愛しきものたち

石仏、民家街並み、勧請縄、棚田景観、寺社、旧跡などが中心です。

高井田石棺仏

2007年05月30日 | 石仏:大阪

この石仏さんに逢うのは苦労しました。

近くまで来ているはずだがまったく解らない、このあたりは旧集落よりも新しく開けた新興住宅が幅を効せて居るところ、聞く人ごとに解らないと答えられる。

横着にも車で行こうとしたことに無理があったようで、JR大和路線「たかいだ」駅から西へ細い道を200mほど行ったところに、旧高井田集落があって、細い道路が住宅街を抜けている。

この集落の中にある融通念仏宗、高井寺の門戸は硬く閉ざされていて境内に入る事は出来ないが、南側の塀に接して地蔵・庚申十三仏板碑・などが8体ずらりと並べられコンクリートで固められ、その中に大きな長方形の平板な石材に彫られた阿弥陀石仏がある。

高さ1.7m、幅1m、厚さ30cmの石棺材の表面に像高1mあまりの定印阿弥陀如来座像を薄肉彫りしている。

かなり風化摩滅が加わっているため衣紋の線はわからないが、穏やかな面相や裳架座と呼ばれる古式の台座などから藤原時代の造立だと言われています。

伝承によると「この石仏はもともとこの近くの小川の板橋として利用されていたものらしいが、ある時渡ろうとした馬が仲々前へ進まないので不思議に思って石橋を取り除き裏面をあらためると仏身が刻まれていた」という。

この高井田集落のある柏原市は大和川の北岸に当り、大和国から河内国へと抜ける所にあって昔から交通の要所とされていて、北岸域の丘陵地には総数200基以上と推定される大規模な高井田横穴古墳群がある。

撮影2006.10.14

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瑠璃光寺石棺仏

2007年05月28日 | 石仏:大阪

瑠璃光寺と言うと誰もが山口の瑠璃光寺の五重塔を思い浮かべるが今日紹介する瑠璃光寺は、大阪府と奈良県境の町大阪府柏原市、関西では信仰の山として有名な信貴山の大阪側の麓に立つひなびた古刹です。

国道170号線から山手に脇道を登って行くとやがて瑠璃光寺の山門に突き当たるが、このあたりにはまったく駐車スペースがないので要注意です。

山門を入った左側に簡素な小さい堂があり、古びた石仏が三体安置されている。

その中央に一見して石棺材を使ったとわかる石仏があり、いかにも、もろくてやわらかそうな石材で、風化磨耗ともに激しいが

柔らかな肉付きや優雅な線に藤原時代の特徴がよく現れています。

高さ1.4m、幅75cm、二重円光背を彫りくぼめ蓮華座に坐す像高67cmの如来像を半肉彫りした石仏で、家形石棺の蓋を利用していて、上部に縄付き突起が残っているのが良くわかる。

