愛しきものたち

石仏、民家街並み、勧請縄、棚田景観、寺社、旧跡などが中心です。

山口県下関市豊浦町川棚中小野 岩谷十三仏

2013年03月10日 | 石仏:山陽

去年の暮れ、山口の旅でUPするのを忘れ果てていた石仏です。

僕の住む畿内、大和文化圏では十三仏と言えば板碑と思ってしまうほどですが、この山口では一体一石の丸掘り十三仏を見かける。

下関市の北部、川棚温泉から程近い山間の谷間、岩屋地区の奥、棚田中段の露出した岩場の上に、この丸彫りの十三石仏が安置されている。

岩谷十三仏はこの地を統治していた大内義隆の供養として八丈岩に十三体の石の仏像を造り奉納したとものと言われている。

現在、霊山「狗留孫山(くるそんざん)」への遍路路の入口に当たるこの地に安置、祀られている。

石仏は概ね70~80Cm、青っぽい石材に丸掘り、どことなくローカル色の強い石仏です。

中央には自然石を組み、石龕の中弘法大師だと思われる石仏、その蓋石の上には、見慣れない様相の・・・・・

多分不動明王だと思われる石仏。

それを取り囲む様に十三仏が配されているのですがイマイチどれが何様なのか良く判らない・・・、と言うのが本音

弘治元年(1555)頃の造立と言われ、室町末期の戦国時代、今から約450年前。

これが千手観音・・・・手が少なすぎるけど??

普賢菩薩、文殊菩薩だと言うのだが・・・・どうもさっぱり。

これはしっかり阿弥陀さん。

これも間違いなく大日如来・・・、しかしもっとキリッとして欲しいなあ。

まあ、僕の手には負えませぬ、取り敢えずはUPです。

撮影2012.11.28


広島県尾道市 浄土寺不動明王磨崖仏

2012年12月22日 | 石仏:山陽

尾道きっての名古刹、浄土寺は遠く飛鳥の昔、聖徳太子の開創と伝えられ、文化財の宝庫「国宝の寺」として良く知られるが、また背後「瑠璃山」の岩塊には巨大な不動磨崖仏が刻まれて居る。

遠くへ出かけると少々の雨でも無理を承知で予定をこなしてしまう・・・、ちょうどこの日も午前に因島、鞆の浦と廻り午後2時頃に宿のある尾道まで帰ってくると初冬の冷たい雨が降りだした。

風光明媚な尾道水道を下ろす高台に建つ、浄瑠璃寺山門前からの景色も冷たく泣いている。

尾道は狭い坂の街、浄土寺山門前の参道も寺院の規模にしては狭く、車では行きづらいが、到着すれば境内は広く、駐車場も用意されて居る。

境内に着き、そぼ降る雨の中裏山の磨崖仏までの道を訊ねると、その巨岩までは約20~30分の山登りだと言う・・・・・、暫く躊躇したがこれくらいの雨ならと意を決して強行、山頂付近の不動磨崖を目指す。

西国霊場石仏が置かれる参道を雨に打たれ、もう止めようかと思い始めた頃に大岩が見え出し、なんとか対面。

巨大な岩塊が屹立する高さ7~8mも有ろうかと云う花崗岩の波打つ壁面に薄肉彫りの不動石仏が見下ろして居る。

像高約4m、右手に利剣、左手に索を持つ、お決まりの定形不動明王立像です。

大きい目玉に真一文字に結んだ口元、憤怒相には違いありませんが大きい割にはリアリティーが感じられず、何故か紙に描いた漫画のような薄っぺらさを感じてしまいますが・・・・・(サラサラけなすつもりでは有りません。)

江戸時代中後期、大峰山信仰講中の奉納。

そそくさと戻った境内、 開山堂奥斜面には千体石仏が並ぶべられ壮観。

最上段にはこれはと思う如来形、多分阿弥陀石仏も見えるが・・・、これ以上は近づけません。

境内片隅に置かれていた小さな不動明王石仏。

どことなく、いなせな若者がが風を切って歩いているような・・・・。

裏口近くに有った山形板碑・・・舟形の中に地蔵立像を刻み付ける。

他の石造物は次回に続く。

撮影2012.12.2

磨崖

広島県福山市鞆町後地(ともちょううしろじ) 安国寺地蔵石仏

2012年12月21日 | 石仏:山陽

広島県福山市の南、沼隈半島南端にある古い港町鞆町は万葉集にも詠まれるほどの古い港町。

瀬戸内海のほぼ中央に位置する鞆の浦は「潮待ちの港」として大いに栄えたが、近代には瀬戸内の交通手段も陸運が主体となりすっかり取り残され、古い港町がそのまま残り2007年には「美しい日本の歴史的風土100選」にも選ばれた。

