愛しきものたち

石仏、民家街並み、勧請縄、棚田景観、寺社、旧跡などが中心です。

湖東勧請縄-6

2007年01月30日 | 勧請縄:山の神:野神:人形道祖神

 


これは驚きの勧請縄でした。



滋賀県甲賀市の旧水口町、牛飼にある総社神社の本殿前の渡された勧請縄。


総社神社は、国道307号線で水口の町に入っていく少し手前の鎮守の森に鎮座している。



この神社では麦酒祭なる神事が行われていて、ビールの元祖としても知られているそうです。


勧請縄は写真でもわかるように、本殿前の勧請杭の間に渡され、左右に6本ずつの地面にまで這うほどの長い縄が下げられていて


見るものを驚かせる。



この長い縄にどのような意味が含まれているのかは判らないが??


撮影2007.1.14


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湖東勧請縄-5

2007年01月28日 | 勧請縄:山の神:野神:人形道祖神

 


滋賀県東近江市の旧蒲生町に在る蒲生岡本町、高木神社の勧請縄。



この地には、ガリ版記念館なるものがあって興味があったが今回は立ち寄らなかった。



参道入り口両脇の勧請木に渡されている勧請縄には、イスラエルの星のような形の「トリクグラズ」、平安時代の陰陽師、阿部晴明の紋印もこのしるし、何か因果関係があるのかな??。



太縄に吊下げられた小勧請縄は長く三段に分けられた樫の小枝の間には幣がつけられ、太縄の上には矢のような幣が突き刺さっていて賑やかな勧請縄です。



高木神社の鳥居の前の道を暫く進むと下麻生の集落、この集落の入り口にあるのが旭野神社。



この神社の境内、集落の入り口と思しき辺りの鉄製勧請杭にも勧請縄が渡されている。



縄の真ん中辺りにはやっぱり、先ほどの高木神社と同じ星型の「トリクグラズ」がとり付けられている。



その他、よく似た形状だが、高木神社の物ほど賑やかな幣はついていない。



在所の中を暫く進むとこの集落の中心地辺り、公民館の前に山辺神社と赤人寺が同境内に並んでいる。



この地は万葉歌人、山辺赤人終焉の地と伝えられ、山辺神社は山辺赤人を祭神としていて、赤人寺は山辺赤人創建だとされています。




神社、石鳥居奥、参道両側の二本の大木に勧請縄が渡されている。



前述二社の勧請縄と同じ星型の「トリクグラズ」が取り付けられていて、形状も殆ど変わりませんが、一番規模の大きい勧請縄です。


 撮影2007.1.14


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湖東勧請縄-4

2007年01月25日 | 勧請縄:山の神:野神:人形道祖神

 


旧、八日市市の蛇溝町の長緒神社の勧請縄。




正面鳥居脇の木から青竹を渡し、勧請縄を吊り下げている。



大縄の中央には、青杉でリングのトリクグラズを作り、中央に南無阿弥陀仏、題目は勧請、12光仏を配した木札を吊るしている。



トリクグラズの左右には榊と幣を下げた小縄束を各6個づつ付けている。




同じく河合町の玉緒神社参道に渡された勧請縄、左手勧請木と右手の杭のあいだに渡されていて、トリクグラズは蔓性茎で円に十字で、常緑樹の葉がついていなく、ムックリ出しです。




太縄に吊り下げられる小縄にはヒノキの小枝がつけられている。



ここは、神社の少し北側を名神高速道路が貫いており、その高架下をくぐったところに、飛鳥時代、聖徳太子が全国に建立した願成寺の一つとされる古刹があって、この神社とは一体となっていたような位置関係にある。


この辺りは何処を歩いても勧請縄に、お目にかかれるのが嬉しい地域です。


撮影2007.1.14


 


湖東勧請縄-3

2007年01月24日 | 勧請縄:山の神:野神:人形道祖神

 