 如来像は右手をあげ、左手をさげて膝上に置くが、親指先を欠損しているため、尊名は断定できないらしいが釈迦如来か阿弥陀如来と言われています。

左にある頭部が欠損する菩薩像も石棺仏であるといわれています。

寺の後方は群集墳のあるところとして知られており荒廃した石棺を使用したものらしい。

撮影2006.10.14

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柳生の一石六地蔵

2007年05月24日 | 石仏:奈良

この大和高原一帯には一石六体地蔵が多く見られる。

柳生は柳生一族で有名な、大和高原入り口の鄙びた里山です。

この柳生一族ゆかりの芳徳禅寺には柳生一族の墓所が在って、石塔がずらっと並んでいる。

この墓所の入り口に屋根つきの一石六地蔵が置かれていて、周囲の雰囲気をいっそう盛り立ていい雰囲気をかもし出している。

芳徳禅寺駐車場前の国道369号線を奈良方向へ少し戻って、大きな交差点をそのまま直進するとすぐ柳生墓に通じる山道の前につく。

ここには柳生十兵衛が諸国漫遊に旅立つ時に植えたといわれている十兵衛杉が昭和47年の落雷で立ち枯れ、白骨化したまま立ち尽くしている。

墓地へのきつい山道を登りきると墓地の入り口、右手にこの一石六体地蔵が立っている。

さらに,旧柳生街道を少し戻ると疱瘡地蔵手前の山すそには明応十年(1501)の銘がある六体地蔵磨崖石仏がある。

この狭い範囲にこうした六体地蔵が3箇所もあるのが僕には嬉しい。

撮影2006.9.9

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柳生坂原中村墓地の石仏

2007年05月22日 | 石仏:奈良

柳生坂原の中村墓地でほのぼのとした小石仏に対面した。

ちょっと色目を使って前の如意輪観音を見ているような阿弥陀如来。

作は決してよくないが、やさしい顔の十一面観音石仏。

この墓地は古く,室町期のこのような小石仏が多くみられる。

この墓地の竹やぶの中で見つけたまるで捨てられたような地蔵石仏。

土中に埋まるべき部分がむき出しで見捨てられているようです。

撮影2006.3


柳生坂原中村の磨崖多尊石仏

2007年05月17日 | 石仏:奈良

前回紹介の柳生坂原の中村集落に入る国道と旧道の分かれ道横に農産物の産直販売所があって

地元の人たちが集まっている。

今日紹介の石仏はここにいた地元人に教えてもらったもので、わざわざ連れて行ってくれた。

産直販売所から少し奈良よりに戻った右側に小さな林があって、その裏側に当たるところの崖淵にこの磨崖石仏ある。

その昔この石仏の前を街道が通っていたらしいがまったくその面影のかけらすら残ってはいない。

上下約2mばかしの崖から露出したおおきな石に方形の彫窪を作り、双体地蔵を3箇所に、脇には方形の中に五輪塔を半肉彫にしている。

今では、地元の人でさえ訪れたことの無いような佇まいでまったく忘れ去られているようです。

また中村集落を抜けていく旧道をしばらく進み白砂川に掛かる端を左にそのまま直進すると、やがて右手窪みの中に、先ほどの石仏によく似た石仏が見られる。

やっぱり方形の中に双体地蔵と脇には方形の中に五輪塔。

この地域、大和高原にはこの手の磨崖石仏がいたるところで見ることができる。

野の仏としての磨崖石仏になんとも言えない郷愁を感じます。

撮影2006.3

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柳生坂原、田中の阿弥陀磨崖石仏

2007年05月15日 | 石仏:奈良

この石仏は僕のお気に入り。

もう何度この石仏に会いにきたことか、春先、桜のあと、真夏の炎天下と・・・。

奈良坂の般若寺から柳生に向かうと、柳生の里ひとつ手前の集落が柳生坂原、大和高原入り口にあるひなびた風情の里山です。

この坂原の地には多くの石仏があって、ファンにとっては何度も訪れたい土地に違いない。

この地の国道369号線南側の白砂川が流れる、田園の1本木立の影にこの石仏がある大きい岩が頭を出している。

崖というようなものでは無く,あぜ道から首をもたげた大きい石、頂上部は苔むして、蔓状植物が覆いこの石に風情を出している。

この石の北面に船形光背を彫りくぼめ、目測約70cmの阿弥陀如来を半肉彫りにしている。

阿弥陀は力強くも無く、技巧的にもさほど上手くも無いし、さほど古くもなさそうだが・・・・・。

しかし、この田園の中のあぜ道、大きくも無い木陰のこの石仏には得も言われぬ魅力がある。

やはり野に置け野の仏、この石仏は、石仏の専門誌に紹介されているわけでもなく、特別な名前が付けられてる訳でもなく、もちろん表示板や案内板があるわけでもありません。

もちろん、新しく手向けられたような花もなく、農作業の帰り道、農夫が手を合わせて行くぐらい・・・・・。

この景観、この佇まい、なんとも野の石仏の魅力満載と言っても過言でないと思っています。

撮影2006.3 : 2006.8

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宛の木地蔵

2007年05月14日 | 石仏:奈良

この石仏も、この何年かの間に様変わりした周りの景観に驚いているに違いない。

生駒市南田原も例外なく、大阪のベッドタウンとして住宅開発の波にさらされ、幹線道路の新設で道路両脇には商店が立ち並び、何度も何度もこの付近は通っているが、ついぞこの石仏には気づかなかった。