瀬戸内海を前にし、狭い道筋には由緒ある寺が19ヶ寺も林立、その繁栄ぶりを垣間見ることが出来る。

鞆の浦の旧市街北端近く、臨済宗「瑞雲山安国寺」と云う古刹が有り、その境外参道脇には古めかしい地蔵堂が建ち、地方仏だとは思えない立派な地蔵菩薩坐像が祀られて居る。

安国寺は鎌倉時代の文永十年(1273年)『金宝寺』として開基、後、室町時代に「安国寺」と改められたと言われています。

石仏は少し顎を突き出した容姿に特徴のある地蔵菩薩坐像・・・・・・、

本格的な格狭間入り八角框の上に反華座、敷茄子、蓮台と置き、上に結跏趺坐する地蔵菩薩を置いている。

幅のそう広くない舟形光背と殆ど丸掘りの仏身は一石で彫り出し、光背には円頭光を浮き彫りで刻み出す。

右手は錫杖を持たず肩口で施無畏印、左手は膝の上で宝珠を持ち、所謂矢田型の地蔵菩薩坐像です。

まるで瞑想するような半眼は印象的で畿内石工の手に依る石仏ではないかと考えられる。

国の重要美術品に指定され、総高219cm、像高120cm、光背裏面には元徳二年(1330)の銘が有り鎌倉末期の造立。

当時の「鞆の浦」の繁栄ぶり、経済力を偲ばせる石仏です。

撮影2012.12.2


広島県尾道市因島重井町 白滝山の石仏-2

2012年12月20日 | 石仏:山陽

先日の因島白滝山石仏の続きです。

急な参道を登りきり、小さな白滝山と書かれた山門を潜ると・・・・・・

観音堂と庫裡の建つ境内・・・、その脇に背の背の高い自然岩を基礎石にしたちょっと妙な多宝塔。

基礎石の四方には多くの磨崖石仏。

これらは一体何様なのか・・・・・観音様、羅漢さん??。

いずれも中肉彫りで力強く刻まれています。

かたや、こちらは観音堂前の巨岩に刻まれたり、上に置かれたりしている石仏さんたち。

この岩に刻まれた磨崖仏は三体、この石仏は如来形なのに蓮華を掲げています。

正面左脇にはマリア観音と呼ばれるこんな磨崖石仏、一面六臂の一肢に十字架を掲げて居ます。

 

岩塊に置かれたこんな小石仏・・・天狗らしいのですが??

儀軌に捕らわれず、自由奔放な像容は総てを採り入れた新興宗教が成せる術なのでしょうか??

この石仏たちは「一観教」教祖「柏原一観」が目指した曼荼羅、理想郷だったのかも??

石仏は歴史の瞬間を切り取ったかのように其処にある。

撮影2012.12.2


広島県尾道市因島重井町 白滝山の石仏-1

2012年12月19日 | 石仏:山陽

兎に角すごい石仏の数でどれからどのように紹介して良いのやら・・・・・・。

<白滝山から見た「しまなみ海道」尾道方面>

ここ因島は本四連絡橋の「しまなみ海道」が貫き、尾道市と成って陸続きのように成っているが古くは村上水軍の島、瀬戸内の砦として知られ、歴史・観光の島として注目されている。

その因島北IC近くの白滝山は村上水軍の将、村上吉充によって、15世紀のはじめ観音堂が建立された風光明媚な古代岩座霊場。

この頂上付近一帯に約七百体奇妙奇天烈な石仏が瀬戸内の海を眺めるように置かれ佇んでいる。

駐車場から急な石段参道を15分も登ると狭い境内・・・・・石仏が並び、眼下には海と島のパノラマが展開しています。

その奥にはまるで石仏の展示場よろしく、おびただしい石仏の羅列。

この地に立つ多くの石仏達は江戸時代後期の文政年間(1818~1830)、近く重井町に生まれた新興宗教「一観教」の教祖「柏原伝六(一観)」の意思により尾道の石工達が刻んだものだと言われて居る。

