな阿弥陀さん。

ユニークな顔で結跏趺坐、弥陀定印を組むが略式化、形式化の進んだ江戸期のものでしょうか??

足がまるで蛇のように見える稚拙さが何処となくほっこりさせてくれます。

他の小石仏と同じく昭和50年代に河川改修で掘りだされ、ここに安置されているようです。

墓地入り口には、近代的な建物を背に一列に並んだ六体地蔵と板碑形石仏。

頂部を山形にして二本の溝を刻み、その下方に舟形を掘り沈め、中に阿弥陀坐像を刻み出している。

板碑の高さ約110cm、幅約25cm。

弥陀定印を持つ小さな阿弥陀如来坐像はその像高約20cm足らず、風化磨耗も進んでいるが室町後期の造立。

星田型石仏とは一寸違った、庶民の一端を知る石仏さんたち。

撮影2012.6.13


交野市星田 六呂の石仏

2012年06月21日 | 石仏:大阪

平板状の切石に向かって右には阿弥陀、左には地蔵を刻みだした星田型双石仏です。 

JR星田駅のすぐ傍、自転車置き場前の新興住宅脇を流れる、コンクリートで固められた側溝内に立つ石仏さん。

一昔前までは田圃脇を長閑に流れる小川の土提に立っていたのだろうが・・・・、それも今は昔、何の因果か?こんな民家の裏に挟まれた溝川に、粗末なコンクリートで固められています。