東近江市の青山町付近は愛知川の東岸、旧愛東町にあって小さな集落が点在する長閑な田園地帯です。



この在所の真ん中あたりに善勝寺という古刹があって、その隣の日吉神社参道の若い神木に勧請縄が掛けられている。



若い神木の隣には枯れ果ててしまった杉の巨木が残っている。


この地方にあってこの勧請縄はほかの戸は少し形態を異にしていて、先に樒を付けた十二本を一束にした小勧請縄が十本飾られ、大縄の上部に御幣が三本立てられている。



大縄の中央にすべてが寄せられていて、とても単純明快に見える勧請縄です。



此処から国道307号線で水口方面に少しいくと岡田町交差点右側に鎮守の森があって八幡神社が鎮座する。



この神社鳥居脇、集落の入り口と思われる場所のコンクリート製勧請杭に、この勧請縄が掛けられている。



樫の小枝で円状のトリクグラズを作り真ん中には画像のような木札が付けられています。



大縄、小勧請縄、大縄の上の御幣とこの地域にあってはスタンダードな姿です。


撮影2007.1.14


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湖東の勧請縄-2

2007年01月21日 | 勧請縄:山の神:野神:人形道祖神

 


今では、東近江市と名前を変えてしまった、旧永源寺町は臨済宗永源寺派の総本山のあるところとして知られている。



その永源寺に至る高野集落の高野神社、参道両側の勧請の木に、この勧請縄が渡されている。




この勧請縄の「トリクグラズ」はすこし変わって居て、割り竹で方形の中に輪を配して、上部には1つかみの稲穂と榊の枝をくくりつけている。



参道左側の古木の洞になった根元には、祈祷札がおかれていた。




同じく、池の脇町、白鳥神社の参道に架けられている勧請縄は向かって右側の綱の端におおきな藁の房が付けられていて蛇の頭だと言われています。



殆ど縄は蛇をあらわしているもののようで、僕らは子供の頃、蛇を「クチナワ』と読んでいたことを思い出しました。



ナワの中央に椿の葉のついた小枝でリング状の「トリクグラズ」を作って、木の札には、天下泰平、五穀豊穣と記されている。



トリクグラズの両脇には六本づつの小縄が下げられ、ここにも椿の小枝が付けられていました。


撮影2007.1.14


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湖東の勧請縄-1・八日市、市辺

2007年01月18日 | 勧請縄:山の神:野神:人形道祖神

 


滋賀県の湖東地域は、今でも多くの勧請縄が残る地域として、知る人ぞ知る処です。



この地域の勧請縄の真ん中に着けられる呪物は「トリクグラズ」と呼ばれているようですが、なぜそのように呼ばれているのかは判りません。



取り敢えずは、民俗学的な深い意味などは後回しにしてでも画像を記録するだけでも意味があると思うのでここに記録できるだけ記録しておこうと思っています。


旧八日市、市辺は、市辺押盤皇子の陵墓があることでも知られている。


ここの市辺西の集落から少し外れた勧請場(山ノ神、月の神なども祀られていた)?に貼られた勧請縄。



クリスマスのリース状、杉の輪の「トリクグラズ」の絵馬型板には五行の呪文、その下に十二光仏の名前を書いた塔婆を扇状に広げて付けている。




また市辺東、入り口の祠前の小さなハウスの壁に杉リース状の「トリクグラズ」が吊り下げられていて、ここのものには両側に伸びる縄は無く、祈祷札は杉輪の周りに突き刺されている。


撮影2007.1.14


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信貴山朝護孫子寺成福院、十三仏石室、他 

2007年01月15日 | 石仏:奈良

信貴山朝護孫子寺は、国宝信貴山縁起絵巻で有名だが、また此処は聖徳太子が開基、毘沙門天王を祀り大阪との県境にあって、商売繁盛に今も信仰篤く信者の参詣のたえることが無い寺院です。