「一観教」は神道・仏教・キリスト教・儒教を一つに融合した新興宗教・・・・、彗星の如く表れわずか10年足らずでその姿を消し、この地に居並ぶ多くの石仏たちだがその生き証人として残された。

前列中央には両翼に沢山の石仏を従えた大きい丸掘りの「釈迦三尊像」が高くそびえていました

その裏側には羅漢石仏が居並んでいます。

五百羅漢小石仏の居並ぶ参道奥には「三大師座像(達磨大師・弘法大師・道元承陽大師)」その背後の基壇には「一観教」教祖、柏原伝六と妻の像と書かれていた石仏・・・・、なぜか右側が一つ空席のまま残されています。

キリスト教まで融合した「一観教」は藩からキリシタンの疑い掛けられ、教祖は投獄、翌年には獄中で不慮の死を遂げる。

居並ぶ石仏目の前にして石仏たちの哀しい物語を知らされると、一つ一つの石仏の事など語るべくもない気がする。

ただ物言わぬ石仏が瀬戸内の海を見下ろしている姿は印象的な景観です。

撮影2012.12.2


広島県尾道市 済法寺(さいほうじ)磨崖石仏

2012年12月18日 | 石仏:山陽

尾道千光寺山西斜面に建つ曹洞宗「済法寺」は「げんこつ和尚」と呼ばれた「物外不遷和尚」の寺として知られるが、また其の裏山斜面に多くの磨崖の羅漢像が刻まれていることでも知られている。

