愛しきものたち

石仏、民家街並み、勧請縄、棚田景観、寺社、旧跡などが中心です。

旧室生村多田 満寿寺の阿弥陀石仏

2015年08月30日 | 石仏:奈良

 

なにげに立ち寄った山里の古寺で見掛けた石仏さん。

ここは旧室生村の北外れ、多田集落の奥手にある日蓮宗 「満寿寺」・・・・本堂は参道石段を登った高台にあるが下段には覆い屋根の薬師堂があり

前の境内には夏草に埋もれる様にして、この石仏や2~3の石造物が残されて居た。

この地は摂津源氏の多田氏の末裔により鎌倉初期頃に栄えたとされています。

石仏は高さ約1m強、舟形光背を負い蓮華座に立つ阿弥陀立像。

光背頂部に月輪内キリークを陰刻、右手施無畏印、左手与願印。

天正二年(1574)の銘があり安土桃山期の造立。

現在スッカリ鄙びた山里になって居ますが華々しい時代も有ったようです。

撮影2013.6.8


伊賀市 中之瀬磨崖石仏

2015年08月29日 | 石仏:三重

伊賀上野から国道163号線で伊勢方面に向かう、名阪道の高架下をくぐるとやがて服部川の橋を渡り道路は大きく右にカーブする。 服部川沿いに走るとすぐ、左手にこの磨崖石仏が道路脇に見えてくる。 道路接近しすぎていて駐車スペースはありません。 右手側も服部川が道路脇ぎりぎりまでせまっています。
 
 
 
道路脇の露出した花崗岩の崖の表面に中尊の阿弥陀如来、脇待の観音、勢至。 さらに左側に不動明王,右側には地蔵菩薩、その右手に月輪の中の梵字と、壁面一杯に使われていてにぎやかです。


中尊は、阿弥陀如来立像で半肉彫り、像高2.76m 脇待は、各1.5mで線彫り。 中尊の阿弥陀の彫りと他の各線彫り石仏は明らかに違う。 阿弥陀如来は鎌倉時代の様式が見られるが、他は室町期以降のものであるようです。
 
 
 
不動明王立像・像高2.33m 線彫りのローカル色強い顔立ちです。
 

右側の地蔵菩薩は彫りも浅くはっきりしませんが、像高2.51m

この石仏群は最初に阿弥陀如来が彫りだされた後、じょじょに彫り加えられて行ったもののようです。

撮影2006.2.20


伊賀市白樫 慈尊寺阿弥陀種子板碑

2015年08月28日 | 石仏:三重

 

伊賀市白樫の慈尊寺に残されて居る県指定文化財の阿弥陀種子板碑と地蔵石仏。

名阪国道白樫ICから北西へ約1km強、白樫集落の入口の一段高い境内に建っている。

 本堂に向かって左手、携帯の片隅に覆屋を設け、中央に板碑、向かって左に地蔵石仏を安置している。

板碑は頭部山形、下に二条の切込を入れた安山岩製・・・

高さ 134Cm 、幅 43Cm、二条の切込すぐ下には蓮華座と月輪を線彫り、阿弥陀種子の「キリーク」を薬研彫りにて刻み込む。

鎌倉時代後期 元亨元年(1321)造立、長文の銘文が刻まれている。

説明板

 また板碑の隣には中型だけど姿の良い地蔵石仏・・・

舟形光背を負い、総高約70cm程か??下部蓮華座部が地中埋もれて居て、全体像は覚束ない

しかし光背右下に銘が確認出来、室町後期の永禄三年(1560)の造立。

ハナホゲながら、なかなかのご尊顔・・・

撮影2013.7.13

 


旧加茂町兎並鎮座 御霊神社

2015年08月26日 | 神事:行事:寺社: 仏像

 