以前は仁王門の北東にある成福院の寺墓に安置されていた十三仏が、防犯的な理由から信貴山内の成福院境内に移され安置されている。

この十三仏は特殊な形をしていて石室の三面に十三石仏をそれぞれ半肉彫りで配したもので、上に唐破風のある屋根を乗せて石室としている。

総高98cm、龕(がん)部の高さ92.5cm、幅74.5cm、奥壁中央月輪に種子を刻み、十三仏と僧形一体を陽刻する特異な形態の十三仏で、左壁左下の僧形は僧服を着し、左手に数珠、右手に扇子を持った、あの信貴山縁起絵巻の作者命蓮像とされています。

「文明十一年己亥七月十二日(1479)」の銘があり、奈良県最古の在銘十三仏としても貴重な存在であるらしい。

また、山内「千手院」には高さ1.15mの十三仏板碑がたっている、ところどころの補修の痕がどうにもうるさく、これなら傷のあるままのほうがいいと思うのはいけないことなのだろうか??

十三仏すべての頭には、10円玉や、5円玉などが乗せられていて信仰の対象としてそのまま生きているのを感じ取ることが出来る。

撮影2006.6.17

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柳生 阿対(あたや)地蔵

2007年01月12日 | 石仏:奈良

此処は何度と無くおとずれる場所、僕の山城から、大和高原へ抜ける道筋に当たる場所にある。

国道163号線の笠置から、車が1台やっと通れる笠置の町を抜け、山手に入り、曲がりくねった山道を抜けると柳生の里に入る。

柳生の里に入る少し手前、笠置から来た道路がT字路になって大きく右カーブしてすぐ左手の小川越しの山裾にこの石仏がある。

何度訪れても満足できる写真は撮れない、三脚も持たずに、1日中陽の射さない場所での撮影は横着過ぎるのかもしれないけど。

阿対(あたや)地蔵と呼ばれていますが、実は阿弥陀立像で、高さ3m以上もある大きな岩の正面に長方形の彫りくぼみを造り、

その中に像高1.55mの阿弥陀を半肉彫りにしていて、円光光背に放射線を彫り窪めているのが、このあたりでは珍しい。

像の光背部や、頭頂部には彩色が残っていて美しく、鎌倉後期の像立。

またこの像の左手には、室町期の像高50cmの地蔵が追刻されていて、共に今でも信仰が篤く石仏の前には花が、横手には千羽鶴が掲げられて、願をかければ子供が授かると日常的に参拝者が絶えないようです。

撮影2006.11.23

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柳生阪原、来迎印阿弥陀如来磨崖仏

2007年01月10日 | 石仏:奈良

柳生坂原の地は、国道24号線、奈良坂の般若寺から、柳生へ向かう国道369号線沿いの最終集落で、 長閑な里山の広がる石仏の里で、僕の好きな所の一つです。

この集落の入り口に産直の販売所が在り、集落内に入る旧道をしばらく行くと、白砂川に架かる北出橋に差し掛かる。

北出橋の手前右側、白砂川越の岸壁にこの磨崖石仏が見えてくるが、案内板や標識はまったく無いので見逃しかねない。

北出橋を渡り、右手に入っていくとこの石仏の前に出ることが出来る、その昔この石仏の前を道が通じていたような気配がうかがわれる。

大きな岸壁の中央部に長方形の枠取をして、その中につぼ型光背を深く彫り窪め、その中に像高91cmの来迎印阿弥陀如来が彫られています。

いかにも、川沿いの長閑な石仏でこの地と好く溶け合って、いかにも野の仏としての雰囲気が素敵な磨崖石仏です。

文和5年(1356)という南北朝時代の年号が入っている阿弥陀様で、今でも信仰が篤いのか石仏の前には、なにやら奇妙な、オコナイの跡が見られました。

またこの北出橋の畔には以前一石六体地蔵があったようですが、盗難にあってからは別の場所に移され、どこに在るのか教えてもらえません。

最近こういう小石仏の盗難が多く、地元の人たちも用心深くなってしまって、僕たち石仏愛好者は白い目で見られることが多いので困っています。

撮影2006.8.6

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大柳生.上出の 「阿弥陀磨崖石仏」

2007年01月08日 | 石仏:奈良

柳生、街道の大柳生に夜支布山口(やぎゅうやまぐち)神社と言う古社があって、その前の県道を奈良市内方面へ向かうとやがて上出の集落に入るが、その手前を右手に下る、細い農道がある。

