愛しきものたち

石仏、民家街並み、勧請縄、棚田景観、寺社、旧跡などが中心です。

京都市嵯峨 鳥居本の茅葺き屋根

2013年02月28日 | 茅葺き屋根(上懸屋含む)京都府

京都に来る人の多くがこの景観にも出逢いたくて来るのだろう・・・、其れ程有名で京都を代表する「絵になる茅葺き屋根」です。

余りにも整い過ぎ、ちょっと太宰治の富士山のようですが・・・・

嵯峨の奥、京都では火伏せの神として絶大な信仰を集める愛宕神社、京都人なら誰しも二度や三度は登った事のある愛宕山、その参道へ続く街道筋に建つ茅葺き屋根。

深い山懐の緑と真っ赤な朱の鳥居、それと見事のマッチした茅葺き屋根の「平野屋」さん。

入母屋主屋に棧瓦の庇、、べんがら格子に紙障子、折りたたみ床几に真っ赤な毛氈・・・・、この絵はそのまま良くカレンダーにも使われています。

このあたり土日や観光シーズンにはとても近づけないほどの人気スポット、人混みの嫌いな僕等、人並み途絶えた真冬・・・・、それも、もう何年も前に出かけたきり。

鳥居を前にしてもう一軒、茅葺き屋根の鮎料理屋さん。

こちらも同じような佇まいだがちょっと小ぶりな「つた屋」さん。

すっかり観光地化され、鄙びた良さは影失せている。

撮影2008.1.4


広島県福山市 鞆の浦(とものうら)の町並み

2013年02月27日 | 街道街並集落 景観 

JR山陽本線福山駅より南に約15km、沼隈半島南東端の鞆の浦は古代より瀬戸内海の潮待ちの港として繁栄、江戸時代にはその経済力で独特な商都、湊町を形成していた。

明治時代になると交通手段も海から陸に移り、鞆の浦は拠点性を失うことになり、鞆町は近代化の波から取り残された。

そのお蔭かどうか・・・、町の中心街は近代化されることなく車も入り込めないほどの細い道が縦横に走り、裕福だった時代の街並みがそのまま取り残され

今は観光資源と成って居る。

<日本一の高さを誇る常夜燈(安政6年築=1869)の前で、祭りのため、京都から呼ばれた花魁がポーズをとる。>

近畿に住む僕たちは、鞆の浦と聞けば旅行会社の「観光鯛網」ぐらいしか思い起こさないが、嘗て鞆の浦はその強大な経済力で都の文化を取入れ、古くは京や上方でしか演じられなかった「能宴」を催よおし、当時の一流役者が流派を問わず集められていたと言う・・・。

この街はまた海の寺町かと思うほどどこの通りを歩いても寺院にぶつかる、この2000所帯にも満たない街に20ケ寺以上も密集していて、往時の文化程度の高さが窺われる。

現在では鞆港への商船の出入りは殆ど無く、連絡船、観光船を除けば、ほぼ漁港として利用されるのみである。

然しそれが江戸時代の港湾施設である「常夜燈」、「雁木」、「波止場」、「焚場」、「船番所」が全て揃って残り、江戸時代中期と後期の町絵図に描かれた街路もほぼすべて現存する要因にも成って居る。

1992年には都市景観100選に、2007年には美しい日本の歴史的風土100選にも選ばれ、町絵図が現代の地図としても通用するのは、全国でも鞆の浦以外には例がないと言われて居る。

