愛しきものたち

石仏、民家街並み、勧請縄、棚田景観、寺社、旧跡などが中心です。

北条五百羅漢石仏

2009年10月30日 | 石仏:兵庫

今更敢えてくどくど説明する必要は無いと思うほど良く知れ渡った異形石仏の代表として名高い。

もう2年近く前、師走に入って関西でも遅い里の紅葉も終わりし頃、播磨の石仏紀行には欠かせないこの羅漢寺を訪ねた。

さして広くない境内に見慣れない角柱状の石材に刻まれた異形の石仏が林立する様には新鮮な驚きを隠せない。

本堂左手脇に、約400体に及ぶ五百羅漢石仏が林立していて、その特異な造形美に目を見張らずには居れない、殆どの石仏は高さ約く1m程の角柱状石材に頭部を丸彫り、肩から下は石柱のままで体部として正面には極端にデフォルメされた手と持ち物が薄く彫り刻まれている。

一体この意匠の原型は何だったのだろう??、木彫の円空仏と何処か相通ずる何かを感じないでもない。

角柱状のこの異形の石仏は、その形状の特異さから同一作者のもので有ろうが、一体一体に個性を主張しているようで、すべての面貌が異なり、石仏というより

身近な親しい隣人と思えるほどです。

若かりし頃、ラジオ放送で『親の顔が見たけりゃ 北条の石仏に逢いにいけ?』というフレーズのコマーシャルがよく流れていたのを思い出す。

このような石仏が突如この地に現れ、踏襲されずに消えたのはどういう事なのだろう??

播磨は古くより石棺仏の像立が盛んで、石造技術も優れていたのだろうから、何かのイレギュラーがこうした異形の石仏につながるきっかけを作ったのかもしれない。

しかし踏襲されなかったのは当時としてはあまりにもアバンギャルド過ぎて庶民、信者の信仰の対象からは、かけ離れたものだったのかも知れない??。

制作年代についてはほぼ、慶長年間(1596~1614)頃の制作と考えられている様ですが製作者については全く解らないようです。

初冬の北条五百羅漢石仏はただただ立ち尽くすのみで何も語らない。

撮影2007.12.8

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天理市苣原(ちしゃわら)大念寺、十三仏板碑

2009年10月27日 | 石仏:奈良

旧R25は名阪国道にすっかりとって変わられ、現在では殆ど幹線道路としての役割を終え地元住民の生活道路になっている。

天理市街から大和高原へかけ上がった、旧R25沿いの小さな里山集落の大念寺という融通念仏宗のお寺にあって、大和地域では最大かつ最優美の誉高い??十三仏板碑です。

十三仏とは死者の追善供養で初七日から三十三回忌までの13回の法事に、本尊とされる13の仏、菩薩で、室町時代ごろ、大和地方からに各地に広まったといわれており、その遺物の十三仏板碑も大和、河内、山城地域に集中して見られるようです。

又融通念仏宗の寺院は河内・大和地方に集中して存在する宗派です。

大念寺 十三仏板碑は、幅約50cm、高さ約2mの舟形花崗岩に約20cmばかしの石仏を13体彫り刻んでいる。

石仏は3列4段に並び下方右から、初七日:不動明王、二七日:釈迦如来、三七日:文殊菩薩、2段目、四七日:普賢菩薩、五七日:地蔵菩薩、六七日:弥勒菩薩 3段目、七七日:薬師如来、百か日:観音菩薩、一周忌:勢至菩薩、4段目、三回忌:阿弥陀如来、七回忌:阿上ゥ如来 (あしゅくにょらい)十三回忌:大日如来と彫り続け、 最上部中央には天蓋をかけた三十三回忌:虚空蔵菩薩をひとまわり目立つように配している。

