愛しきものたち

石仏、民家街並み、勧請縄、棚田景観、寺社、旧跡などが中心です。

京都府井手町 田村新田(有王新田) 

2015年01月30日 | 街道街並集落 景観 

 

我が山城にあっても知らない人の方が多いだろう??井手町の田村新田集落、・・・その数約10軒にも満たない。

それも、木津川市の飛び地に成ってる枝在所を含めての話。

 

ここは井手町中心、町役場から玉川沿いに山懐を縫い約6km、山を越えた隣町和束町から峠を越えて約8km、まったく地元車以外は走らない府道321号線(府道玉水~和束線)有王山懐に在る。

我が家からもそう遠くなく、時々山越え散歩と洒落込んで歩いて出掛けることもある。

有王山は往古、元弘の変の戦いに破れた後醍醐天皇が笠置山から落ち延び、捕らえられたと伝わる処・・・・しかしこの土地に新田開発がされ、人が住み着くように成ったのはずっと後、戦国時代~江戸初期だと言われて居る。

集落入口、府道からすぐのところにまだ新しそうに見える有王分校・・・・・明治8年創立開校、平成元年に現在の校舎となるも、休校、再開を繰り返し、平成17年より休校中・・・ただしもう再開の見通しは無い。

山里で見掛けた子供は3人・・・麓の学校へはどうして通って居るのだろう??田んぼで遊ぶ姿は無邪気に明るかったが。

山懐の緩やかな斜面の小規模な棚田を前に民家がポツポツと建つ・・・・

土日以外の日に訪れても殆ど誰にも出逢わず、たまに出合う農作業の人に話しかけると、他所から来てるから何も知らないと言われたり・・・。

とにかく集落の人に出逢うことなどありもしないのは、車のおかげで10分も走れば麓に降りられるからみんな昼間は留守がちで勤め人が多いのだろう・・・。

その棚田の脇道を走り、有王山の山懐の峠を越えて約2km、木津川市山城町内に井手町の飛び地、「田村新田」の枝集落が有り・・・。

飛び飛びに民家が4~5軒見える。

この枝集落は、生まれてこの方60年程も、この山城住まいなのだが、この歳に成るまで全く耳にしたこともない。

まさしく今に至るも、隠れ里と言う感が強い。

撮影・・最終2014.11

 


京田辺市 飯岡

2015年01月25日 | 街道街並集落 景観 

僕の散歩コースの一つに成ってる飯岡の在所・・・・我が家から木津川を挟み左岸の少し上流に位置する。

 正式には「飯岡」と書いて「いのおか」と呼ぶそうだが・・・・何が正式やら通称やら。

土地の人やら、周辺の者やらは「いのか」と呼び親しんでいた。

その土地の呼び名より、どこかの役人が付けた名称が正式名称とされる馬鹿らしさには呆れてしまうけど・・・・・

まあ、そんなことはさておき、飯岡は木津川中流左岸、南山城平野の中央部にある孤立丘陵で、木津川が北上する際、蛇行浸食していく過程で、周りを川の浸食により削りとられてできた丘陵の一種、平野部にあるものとしてはたいへん珍しいものらしい。

子供の頃、「いのか山」は全部古墳や・・・・・と、教えられて育った程古墳も多く、また、萬葉集にも柿本人麻呂が詠める詩として 「春草を馬咋山ゆ越え来なる 雁の使は宿り過ぐなり」が有る程に古い土地。

 木津川堤下の田園地帯は全て木津川の氾濫原だったのだろう・・・・。

昔話の一節に・・・笠置峡谷の大岩が大雨の落雷により大小二つに割れ、その大洪水で大岩は流され、一方は当時恭仁京があった瓶原(みかのはら)に流れ着き・・・もう一方は更に下流の田辺まで流れ、離れ離れに成った大岩は互に恋しがり、田辺の岩からは「いのか(山城弁では、帰ろうかの意)」と、叫ぶ声が聞こえ、人々は「いのか」と叫んだ大岩を「飯岡(いのか)」と呼ぶように成った。

