愛しきものたち

石仏、民家街並み、勧請縄、棚田景観、寺社、旧跡などが中心です。

京都府八幡市 石清水(いわしみず)八幡宮五輪塔(再UP)

2014年01月31日 | 石塔:石造物

最近になり、僕のチャリ散歩範囲も広がり、ここ石清水(いわしみず)八幡宮にも良く出かけるので、この五輪塔にも立ち寄り再撮して来た。

八幡宮一の鳥居を潜らず左手に見て境内脇道を奥に進めば神應寺の山門、その先左手、廃寺「極楽寺」跡に立ち尽くしている。

道路より一段上がった極楽寺跡、中央に建つ五輪塔は「航海記念大石塔」の名を冠せられた高さ6mにも及ぶ五輪塔。

二段に継ぎ足された地輪の一辺は2.4m、基壇には反花座を備え、一辺3.2mと言う巨大さ。

中央に見える水輪は扁平な球形で安定した力強さを感じ取れる。

石清水八幡宮頓宮聳える様に立ち尽くす五輪塔は、無銘ながら摂津尼崎の商人が宋との貿易の帰途、石清水八幡宮に祈って海難を逃れ、恩に報いるため寄進したと伝えられ、鎌倉期を代表し、中世最大の五輪塔として知られる。

国の重要文化財にも指定され、その威容と優美さを合わせ持つ大五輪塔です。

撮影2013.11.28


京都府旧加茂町 西小の茅葺き民家(あ志び乃店)

2014年01月30日 | 茅葺き屋根(上懸屋含む)京都府

我が「南山城」南端、旧加茂町当尾(とうのお)「浄瑠璃寺」、馬酔木の参道脇に建つ茅葺き屋根。

あ志び乃店」と名付けられた山里料理とお土産の店。

茅葺き屋根は生い茂った庭木が邪魔に成り、全容を撮影することは難しい。

元々この地にあった農家を補修利用、観光客用茶店としている。

南山城標準農家の入母屋造り・・・・・、もうこんな鄙びた山里でも茅葺き民家は全滅、たった一軒、観光用の茶店として残っていた。

撮影2013.5.25


奈良県宇陀市旧室生村 「多田」「染田」の覆懸け民家

2014年01月29日 | 茅葺き屋根(同)奈良県

宇陀市、旧室生村南部、都祁小倉町と県道127号線で接する「多田」と「染田」集落は山里、棚田集落。

グーグルアースで眺めて観るとまだまだ茅葺き民家が残って居そうなのに・・・・・、実際にはその全ては既に覆い懸け屋根。

やっぱり伊賀にも近く伊賀型屋根を彷彿とさせるこんな屋根。

ここは染田の隣村、多田集落の家並み・・・。

赤いトタンを懸けた入母屋の屋根・・・

観音堂だか?地蔵堂だか?集落奥にあった小さなお堂も傾斜のきつい入母屋の屋根。

大和棟の屋根が堂々と聳える集落外れの民家。

なだらかな棚田に囲まれ、覆い懸け家が並び建つ。

こちらは入母屋屋根が並び建つ・・・・茅葺き屋根はどんどん減って行く。

撮影2013.6.8


京都府宇治田原町 高尾(こうの)集落 

2014年01月27日 | 街道街並集落 景観 

かって、我が山城の隠れ里だった宇治田原町、その田原川と宇治川谷沿いから起ち上がる「大峰山」南西斜面に軒を連ねる高尾(こうの)集落。

国道307号線、田原郷の入口「郷之口」より山裾を行く田原川を越え、山肌を一気に駆け上ると山上集落の「高尾(こうの)」。

 

集落は山上とは言え海抜300mにも及ばず、最近ではアクセスもそう悪くなく・・・最早「隠れ里」とは呼べない。

しかし、ここからの眺めは良く京都伏見方面が手に取るように見渡せる。

この高尾集落は、織田信長に敗れた「近江の佐々木氏」が逃れ住んだという伝承を持ち、また集落の入口には「弘法の井戸」と呼ばれる集落唯一の湧水が有り、近在からその水を汲みに来る人も多いと聴く。