尾道は狭い坂の街としても有名なように、この「済法寺」も僕の車では門前までは辿り着けず、近くのスーパーに車を置き狭い路地坂道を歩いて訪れた。

<墓地斜面より見た済法寺境内と尾道の町並み>

済法寺も大きいお寺で、裏山斜面の急崖にしがみつくように多くの墓地が幾段にも有り、斜面に突き出した大岩には十六羅漢石仏などが刻まれて居る。

境内からも斜面の大岩に刻まれて居る石仏は確認できるが、斜面墓地への通路を登って最初に出逢う大岩には実に多くの羅漢さん。

羅漢像は概ね100cm~150cmの中肉彫りの坐像が大部分を占める。

石仏好きを辞任する僕も羅漢の個々の名前までは殆ど知らないので尊名個々の説明まではできませんが・・・

斜面頂上付近の大岩には見下ろす様な禅定印の釈迦如来坐像・・・・大きな舟形光背の中、二重光背を持ち、像高135cm。

この斜面はきつく、足元も覚束無い僕は望遠レンズでやっとここまで。

主尊釈迦如来より一段下の羅漢さん達・・向かって左手は飛雲に乗り合掌して居ます。

済法寺七代住職・牧元喝童和尚の享和年間(1801~1803)、江戸中期以後名を馳せた尾道石工により刻まれたものです。

近隣の豪商などの喜捨により裏山を曼荼羅図に見立てた様です。

動きもあり、ちょっとグロテスクに見える像も有りますが、写実的で力量のある尾道石工の素晴らしい技量の程がよく伺える石仏が多い。

畿内では見かけられない優秀な近世石仏だとされて居ます。

撮影2012.12.1


広島県尾道市 千光寺磨崖石仏・他

2012年12月17日 | 石仏:山陽

昨日の続き、尾道千光寺の石仏さん達・・・・。

千光寺二体目の磨崖石仏は境内背後に折り重なる巨岩の足許、巨岩を支えて居るかの様な山形花崗岩が有り、中央に大きく舟形を造り中に三尊形式の石仏を刻み出して居る。

脇には墓標らしき彫り込みも有る。

中尊は像高40cm余りの来迎印阿弥陀立像か?脇侍にはそれぞれ僧形仏が立ち、小像ながら像容は良く整って居る。

本堂脇、石鎚権現を祀る岩塊「くさり山」の岩壁には「からす天狗」の線彫り磨崖像。

像高約1m、雲上に載り羽を生やし、遠い昔に漫画で見たような像容です

参道脇、石積み前に置かれた阿弥陀逆修塔。

高さ約1.4mの山形自然石に先日紹介の双体逆修塔によく似た像容の阿弥陀如来立像。

「天正十七年(1589)、己丑、二月廿五日」 :「阿性禅定尼逆修」と有り、同じ年、同石工の手に依るものだろう。

撮影2012.12.1


広島県尾道市 千光寺磨崖石仏/逆修塔

2012年12月16日 | 石仏:山陽

今回の山陽瀬戸内の旅で始めて駐車料金を払い参詣、尾道きっての観光寺院 「千光寺」の磨崖石仏と「逆修塔」と呼ばれる双体石仏。

<千光寺参道、石仏越しに見る尾道>

尾道は瀬戸内きっての観光地、しまなみ海道が貫く多島を奥に尾道水道を見下ろす高台には古刹が並び建ち、その風光明媚さは多くの観光客を惹きつける。

千光寺表参道、石段右手にそれと解る案内があり、脇道に入ると参道土堤を背に、それほど大きくない花崗岩に阿弥陀三尊が刻まれて居る。

向かって右端にも舟形龕も見えるが、彫り物はなく小石仏が置かれて居るだけでした。

三尊は独立した三舟形光背の中中肉彫りで刻まれ、中尊阿弥陀如来坐像には鮮やかな彩色が残って居る。

中尊阿弥陀如来は定印を組むローカル色豊かな尊顔で蓮座に結跏趺坐・・・・像高約45cmと小さいながら愛くるしく目を奪う。

向って左脇侍の勢至菩薩は像高43cm、右脇侍の観音菩薩は蓮座の造りが全く違って像高47cm・・・・共に風化に耐えられず尊顔が崩れています。

彩色がよく残った中尊阿弥陀は童顔ながら慈悲に満ちています。

尾道市文化財に指定され室町中期の寛正二年(1461)造立。

傍らには逆修塔と呼ばれる双体石仏。

高さ1m程の舟形に整形した花崗岩に、向かって右に来迎印阿弥陀立像、左に薬師如来が厚い中肉彫りで刻み出されて居る。

共に頭上にそれぞれの種子配し、半円形重弁蓮座に立つが足許も覚束無い程のぎこちなさ・・・・・。

「松厳XX禅定門:松渓妙通禅定尼:逆修」、「天正十七年(1589)己丑」「二月時正」と銘が有り、逆修供養のため造立された。

千光寺石仏は明日にも続きます。

撮影2012.12.1


広島県三原市小泉町 白滝山龍泉寺磨崖石仏 

2012年12月15日 | 石仏:山陽

前回の黒滝山から峰筋道を約40分、 白滝山龍泉寺裏の山頂にそそり立つ巨大な花崗岩、八畳岩に刻まれた磨崖石仏です。

生憎僕は峰筋道をハイキングせず車で龍泉寺駐車場まで移動、参道を約15分程で山門まで辿り着きましたが・・・。

本堂脇から10分程も登ると巨大な花崗岩の岩塊があり、その岩壁の何箇所かに前回の黒滝山の磨崖とは全く異質な磨崖石仏が刻まれている。