その大岩こそ飯岡丘陵、現在でもそのまま地名として残されている壮大な話で、昔から木津川が山をも流しだす暴れ川だった事を想像させる。

集落は丘陵中腹、標高50~60mの緩斜面に石垣を積み軒を連ねている。

集落中央部は、旧い昔のままの在所の形態が現在もそのまま残され・・・・

車での通行不能な細い道が縦横に走りとても他所者が迷わずには歩けない程。

これは集落中央部貫き、車の通る道・・・・落ち着いた景観の家並が続く。

同じく逆方向から眺めて見る・・・・・

この集落ではどこに行っても、道の両側は石垣と・・・

白壁土蔵が一セットに成り、昔のままの集落の形を今に伝えてる。

集落へ登る道と・・・

集落から降りる道・・・・。

そして古墳の斜面は茶畑で覆い尽くされ・・・

あちこちに由緒有りげな石碑や説明板が建って居る。

ここ飯岡(いのか)は木津川と共に有り、僕の散歩道。

この地は一週間に二度ほど散歩するので撮影日の特定はせず。


奈良県香芝市 穴虫の町並

2014年03月28日 | 街道街並集落 景観 

奈良県南西部、新興住宅地として発展著しい香芝市に残る古い集落「穴虫」の町並み。

グーグルマップで何度か確かめ、茅葺き民家が何軒か残っていると訪ねてみたが既に全てに覆いが懸けられ茅葺き屋根は皆無。

しかしその町並みは一瞬時代錯誤に陥りそうな佇まい・・・古き豊かな集落の面影をそのままに残し伝えていた。

この地は、二上山の北を越え、河内から大和に入る古代の主要道の穴虫越えに沿う集落。

集落内は狭い道路が入混み、大きい屋敷が道路の両側に建ち並んでいる。

何とも豊かに見える集落・・・・これは特産として、研磨用の金剛砂用いた研磨布紙や砥石製造業が穴虫を中心として行われていたことに依るものらしい。

そのせいか農村集落にも係わらず、細い道路に沿って商家の形態をした建物が多く残り、一種独特な街並み景観を醸し出している。

何とも豊かな農村風景も共有しているが、街並みのあちこちに歯抜けの様に更地が存在しているのはちょっと気がかり・・・・。

撮影2013.6.16


奈良県香芝市 下田東民家(更新)

2014年02月21日 | 街道街並集落 景観 

全国的に大雪になった2014.2.14の朝、近くに住む友達が雪に包まれたこの民家の写真を届けてくれたので、ここに更新UPです。

 

遠くに住む僕には願っても撮影出来ない景観・・・・・感謝感激雨霰!!。

滅多に見れない風変わりな屋根のの民家に降り積もる雪・・まあしかしこんな雪の中を、いくら近いとは言え、車移動で良くぞここまで辿り着いたもんですね。

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この近くへ石仏を見に来て、石仏は戸締で目的は達成出来ず、近くで見かけたちょっと風変わりな民家。

香芝市下田、旧街道沿いに一昔前の懐かしい民家が並び・・・・・、

その一角、ジグザグ交差の角地に表側から見る分には、道路の角切りに沿い「不整形六角形」に見える。

対面する二階家から少し見下ろせば・・・・角々と見事に曲がり、ちと不思議・・・・

方角を変えれば何の事はない、寂れてシャッタ-を降ろされた街の酒屋さん。

こんな姿の、個性を剥き出した様な・・・、こんな民家はもうすぐ見られなく成りそう。

撮影2013.6.16


三重県旧美杉村  伊勢奥津の街並

2014年02月02日 | 街道街並集落 景観 

奥津は伊勢本街道、奈良県境に近い三重県、旧美杉村に江戸時代から明治末まで宿場として栄え、今も懐かしいその面影を残し、町おこしの一環として、古い屋号のある家が玄関に工夫を凝らした暖簾を掛けている。