旧加茂町の今は無き名古刹「燈明寺」の鎮守社でした。

JR加茂駅の裏、嘗て兎並のドン突きの高台にあった「燈明寺」境内に鎮座、現在主は横浜市の三溪園に移築され、その亡骸を守る様に御霊神社が建って居る。

本殿は三間社流造で南北朝時代の建立と考えられ、国の重要文化財に指定されて居ます。

残された燈明寺十三重石塔の奥に御霊神社の朱い鳥居が覗いて見える

現在では兎並(うなみ)区の氏神として祀られています。

撮影2015.8.11


京都・和束町湯船五ノ瀬鎮座 白山神社

2015年08月24日 | 神事:行事:寺社: 仏像

 

滋賀県甲賀市信楽と境を接する京都府和束町湯船五ノ瀬の鎮守「白山神社」

現在の社殿は昭和二十八年(1953)の山城大水害により甚大な被害を出し、土砂をかぶって枯死した神木を売却、尊い浄財を得て再建された物の様です。

湯船の地名はこの白山神社参道脇に建つ覆屋に保存安置されている湯槽があり、ここから湯船の地名が起こったとされている。

神社は府道5号線に面して一の鳥居が建ち・・・

背後の境内まで一直線に石段参道が200段以上も伸びている。

山斜面の小さな境内には拝殿・・・・

往古この道は奈良、恭仁京、信楽、近江へ古道筋にあたり古代より拓けた土地だったようですが資料が少なく詳細は不明。

拝殿から一段上がった覆屋には本殿・・・祭神は菊理媛神(くくりひめのかみ)、伊邪那岐命、伊邪那美命と言われて居るので白山比神社(しらやましめじんじゃ)からの勧請であることには間違いない様です。

白山開闢の始祖と言われる泰澄が再興したという金胎寺が近くに有ると言う関係なのか??

ただの推論だが」それほど的外れでは無いかも??

撮影2015.7.28


京田辺市多々羅(たたら)鎮座 新宮社

2015年08月22日 | 神事:行事:寺社: 仏像

現在同志社大学に隣接する小さな境内の小さな社に祀られて居る。

集落の西北外れ小高い丘陵の中腹にあり、この付近は欽明天皇の御代、わが国に来朝した百済国人爾利久牟(にりくむ)王の居住した土地と言われ、鉄工の業を伝えたとして朝廷より多々羅の姓を下賜された。

当社はその子孫が祖神と仰ぐ百済国余璋王を祭神として祀った氏神社(うじがみしゃ)であったが、のち、近くの朱智神社の境外末社となっている。・・・古くは「田中山宮」と称したと言う。

新宮社と言う呼び名もふさわしくない程の古社で、式外社ではあるものの由緒はすこぶる古い。

撮影2015.7.21


大津市外畑 白洲不動石仏

2015年08月20日 | 石仏:滋賀

瀬田川沿い、石山外畑町に有る不動明王石仏です。

大津市カラ瀬田川沿いに宇治へと通じる国道422(県道3号線)号線、立木観音のある鹿跳橋(ししとびはし)より下流に約1km・・・・

外畑集落の入口近く、大きな空き地の奥に不動堂が有り中に白洲不動尊が祀られて居る。

白洲不動尊はその昔、天瀬ダムができるまでは瀬田川の白洲の中にその下部を埋もれて在ったが、それを機会に現地に移動され祀られて来た。

石仏は右手利剣、左手に羂索を持つ不動明王坐像で、高さ約2m、幅1.3mの自然花崗岩に像高91cm半肉彫り・・・

鎌倉期の石仏に見られる様な覇気はなく力強さには欠けるが、室町初期の応永22年(1415)銘が確認されている。

撮影2013.6.22
 

大津市大石 佐久奈渡神社お旅所石仏

2015年08月19日 | 石仏:滋賀

前回に少し触れた佐久奈渡神社お旅所の石仏に、これはと思うものが在ったのでここにUPしておきます。

茅葺き屋根の立派な「佐久奈渡神社お旅所」へ登る階段脇・・・・

新しく基壇を設け、付近から寄せ集めたかの様な石仏が数多く安置されている。

中でも一際目を惹く阿弥陀如来坐像が、膝下半ばまで基壇の玉石に埋められ置かれて居る。

弥陀定印の阿弥陀坐像ながら堂々と力強いその像容に鎌倉期の石仏に近いものを感じる。

せめて蓮台が見えたらもっと確信できるのだが・・・・

撮影2013.6.22


大津市大石 若王寺(じゃくおうじ)の阿弥陀石仏

2015年08月18日 | 石仏:滋賀

 