最初に出逢うのがこの釈迦三尊像・・・・、大きな八畳岩の上部表面に雲上に載る釈迦三尊を中肉彫りで刻み出す。

脇侍に迦葉・阿難の両菩薩立像従え、凡そ等身大の中肉彫り。

彫りは良くできているがどうにも尊顔に深みが感じられず、悪いが子供の塗り絵を思い出す。

一方こちらは脇の大岩に刻まれた十六善神磨崖仏、 インドの石造彫刻を思わせるような肉感的な彫りを見せている。

こう言う技法も有ったんだと感心もするが、しかしその像容はどことなく漫画チックであることは否めない。

十六善神石像など他では聞いたこともないが、非常に珍しく中央、旅姿の玄奘三蔵とその右脇には異様な姿の深沙大将。

しかし等身大の石仏?を、こうもぎゅうぎゅう詰めで羅列されると圧巻、圧倒されそうです。

隣り面にはこんな3体・・・

続く面には下部に三体、ちょっと醜いが上部に二体・・・・なぜか中央の石仏は思い切り笑顔です。

因に釈迦三尊と十六善神像の像容が違うのは時代の違い、釈迦三尊は江戸初期、十六善神像は室町期の造立だとされる。

磨崖を見つかれて白滝山頂上、八畳岩から見下ろす「竜泉寺」山門とその向こう、黒滝山越しに多島「瀬戸内」の海が光る。

撮影2012.12.1


広島県竹原市忠海(ただのうみ)町 黒滝山観音磨崖石仏

2012年12月14日 | 石仏:山陽

瀬戸内、竹原市忠海町の名所にも成り、所謂西国三十三箇所ミニ霊場の黒滝山観音磨崖石仏です。

山陽、瀬戸内の旅に来てこれ程山登りするとは思っても居なかった。

瀬戸内の石仏は殆どが低山ハイキングコースの岩場に有って、石仏巡りというより軽登山と言う方が当たってるかも・・。

このミニ霊場は黒滝山から尾根伝いにその背後にある白滝山の古刹「龍泉寺」まで遊歩道が整備されハイカーにも人気コースの様です。

黒滝山は竹原市の東南部、JR忠海駅の北にそびえ、頂上辺りに岩塊を突き出した低い独立峰です。

その登山道入口までは自動車道が整備され、立派な駐車場まで用意されて居る。

登り始めると直ぐに石仏に出会うが一つ一つを紹介するわけにも行かず、これはと思ったものだけに留めます。

山頂近くまで撮影しながらゆっくり登って約1時間足らず、背後に岩塊の突き出した観音堂に出る。

<石鎚神社のある岩塊>

ここからの瀬戸内の眺めは素晴らしく、一方背後の岩塊には石鎚神社が祀られ鎖伝いに岩肌をよじ登る行場と成って居る。

さて本題の三十三観音磨崖石仏ですが観音堂から少し登った頂上付近に集中・・・・、先ずはこれ、第二十二番総持寺の千手観音と成って居ますが、何かの間違い、千手が有りません。

第三十二番の案内碑が有った観音正寺の千手観音・・・愛くるしい尊顔ですがこちらも、どう見ても千手は有りません。

これはしっかり頭上に馬頭を持つ第二十九番松尾寺の馬頭観音・・・、概ね此処の磨崖は像高約1m内外、江戸期の天保四年に完成されたようです。

まだ衣や頭部に彩色痕が残る第三十一番長命寺の十一面千手観音・・・なかなかの力作だとは思うのですが?どう見ても像容が合いません。

こちらどこの何様やら・・・・どうもよく調べてみると第二十一番穴太寺の聖観音、蓮弁上に大きくきのこのように見えのは男性自身だという・・・。

願主:「かりや小三郎」もなにやら意味のありげな名前です・・・・・・・「穴太」に「かりや小三郎」と大きな「陽物」・・・・江戸天保の頃にはこんな洒落がまかり通っていたのだろうか??

第三十三番谷汲山華厳寺の十一面観音・・・、これは像容と合致しています。

江戸時代天保の頃って地方に於いては像容など問題外だったのでしょうか??

最後に 昭和五年作の十三仏です・・・・、少し参道外れに置かれてました。

確かに十三仏ですが・・・・、やっぱりどうも漫画チックに見えて時代的な重みには欠けますよね。

それでも2時間足らずしっかり近世磨崖を堪能しました。

撮影2012.12.1


山口県防府市 阿弥陀寺三日月地蔵石仏

2012年12月13日 | 石仏:山陽

NET写真で始めてお目に掛かった時は下半身が剥離断裂し、どうにも痛々しい地蔵さんだと思っていた。

防府市街地より北東へ約5km弱、牟礼の太平山西南斜面に奈良東大寺別院「周防阿弥陀寺」が有り、こちらに来た「俊乗坊重源」が建久八年に開基した周防きっての名古刹として知られる。

重厚な茅葺き山門がなんとも素晴らしい景観を醸し出す。

そんな門前への参道傍らにあまり似つかわしくない地蔵堂が有り、奥壁に数体の石仏が並んで居る。

今でも信仰篤いのか堂内は綺麗に掃き清められ、供花や薫香も絶える事は無さそう。

問題の石仏は向かって中尊の左脇、大き過ぎる涎掛けが何枚も・・・・、おまけに赤い帽子まで着せられ邪魔をして居ます。

これでは何が何やら解りません・・・おまけに不釣合いな方形の複弁反花座に載っていますが元からこうだったのか??