台座上部に天文二十四年(1555)の銘が有って室町後期の像立。

ちなみに苣原という名称が珍しく、調べて見ると在地土豪だった苣原氏の城跡があるとの事でした。

撮影2006.11.3

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東大寺南大門の狛犬

2009年10月25日 | 石塔:石造物

誰でも知ってる東大寺の南大門、その南面両側の仁王像はここを通る誰もが足を止め感嘆の声を漏らす。

しかしそのちょうど裏側、北面に有るこの狛犬(唐獅子)に足を止める人は殆ど見かけない。

この地は住いから近場と言うこともあって何度となく訪れ、この狛犬の写真にも何度となくトライするものの全く上手く撮れたためしがない。

当然この写真も満足できないが、前回紹介した籠(この)神社の狛犬を機会に、この狛犬もここにUPしておこうと思い立ちました。

言い訳にしか過ぎませんが、この狛犬の置かれている状況は非常に撮影し辛く、金網越し、柵越し、はたまた三脚も立てず脚立も持たない僕にはこれが精一杯の画像です。

我が国最古の石造狛犬と言われるこの狛犬は重源による鎌倉初期の東大寺復興造営の折、来朝した宋人石工の造立、その石材も宋から取り寄せられたものだとされています。

向かって左、雄

建久七年(1196)宋人石工、 伊行末(いのゆきすえ)の手になるこの狛犬は、僕たちが普段良く見る神社の狛犬とはちょっと異質に見えるもので雄雌両方が阿形のように口を開き、中国唐時代の石獅子と似ているといわれ、胸をぐっと反らせ屹立した作風がいかにも中国風で、胸にも飾りベルトが有ったりして勇ましい。

右側、雌

台座は須弥座で側面には瑞雲、花卉、天女等が華麗に浮き彫りされているのが見える。

金剛力士像(仁王造)の裏のスペースは広く大きく、いかにもこの狛犬だけを置いておくスペースにしては間抜け気味に見えるが、本来ここには別の何かが置かれていたのかも?と思ったりするのは僕だけだろうか??それでも像高180cm、国の重要文化財に指定されています。

右側、雌

撮影2008.6.22


籠(この)神社の狛犬

2009年10月21日 | 石塔:石造物


籠(この)神社は天橋立がせり出す根元付近のR178号線沿いにあって丹後國一之宮としての社格と元伊勢籠神社の名前で広くその名を知られている。



神社のことはあまり良く解らない僕ですがなかなか由緒正しき神社らしく、社家の海部氏は、彦火明命を祖とし、創建以来、代々奉斎をしてきたとされ、現在では82代目だそうで、ちょっと聞いても気の遠くなるような話です。


籠神社(コノジンジャ)の名称は、神代に彦火明命が籠船に乗って龍宮に行かれた故事に因む名称であり、「籠」を上古において「コ」と発音した事から「コノジンジャ」と呼ぶそうですが、僕は又誰かがここに籠ったのかなあと早合点していました。



 神社のことが良く解らない僕がここに来て、興味を持ったのは言うまでも無くこの狛犬。



狛犬のことも全く解っていない僕ですが、初めて見るこのどっしりとした堂々たる体躯と見事な姿、それにまつわる昔話に興味をそそられた。



この見事な出来栄えの狛犬は、それゆえ魂を宿し、夜な夜な籠神社を抜け出しては天橋立を徘徊し、人々を驚かしていたのだそうですが、時の英雄・岩見重太郎に退治され、当時のすね傷といわれるものが今も吽形の前足に残っていて面白い。



この狛犬は国重要文化財指定・鎌倉時代の作といわれていますが、最近安土桃山時代説も有力になっているようです。


小顔で胸板が厚く上半身がとても逞しく、威風堂々とした姿は素人の僕が見ても素晴らしいものだと解る。


撮影2008.5.17


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福井県南越前町 言奈(いうな)地蔵

2009年10月19日 | 石仏:その他

石仏としてはそれほど優れたものではなさそうに見えますが・・・・

福井県の嶺南と嶺北を隔てる分岐点、木ノ芽峠の直ぐ近くに有るこの「言奈地蔵」には興味深い逸話が残されていて興味深い。

北国街道、湖北の木の本宿よりR365を北進する事約30分、大きなトチの木が深い谷の崖から背伸びしているかのように見える栃の木峠につく。

ここより左手山手に入る林道を進む事約10分強、林道とは言え道路は快適なアスファルト。(所どころダートもあったかな??)