正式名称を「金剛山大日院若一王寺」と言い、天平神護年間(765~767年)創建だとされ、瀬田川左岸にある「佐久奈度神社」の神宮寺だった。

今も寺の奥、石段の参道上には佐久奈度神社の御旅所が在る。

本堂脇の境内に覆屋を設け三体の石像品が安置されて居る。

石仏の他に六字名号板碑と自然石の六字名号塔を安置・・・

向かって右端には古式な阿弥陀石仏を祀って居る。

阿弥陀石仏は有り合わせの基礎石にセメントで固定・・・ちょっとアンバランス感は否めません。

総高約1mほど、ずんぐりムックリの長卵形花崗岩自然石の正面上部を舟形に整形、下部には蓮台を設け・・・

蓮台に結跏趺坐する厚肉彫りの堂々とした阿弥陀如来を刻み出している。

永らく地中にでも在ったのか?少し赤錆色の変色が見られ、風化摩耗も進んでいて尊顔はつんつるてん・・・・

手印も詳らかでは有りませんが来迎印を結んで居るように見えます。

おそらくは像容全体や蓮座の形から南北朝期の造立かと思われます。

撮影2013.6.22


精華町大字山田小字医王寺 新殿神社

2015年08月16日 | 神事:行事:寺社: 仏像

 

神社への参道入口が高速道路下に有り地元民以外にはなかなか寄り付き難い神社です。

神社境内は長い石段参道を登った小高い丘の上に有り、京都府の自然200選に選定されて居ます。

精華町大字山田小字医王寺に鎮座・・・旧山田村の産土神。

独特な様式を持つ割拝殿奥に本殿が控える。

応長元年(1311)京田辺市の朱智神社から勧請され、古くは、植樹神社と称しました。

地元では「山田の宮さん」と親しく呼ばれ、旧山田村の産土神だそうです。

祭神は二座有り、素盞鳴命・天児屋根命と成って居ます。

境内には今も医王寺と言う宮寺跡があり、境内入口の十三重石塔は重要文化財に指定されて居ます。

撮影2015.8.1

 


宇治市宇治蓮華 式内 橋姫神社

2015年08月14日 | 神事:行事:寺社: 仏像

宇治橋の東詰め、大きな石鳥居をくぐって少し先に進むと、左手に白壁土塀の切れ目に白木の鳥居の建つ、民家の庭先ほどの小さな境内がある。

熱心な参拝者は多いのだが、殆ど目立たないので要注意。

境内の左手、ブロック塀を背に簡素な覆屋が建ち中に、向かって右手「橋姫社」と左手「住吉社」の小さな社殿が建って居る。

橋姫社は大化2年(646)宇治橋を架けられた際に、上流の櫻谷(桜谷)と呼ばれた地に祀られていた瀬織津媛を祀ったのが始まりとされている。

当初は橋の中ほどに張り出して造営された「三の間」に祀られたが、その後宇治橋の西詰に祀られ、明治3年(1870)の洪水による流出後、明治39年(1906)に現在の場所に移された。

また橋姫は嫉妬の神・縁切りの神と言われ、「悪縁を絶つ」霊験があり、源氏物語「宇治十帖」の故地としても良く知られて居る。

撮影2015.7.24

 

 


久御山町佐山 雙栗神社(さぐりじんじゃ)

2015年08月13日 | 神事:行事:寺社: 仏像

以前このページで紹介した宇治田原町の雙栗天神社から勧請、この地に祭られた。

古代、宇治田原よりこの低湿地に移住して来た人々が神と一緒にやって来たのだろう・・・

現在付近は住宅団地が建ち並び市街化の中に、この大きな鎮守の杜が埋もれる様にあり、拝殿はただいま修理工事中にて青いビニールシートが掛けられて居た。

延喜式神名帳に、『山城国久世郡 雙栗神社三座 鍬靫』とある式内社。貞観元年(859)正月27日正六位上の双栗神に從五位下を授ける。

中世以降石清水八幡宮の影響をうけて椏本八幡宮と呼ぶ、現本殿は明応3年(1494)の建立とされる。

本殿の彩色は目の覚める様な艶やかさです・・・・久御山町佐山双栗鎮座・・・重要文化財・雙栗神社(さぐりじんじゃ)本殿

撮影2015.7.14  

 