お詣りする人など誰一人居ないのか・・、全く人の来た気配もありません。

この辺りは一昔前までは六路の名で呼ばれ、東高野街道の辻場で、星田邑の入り口にも当たる処だったようです。

石仏は高さ約85cm、幅約55cm、方形板石の表面に、蓮台に立つ阿弥陀立像と地蔵立像を並べた双仏石で像高共に約47cm。

右手来迎印の阿弥陀と、左手定型地蔵は共に円頭光を持ち、豊かな表情で微笑んでいます。

体躯の衣文や蓮華座の様式からも造立年代は室町後期と見られる。

この石仏は昭和50年代、この宅地造成で掘り起こされ、ここに置かれているようです。

小川の洪水で埋もれてしまうまでは、歯痛地蔵として信仰を集めていたようですが、今では誰一人訪ねず、それが証拠に赤い涎掛けは外さなくても、元から有りません。

撮影2012.6.17


交野市星田 妙見山南墓地石仏

2012年06月20日 | 石仏:大阪

現在義晴地蔵寺の名で延命地蔵として信仰されている、小松神社(星田妙見宮)裏参道入口に集められた石仏さん達。

星田の旧在所からまっすぐ南東へ伸びる道路を妙見台住宅の入り口、左側妙見山南斜面に結構大きな覆い堂が建てられ鎌倉期から室町期の中世小石仏が安置されている。

義晴地蔵寺と言う名は此処に安置されている第12代将軍足利義晴の五輪塔により名付けられたようです。

この地は往時隆盛を極めた小松寺の寺僧墓であった土地だと言われ、周辺から掘り出された石仏・石塔など二百基以上が集められています。。

前説はこのくらいにして、雛壇に立並ぶ二百体もの小石仏の中でも一際目を惹くのが中段真ん中辺りの地蔵さんと右端に見える平石の阿弥陀さん。

大きく目立つのがこの石仏さん、前にはこけしや縫いぐるみなどもお伴で微笑ましいのですが、一寸首をかしげてしまいます。

石仏は総高約1m足らず像高約70cmの星田型阿弥陀立像ですが、一寸首を傾げたように見え、鼻と額の上は少し潰れています。

切れ長の目を持つ凛々しい若者風の尊顔、来迎印を結ぶ。

衣文は少し単純化され高く深い蓮台ながらこちらも少し単純化が進み出している。

おでこが広く若者風の阿弥陀石仏は、その像容から慈光寺の「鍋賀地蔵」までは遡れない気もするが?資料では同じく、南北朝~室町初期の造立だろう。

中段真ん中辺りに立つ、おおきな赤い涎掛けの地蔵さん・・・舟形光背の上部が複雑骨折、断裂していて不整形な光背に成ってます。

赤い涎掛けを取ると正面からは落ち着いたこんな感じ・・・・。

光背より大きくせり出した蓮台に立つ、一寸理知的なワンパク小僧の様にも見える地蔵さん。

凝灰岩勢で残存総高約60cm足らず、半分コンクリート基台に埋め込まれた蓮台に立つ厚肉彫りの像高ほぼ42cm。

左手は胸元で宝珠抱き、右手は下に垂らし下与願印結ぶ、所謂矢田寺型の古式地蔵立像。

きめが粗く軟質な凝灰岩のためか、それなりに風化が進んでいるが目鼻立ちもしっかりしていて保存状態はまずまず。

像容からは南北朝~室町初期の造立だと考えられる。

夥しい小石仏の雛壇にこんな古式地蔵が隠れてるとは思いもよらなかった。 

撮影2011.4.17:2012.6.13


交野市星田 光明寺真言墓阿弥陀石仏

2012年06月19日 | 石仏:大阪

星田型石仏に良く似た形態は持つものの、少し趣の違う石仏が星田地域の墓地に有る。

星田妙見口交差点のすぐ南東側、新興住宅の谷間に埋もれる様にして真言墓と呼ばれる光明寺の檀徒墓が有り、墓地入り口に近い小さな木陰に一際目を引く石仏が立っている。

大きな切石を組んだ供台を前にして立つ凛々しい顔つきの阿弥陀立像は、星田型石仏に良く似て平板石の表面に刻まれている。

石材の総高約110cm、像高約85cm、厚肉彫り細身で背面には線彫りの二重光背を持つというが殆ど見えません。

左手は下げ右手は肩先で来迎印を結ぶ、蓮華座は厚肉で彫り出すが、風化が激しく詳らかではない。

厚肉出彫り出した尊像は具象的で細部まで良く表現され、衣文の流れも自然で優雅です。

尊顔は切れ長の目が凛々しく、造立年代として鎌倉後期~南北朝期が当てられる。

新興団地の谷間の荒れ墓地に、何語る事無く佇んでいます。

撮影2012.2.21


交野市星田 小松寺(しょうしょうじ)の阿弥陀石仏

2012年06月18日 | 石仏:大阪

星田型石仏の特徴そのまま・・・、と言うより「慈光寺」に有り、「鍋賀地蔵」と呼ばれる阿弥陀石仏に瓜二つ。

星田妙見口交差点より南へ1km足らず、妙見山斜面の新興住宅に囲まれた中に在る。

境内裏には星の岡霊園と称する墓地が有り、管理事務所脇の無縁塔の奥にこの阿弥陀石仏が安置されている。

小松寺は平安~鎌倉期に隆盛を極め、元禄16年(1703)に廃寺になった、星田山中にあった「小松寺」の字を継承したと伝えられ、その翌年の宝永元年(1704)に創建されたといわれています。

この阿弥陀石仏は総高約110cm、幅約45cmの板石を背負い像高約90cm、来迎印を持つ。

厚肉に刻まれた頭部には薄肉彫りの円頭光が有り、前の墓石がくっつき過ぎて詳細は確認出来ませんが・・・・二重蓮座になっている様です。

造立年代はやっぱり「鍋賀地蔵」に等しく南北朝~室町初期だとされ、この寺の創建よりずっと古く、いずれ何処からか持って来たに違いない。

素直に考えれば寺名を踏襲した廃小松寺の遺仏ではないだろうか???

