愛しきものたち

石仏、民家街並み、勧請縄、棚田景観、寺社、旧跡などが中心です。

宇陀市室生 大野寺弥勒磨崖石仏

2006年03月31日 | 石仏:奈良


笠間街道を下って平地に出てすぐのところが、旧室生村の大野寺。

大野寺は本尊であるこの弥勒磨崖石仏と枝垂れ桜で有名な古刹です。



寺の前を流れる宇陀川の対岸には、柱状石英安山岩が露出してそそり立っており、その岩面を彫り窪め内部を磨き如来形立像を線彫りしたものです。



鎌倉期の初期、承元元年(1207)に後鳥羽上皇の勅により造顕された。

笠置寺の弥勒磨崖仏の下図を写して彫り出したものだという。



笠置寺(京都府笠置町)の弥勒磨崖石仏は奈良時代に作られた大弥勒磨崖仏であったが元弘の兵火によって剥落、今は光背形だけが跡をとどめるだけに成っている。

承元三年三月七日足掛け三年を要して開眼、後鳥羽上皇は長谷寺を参拝した後、大野に行幸して盛大な開眼供養があげられたと記録は伝えている。



石仏は13.6mの光背の中に立つ11.5mの弥勒立像で、今でも風化の影響も少なく美しい線が周囲の景観と良く溶け合っていて美しい。

対岸の石仏の前は広場状になっており、何らかの方法で川を渡ればもっと迫力の有る写真が撮れたかとおもう。

もしかして聖域だと言うことで立ち入り禁止ということかもしれないけど・・・・・・。

宇陀市室生 向淵(むこうじ)穴薬師石仏龕(せきぶつがん)

2006年03月29日 | 石仏:奈良


笠間川沿いに室生口方面に大和高原を下っていくと自生鈴蘭
の南限だと言われている辺り、向淵(むこうじ)の集落に出る。

集落の県道に有る産直販売のお店の近く、県道から少し下がった川沿いの一角にそれと解る小さなお堂が見える。



石仏はお堂の中に安置されており前には祭壇がしつらえており全体像を完全に収める事は出来なかった。



穴薬師と呼ばれているものの、実は三体地蔵で石を積み重ねた石龕内の奥にある。

石仏は、径約2mの八角形の石棺の蓋石を利用した厚肉彫りで、中尊の像高152cm、左右に90cm地蔵立像。

建長6年2月30日の銘が確認されており、鎌倉中期の地蔵石仏として貴重な仏様であると言う。



この、向淵には奈良時代の磨崖石仏である飯降の石薬師も有る。

現地のお堂までは辿りつきましたが、どうもアポなしでは見ることが出来ないようでお堂の奥には布がかけられていてその存在すらわかりません。

書物に依ると大火によりひどく痛んでいるらしいが奈良時代の特徴を良く残していると言う。

今度行くときは何とかアポを取ってお会いしたい。

宇陀市室生 小原「つちんど」石仏

2006年03月28日 | 石仏:奈良

笠間川沿いに笠間街道を室生口方面に下っていく。

小原の里は少し旧道に入った山里で、道路より少し高台に家並みが寄り添って建っている。





 最初の四辻の雑貨屋さんで「つちんど」の石仏さんは???。

訊ねてみると要領よく親切に教えてくれて、おまけにここに車を停めていったらとうれしい。

この辻から少し高台に上ったところにつちんど墓はある。

 もともとはここに辻堂があってそれが訛って「つちんど」と呼ぶらしい。



今までにも数々の石仏にお会いしてきたけどこのような石仏さんには初めてお目にかかった。

笠石仏に違いないけど笠石仏としては大きい。

写真のように阿弥陀三尊石仏だが一尊一尊別石で作られてそれぞれ独立して建っている。

この三尊の手前両側には笠塔婆が建っている。

このような形での石仏には出会ったことが無い。



中尊の阿弥陀は像高1.3m、鎌倉後期の永仁六年六月十六日造立と銘があるという。

中尊の顔は非常に印象的で、四角く、えらの張った面相で誰かに似ていそうで妙に親しさを覚える。

脇待の観音、勢至には割れ目の修理跡がまずく、もう少し何とかならないのかと思う。



石仏はまだまだマイナーな文化財であり、ましてや古文化の宝庫、京都奈良方面にあっては、見落とされがちな存在だと思われますが。

三尊の前の笠塔婆には永仁七年の銘があり、石仏像立の翌年に像立されている。

墓地の石仏としては異様のような気がするが・・・・??