集落は雛壇状に二段に分けられた斜面に14~15軒、放棄家屋や廃屋は見られず、却って民家の数は増えている。

それでも懐かしい景観を残す覆い懸け家も2~3残り、鄙びた山里に色を添えている。

しかし山腹山間集落は人と鳥獣が共に暮らす場所・・・・・果実と言わず農作物は、網ガード無しのむっくり出しでは何も育ちはしないし採ることも出来ない。

こんな集落の奥にも近畿スポーツランド称するミニバイクレース場が出来、そこへ向かう車が集落を走り抜けて行く。

撮影2013.1.26


奈良市 狭川の覆懸け民家

2014年01月26日 | 茅葺き屋根(同)奈良県

奈良市東部、大和高原域の最北端、旧狭川付近も茅葺き民家の多い土地だったろうに・・・・、僕の知ってる限り一棟を残し全て覆い懸け屋家に成っている。

僕の山城からは国道163号線、笠置大橋で木津川を渡り、県道33号線で白砂川の谷川沿いに10分も遡れば、ぱっと長閑な山里の視界が拓ける。

ここは中世期、「柳生郷狭河里」と呼ばれた地、在地武士の狭川氏が勢力を持ち、下狭川城と藤尾城の二ヶ所の拠点を持っていた。

そんな藤尾城近く、狭川氏の遺品を多く伝える「中墓寺」付近には赤い錆色の覆懸け家

一軒は両切妻屋根、もう一軒は入母屋にトタンを被せて居るが・・・もはや二軒共に温もりの無い空家でした。

アクセスもそれほど悪くは無いのですが・・・・

最早この家も、モヌケ状態・・・

こんな立派な家も在りましたが温もりは感じられません。

棚田の奥、山あい道狭間にはこんな民家・・・覆懸けはあるものの下屋が持ちこたえられず、そろそろヤバそう。

これが,往時のままの茅葺き屋根だったら・・・

どんなに素晴らしい景観だったろうかと・・・・

覆懸け屋も既に寿命を迎え新しい家に取って替わり

まるで蛹の抜け殻のように・・・・・、ただ崩れ去るまでの短い時間を立ち尽くす。

この付近、奈良市内とは言え、放置家屋はどんどん増加している。

撮影2013.5.25


京都府旧加茂町 井平尾の勧請縄(更新)

2014年01月25日 | 勧請縄:山の神:野神:人形道祖神

今年になって、縄が新しく新調されたので写真を前回ブログの上に UP、更新します。

今年の縄は去る一月五日、七人衆と呼ばれる人たちの手により掛け替えられたらしい・・・

近くで農作業中の人に聴いたのですが・・・昔はこの道が旧街道で、まっすぐ木津川の浜まで続き、浜から船で下流へ、町へと行ったらしく、縄の傍らにある灯篭は街道の常夜灯だったらしい。

まあとにかく新しいものは、やっぱり新鮮、どこか有難さも倍増している・・・

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 ひょんなところで思いもかけない勧請縄に出逢って、本格的撮影は来春まで待つとしても忘れぬうちにUPです。

緑の松や樫の葉は既に茶色く変色、掛け渡された縄も相当疲れて居ますが、まだ原型をとどめています。

我、南山城旧加茂町井平尾集落は国道168号線が和束町方面に延びる府道5号線との交差点付近、和束川が木津川に注ぎ込む河口右岸の小さな集落。

その東端和束川右岸、菜切り橋対面に緑深い鎮守、春日神社が鎮座しその傍ら在所道両側に鉄製ポールを建て、道路を跨いで勧請縄がかけ渡されて居る。

縄は約5m足らず、3ヵ所に今や変色してしまった小勧請が吊り下げられ・・・・

縄の中央部上部には矢を整えた弓が天を射す様に設えられて居た。

古くはこの道が在所への入口であったのだろう・・・・。

今でもその名残を留める様に、集落の神聖な場所として勧請縄がかけ渡されて居る。

弓矢の設えられた勧請縄は近江に多いが山城、大和高原域では見たことがない。

撮影2013.6.4:2014.1.15


京都府和束町 白栖の勧請縄

2014年01月24日 | 勧請縄:山の神:野神:人形道祖神

久しぶりの勧請縄は、我が山城の「和束町」に唯一残された素朴な勧請縄でした。

もう、このブログでも何度も紹介している和束町は、宇治茶の主産地、町は茶源?としてその風光明媚さを盛んに喧伝しています。

そんな茶畑に囲まれて散在する小さな集落の一つ、「白栖地区」の区長さんから情報を戴き出掛けて来ました。

白栖は和束町役場にほど近い、府道321号線沿いの斜面に、民家が点在する長閑な山里。

勧請縄は、集落の入口、石寺地区より続く旧道の切通し上空、崖縁の木と、対面登り坂のガードレール支柱に掛け渡されている。

縄は、直径約5cm、長さ約10m、その中心辺りに三筋の藁稭(わらしべ)を吊り下げ、中央上部に割り竹を突き立て、紙垂(しで)を付けている。

この辺は走りなれた場所、それでも集落と集落をつなぐ旧道に入り込む余所者など皆無、僕も近くまでは何度も来たのですが・・・この下を駆け抜けたことは無い。

飾り気の少ないこの勧請縄は一月五日、 「オコナイ」の一つとして、集落の古刹「毘沙門寺」で祈願、この地に吊り渡され、村内の安全と豊穣を願っている。

他の地域でも良く耳にする通り、この縄は集落で不幸ごとが発生した時、厄の元が早く集落から出ていくことを願って切り払われます。

単純素朴な分、余計に強く印象に残る勧請縄でした。

撮影2014.1.15


伊賀市 丸柱の茅葺き屋根(廃屋)