この日は祭りの花魁道中が有ると言うので町並み散歩の観光客も多かった。

やっぱり古い町並みは古き良き時代を伝え郷愁を呼び起こす。

保銘酒本家として有名な岡本亀太郎本店の長屋門は明治維新で廃城となった福山城の長屋門の払い下げを受けたもので、福山市重要文化財に指定されて居る。

沼名前神社(ぬなくまじんじゃ)は鞆祇園宮(ともぎおんぐう)とも称され格調高い・・・、しかしこの街じゃ普通車は使いものに成らない。

地元では日本でもっとも癒される港町だとしているのだが・・・・。

撮影2012.12.2


滋賀県旧信楽町  多羅尾(たらお)の民家

2013年02月26日 | 街道街並集落 景観 

この集落になら一軒ぐらいは茅葺き屋根の民家が残って居る様な気がして出かけてみた。

滋賀県旧信楽町から三重県伊賀上野に抜ける御斎峠への途上に位置する「隠れ里多羅尾」はその昔,土豪多羅尾氏が治め、幕府直轄の代官所の置かれた古い集落。

<まだまだ住めそうなのにネットを張り巡らした空家です>

山間の狭い谷沿いに100軒ばかしが軒を連ねるが、山間僻地の共通する急激な過疎化により、あちこちに空家も散見される。

集落をぶらぶら茅葺き屋根を探して歩くが茅葺き屋根にトタンを被せた民家は多いのに茅葺きそのものは見つかりません。

風情の良いトタン屋根はあっちにもこっちにもと云う程多く残っていますが・・・・。

散歩をしていたお年寄りに訊ねてみても・・・・もう「くずやの家」は1軒も残って居ないと言うことでした。

宇治川の上流、瀬田川に注ぐ大戸川源流域、滝川が集落を南北に分ける様に流れる左岸に一際豪壮な黒いトタン屋根が目を惹く。

この辺りが多羅尾の中心部、今では10人程の児童しか通わないという立派な小学校が隣接している。

この集落で見る限り群を抜いて見事な佇まいです。

豪壮な箱棟を被せ、妻部仕舞いも見事です。

周りには棧瓦葺きの庇を大きく迫り出し・・・・・これが茅葺きだった頃はさぞかし立派なものだったろう。

聞けば多羅尾の名だたる名家だとか・・・・・。

然しこの集落にも以前から何回も来てるけど、この家が茅葺きだった頃にはお目に掛からなかった。

もう随分昔にトタンを被せられたのかなあ??

撮影2013.2.11


京都府木津川市 上狛(大里)環濠集落

2013年02月25日 | 街道街並集落 景観 

奈良県境に近い旧山城町、木津川右岸の上狛には山城ではここだけで見られる環濠集落が残り、集落内は一気に時代をタイムスリップした様な佇まいを見せて居る。

京都府南部、我山城は山背(山城)とも書き、「南都奈良」の「山の背」、所謂、縁の下の力持ち・・・、京都に在って奈良文化の臭いを色濃く残している。

木津川提を走る国道24号線を南下、やがて堤防下を走る様になり、旧山城町庁舎を右にした上狛交差点を左折、その辺から北側一帯が所謂上狛(大里)環集落。

集落は土着の武士であった狛氏の居館を中心に集落全体を要塞化、村と畑を壕で仕切り、人々は、郷とか垣内(かいと)と呼ばれる単位で団結、共同生活を営んで来た。

国道24号線と平行するように流れる環濠跡、この環壕が集落の内と外を分けて居た。

集落内の道は細く入り組み、路地から路地へと続いていて・・・・

余所者は一体何処を歩いてるのやら・・・・・。

何しろ中世の町割りがそのまま残って居る様・・・、まるで何百年も一気にタイムスリップした様な。

郷の辻には郷井戸と呼ばれる共同井戸が在り、現在8~9箇所が確認されています。

集落内を歩いて見るとあちこちで大きな長屋門をもつ屋敷が両側に並んでいたり・・・。

集落の北端、環濠沿いに豪壮な土蔵と築地塀で囲まれた屋敷があったり・・・。

方角を帰ればこんな風、相当傷んでますがかなり大規模な主屋も見えます。

農村集落としてかなり裕福な集落だったのだろう・・・・。

然し、哀しいかな・・・地方の田舎町はどこもかしこも疲弊が進んでいる。

撮影2013.1.17


奈良県大和郡山市 稗田(ひえだ)環濠集落

2013年02月24日 | 街道街並集落 景観 

多分50軒にも満たないだろう、水田地帯の真ん中、周りを壕に囲まれ孤立したように建ち並ぶ稗田環濠集落

奈良県大和郡山市の南東部、大和川支流の佐保川右岸、国道24号線「美濃庄町西」交差点を西に進むと、こんもり鎮守の杜の賣太神社(めたじんじゃ)に出逢う。

賣太神社は稗田(ひえだ)環濠集落の名前の由来であるあの古事記編纂者、この地が出自だと言われる「稗田阿礼(ひえだのあれ)」を主斎神としてしている。

環濠集落は大和「国中平野」に集中して残存しいるが、集落をすっくり濠で囲んで居るのはここだにしか残って居ない。

環濠集落内の道路や建物は、大和国中、近隣の農村集落あまり変わり無いが・・・・・、写真の様に懐かしい匂いをよく残している感じもする。

濠際には独特な高塀造りの、大和棟民家がどんと構えていたが最早、茅葺き屋根では無くカラートタンに包まれていた。

環濠で集落の内外を分け、集落の自治を確立したのだろうか・・・・、集落内は比較的規模が揃って裕福そうな建物が多かった。

撮影2009.10.4


大阪府富田林市 寺内町(じないまち)