宇陀市 笠間の磨崖石仏

2006年03月27日 | 石仏:奈良

山添村毛原から笠間川を遡ると、すぐに室生の下笠間へと入るがその道中、毛原から車で5分ぐらい走ると左手に建設中の新しいコンクリートの橋がこの磨崖仏のために架けられていた。



磨崖石仏は川の対岸、この真新しい橋を渡ってすぐ鬱蒼とした木立の中の岩盤に苔むしていた。

木陰は深く、おまけに風化が進んでいるのと岩盤を這う苔のために像容もあまり定かでない。

蓮華座に立つ、像高約1.7mの阿弥陀で、かすかに放射光の線彫りも確認でき、永仁二年(1294)鎌倉後期の銘があるらしい。

場所は・・・ここから。




この石仏から上笠間の阿弥陀磨崖までは車で約10分。

上笠間の集落を過ぎてすぐ左手の笠間川沿いに小さな木立が見えてきてそれと解る掲示板ある。

石仏まで降りられるように階段がしつらえており、らくらく磨崖石仏の前に出ることが出来る。



笠間川に面した花崗岩に像高1.6mの阿弥陀立像が半肉彫りされていて、左右に梵字で観音、勢至が刻まれている。

天文三年(1534)室町後期の作。

古くから伊勢に通じる街道筋にあって旅路の人々に西方浄土への導きをした石仏だといわれている。

場所は・・・ここ

高井の千本杉

2006年03月26日 | 風物:陵墓
奈良県宇陀市の榛原から国道369号線を伊勢方面に10分ほど走る

と、旧伊勢街道が良く残っている地域が高井の集落。

 高井の旧伊勢街道沿いにこの千本杉がある。



 奈良県の天然記念物に指定されておりその異様な姿と大きさにはた

だただ驚嘆するしかない。

古い井戸の周りに数本の蜜植された杉が成長するにしたがって、株

元が癒着したものらしく、地上1mぐらいのところから16本に分かれ

ているように見える。



 全体として株幹は約25mに及ぶ、樹高約30m、樹齢約600年と推定されている。




遠望すると山の続きの森のようにしか見えない。

 根元には例に漏れず小さな鳥居とお社が、祀られていて「千杉白龍

大神」として信仰が篤い。




大樹に神が宿ると言うのが納得できる威容でせまってくるものがある。 まだまだ若々しく見える樹勢である。

 場所はここ 

天理市 福住の二尊笠石仏と十王石仏

2006年03月24日 | 石仏:奈良
福住は天理市の山里、名阪国道が近くを走り、福住インターが傍にある。



福住の氷室神社のすぐ近くに十王を刻んだ笠石仏がある。

時代は下がって江戸期のものだそうだが、庶民信仰の篤さがしのばれる。

福住別所の県道脇には双仏石が立っている。

この双仏石は、明徳元年(1390)南北朝の造立で、双仏石としては最大最古だと言われています。



像高88cmに阿弥陀、左に地蔵を箱枠の中に浮き彫りにして、笠石を乗せている。

「泥かけ地蔵」と呼ばれていて安産を祈って泥をかけるという。

男の子が欲しいときは阿弥陀さん、女の子のときは地蔵さんに泥をかけて祈願するとたちまちに霊験があるらしい。

今でもそうしているのかは知らないけれど・・・。

祇園杉

2006年03月23日 | 風物:陵墓


京都、南山城の和束町は宇治茶の主産地として広く知れ渡っている。

家からもそう遠くないので、ドライブの途中に良く通っている道だけど、今まで気づかなかった。

 和束は京都の最南端部に位置していて滋賀県の信楽に接してい

る。

奈良時代、恭仁京から信楽宮への街道筋になっていた土地で、山深

い土地ながら古くから開けたところです。

 府道の南手の高台に和束中学が建っていて、その少し奥に天を突

いて聳える大杉がみえる。

 