町の中央には、今は通わないJR名松線の終着駅「伊勢奥津駅」が有り・・・

赤錆た鉄路や遠い昔の給水塔に過ぎ去った過去へのノスタルジーを感ぜずには居られない。

JR名松線は2009年10月、台風18号で甚大な被害を受け、途中の「家城」から「伊勢奥津」間が不通、、現在も代行バスで凌いでいる。

一時は不通箇所の家城~伊勢奥津間の廃線も取沙汰されたが、何とか2016年度中には復旧開通予定に成っています。

<伊勢奥津駅を正面奥に見る道しるべ>

そんなことも相俟り、過疎化が進む往時の宿場も人通りは無く閑散としていますが・・・・、それだけに僕にとっては余計に心に染み入る処と成りました。

同じ場所より振り返る旧街道・・・・。

向かいには「ぬしや」と書かれたちょっと風変わりな建物の雑貨店・・・・・この建物具合はどうも旅籠っぽい。

伊勢本街道「ぬしや」の暖簾が見える。

見たところ出入り口にはカーテンが降ろされ、既に閉店状態・・・・。

「かぶとや」と染め抜かれた暖簾の掛かる民家・・・・

平入、正面の雨縁には懐かしい棧格子が残され・・周りは改装されても、どこかやっぱり旅籠風。

こちら大店風の重厚な家構え、脇門には「山中屋」の染め抜き文字・・・・どの旧家にも伊勢地方独特の「蘇民将来」と書かれた駒札を掲げた七五三縄を通年掲げ、この鄙びた山里も伊勢地方の一部だと言うことを教えてくれる。

山内醤油店の古い看板の残る民家、家紋を入れた暖簾が掛けられている。

暖簾だけで伊勢本街道時代の賑わいは戻らないだろうが・・・・、鄙びた宿場町の風情は倍増して味える。

それにしても名松線が不通になって約5年、いくら過疎地域だといっても未だに復旧もせずおよそ3年先の2016年中だとか????

撮影2010.3.28


京都府宇治田原町 高尾(こうの)集落 

2014年01月27日 | 街道街並集落 景観 

かって、我が山城の隠れ里だった宇治田原町、その田原川と宇治川谷沿いから起ち上がる「大峰山」南西斜面に軒を連ねる高尾(こうの)集落。

国道307号線、田原郷の入口「郷之口」より山裾を行く田原川を越え、山肌を一気に駆け上ると山上集落の「高尾(こうの)」。

 

集落は山上とは言え海抜300mにも及ばず、最近ではアクセスもそう悪くなく・・・最早「隠れ里」とは呼べない。

しかし、ここからの眺めは良く京都伏見方面が手に取るように見渡せる。

この高尾集落は、織田信長に敗れた「近江の佐々木氏」が逃れ住んだという伝承を持ち、また集落の入口には「弘法の井戸」と呼ばれる集落唯一の湧水が有り、近在からその水を汲みに来る人も多いと聴く。

集落は雛壇状に二段に分けられた斜面に14~15軒、放棄家屋や廃屋は見られず、却って民家の数は増えている。

それでも懐かしい景観を残す覆い懸け家も2~3残り、鄙びた山里に色を添えている。

しかし山腹山間集落は人と鳥獣が共に暮らす場所・・・・・果実と言わず農作物は、網ガード無しのむっくり出しでは何も育ちはしないし採ることも出来ない。

こんな集落の奥にも近畿スポーツランド称するミニバイクレース場が出来、そこへ向かう車が集落を走り抜けて行く。

撮影2013.1.26


滋賀県多賀町 萱原((かいはら))集落

2013年12月31日 | 街道街並集落 景観 

   