宇治市白川 白山神社

2015年08月11日 | 神事:行事:寺社: 仏像

嘗て、藤原頼通の娘・四条宮寛子(後冷泉皇后)が建立したという「金色院」の鎮守社として祀られていた。

現在寺は無くなり金色院遺構として惣門、とこの白山神社が残された。

白山神社は金色院総門から奥に約200m背後の山裾を登った中腹に鎮座・・・往古境内からは華やかな金色院の堂塔伽藍が一望のもとにあったのだろう??

鎮守社となる前、元々「白山神社」は八世紀後半に疱瘡(ほうそう)が流行した時に、その治癒を願って創建されたと伝えられている。

石鳥居とせせらぎを渡る石橋を越えると携帯までは一直線に急な石段を登る事になる。

正面には重文指定の茅葺き拝殿・・これは建治3年(1277)に建立されたもので、宇治離宮の遺構と伝えられている。

我が山城でも茅葺き拝殿は僕の知ってる限り後一箇所のみと成ってしまった。

拝殿奥の一段上がったところに鎮座する本殿・・・・一間社流造銅板葺

因みに祭神は伊邪那美尊(いざなみのみこと)で堂内には藤原時代の伊邪那美尊坐像(重文)を安置していると言われて居ます。

 

宇治市街からはいくらも離れていないが一山隔てた谷間集落に有り、観光客もここまでは足を伸ばさない。

撮影2015.7.24

 


精華町北稲八間(きたいなやずま)鎮座 武内神社(たけうちじんじゃ)

2015年08月09日 | 神事:行事:寺社: 仏像

精華町中心街、役場からすぐ北西の丘陵裾に広がる北稲八間集落の鎮守さん。

在所道に面して裏参道?には杉の巨樹

境内は一段高く背面を丘陵の緑に覆われ、登り口正面石段には石鳥居・・・・

文保元年(1317)、石清水八幡宮より勧請、室町時代には北稲八間荘の、さらに江戸時代には北稲八間村の鎮守。

境内正面には小学校の木造校舎を思わせる様な特徴的な割拝殿。

 

石清水八幡宮より勧請したなら祭神は応神天皇の誉田別尊(ほんだわけのみこと)と神功皇后の息長帯比賣命(おきながたらしひめのみこと)だとばかり思ってたのに、ここは「武内宿禰(タケノウチスクネ)」・・・・

武内宿禰270歳余りまで長生きしたと言われ、そのことから武内神社は「長生きの神様」と言われている。

撮影2015.8.1


生駒市谷田 観音寺の如意輪観音磨崖仏

2015年08月07日 | 石仏:奈良

観音寺境内の小さなお堂の中に祀られて居る如意輪観音石仏。

近鉄奈良線生駒駅と東生駒駅の中間辺り、すぐ西側の小高い丘に真言律宗の観音寺がある。

境内へは民家が密集する旧道脇の「谷田地蔵堂脇」から石段参道を一気に境内まで登る。

生駒市の資料に拠ると磨崖仏となっているのだが・・・・何かの都合で邪魔になり切り出したのだろうか??

石仏は高さ約背丈程の舟形状自然石の正面を整形・・・蓮台に半跏する。

通常「如意輪観音像」は六臂のものが多くこれもそうだと思われるが風化摩耗のためか?はっきりとは確認できない。

右手第一手を頬に当て思惟相を示していて、いわゆる典型的な半跏思惟像に成って居る。

像高約1m足らず、天保三年(1832)の銘があり江戸時代後期の像立。

石仏の多い奈良地域にあっても如意輪観音石仏は滅多に見掛けない。

磨崖仏の内に見てみたかった・・・

撮影2013.5.12