2013年02月23日 | 街道街並集落 景観 

こちらも白壁は目立ちますが少し雰囲気が異なり寺を中心として栄えた富田林 (とんだばやし)市の寺内町 (じないまち)です。

大阪府南東部の南河内(みなみかわち)地方に位置する寺内町、戦国時代の真最中、興正寺別院 (一向宗・浄土真宗)を中心に宗教自治自衛都市・寺内町 (じないまち)として開発され発展、今も戦国時代の町割を留め、江戸時代中期以降に建てられた民家が約40軒、往時の姿そのままに保存継承されています。 

国の重要伝統的建造物群保存地区に選定され、まるで映画のオープンセットのような・・・まるで時代をタイムスリップした気分にしたれる。

その中心を成すのは地元の人からは御坊さんと呼ばれ、親しまれている真宗興正寺別院「富田林御坊」です。

中でも威容を誇るのが明治時代の明星派女流歌人・石上露子(本名 杉山タカ)の生家・・・・・富田林寺内町の創設にかかわった旧家の一つであり、江戸時代は造り酒屋として栄えました。

現存する家屋は寺内町で最も古く、江戸時代中期大規模商家の遺構として国の重要文化財に指定されています。

現在、富田林市が維持・管理しており、内部野見学も可能です。

城之門筋辻之奥谷家住宅・・・重厚な本瓦葺きに煙り出し館を載せ独特な妻部を持っている。

往時屋号を「岩瀬屋」と言い、材木商を営んでいた。

道を隔てて建つ「東奥谷家」、奥谷家2代目の子孫で油屋を営んでいた。

奥谷本家と良く似た構えに成って居ます。

御坊鼓楼に対面する杉田家住宅、屋号は「樽屋」と称し油商を営んでいたらしい。

新しく塗り替えられた白漆喰が眩しい。

筒竹の出格子がなんとも懐かしい仲村家住宅の佇まい。

この町は一瞬、異空間への扉を開けてくれるような気さえした。

撮影2008.1.13


山口県柳井市 白壁の町並み

2013年02月22日 | 街道街並集落 景観 

見事なほど白い町並み、一列に整然と建ち並びキレの良い近代的センスを偲ばせる。

柳井の近く、橋でつながる、歩く民俗学者「宮本 常一(みやもと つねいち)」の故郷、周防大島を訪ねた序での訪問。

山口県東部、瀬戸内に突き出す半島根元の東側、柳井川河口に町の中心部が在り、JR山陽本線柳井駅より北に約300m程も歩くとこの白い街並みにつく。

白壁屋並みは「町並み資料館」のある交差点から西へ約200m、藩政時代には岩国藩のお納戸と呼ばれ、「おお店」の商家が軒を並べ、国の「重要伝統的建造物群保存地区」に指定されて居る。

町並み資料館に対面して馬鹿広い屋敷を模つ「有形民俗文化財商家むろやの園」。

「むろや(室屋)」の屋号を持つ小田家は江戸時代の油商、最盛期には50隻もの帆船を抱えた豪商で元禄14年(1701)建築の建物はこの街では最も古い。

街並みがこのような重厚な白壁に包まれたのは、明和五年(1768)の大火において悉く灰燼と化し、二度と火災によって町が燃えないようにと、建物に徹底的な防火対策を施した。