ちょっと涎掛けを捲り上げると右足を上げ、磐座に半跏趺坐している。

左手は手首で断裂欠損・・磐座下方には何かと固定していたと思われるような枘穴・・・・。

もうちょと失礼をして帽子を失礼涎掛けも、もう少したくし上げました。

円頭光の上半部を欠損するが磐座に座する地蔵半跏趺坐像を一石で刻み出して居る。

高さ70cmと大きくはないが、穏やかに引き締まった尊顔の地蔵は「三日月地蔵」と呼ばれ、下の患いに 霊験あらたかと言われて居る。

背面部には南北朝後期の永和二年(1376)銘が確認されて居る。

地方仏とは言え、大和中央の息吹が感じられる像容の石仏です。

撮影2012.11.30


山口市徳地 深谷の十三仏

2012年12月12日 | 石仏:山陽

一石一尊十三仏として最古の銘を持つ石仏がこの山口市内にあった。

こう言う拙い彫りの素朴さは地方石仏として捨て難いものだが二列に並んだ奥の方が全く見えないのでちょっ艶消し・・・、どうせならもうちょっと隙間を取って並べて欲しいものです。

山口市街より東へ約25km、佐波川(さばがわ)上流の中国山地山間部にあり、鎌倉時代には奈良東大寺の再建造営に使う木材をここから切り出すため、この地を訪れた「俊乗坊重源」に因んだテーマパークがこの奥にあり、地元ではちょっと名の知れた所らしい。

中国道徳地ICで降りてすぐ、大きな「重源の郷」の看板通りに進むと直ぐに三叉路にぶつかり、迷うこともなく小さな深谷十三仏の案内板が有り、至れり尽くせり。

小さな棚田にポツポツと建つ民家の屋根が赤い石州瓦で葺かれていて見慣れぬ僕の目には新鮮です。

 

野道を案内板通りに奥まで詰めると右側斜面上に簡素ながらしっかりした堂が建ち、奥壁を前にコンクリート基壇の上、一尊づつの十三仏が二列横隊にに並べられて居る。

前列に七体、後列に六体と石塔の残欠、前列中央に他より少し大きい虚空蔵菩薩。

十三仏は初七日、不動明王から始まり、向かって右端は確かに不動明王の様に見えますが、イマイチ並びが良くわからない。

後列の像がよく確かめられないのでなんとも言えませんが見慣れぬ石仏も居る様な・・・・。

 

前列中央の三体中央虚空蔵菩薩は二重光背の総高90cm足らず、上半身は素人彫りのような拙い薄肉、下半身結跏趺坐と落書きのような蓮座は線彫りです。

両隣りも同様ですが、彫りが甜く風化も激しいのか?どうも決定打に欠けます。

中尊、虚空蔵菩薩背面には室町初期の「応永十四(1407)丁亥二月彼岸逆修」銘がある。

古くてローカルとは言え、素朴といえば素朴すぎる彫りですね。

堂外には十三仏の一体と見まごうような智挙印の大日如来と、傍らには偈頌(げじゅ)碑??