この独得な形態と像容を持つ石仏が特定されたこの狭い地域、星田でしか見られないのは特筆に値する。

とにかくこの地は僕にとっての玉手箱・・・・・興味は尽きない。

撮影2012.2.21


交野市星田(ほしだ) 星田寺(しょうでんじ)石仏群

2012年06月17日 | 石仏:大阪

地名は星田と書いて「ほしだ」と読むが、寺名は星田寺と書いて「しょうでんじ」と読ませる・・・・。

星田の旧在所、古い町並みの中心辺り、星田神社と星田寺が並び建って居る。

多分昔は星田神社と同一境内の神仏混淆の神宮寺だったのだろう・・・

そんな星田寺に昭和50年代、明治の廃仏稀釈で隠し埋められていた石仏が境内地中から堀り起され、ここに安置されている。

星田型とでも呼ぼうか・・・、この地域独特の板状平石を背にした石仏が何体もある。

境内庫裏奥に新しく設えられた寺僧墓の背後に基壇を設け、行儀良く二列に並べ置かれている。

近く、薬師寺慈光寺で見られる独特な平石に刻まれた石仏さんたちと、ここ星田寺の石仏もそれを彷彿とさせる様に同じ形式を持ち合わせている。

後列、向かって右端に置かれているのが此処では最大の二尊石仏、その左横にも同じ形態の阿弥陀石仏。

二尊石仏は高さ約1m、幅約65cm、厚さ約10cmの板状花崗岩の正面に、蓮台に立つ像高共に約75cm、二尊の如来立像を厚肉彫りで刻み出している。

うち向かって左側の一尊は廃仏稀釈で顔を削ぎ取られたのか??痛々しいが・・・・、共に同じ来迎印を結んでいる事から双体阿弥陀石仏だと考えられています。

前が詰まって、写真では分かりませんが体躯の特徴や蓮台の様子などから室町後期の造立。

傍らには同じく星田型の阿弥陀石仏、殆ど隣の二尊石仏と瓜二つ、因みに像高は約65cmと少し小さい。

顔容も星田型石仏の特徴で有るキツネ顔・・・、印相はやっぱり来迎印を結んでいる。

左端にも同じく星田型の如来石仏が、下半身は亡くしたのか??上半身だけで立って居る。

円頭光を背負い大きさ形態ともに慈光寺の「鍋賀地蔵」に瓜二つ・・・・・因みに造立は南北朝期~室町初期だと考えられている。

後段中央に置かれた阿弥陀石仏、星田型の平石ながら舟形光背を彫り沈めた中に細身の阿弥陀立像を中肉彫りで刻み出す。

総高約65cm、像高約40cm、頭部や体躯に僅かながら彩色痕が残っていて珍しい。

室町後期の造立か・・・・・。

この石仏たちを見ると、この北河内の村々にも廃仏稀釈の波は確実に押し寄せたのだと確認できて痛々しい。

撮影2012.6.13


交野市 森墓地の三尊石仏・他 

2012年06月16日 | 石仏:大阪

前回紹介の西念寺から北方向へ約1km、交野山の西面山裾に須弥寺(しゅみじ)が在り、その奥、森共同墓地に珍しい石仏や笠塔婆が有る。

須弥寺山門をやり過ごし大きい池の淵を上って行くと森墓地の入り口、その先、石積み基壇を設けて六体地蔵と六字名号板碑・・・、向かって左端には写真のような三尊石仏。

同じ交野市内の星田地域でよく見かける石仏の独得な形態を踏襲したかの様な・・・・、平石状花崗岩に如来二尊と地蔵を並べて厚肉彫りにしている。

高さ80cm、幅86cmのほぼ正方形の板石を背に、向かって右から合掌地蔵菩薩、中央と左は同じ印相を持つ如来立像、三体共に横長の同一蓮台の上に立ち、其々像高60cm。

二体の如来像は両尊共に阿弥陀だろうか??、三体共に笑っているように見える・・・、特に向かって右端の石仏などは顔を歪めてまで大笑いしているような・・・、

このページでも紹介した南山城の一石六阿弥陀石仏を彷彿とさせるようで興味森々、その像容から、室町時代後期の作だとされています。

この墓地で、も一つ目立つのがこれ・・本来の笠を亡くして、五輪塔の火輪から上部をそれに変えている。

それにしても妙なのは、どの面を見ても同じ種子、同じ石仏・・・、種子「ウーン」は、金剛界五仏の一尊で阿しゅく如来(あしゅくにょらい)を表す。

笠部の種子と軸部の種子とは全く別だと言う事は理解できるが軸部の四面が同一なのはどうも解せない。

因みに交野市の石造文化財の資料に依ると、六字名号角柱を利用して後世その上から阿しゅく如来を追刻、笠塔婆に仕立てたようです。

しかし世の中には妙なものが存在するもんです。

これは多分、江戸中期以降の造立。

撮影2012.2.21