その結果、瓦葺きの妻入り白漆喰の大壁造といった、まるで城郭建築のような外観に成って居る。

町並みの中核をなす商家建築の典型である国森家住宅、国の重要文化財に指定され一般解放されて居る。

かけや小路と呼ばれる白壁土蔵の細い道、この道で荷揚げした品物がそれぞれの蔵へと運ばれた。

柳井の名産品「甘露醤油」の醤油蔵、馬鹿でかい白壁土蔵ですが現在観光施設として利用された居ます。

これが柳井を彩る民芸品、「金魚ちょうちん」は青森のねぶたをヒントに江戸時代から作られて居ると言う・・・。

もう一つ、柳井の町並みを歩いて目立つのがこの看板。

「かにが路上を横切ります人も車もご注意を」調べて見ると夏には抱卵した「赤手ガニ」が川岸や海岸目指して路上を横切るらしい・・・・。

赤手ガニはよく知らないけどなんとも微笑ましい

撮影2012.11.30


滋賀県米原市 中山道柏原宿

2013年02月21日 | 街道街並集落 景観 

伊吹山の麓、中山道六十九次の大六十番目に当たる 柏原宿(かしわばらしゅく)は米原市の東部、岐阜県境近くの山あいにある。

この柏原宿もまた、近く徳源院へ京極氏の居並ぶ宝筐印塔を撮影に来て序でに寄った程度で何の予備知識も無かった。

JR東海道本線柏原(かしわばら)駅の辺りを中心に東西十三町(約1.5km)にも及び、中山道内でも名だたる大宿場町。

天保十四年(1843)の記録では、家数は344軒、本陣、脇本陣、旅籠22軒を有し、人口は1468人とある。

一直線に建ち並ぶ懐かしい街道筋の家並が美しい。

この宿場町、なんと言っても目に付くのはこの建物、ここは伊吹艾(もぐさ)の名産地、多いときには艾屋が10軒近くも軒を並べ、中でも創業寛文元年(1661)の「伊吹堂亀屋左京」一軒が残るだけ。