林道脇にそれと解る看板があって、少し手入れは行き届いてないが、斜面の間道を登りつめると、この東屋のような趣の有る萱葺きの地蔵堂に出会う。

ここは、かつて都と北陸諸国とを結ぶ交通の難所、平安初期に開削された古い官道で、敦賀から今庄へ抜ける最短路でもあり 気候や方言などもここを境に一変すると言われていますが現在では直下近くを北陸道敦賀トンネルやR476の敦賀から今庄へ抜ける木の芽トンネルが貫通していて、全く車にも出合わない。

地蔵堂の正面の扉は、ふいの参拝者のためか鍵はかけられず誰でも真近に参拝できるようにに成っている。

巨大な自然石の正面に、等身大の稚拙な彫りで野趣にとんだ地蔵菩薩を刻んでいる。

言い伝えに依るとこれは弘法大師の化身だと言われていて、掲示板のような謂れを伝えていると言う・・・・。

「地蔵は言わぬが、おのれ言うな。」・・・・・、う~~~ん含蓄の有る言葉、いつの世も人間って大して変わらないもんですね。

ふと石の地蔵さんが苦笑いして、今にも喋り出しそうな気がしてくる。

ここより500mほど手前には旧北陸道、「木の芽峠」の石畳が残り、一軒家の前川家が今に街道筋の面影をとどめている。

ここは遥か人里はなれた山の中、栃の木峠から板取宿近くの国道までの間、殆ど車にも出会うことは無かった。

撮影2008.7.5

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飯降薬師磨崖石仏

2009年10月16日 | 石仏:奈良

奈良県旧室生村は室生寺や大磨崖石仏の有る大野寺で全国区的にその名を知られていると思うが、その北方山間部、大和高原地域の室生村は関西人でも,その存在す知らない人が多いだろう???。

近鉄室生口大野駅付近のR165より県道28号線で旧都祁村方面に峠を越えると山裾に広がる集落が向渕(むこうじ)。

飯降はこの小さな集落のどん突き辺り、 後ろの山裾が迫っている辺りに往古弘法大師(石仏と時代は合わないが???)が開基した大きな寺院があったといわれています。

口伝によると、いつの頃かこの寺院は七日七夜燃続け、この石仏もその難を避けることは出来なかったようです。

NETで検索してみると多くの人たちがここを訪れて居るようですがその殆どの人たちが石仏には会えずに仕方なく引き返しているようです。

それというのも山肌から突き出した岩肌の石仏には覆堂が掛けられ、正面の磨崖石仏には紫紺の幕が掛けられ外部からは全くその様子を伺い知ることは出来ません。

たまたま僕がここを訪れたときには幸いにも、地域の人たちが居て内部に入る事が出来ました

 

内部に入って、正面の幕を上げると無残にも焼けただれ剥落が激しく、永らく風雨にさらされたのか?磨耗も進み、像容も定かでは有りません。

しかし、良く見ると、中央二尊の如来像には彩色の跡も幾分残り、倚子座に座している姿や衣文などから白鳳時代の香りを伝える貴重な磨崖仏であるとされています。

下部などは、磨耗が進みすぎているのか??もう何がなにやら状態で自然に帰る一歩手前といった感がします。

 幅1.7m、高さ1.3mの区画枠内に、中央二尊の如来像、両脇に観音像、その周囲に菩薩天部を十数体、斜め向きに彫ってあるという事に成っていますが写真のとおりで全て確認するのは難しい。

しかし、この辺境の地に白鳳の匂いが漂う磨崖石仏があって、それを有する寺院があったのだろうか??

そう遠くない地域には毛原廃寺や室生寺もあるのだけれども??