湖東北部、山間集落の多い多賀町に在って、比較的過疎化も緩やかで民家も多く、限界には至って居ない。 

集落は琵琶湖に注ぐ犬上川の上流域、犬上ダム湖直下の谷間集落。

君ケ畑方面より県道34号線で下って来ると、廃村「大萩集落」の手前で大きく左折、冬期通行止めの看板の有る道をそのまま進めば、犬上ダム湖を越へ萱原に出る。

下流側から犬上川沿いに来ると比較的道路も良く、バスも通って居る様です。

そんなバス停広場にはこの地に伝わる昔話の主人公、ニジョウボン(二丈坊)と呼ばれる大きな木偶が睨みを効かせて居る。

周囲を山肌に囲まれた集落は約100軒ばかりの民家が建ち並び、こんなドン突き集落にしてはいかにも大きいのは何故だろう??・・・・。

グーグルアースで眺めて見ると茅葺き屋根に見える民家が数多く見えるが、現地に行くとこの通り 。

一見茅葺き屋根に見えた民家には悉く覆い屋根が掛けられ、茅葺き屋根は皆無でした。

それでも山間僻地の集落には懷かしい景観が色濃く残って居ました。

撮影2010.11.27


奈良県宇陀市 諸木野(もろきの)集落

2013年12月30日 | 街道街並集落 景観 

諸木野集落は、室生谷とその西側、国道369号線が走る榛原谷?を隔てる三郎岳西側斜面に軒を連ねる。

グーグルアースを覗いて居ると、何軒もの茅葺き民家らしき建物が見える事も有り、訪ねてみた。

集落はまるで隠れ里、国道369号線の解り辛い諸木野への進入口より、林道を車で10分近く・・・・、突然視界が開けて集落に入る。

この地はその昔、諸木野宿と言われ、伊勢本街道が通り、八軒もの旅籠や関所も設けられて居たらしい。

しかし現在は鄙びた山間集落、画像に写って居るのが集落の殆どで民家は10軒ばかし・・・。

大きな大和棟の民家や切り妻屋根の建物も見えるが、その全てに覆い懸けが施されて居ました。

しかし隔絶されたようなこの山間集落の景観は、捨てがたい懐かしさを残し、郷愁を掻き立てるには充分過ぎる。

撮影2013.5.3


奈良県生駒市 旧宮方集落

2013年12月03日 | 街道街並集落 景観 

グーグルマップを眺めて居て、この地にも茅葺き民家が残って居そうだと寄ってみた。

たった1軒残って居た茅葺き民家も、宗教法人の名を大きく掲げた艶消しの景観に成って居ました、しかしこの集落の景観が素晴らしかったのでUPしておきます。

国道163号線高山大橋から県道7号線で北に直ぐ、宮方橋で右折、集落は富雄川に注ぐ小川沿いの小高い台地に石垣を積み並び建つ。

小さな小川の谷はなだらかな棚田が占め、どの家も大きな敷地を持ち、裕福な集落で有る事を窺わせる。

集落入口に付近の民家は茅葺き屋根に銅板懸け、棟に掲げられた避雷針がちょっと物々しいけど・・

その並びにはこんな民家、棧瓦屋根だが、土蔵や土塀の白壁とのコントラストが美しい。

こんな古き佇まいを一杯に残した里山ながら、大都会大阪へのアクセスが便利で、周りはどんどん積み木細工の様な住宅地になって居る。

もうこんな佇まいも、そう長続きはしないかも・・・・。

撮影2013.2.22


木津川流れ橋流失 その後の景観

2013年11月28日 | 街道街並集落 景観 

まるで鎮魂の墓標・・・・。

広い河原に立ち尽くす桁外れなオブジェの様でも・・・・

昭和27年(1953)の架設以来、もう20回も流れたと言う我が木津川の流れ橋・・・、ここ3年間はまるで年中行事の様に決まって流失。

<この写真のみ撮影2013.5>

木造橋として日本一の長さを誇るこの流れ橋・・・・、こうして橋として機能してる期間より・・・・

野晒し橋脚の方が見慣れてしまった。

今回は、この9月16日早朝、台風18号の異常増水により、その橋板は1枚も残らずあえなく流失。

又、半年以上はこの墓標にも似た河原のオブジェを見せ付けられる事と成ってしまった。

この橋脚が朱ければ、伏見稲荷大社の千本鳥居そのもの・・・

流れた橋板は荒れた河原に横たわり・・・・

橋脚は取り残された流れに影を落としている。

全長約350m、かっては時代劇ロケ地としてもてはやされ、チョンマゲ武士や岡っ引きがこの上を歩いたのも、そう遠い過去じゃない。

直ぐ下流には「第二京阪道」「国道1号線」の木津川橋梁、少し上流には第二名神道の橋梁工事も進行中・・・

しかしこの橋脚が哀しい墓標に成らない事を祈るが、再開してもまた年中行事の繰り返しでは・・・・。

撮影2013.11.22


兵庫県篠山市 武家屋敷群

2013年11月03日 | 街道街並集落 景観 

関西では「丹波篠山山鹿の猿が・・・」の囃子唄で知られる兵庫県篠山市、篠山城址脇に連なる武家屋敷群です。

篠山市街の中心、篠山城址西外濠から一筋挟んで南北に約400mに亘り、茅葺き武家屋敷を中心とした風情ある建物が達並んで居る。

南側通り入口から歩を進めると、茅葺き門とその奥に建つ茅葺き屋根の主屋に、ちょっとしたタイムスリップ感が味わえる。

<武家屋敷鈴木家>

慶長15年(1610)篠山城が完成と同時に、この武家屋敷群「御徒士町(おかちまち)」が形成され、その後江戸時代後期の天保元年(1830)の大火災により大部分が焼失、現在残って居るのはその後の建物だと言われています。