車でこれ以上進むのにはちょっと無理があるので、ここから先は歩きになるが、農耕自動車が通る道なので歩くことに艱難は無く、付近の里山の長閑な風景を楽しめる。

歩くこと15分ぐらいで左手山裾にせり出した大きな岩に石仏の刻まれているのが見えてくる。

誰かに似ていませんか?この石仏さんの顔、その辺りにいる知り合いのおっさんに?・・・・・・・。

もっぱら、アニメ漫画 「がきデカ」 の主人公のこまわり君に、うり二つだと言ってますがどうでしょうか?

しかし700年も昔の仏さんの顔にしてはユニーク、こんな顔の人も当時から居たのでしょうね、一度見たら忘れることの無い石仏です。

高さ、約3mほどの大きな岩に長方形の深い掘り込みをつくり像高約90cmの阿弥陀立像を厚肉彫りにしていて鎌倉後期の像立。

付近の長閑な景観と良くあって、野の仏として愛すべき石仏です。自然の景観がどんどん失われる中でいつまでもこの景観の中に在ってほしいと願うのは無理なことなのかもしれない。

撮影2005.9

MAP

 


栗東市 金勝(こんぜ)山の石仏

2007年01月06日 | 石仏:滋賀

前回紹介の狛坂廃寺へのハイキング道沿いにある 二体の磨崖石仏を紹介します。

ハイキング道から見た琵琶湖側

駐車場から歩き出して、先ず出会うのがこの茶沸観音と呼ばれる磨崖石仏で、巨石の多い尾根道が緩やかに続く中にあって、付近は一段と見通しもよく、表示板もあってすぐにそれと分かる。

おむすび型に近いハイキング道に面した花崗岩の巨石の正面に,逆さU字型の「石がん」を深く彫りくぼめ、蓮華座にたつ如来型の石仏を厚肉彫りであらわしている。

なぜ、「茶沸し観音」と言われているのかは分かりませんが、明らかに観音ではなく、円光を背負う如来石仏です。

「石がん」の高さ57cm、像高32cmとかわいらしく、連弁の形式や像容から狛坂の磨崖石仏と同じ頃(貞観時代)の像立だと言われている。

ここより暫く歩くと、前方に二つ重なった巨石が見えてきて、重ね岩と呼ばれている。

この巨石の下側の岩に線彫りの石仏が刻まれている。

岩の三方にそれぞれ一体づつ彫られているらしいのですが、磨耗が激しく正面の一体のみが確認できただけでした。

おそらくは阿弥陀三尊の一体ではないかと思われていますが、彫りも浅く稚拙で室町期ごろの像立か?・・・。

撮影2005.12.8

MAPは前回参照


狛坂寺跡磨崖仏

2007年01月04日 | 石仏:滋賀

滋賀県の湖南アルプス金勝山には、わが国屈指の磨崖仏である狛坂寺跡磨崖仏があって、完全な姿で残る本格的な磨崖仏としてはわが国最古(平安初期)のものです。

近江の国は、古代朝鮮半島からの渡来人が移り住み、様々な文化を伝えた地で、日本の古代の石仏や石塔の石造美術は、朝鮮半島の百済や新羅の国々との交流や渡来人の活躍によって生まれたものであるといっても過言ではない。