2014年01月23日 | 茅葺き屋根(同)三重県

前日と同じく丸柱の県道を走って居て、茅葺き屋根が一瞬見えたので立ち寄ってみたら・・・・

もう既に、こんなにも凄まじいあばら家・・・・・多分もう何年も放ったらかし。

肋骨も剥き出し、今や建物としての機能は全く果たせず・・・・ただただ哀しい風景の一部としてだけ存在している。

そばには錆び付いたトタン懸け屋も放ったらかし。

茅葺き屋根を追いかけてると良くぶつかる風景ですが・・・・・やっぱりちょっと滅入ってしまいます。

撮影2013.5.5


伊賀市 丸柱の茅葺き屋根(長谷園なが谷母屋)

2014年01月22日 | 茅葺き屋根(同)三重県

伊賀焼のふる里、丸柱の長谷製陶の自宅主屋で有ったろう??茅葺き屋根の民家。

伊賀市丸柱は陶器の町「信楽」となだらかな桜峠でその境を接する長閑な里山地域・・・・・そんな国道422号線や、それに続く県道674号線沿いには登り窯やその煙突があちこちに望め、ここも陶器の町だと云う事が実感できる風景が広がっている。

中でも、県道から少し右手に入った「長谷製陶」は伊賀焼窯元でも独特な存在感を持ち、良く知られている。

工場は広い敷地を持ち、その「登り窯」や大正館と呼ばれる旧事務所などには訪れる観光客も多い。

そんな一画に、予約制で創作料理を出す「なが谷 母や」と呼ぶ、大きい茅葺き母屋の旧長谷家住宅が有る。

予約をして食事した訳では無いのですが・・・それとお願いして庭先からバシャ・・・、手入れは良く行き届いているものの庭木が多くて全体を撮影するのは困難でした。

築200年と云われる桁行の長い大きな寄棟茅葺きに、桟瓦の箱棟を載せた伊賀型民家。

天保三(1832)年の創業、七代目だと言われる当主は現在会長職・・・・、しかしこの屋敷はどこか豪農庄屋風??

撮影2013.5.5


三重県伊賀市下柘植 上市場の民家

2014年01月21日 | 茅葺き屋根(同)三重県

伊賀市東端の旧柘植町で偶然見付けた茅葺き民家。

「大和街道」は古い集落を縫うように、「関宿」で東海道から分岐、加太(かぶと)峠を越え伊賀をぬけ、奈良へと続く街道・・・・。

そんな、下柘植上市場「大和街道」の小さな辻に伊賀型茅葺き屋根の民家が建つ。

街道側は低い板塀で目隠し、少しイレギュラーにカットした寄棟妻が見え、軒庇には真新しいBSアンテナも取り付けられ、若い人の住んでる気配が窺われる。

表に廻れば車と、陶器のオブジェが並べられ、ここは陶磁工房の母屋の様にも思える。

屋敷裏側から見ると大きな瓦葺き箱棟に樋(とい)付け、雨水を集めて地上に落としている。

どこかの茅葺き屋根でも見かけた記憶もあるが・・・・、これはきっとそう古くない装置だろう??。

撮影2013.5.5


三重県伊賀市 玉瀧の茅葺き民家

2014年01月20日 | 茅葺き屋根(同)三重県

 

伊賀市、旧阿山町玉瀧地区の中心部、玉瀧交差点近くに残って居た茅葺き民家。

玉瀧は旧阿山町の最北東端に位置し、小高い丘陵となだらかな棚田の織りなす鄙びた日本の原風景が色濃く感じられる田舎・・・・、僕などはこの景観の中に自分の身を置く度に強い充実感を覚える。

なだらかな斜面を登っていくと生垣越しに片妻入母屋、片側に独特な膨れ妻を持つ茅葺き屋根が見える。

田舎では当たり前の屋敷だが右手には納屋、左手には新しい離れ屋、中央に一際大きい主屋が建つ。

正面入り口辺りから・・・、良く手入れされた庭先奥の母屋は四周を桟瓦葺きの下屋に・・・・・、向かって右手に一段高い桟瓦の落ち棟を設け、その上に右妻を独特な、落ち棟に被さる様に突き出した妻を持つ茅葺き屋根を載せている。

