愛しきものたち

石仏、民家街並み、勧請縄、棚田景観、寺社、旧跡などが中心です。

山伏峠石棺仏、(阿弥陀.地蔵、他)

2010年06月26日 | 石仏:兵庫

播磨の数ある石棺仏の中でも最大だと云われるている阿弥陀座像 の石棺仏と、これも播磨の石棺仏では唯一、長持ち式石棺を使った地蔵半跏像が共に有るこの山伏峠は石仏ファンならずとも一度は訪れて見たいのではないだろうか??

中国道加西ICを出てそのま南進、玉野の信号をクリアー、道なりに進むと直ぐに小さなトンネルを抜け左手にUターンするような山伏峠への進入路があるのが見えてそれと解る看板も立っている。

道路はアスファルト舗装もされ車も充分通れそうだが車止めが有って進入禁止に成っているが幸いにも付近は空き地だらけで駐車に困る事はない。

ダラダラ登りの散歩道程度の山道を歩く事10分ばかし道路わきに直ぐに石棺だとわかる大きな石が見え、少し奥にも縄掛け突起の目立つ石棺仏、並んでもう一つの石仏も見える。

付近は良く整備されているものの観光地化はしていないので落ち着いていて付近の景観と共に楽しめる。

道路わきの石棺仏は家型石棺の蓋石の内側を利用、、蓮華座上に像高 60cm程の定印阿弥陀座像を薄肉彫していて、「建武四年(1337) 四月十日」の銘文がある。

阿弥陀石仏もさる事ながら、高さ約2.2m、幅1.3m、厚さ40cmの巨大な家型石棺の蓋石で、裏に廻れば石棺そのもの、大きな縄掛けが見事です。

上段 左奥の石棺仏は、高さ2.1m、幅1m、厚さ20cmの長持型石棺蓋石の内面に像高55cm左足を垂らした地蔵半跏像を中央に左右に三体ずつの小地蔵を薄肉彫にしていて、中央の地蔵の顔は幼く穏やかで今でもはっきり思い出せるほどです。

 丸い見事な縄掛け突起も特に印象深く、地蔵の穏やかな顔と丸い大きな縄かけ突起がとてもよくマッチしている。

地蔵の向かって左側には高さ1mほどの石棺材を利用した思われる、二重光背を彫りくぼめた中央に薬師如来?、左右に僧形の脇侍を薄肉彫りしている。

しかし何故このなだらかで低い峠が山伏峠なのか、どうしてこの峠に石棺仏なのだろうか??まさかこの地で出た石棺ではないだろうに(近くには違い無いだろうが?)??。

近くには天神宮が有るのでちょっと気に掛かる。

撮影2007.12.8


よばりこき地蔵(小谷石仏)

2010年06月15日 | 石仏:兵庫

 

永らくPCのHDで眠っていた播磨の石仏たち、そろそろ目覚めさせないとカビが生えてしまいそう。

あのアバンギャルドな五百羅漢で有名な羅漢寺から中国道の下をくぐり北方へ直線で約500m、小谷集落の西外れに地蔵堂があって、石棺を利用した所謂石棺仏が地元の人達によって大切に祀られ今も信仰が篤い。

播磨は石棺仏の密度が最も高い地域で、この地域の石仏と言えば石棺仏を思い起こさざるを得ない。

『よばりこき地蔵』地蔵と呼ばれるこの石仏は高さ1.7m、幅1.1m、家型石棺蓋石の内側に阿弥陀座像と六体の菩薩像を厚肉彫りしたしたもので、良くある話ですがここでも阿弥陀石仏を地蔵と呼んでいます。

「よばりこき」とは「夜尿症」や「よだれたらし」のことで今も平癒祈願の参拝者があるとか・・・。

風化磨耗が進み細部の表情までは定かでないが、像高約60cmの阿弥陀坐像を中心に六地蔵を中肉彫りにして、光背には5個の月輪を入れた舟形光背を彫りくぼめている。

毎日のように地元の人による清掃やお参りがあるのか堂内は掃除や整理が行き届き、この日も地元の人が花を手向けていた。

康永4年(西暦1345年)の銘があり、南北朝時代像立。

向かって左横にも小さな阿弥陀石棺仏。

撮影2007.12.8


大迫磨崖大日如来坐像

2010年06月06日 | 石仏:九州

 

此処は豊後大野市千歳町長峰、肥後街道と呼ばれるR57号線、大分方面に向かって走ると左手にそれと解る看板があり道路も広くなっており難なく駐車できる。

急な石段の斜面上に狭い境内と拝殿?覆屋が重なるように建っていて、境内からは此処に磨崖仏が有ることは窺い知れない。

 

覆い屋があって其の内部に入る事も出来ず、正面の格子戸越の拝観で、内部には照明設備も無く暗い中に浮かぶ妖しい雰囲気の磨崖石仏??

肉眼で見たしかめる事は不可能だが、純粋な磨崖物石仏ではなく、岩壁に大まかな像を刻み出し、その上に麻などの繊維を混ぜた粘土を、厚く塗って表面を仕上げた所謂石芯塑像だと言う事です。

表面の塑像部分の痛みがひどいのか上腕部にかなり崩れた部分が見られ、顔容も何かミイラでも見ているかのように、おどろおどろしい。

大分にはこうした珍しい造りの石仏が何箇所か有り、石造文化豊かなこの土地ならではの何か特殊な事情でもあるのだろうか??

石仏は大日如来だと言う事ですが、全く良く解らない、それより当初よりこんな顔立ちだったのだろうか???、こんな顔立ちの大日はついぞ見た事がない。

坐像で像高3.2mという巨像で室町時代、天文二年(1533年)頃日羅の作と伝えられています。

石仏は、江戸時代に修造されて居るようですが、このおどろおどろしい顔付きは大野地方に勢力をふるった緒方・大野氏が滅亡した霊がこめられているのだと聞かされなんとなく納得したような?? 

撮影2010.5.1