道の駅「こんぜの里りっとう」から、表示板通りに、山道を車で登っていくと、やがて突き当たり、そこにハイキング者用の駐車場が用意されていてる。

ここから整備されたハイキング道を歩いて、この石仏を訪ねることになる。

ハイキング道は景色もよく、さほどアップダウンがあるわけでもないので、誰にでも簡単にいけますが、片道約1時間は歩かなければなりません。

途中何体かの石仏に出会いますが、それは後日に紹介することにします。

表示板によると狛坂寺は、弘仁年中(810~823)女人禁制の金勝寺の別院として創立されたと言われていて、明治はじめまで存続したらしいのですが、廃仏毀釈の影響か、廃寺となったようです。

狛坂磨崖仏は、沢のような崖道わ下がりきった、少しなだらかなところにあり、やっぱり感歎の声を上げずにはいられないほどの、大きさと、優美さを備えもっています。

付近は廃寺跡らしく石垣や、小石仏もところどころ見られ、こんな山中に栄華盛衰を見る思いが、ひとしおな場所です。

この磨崖仏は、、やや傾いたおよそ高さ6m、幅4.5mの巨石に彫られていて。主尊の如来座像は像高約3m、その脇侍(菩薩像)2体は約2.3m、さらにその上に三尊の座像2組とさらに、三菩薩立像が見られます。

正面左手脇の別石には蓮華座の三尊像があり、この3体合わせて全部で、15体の素晴らしい石仏です。

この石仏を作った人たちは渡来新羅系の人々であろうと言われており、奈良時代後期の頃に造られたと言われています。

「狛」は、朝鮮半島とのつながりを今に伝える地名で、僕の住む山城にも同じ狛のつく地名があって、高麗廃寺跡もあり、何らかのつながりがあったのかも知れないと思うと、感慨一入の思いがしていつまでもここで、この石仏に見入って居たかった。

帰り道がきついのをすっかり忘れさせるすばらしい磨崖石仏です。

撮影2005・12.8

MAP


山城の正月

2007年01月02日 | 風物:陵墓

去年の暮れから、この山城地域の、旧集落を探し回ってやっと見つけた撒き砂と砂盛り。

僕の子供のころにはどこの家でも、大晦日にはこの砂まきをして砂盛りを作り、榊の枝を突き立てるのが慣わしだった。

それは多分、この山城の地が木津川のそばであり、豊富に川砂が調達できたこと、おまけにこのあたりの山では山砂も簡単に手に入れることができたからだと思う。

列島改造のあおりで、道路はすべてアスファルト舗装になり、家の前のかど(空き地)も家屋の新築で車の車庫などにとって変わって、撒き砂をする場所がなくなってしまって久しい。

砂盛の榊は、松竹梅であったり、南天が添えられてたりと、家や集落ごとで変わったりもするが、これは歳徳神の依代、撒き砂は神を家に招きいれる道??、と家の周りを清める意味も含めているのだとおもう。

この砂撒きは、男性の仕事で女性がそれをすることは許されなかった、もちろん砂盛も同じように・・・。

子供の頃の記憶だけなのだが、撒き砂の形は、各集落でまちまちで、僕が覚えてるのはこの写真のような波型、丸をいくつもいくつも作った丸型、そして碁盤の目のような碁盤形。

この二つ習俗は消え行く山城の風俗としてなんとしても記録しておきたかった。

最近では個々の家々で注連縄を作る家もすっかり少なくなって、あの懐かしいごつごつした玄関の上に渡された注連縄も珍しい。

たいていの家庭では、近場のスーパーやDIY で調達した注連飾りを玄関脇に飾っている。

もちろんこれは、まったくのデコレーション感覚でしかない。

あのウラジロと藁縄だけのシンプルな輪締めも、家のすべての結界につけたものだが最近はすっかり省略して僕の家でも数個しか付けていない。

多分、今こうしてわずかに残っている、砂盛や、撒き砂などもそう遠くない時期にすべて消え去ると思います。

やっと、見つけた山城の正月だけれど、やっぱり子供の頃に見ていたのとは少し何かが違うような??

多分、それは周りの景色の変化だったり、見る僕自身の目が変わってしまっているからかもしれない。