祇園杉と呼ばれているこの巨杉は、樹高、約30m・幹周り13mで、

2本株立ち。

地上1m程度の所から数本の大枝に分かれており、普通の杉のよう

に真っ直ぐ立っているのは2本の主幹だけであるが、根は一株のよう

に見える。




 最近では樹木医の手入れも入って樹勢も衰えを見せていない。

すぐ傍に民家は有るものの茶園と山の懐に抱かれており環境はまだ

荒らされずにいる。




 八坂神社の境内に在って祇園杉と呼ばれているようだが、ここでは

主が大杉で、八坂神社は後から勧請されたもののようです。

 大杉の根元に小さな社が鎮座しているが、社より杉の根幹のほうが

余程神々しい。




 先ず大杉在りきです。

 こんな、近くにこのような巨木があったことを今まで知らなかった自分

が恥ずかしくも有る。

山添村 毛原の石仏

2006年03月22日 | 石仏:奈良
毛原の里に、真言宗東寺派に属する豊原山長久寺がある。

この寺の裏山には,近世の石仏が数多く見られて圧巻です。

裏山の石仏巡礼には約1時間を要するという、今回は途中で引返してしまったが時間を見つけて又行かなければ・・・。



また、趣の有る山寺であるこの境内には楠の巨木やカヤの巨木が聳えていて、見る人を圧倒させる。

巨木と石仏の山寺として趣が深い。



今日の、お目当ては、24体地蔵磨崖石仏・正保三年(一六四六)阿弥陀仏の種子の左右に、二十四体の地蔵がズラリとならんでいます。



慶長四年在銘の地蔵石仏は辻地蔵と表示板に在りました。

像高約1m20cm 自然石に半肉彫り、今も信仰篤く何重にもよだれ掛けが附けられ、小さな地蔵堂に居られます。



この長久寺から、西方へ行くと道が二又に分かれる、左手は、笠間川沿いに室生方面、右手は、山越えの名阪国道方面へ・・・・。
 


奥出の六地蔵とよばれており元文三年(一七三八)の銘が見える。

頂点がとがった五角形のなかに六体地蔵が刻まれています。

浅い杉木立の中で忘れられたようにしずかにたたずむ姿は風景の一部として溶け込んでいる。

山添村毛原 四辻の六地蔵磨崖石仏

2006年03月21日 | 石仏:奈良
山添村毛原の里は古代の寺院跡礎石群で有名なところです。

現在では交通のアクセスも悪く、かなりな山奥に思われるのだが、ここは初瀬、室生方面からは近く、又東大寺などと何か関係深い土地であったと言われています。



ただし毛原廃寺のことはまったく何の記録も残っていないと言うことです。

私有地の葱畑に南門の礎石があったり、金堂跡礎石は民家の目と鼻先の蜜柑の木の間に並んで居たりと民地と混在している。



この毛原廃寺の中門跡から約50m程だらだら下がったところに居ら

通常六地蔵は墓地の入り口に居られるものなのですが、この六体地蔵は墓地からもかなり離れており、廃寺と何らかの係わりがあるように思われている。

六地蔵は六道(地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上)に迷う衆生(生命あるものすべてのもの)を救済するために造刻されたものです。

室町後期造立で廃寺(奈良時代建立)の年代とはまったく合いませんが??