現在も「合名会社亀屋左京商店」として営業されて居ますが、生憎僕の訪れた日曜日は休業日でした。

文化年間に改築された建物が、広重の浮世絵「木曾街道六十九次」の中の一枚「柏原宿」であり、当時のまま現在に至っています。

福助人形」の始まりはこの店の正直一途の番頭「福助」から来ているとか・・・・今を流行りのユルキャラの先駆けかも??。

脇本陣と旅籠の中間、郷宿と呼ばれる武士や公用で旅をする庄屋などの休泊所だったという建物。

ベンガラ格子や黒板塀がいい風情を醸し出す。

脇本陣を営んでいた、名映画監督「吉村公三郎」の実家もこの通りに面していました。

脇本陣は影も形も無かったけれど・・。

撮影2011.8.15


福井県坂井市三国町 三國湊の町並

2013年02月20日 | 街道街並集落 景観 

近く、三國神社の神木、ケヤキの巨木を撮影に行き、古い町並みが残る三國本町から「九頭竜川」河口、所謂三國湊をぶらぶら歩いて見た。

越前三国湊はあの東尋坊近く、日本海に注ぐ越前きっての大河「九頭竜川」河口に位置する古い湊町。

江戸時代、蝦夷や大阪から物資を運ぶ北前船交易が福井藩の保護のもと大きく発展、現在にも独特な雰囲気を残している。

どことなく一時代昔の湊町独特の板壁建物、その向こうの背の高い建物は「三国神社」祭礼の巨大な武者人形山車が置かれて居る保管蔵。

現在は観光拠点の「旧岸名家」、三国湊町家館として一般解放されて居ます。

岸名家は九頭竜川上流から材木を流し、北前船で全国に運んだ材木商新保屋、「岸名惣助」の屋敷、建物は江戸時代後期の文政六年(1823)の建築。

母屋と玄関部の平棟軒部が直角に交差する独特の造形を持つ「かぐら建て」の建物、隣の情緒あるベンガラ格子戸は「三國湊座」??。

通りの角にはこんなのんびりした景色。

角向かいに威容を誇るレトロな洋風建築・・・・、三国湊一の豪商「旧森田銀行本店」、現在は使われていないが内部も無料で見学させてもらう事が出来る。

元々は北前船の廻船問屋だった森田家、明治に入り鉄道など輸送手段が新たに出来、廻船業の衰退から、さっさと銀行に鞍替えした。

この建物は大正9(1920)年に落成、昭和5年福井銀行に合併、現在国の登録有形文化財と成って居る。

最寄駅、「えちぜん鉄道」三國芦原線終着駅「みくにみなと」駅には電車を待つ人など誰も居なかった。

撮影2010.9.18


奈良県旧月ヶ瀬村桃香野(ももがの) 菊屋家住宅

2013年02月19日 | 茅葺き屋根(同)奈良県

大和高原、京都三重府県境近くにある重文指定の茅葺き民家です。

梅渓の里として知れ旦る奈良県旧月ヶ瀬村の対岸、谷を成して流れる名張川右岸の急傾斜地に建つ桃香野集落。

<付近の古い道筋>

その集落最高部付近に建つ菊屋家住宅は、奈良から柳生街道を経て伊賀上野に至る道筋に当り、元は農家の他に旅籠模兼業し、当時の屋号から菊屋と名付けられたと言う。

脇道より正面に見る菊屋住宅は小振りで覆いかぶさるような、葺き降ろしの茅葺き屋根が小気味良い。

建物はそう広くない屋敷に南面して建ち、十七世紀末から十八世紀始め江戸中期の建築とされ、桁行10.5m、梁間8.3m。

帆立貝を逆さにした様な入母屋茅葺き屋根、深い吹き降ろしの茅葺き屋根はもう僕の知る限りこの地域では見かけ無い。

棟は檜皮を掛けて中央には太い筒竹を旦して居る。

普段此処では生活して居られないようで全くの留守屋で戸締状態ですが、外廻りは自由に見学可能です。

撮影2006.3.5


滋賀県旧信楽町  下朝宮の茅葺き民家

2013年02月18日 | 茅葺き屋根(上懸屋含む)京都府

旧信楽町国道307号線と国道422号線交差の直ぐ脇に見える茅葺き屋根。

宇治田原から府県境の裏白峠越すと滋賀県甲賀市、その先もう一つ裏白トンネルを越し信楽町下朝宮に入る。

ここは琵琶湖から流れ出す「瀬田川・宇治川」所謂「石山寺」方面からの分岐点、ここから先伊賀方面や奈良方面へと山越え道が続いてる。

宇治田原方面から来ると、交差点手前の左手、三軒が軒を連ねる真ん中、こんな目立つ場所に茅葺き屋根の民家が残って居る。

脇にはそう古くない納屋と昔ながらの便所が見える。

広く大きな何もない「かど」、その昔この「かど」では刈り入れた「籾」を「筵」いっぱいに広げた事だろう・・・

しかしこんな場所で良く残ったもんです・・・・・、最近は新名神信楽ICから大阪方面への抜け道として大型車の往来もめっきり増えている。

正面から見る茅葺き屋根は・・・、もうそろそろ限界に近い。

屋根は寄せ棟に近い入母屋??破風は杉板に何の意匠もない煙出しの丸い穴を空けている。

庇は棧瓦で四方に廻り、軒下「門口(かどぐち)」には信楽狸が留守番役・・・・、一般庶民の田舎屋風情。

建物自体もかなり傷みが激しく・・・もう永くないかも??

近く朝宮には茅葺き屋根も多かったろうに、ほかは全てカラートタンで覆われている。

これはこれでまた良い物ですが・・・・・。

撮影2013.2.11

京都府宇治田原町 奥山田の茅葺き屋根 

2013年02月17日 | 茅葺き屋根(上懸屋含む)京都府

宇治田原町の中心付近より国道307を信楽方面に約7km、滋賀県旧信楽町朝宮と茶屋トンネルの先、裏白峠で境を接する宇治田原町最東端地区。

奥山田は狭隘な二つの谷筋に大きく三集落にわかれている。

短いトンネルを二つ越え、峠を下りきると奥山田地区の家並が目に飛び込んで来るが、左手「天神社」前の交差で左折、旧奥山田小学校の前を進むと懐かしくも、草臥れた山里の佇まいが見える。

振り返ればこんな懐かしい景観・・・・・、小学校は数年前に統合、廃校になり、この山里も少子高齢化が進んでいる。

集落の左手高台に茅葺き屋根の民家が見え、 その下段にも雨漏り防止のシートで包んだ茅葺き屋根が見える。

さほど大きくない茅葺き屋根、往時どこの田舎にでも在った百姓屋と言う佇まい。

入母屋屋根に桧皮と竹の箱棟を乗せ、山間部の証で有る様に北面妻側には淡雪が少し残っていた。

若者の居ない住まいなのだろうか??・・・・・・。

少し引いてみればこんな哀しい姿です・・・・・、何とか主屋だけは維持されて居ますが、最早、後がない状態。

これが少子高齢過疎化社会の現実、そんなに辺鄙な山奥でもないのに・・・・。

玄関先から見る前の家もこんな状態・・・被って居るのは工事用シートでは有りません。

もう新しい茅葺き屋根は見れないだろう??

一方奥山田地区別の集落で見た景観・・・・こうしてカラートタンですっくり茅葺き屋根を覆った民家はまだまだ多く見ることが出来る。

手入れも行き届き、車も停まって居るので若者も同居しているかも??