こちらは裏側jからの撮影・・・、見えない下屋は痛みが激しい。

隣家鈴木家と軒を連ねる佐藤家・・・・白壁土塀は間新しいのですが脇差ちょんまげ姿の武士が出てきても、そのまま納得出来そうな佇まいです。

一軒置いて隣の茅葺き屋根。

小じんまりとした入母屋造りながら、棟抑えの黒い千木がこの地の茅葺き屋根を象徴する。

道の向かい側には覆い懸け屋の被ったこんな武家屋敷も・・・・、ここはしっかり民家として住まわれて居るようでした。

通りの一番奥には史料館として解放されている安間家の茅葺き門と茅葺きの主屋。

豪壮さは有りませんが質実剛健さがそのまま感じ取れる様な佇まいです。

この日は月曜日で休館日、しょうが無いので門外からの撮影のみで辛抱しておきました。

撮影2013.10.21


京都府久御山町 東一口(ひがしいもあらい)山田家長屋門

2013年06月17日 | 街道街並集落 景観 

細長い家並が続く東一口(ひがしいもあらい)の中ほどに、壮大な長屋門を有する山田家の屋敷があり、巨椋池は無くなった今も当時の面影をよく伝えて居る。

国道1号線、京都南ICから大阪方面に向かい宇治川を越えると、前方には巨椋池を埋め立て造った一面の水田地帯が広がる。

それが昭和16年に完工した巨椋池の干拓地、その北西部、巨椋池にあった細長い中州に沿って古い建物の残る町並みが続き、細長い集落の両脇には、干拓で整備された排水路の前川と古川が流れ、巨椋池での漁業を忍ばせます。

ベンガラ出格子虫籠窓・・・・現在ではこんな民家も少くなった。

この通りに面した山田家はその昔、巨椋池漁業権の総帥であり、御牧郷十三ヵ村をまとめていたという大庄屋で当時の姿を今に伝えています。

若い頃、たまたま何の予備知識もなくこの前を通って驚きの極みだった事を昨日の事の様に思い出す。

豪壮な長屋門は、東西15間(27メートル)、奥行2間半(4.5メートル)、2間半の入口には、観音開きの大きな扉がありますが、現在固く閉ざされています。

屋根はすべて「丸に五つ引き」の家紋瓦で本瓦葺き、棟(むね)の両端の鯱は重厚な白壁とよく調和し、まるで城下町の武家屋敷のようです。

現在保存工事が進められ、近く一般公開されるとか??もうされたかも・・・・・。

撮影2013.4.1


京都府 旧加茂町舟屋の民家

2013年05月15日 | 街道街並集落 景観 

加茂町の右岸と左岸を繋ぐ恭仁大橋、その左岸付近にレトロな佇まいを今に残す「舟屋」の町並み。

木津川水運の拠点として栄え、江戸から明治にかけての面影を良く残している。

恭仁大橋を亘って最初の信号を右折するとこの景観・・・・・

左手に長い酒蔵の豪邸、右手は白壁虫籠窓の豪壮な館と呼ぶに相応しい建物。

長い酒蔵を持つ民家は「日吉屋」の屋号で呼ばれる造り酒屋さんだったのだろうか??