十三石仏は我が生駒山系が本場だとばかり思っていたので何やら「目ウロコ」でした。

撮影2012.11.29


防府市天徳寺 石船山三十三観音石仏

2012年12月11日 | 石仏:山陽

防府市街中心よりまっすぐ北へ約3km、右田岳の麓に万年山天徳寺が有り、その背後に聳える石船山中腹の岩塊に三十三観音磨崖石仏が刻まれて居る。

右田小学校脇の参道から山門を潜り本堂を見ると背後に岩塊の石船山頂上がそそり立っている。

磨崖仏は天徳寺25代住職時代、大正4年から足掛け10年を費やして31体の磨崖仏刻まれ続けた現代石仏ですが、一見の価値はあると重い足を引きずって登った。

向かって左手、本堂脇から続く墓地群の間を縫うように山道を登るとやがて観音堂の建つテラス・・・・、この付近から上部の折り重なる巨岩に観音石仏が累々と刻まれて居る。

殆どが巨岩に直径1m程?の月輪を彫り沈め、中に50~60cmの観音像を浅く浮き彫りで刻みだし、洗練された像容はいかにも現代仏。

どうも僕の好みには合いませんが、そそり立つ巨岩に刻まれた磨崖の有る奇観には魅力がある。

第九番「威徳観世音」と書かれた磨崖の後ろにそびえ立つ奇岩の頂上。

巨大な重ね岩に彫られた第2番「龍頭観世音」・・・。

まあどれもこれも良く似たものばかり、おまけに僕にとっては聴きなれない名前ばかしの観音石仏。

素朴さや力強さからはかけ離れてしまい、イマイチ石仏自身の魅力には欠ける。

とても総てを見て回る気にも成れなかったが、制作途中でほっぽり出された磨崖もあった。

ゆっくり登ってのんびり見て回っても1時間足らず、日頃使わない足の運動には持って来いの磨崖仏です。 

撮影2012.11.29


山口市鋳銭司(すぜんじ) 陶ヶ岳(すえがたけ)の磨崖仏

2012年12月10日 | 石仏:山陽

「火の山連山」と呼ばれる標高300m程の低い山々の一つ、巨岩が露出する陶ヶ岳山頂付近の岩壁に多くの磨崖仏が刻まれて居る。

陶ヶ岳は地元山口のロッククライミング発祥地として知る人ぞ知る岩山、山頂からの眺めもまた素晴しい。

麓には登山者用の駐車場まで完備され、登山道もよく整備され他所者素人でも難なく辿り着ける。

駐車場脇から山道を登り始めて約30分弱、さほど広くない台場に出るが、所謂そこが陶ヶ岳観音堂跡・・・・・。

磨崖仏はその脇からロープ伝いに急斜面を10分程掛けて登りきった頂上岩塊の西面する岩壁に刻まれて居る。

陶ヶ岳はたった標高252m、しかし頂上付近からの眺めは360度見渡せ、素晴らしいパノラマを見せてくれるが眼下には急崖が目を剥いている。

頂上から少し下った処にテラス状の通路が有り、その上部岩面に十六羅漢の磨崖仏と涅槃釈迦像が刻まれて居る。

最初に出逢う五体の磨崖石仏・・・・羅漢さんらしいが相当傷んでいます。

およそ像高50cmぐらいか・・・・

次には羅漢さんらしい像容の五~六体・・・・・しかし彫りが浅く風化も進んでいます。

あのきつい斜面をロープ伝いに登って来るだけの値打ちは有りますが、このテラスは幅が狭くその先は断崖絶壁、僕を含めて高所恐怖症の人には薦められません。

目の前に現れた釈迦涅槃像は想像よりもずっと小さく、彫りも簡略化され、ちょっとガックリ・・・。

矩形の彫り込みは高さ約50cm、横約110cm、涅槃台に横たわる寝釈迦は像高約80cm程・・・・両脇には舟形の中、僧形坐像仏。

涅槃釈迦とは言えまるで昼寝でもしている様に親しみ易い像容・・・・・・江戸時代初期の作だと言われています。

眼下の景色も素晴らしいのですが、覚束ない足元では要注意です。

撮影2012.11.29


山口市秋穂二島 真照院地蔵磨崖石仏

2012年12月09日 | 石仏:山陽

山口市内の南端部、瀬戸内周防灘に面した山口港近くの朝日山真照院に有る磨崖の地蔵菩薩立像です。

朝日山真照院は、この周辺「秋穂地区」にあった千光院・真善坊・遍照寺の三ケ寺が明治2年(1899)に合併して出来た寺で、各寺の一文字を とって真照院と名付けられたと云われ、明るく拓けた感じの寺です。

県道脇から一気に車で境内まで到達、本堂は斜面を登った一段高い台地上に明るい鉄筋コンクリートで建って居る。

本堂正面に向かって左斜面に突き出した大岩の正面を整え、大きな蓮台に載った合掌地蔵菩薩を中肉彫りで刻み出して居る。

像高約70cm、「明和二年乙酉」と「七月廿一日願主浄心」の銘が刻まれ、江戸中期の1764年の造立。

蓮台や衣文も形式的で決して魅力あるものとは言えないが、ここ山口では珍しく良く整った磨崖仏です。

また本堂前から見下ろす周防灘は、海を見慣れない僕の目には新鮮でした。

撮影2012.11.29