毛原の民話では
・・・・・。

場所はここ

伊賀市 治田(はった)地蔵十王磨崖石仏

2006年03月20日 | 石仏:奈良

遅瀬の磨崖からまっすぐに名阪国道の五月橋の下を通り抜けて車を走らせること、約10分程度で大川縄文遺跡の「カントリーパーク大川」にでる。

ここの縄文遺跡からは、押型文土器(大川式)などが発見されたことで有名??。

また、公園内には竪穴式縄文住居も復元されている。

この公園の中央辺り、名張川対岸の岸壁にに彫られているのがこの石仏です。

下流の京都府南山城村に高山ダムが建設され、その影響も有ってこの辺りまで名張川一杯に水をたたえていて、すぐそばに近づく事とは出来ない。

川幅も相当広く目視ではおぼろげにそれと判る程度です。

ダムが出来るまでは石仏の前に広い河原が広がっていたらしく昔の写真を見ると石仏を見上げた写真ばかりで、相当水量の増えていることがわかる。

像高4mの地蔵石仏を中尊に左右に等身大の閻魔大王と太山王の坐像を配し、近くの岩には十王の諸尊を刻んでいる。

岩の後ろ山の斜面にカメラを向けると小さく板碑様の石仏が見える。

地図はここから・・・。


山添村の石仏

2006年03月19日 | 石仏:奈良
遅瀬川が、名張川に合流する少し手前の集落が遅瀬、その集落の南側の山斜面にこの磨崖石仏が居られます。



この辺りでは家々の墓地が別々に有るのか?石塔の小さな塊があちこちでみられる。

この磨崖仏の前にも墓石が並んでいて、小さな石仏が何体かおられる。



幅、2m・高さ、1.5m程の自然石の表面を滑らかにした上で,表面に2つの方形区画を刻み込み、左方形内に六体地蔵を、右側には十三菩薩を二十六体刻んでいて、室町後期の製作だといわれています。

山添村 布目湖付近の石仏―10(花田の磨崖石仏)

2006年03月18日 | 石仏:奈良
名阪国道の山添インター辺りが山添村の中心地の大西、そこから布目湖に至る県道を奈良方面へ走るとすぐに遅瀬川の小さな橋を渡る。

 橋を過ぎてすぐの四差路を左手にとると遅瀬川に沿って道路がのびている。



花田の石仏は道路右手側、道路が遅瀬川を再度渡る橋の手前の大きな岩塊に二つに分かれて彫られている。

僕が確認できたのは全体で九体???約30cmぐらいの地蔵が多い。



傍に立っていた掲示板によると「大阪城築城のおり日本各地に大石の献上を強制された、この難を逃れるために彫られたと言う秘話とと共に現存する石仏」とある。



はたして、石仏を彫ったために大阪城の石垣になることから逃れたのか、単に石奉行のおめがねに適わなかっただけなのか???

こういう話の伝わる石仏は確かにあちこちで聞く話である。

山添村 布目湖付近の石仏―9(塩瀬の地蔵磨崖石仏)

2006年03月17日 | 石仏:奈良
布目湖のある山添一体は大和高原と呼ばれている。

その大和高原の信仰の山の一つに神野山がある。

山頂近くには聖武天皇の勅願、行基創建と伝える古刹、神野寺がある。



中腹には鍋倉渓と呼ばれる岩石ばかりで水の流れていない渓谷があり、古代いわくら(磐座)ではないかと言われています。

山添のいわくらはここで詳しくみられます。

鍋倉渓のすぐ傍にこの磨崖石仏がおられます。

粗末なお堂が石仏の正面の架けられていますが火災に有っているので、像容は、はっきりしません。



もともと、この石自身も古代磐座であっただろうと言われています。

竜王岩・天狗岩・八畳岩などと言う磐座この辺りにあって、神聖視されているようです。



この、地蔵石仏は鎌倉期の造立、像高160cmの坐像で、旧伊勢街

道沿いに位置していて、旅の安全と眼病に霊験あらたかなお地蔵さんとして地域の信仰が篤い。

山添村 布目湖付近の石仏 -8(津越磨崖地蔵石仏)

2006年03月16日 | 石仏:奈良

これはまた可愛い地蔵さん。

布目湖東岸の津越の湖岸にひっそり、たたずんでいる。

やっぱりダム建設の時にこの場所に引っ越してきたのであろうか?どうも立地条件がぴったり来ない。



しかし岩を切断して移動したようにもみえない???

像高30cmばかしの小さな地蔵石仏で、野の仏然としていてなんとも微笑ましい。


山添村 布目湖付近の石仏 -7(のど地蔵)

2006年03月15日 | 石仏:奈良

布目湖の東岸に走る道路は塚越橋で直角にカーブしている。

橋の手前に直線に伸びている道路があって、すぐに隣の月ヶ瀬桃香野に入る。



車をそのまま進めるとやがてこの石仏の居られる茶畑が広がっている。



野堂と言う小字からか、のど地蔵と呼ばれているようだが弥勒石仏だと言う。

石仏は、どこでも一般的には「○○地蔵」と呼ばれていることが多い。



それは近世の石仏の絶対量が地蔵像に偏っていることの証なのか??または民衆にとって一番親しみやすい仏さんと言うことなのだろうか??



像高約1.6m、側面に「當来導師弥勒仏建長七年(1255)」の銘があり、優れた衣文の表現などから伊派の石工の手に依るものだといわれている。