日本桜、山城酒造の放浪看板が掛かって居る。

屋敷は塀が取り囲み町並みも詰まっていて全く見えない。

向かいの豪邸は「粋な黒塀見越しの松」そのものの景観・・・近頃こんな屋敷も滅多に見れなく成ってしまったような・・・。

地名に舟屋の名前を留めたレトロな町並みでした。

撮影2013.2.17


奈良県十津川村 果無(はてなし)集落

2013年04月03日 | 街道街並集落 景観 

旅好きの人なら何処かで一度くらいはお目に掛かった景色が目の前に広がる。

ここは奈良県十津川村、「世界遺産」熊野古道小辺路の難所、果無峠への登り口に位置する果無集落。

小辺路(こへち)は、熊野参詣道の一つで、高野山と熊野本宮大社を結ぶ信仰の道、交通網の発達していなかった少し前までは付近集洛の生活道そのもだったようです。

集落は十津川村役場のある小原から十津川沿いの国道168号線を南下すること約20分、十津川温泉街を抜け、国道425号線との分岐を過ぎ「柳本橋」を渡って直ぐに林道へと右折・・・・・・。

道成に5分も駆け上がると・・・・

どこかで見たような・・・・しっかり脳裏にインプットされていたのと全く同じ景観に出逢う。

明るく開けた細い尾根道、その向こうに2~3軒の屋根、奥には果無山脈の山塊・・・・まるで一昔前のディスカバージャパンポスターそのまま。

グーグルアースで空から見るとこんな具合・・・、実に良くわかります。

世の中便利過ぎて怖いほど・・・・・。

石畳は観光地化されてから造られたものだろうが???この道を「蟻の熊野詣」が、それこそ何百年も続いたのだろう??

少し下ると一軒の民家

ここがあの観光用ポスターですっかり有名になったお婆ちゃんの家・・・・庭先を世界遺産が通っている。

一昔前まではここが茶店替わりの休憩所、今でも門先には湧き水を引いた水飲み場を用意してくれている。

石垣脇には鯉生簀、人里はるか離れて手軽なタンパク源なのだろうか??

家の裏には棚田が二枚、畑地が一枚・・・、畝刈が見事でした。

まさしく自給自足で何とかなりそうな・・・、それにしてもここで暮らせば足腰は鍛えられそう。

ここは「天空の郷」と呼ばれ、残したい美しい景観「にほんの里100選」にも選定されています。

山岳集落独特なウチオロシ板が、高い石垣の向こうに見える。

帰りざま、林道向うにも民家のトタン屋根・・

今でもこの道が絶えることなく熊野本宮大社まで続いて居るのだろうか??

まあ世界遺産だというからにはちゃんと続いてるはずだよね。

撮影2010.7.24


滋賀県長浜市 北国街道木之本

2013年03月09日 | 街道街並集落 景観 

木之本地蔵」長祈山浄信寺の門前町として、また北国街道北国脇往還との分岐点、木之本宿場としても栄えた。

<桜の咲いてるところが木之本地蔵浄信寺>

長浜市街方面から北上してきた国道8号線が直角に進路を変える「JR北陸本線」木之本駅前、その信号を303号線方面に右折、どんと突き当たったところが言わずと知れた木之本地蔵の浄信寺。

境内には願掛けの「身代わり片目蛙」が一杯。

木之本地蔵の前を行く北国街道、町並みは鄙びた中に旧街道宿場町独特の風情を残す建物が並び建つ。

元禄11年(1698)には、高札場から南に約120軒、北に約75軒が建ち並び、家並みは街道の東西一筋の両側に並んでいた。

雪国、湖北らしく道路には道路には散水孔が設けられている。

木之本地蔵の直ぐに南、木之本宿の本陣跡で、日本第一号の薬剤師だったという、「本陣薬局」竹内家。

むっくり出しでは持って行かれそうな??年代物の木製看板・・・、この日は休業日だったのか扉はしっかり閉じられていた。

地酒清酒「七本槍」の造り酒屋「富田酒造」さん、木之本で酒造り450年余り、全国でも屈指の歴史ある酒蔵とされて居るようです。

店先には懐かしい格子障子、軒先には大きい杉玉、バッタリ縁代わりに「大八車の車輪」を利用したベンチが良い雰囲気を出している。

また木本宿は牛馬市でも知られ、山内一豊がこの市にて妻の備えていた金子で名馬を買い求めた話は有名・・・・。

土壁、棧瓦の庇には、さもありなんと言うふうに大黒天の縁起瓦が載っていた。

ここは鍾馗さんの出る場所では無かったようです。 

撮影2007.6.10/2010.4.10