撮影2013.2.9


京都府宇治田原町 大道寺地区茅葺き民家

2013年02月16日 | 茅葺き屋根(上懸屋含む)京都府

宇治田原町、大道寺地区にも一軒の茅葺き民家が残っていた。

大道寺地区はその名のとおり大道寺と言う古代寺院の在ったところ、「藤原信西」の荘園でも有り、平治の乱で信西が討たれるとこの力「大道寺氏」が台頭したという古い歴史の隠れ里、今に「信西入道塚」も現存している。

鷲峰山北東谷、田原川に注ぐ狭い谷間、田畑に囲まれた両山裾に民家が建ち並ぶ。

細い流れは宇治川に注ぐ田原川の上流部、清い流れが穏やかに下っている。

集落の中心部あたり、西側山裾のたい並ぶ民家の中、たった一軒茅葺き屋根の特徴ある棟が顔をのぞかせている。

やっぱり山沿い、平地の雨は小雪と成ってその余韻を残す。

母家は懐かしい山城の茅葺き屋根をそのまま残すが、同じ敷地内に別家を建て二世代か三世代が同屋敷内で住まいしてるようです。

屋敷はこざっぱりと清掃が行き届いているがカーテンは降ろされたまま・・・。

正面は其れ程の傷みも見れないが妻側入母屋部には雨漏りよけのトタン波板が差し込まれ、最早葺き替え時期の過ぎ去っていることが窺われる。

もうこの茅葺き屋根も永くは持たない事だろう・・・。

今度ここを訪れる時、秋の終わりの「柿屋」が建つ頃にはには未だ残っているだろうか??

今年は残ったとしても、もう何年もつだろうか??

撮影2013.2.9


京都府宇治田原町  岩山の茅葺き民家―2

2013年02月15日 | 茅葺き屋根(上懸屋含む)京都府

宇治田原町岩山集落は南面する山肌斜面に裕福そうな門構えの民家が50軒ばかし軒を並べる。

前回紹介した辻より民家が建ち並ぶ集落内の斜面を登れば中程にこの茅葺き民家が見られる。

集落入口には大きい雙栗(さぐり)天神社の標柱・・・傍らには道路を跨いで集落を守る「勧請縄

集落はどの家も斜面に石垣を積み上げ宅地としているが、どの屋敷も大きく豊かな集落だと感じられる。

雛壇状に建ち並ぶ民家にたった一軒残った茅葺き民家。

山城地方の一般的な百姓屋・・・・、昭和30年代までは我が家の周りも全てこれと良く似た茅葺き屋根だった。

外観は昔のままだが中身は随分と改造されたのだろう?玄関袖側は洋間風にも見える。

カーテンは降ろされた侭ですが現在もお住まい・・・・、しかし主人の話だとそろそろ屋根の葺替え時、しかし今回は葺き替えない積もりだとか??

屋根屋さんも居ないし、葦も手に入りにくいとか・・・。

この茅葺き屋根も最早風前の灯火・・・いつなんどき失くなっても不思議ではない。

裏側、砂糖菓子のように小雪まぶしの茅葺き屋根はやはり大分傷んでいた。

撮影2013.2.9


京都府宇治田原町  岩山の茅葺き民家

2013年02月14日 | 茅葺き屋根(上懸屋含む)京都府

我が住まいの近く、東へなだらかな峠を越えると一昔前までは隠れ里のように静かだった宇治田原町。

もう20年程前に工業団地が出来、第2名神の信楽ICが出来てからは様相が一変、新興団地も造成されたりと、往時の宇治田原を知る者にとっては狐につままれたような変わりようです。

古い歴史を秘め、古い習慣も良く残してきたこの山里でも茅葺き屋根の民家は急激に失われてしまった。

旧国道は集落の中を縫うように貫いていたが現在は集落外れをバイパスが貫きバイパス周辺が地域の中心を成している。

そんな岩山地区の入口、旧307交差にちょっと変わった茅葺き屋根の民家が見られる。

茅葺き屋根に後から増改築したのだろうか?一段高い棧瓦屋根の母屋を継ぎ足し、瓦、茅葺き屋根の折衷に成って居る。

小さい茅葺き屋根ですが、入母屋で葺き上げ棟には銅板の箱棟を載せ、アワビの貝殻も山城地方のお決まりのように乗っかって居る。

庇は棧瓦葺きで片袖が長く伸び納屋に成って居るようです。

玄関側、旧国道から見るとご覧のような佇まい・・・。

ここは旧街道筋にも当たり、その昔には旅籠か料理屋でもあったのだろうか?田舎の百姓屋と言う感じは受けない。

山城地域では滅多に降らない雪をこの山里では時折見かける事がある。

撮影2013.2.8