撮影2008.2.2

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室生大野の「六地蔵」

2009年10月15日 | 石仏:奈良

近鉄室生口大野駅は、あの古刹室生寺への表玄関として知られているがその駅裏付近を古大野と呼ぶ事など、地域住民で無い限り知る由も無い

古大野と呼ぶように古くは大和高原を結ぶ古道があって今でもその山麓には古い集落が点在している。

大野駅から向淵へ通じる旧街道沿いの上出集落近くの古道沿いにこの六体地蔵がある。

この地蔵さんに出会うのにも一苦労、地元の人に聞くにも小さな集落の冬の日などに全く人影を探し出すなど不可能、勿論無名の石仏に案内板など有るわけも無く、NETの少しばかり情報で、何とか石仏の匂いをかぎまわるしかなかった。

この六体地蔵までは車が入るようになっているがここから先の古道はほぼ廃道状態、それでも奥の方には、なにやら古めかしい石碑が並んでいるのが見える。

六体地蔵は古道脇の大きな石に幅1m、高さ46cmの短冊形を彫りくぼめ、その中にほぼ目一杯に中肉彫りのデフォルメされた稚拙な石仏を刻んでいる。

時代的にも奈良の石仏としては新しいものだとは思いますが景観としては見るべきものが有る。

撮影2008.2.2

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桜井市横柿 北山道阿弥陀磨崖石仏

2009年10月13日 | 石仏:奈良

紅葉の名所として有名な談山神社が有る多武峰南麓の奈良県桜井市横柿の道路脇で見かけた阿弥陀磨崖石仏。

この谷は談山神社へ通じる山道が奥深く伸びていて、平安時代には宝積寺と言う寺院が有ったと伝えられている。

この石仏がその寺院の名残だとは思えないが???

道路わきに突き出した大きい石の表面に船形光背を彫りくぼめ、半肉彫りで約50cmほどの阿弥陀如来立像を刻んでいる。

歴史的遺産が有り余る桜井市に有って、少し人里はなれたこの今井谷に名も知れず佇む石仏・・・・。

たまたま見かけた石仏で勿論何の掲示板、表示等もなく何処でどう調べてみても、この石仏に関する記述はみつからなかった。

撮影2008.02.02

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弥勒丘、弥勒石龕仏

2009年10月03日 | 石仏:奈良

特徴的な目鼻立ち、ちょっとほくそ笑むような口元・・・・・・・。

山之辺の道、長岳寺周辺には石仏が多く、特にこの特徴的な表情を持つこの石仏さんには、三度目の訪問でやっと出会えた。

石仏の存在は本やNETなどで知っては居たものの現地には何の表示板も無く、道さえも無い田圃の奥、山裾の椎の根元で苦笑いして待って居て呉れた。

MAP,では凡その場所しか示せないので、どうしても出会いたい人は長岳寺前の「山之辺の道トレイルセンター」で聞いて見てください。

その場所は「みろく丘」と呼ばれているところで、山裾には古道があったようですが今は湿地のようになってしまっていました。

弥勒石龕仏という事になっていますが龕部の側壁部分や笠石は崩れ、奥壁部分だけが一列に並んでいるように見える。

右壁に永和四年(1378)左壁に大勧進沙弥渓乗/大工僧善教/OO施主卅二人と刻銘があるようですがとても老眼の進んだ僕には読めません。

大工僧善教さん自身が、この特徴的な顔の持ち主だったのかも??長岳寺近辺ではこの顔の石仏が何体も待っていてくれる。

高さ118Cmの花崗岩 に彫り窪めた舟形光背の中に 、像高 95Cmの厚肉彫りの弥勒仏を刻む。

右脇の板石には胎蔵界大日の種子「ア」を月輪内に刻んでいる。

この特徴的な顔の持ち主であった??善教は、大工僧となっているように長岳寺のおかかえ石工として特徴的な顔を何体も残したのだろうか??

撮影2008.9.27

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