左妻は寄せ棟と変わりな無いほどになだらかな稜、小さな破風を持つ入母屋・・・・棟仕舞いは丸竹の組み合わせ。

この屋根もそろそろ葺き替え時期を迎えて居る。

撮影2013.5.5


三重県伊賀市 槙山の茅葺き民家(茅葺槇山窯博物館)-2

2014年01月19日 | 茅葺き屋根(同)三重県

前回紹介の茅葺き民家より少し西、甲賀信楽寄りの集落西端、、右手山裾に隠れる様に建つ茅葺き民家。

付近に建つ旧茅葺き民家も覆い懸けはしているものの、既に廃家と化してしまっている。

その奥になんとか持ち堪てる様に建ちつくす茅葺き民家・・・・・・ここは「茅葺槇山窯博物館」として、古い茅葺き農家を改造、居間に作品を展示し、隣接する工房も見学できる様ですが??

なんのアポイントも取らずにここを訪れた時には御主人が留守・・・・表周りから建物を撮影させてもらった。

小さな伊賀型茅葺き屋根に板屋根の庇を突き出し、懐かしい田舎農家の佇まいそのもの・・

しかし哀しいかな、母屋の茅葺き屋根は苔蒸し、もう限界に近く行く末が案じられる茅葺き屋根でした。

撮影2013.5.5


三重県伊賀市 槙山の茅葺き民家

2014年01月18日 | 茅葺き屋根(同)三重県

伊賀市「旧阿山町」、なだらかな棚田の中に屋敷を構える一軒家の茅葺き民家。

伊賀市「旧阿山町」を切り裂くように進む県道49、50号線沿い、鄙びた棚田の里山域、古式豊かな式内「真木山(まきやま)神社 」参道近くに建っている。

この屋敷は以前の持ち主が売りに出し、大阪からこの地に移り住んだ今の主人がこの茅葺き民家を改造、僕が伺った時には「手打ち蕎麦処」の専門店に成って居た。

昼を過ぎ、客も遠のいたのか主人がちょうど庭の手入れしていたので、一声掛けて撮影させてもらった。

その時名刺まで戴いたのだが、何処へやってしまったのか見つからない・・・・そんな訳で店名すら解りません。

 裏側、棚田越しに見る伊賀型箱棟茅葺き屋根は、揺るぎ難い美しさを見せて居る。

撮影2013.3.23:2013.5.5


三重県伊賀市 川東の茅葺き民家(澤村氏館)

2014年01月17日 | 茅葺き屋根(同)三重県

田圃の真ん中、背の高い屋敷林と石垣(土塁)に囲まれ、いかにも由緒有り気な茅葺き民家。 

伊賀市東部郊外、木津川支流、柘植川と合流する滝川に沿う県道2号線、壬生野小学校近く……広い田圃の真中を屋敷への進入路が真っ直ぐに伸びる。

ここは伊賀市川東地区は伊賀忍者の故郷、この地の丘陵上に在った「壬生野城」を中心に忍者屋敷が点在していた。

ここは、そんな一つの「澤村氏館」、勿論忍者屋敷と言っても一般的な土豪の館で、砦の一部と成って居た様です。

この地に点在していた同様の館の内、現在も昔日の面影を一番良く伝えて居る。

澤村氏は平安期以前からこの地に土着していた土豪、江戸時代には「忍び」をもって藤堂家に仕え、一族の澤村甚三朗保祐はぺりーの黒船を探索したと云いわれる。

現在も子孫の方がお住まいで屋敷内は非公開に成っており、土塁と背の高い屋敷林に遮られ全容を窺い知ることは出来ない。

大きな伊賀型茅葺き屋根を持ち、現在にまで脈々と続く歴史の重みを感じない訳には行かない

撮影2013.5.5


三重県伊賀市 諏訪の茅葺き民家-2

2014年01月16日 | 茅葺き屋根(同)三重県

前日紹介の伊賀市諏訪に残って居た、もう一軒の茅葺き民家。

集落を突き抜け、音羽、波敷野へと続く長閑な田舎道脇、なんとか健在だった茅葺き民家。

こちらは棧瓦葺きの下屋に茅葺き寄せ棟の上屋を乗せ、棟終いは伊賀地方を代表するような棧瓦の箱棟としている。

この茅葺き屋根もそろそろ寿命、茅葺き屋根で再生されるのか?上懸け屋根に替わるのか??はたまた解体されてしまうのかも・・・・。

道路を挟んだ向かいには、こんな上懸け民家。

表に廻るとこんな風・・・伊賀市周辺の茅葺き屋根は殆どこんな上懸け屋根に変わって居る。

撮影2013.5.5