昨年の暮れ近くに、生駒の石仏を歩いてみようと思い立ち古い書籍を調べて、この石仏の存在に気がついた。

とても幹線道路からは見つけれないような民家の裏塀と、水の流れない溝の横手の少し高台にあって、道路からはまったく死角のような場所にある。

僕の持ってる本の写真を見ると、周りは草原で、後ろは雑木林のようにも見え、まったく今の景観とは異なって見える。

その昔、河内交野(かわちかたの)百済寺から斑鳩法隆寺を結ぶ清滝街道がこの石仏の前を通っていたらしい。

土地の人たちはこの石仏を夫婦地蔵とよんでいるようですが、実は阿弥陀石仏と地蔵石仏が石がんの中に並び祀られている。

地蔵は古式な像容が残り鎌倉期の像立、一方阿弥陀は室町期の像立で、当初別々にあったものだと考えられている。

この石仏は、ほとんど忘れ去られているようなたたずまいで、車が行き交う喧騒を眺めているようだ。

撮影2006.12.3

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稲葉谷行者磨崖仏

2007年05月12日 | 石仏:奈良

この石仏が見てきたものは、人間の拝金主義のおかげですっかり変わり果てた付近の景観??。

約10年ほど前に大規模宅地開発が行われ、稲葉谷という地名にはまったくそぐわない場所となっています。

それまでは、この石仏の前を細い山の中の街道が通っていて、回りも木立に囲まれた磨崖石仏に似つかわしいものであったという。

写真のように今は、どこにも山の面影をとどめず、この磨崖石仏のある岩だけが残されまわりは無粋なコンクリートブロックと吹きつけコンクリートで固められてこんな姿になっています。

前の池が稲葉谷の面影をとどめているのかも知れない。

国道168号線南田原町交差点を東折れ、新しく作られた道路のゆるい上りを登りきった左手、池の向こうにこの岩だけが取り残されたように立っているのが見える。

奈良県の北西部の生駒市には、多くの石造文化財があるが特にの役行者(えんのぎょうじゃ)石仏が多く見られる地域です。

役行者小角(おづの)は、奈良時代前期に生まれた実在の人物で、葛城山で山嶽修験の行を重ね、孔雀明王呪法という秘法を会得し、奇跡をたびたび起こし、あらゆる能力をそなえていたという。

大峯山(山上ヶ岳)を中心に活動し、修験道の開祖としてあがめられている。

山岳修験道の信仰は室町時代頃から庶民に広がり、信仰集団や、教団が結成され、大峯山修行するものが多くなり、講を組んで大峯参りをする風習が広まった。

役行者石仏の殆どは大峯登拝を記念して造立されたものでらしい。

新興住宅が周りを囲む地蔵堂の背後に立ち尽くす岩にこの行者磨崖仏があって、手すりのついた階段がついていて、石仏の真近にまで近づく事ができる。

岩肌を舟形に彫りくぼめ、像高73?の役行者倚座像を厚肉彫りにして、上部には笠石をはめ込んだ、江戸期の磨崖石仏です。

脇には「奉成就大峯山三十三度供養 安永七年(1778)戊戌五月吉日 願主南田原村仁左右衛門」の刻銘がある。

この前は何度通っても腹立たしい想いがして、なんとも周りの景観が似つかわしく無さ過ぎる。

あまりにもアンバランスな保存なのが哀しい。

撮影、2006.10 : 2007.1.4

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上蚊野の石仏

2007年05月09日 | 石仏:滋賀

琵琶湖湖東は、古く渡来系氏族(依智秦氏)居住が色濃く認められる地域で、上蚊野古墳群はその渡来系氏族の墓制であると考えられているふるい地域です。

金剛輪寺の近くにあって、昔ながらのたたずまいを今に見る思いのする小さな集落です。

集落中ほどの小さな辻の辻堂に阿弥陀坐像石仏が祀られている。

高さ1.1mの山形花崗岩の表面を舟形に彫りくぼめて蓮華座上の阿弥陀坐像を厚肉彫りにしている。

近くの金剛輪寺にある阿弥陀石仏に相通じるものを見出すことができる。

像高約70cm、肉付きがよく親しみ深い素朴な表情は、石仏としての魅力にあふれていて、南北朝期のものだと考えられている。

近くの八幡神社境内に薬師堂があって格子戸の間からのぞくと大きな石仏の顔が見える。

丸彫りの薬師如来石仏らしい、像高約1.3mというが扉は開かずこんな画像になっています。

また、境内には小石仏の集積があって地蔵や阿弥に見るべきものがある。

撮影2006.10.7

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頭塔の石仏

2007年05月07日 | 石仏:奈良

へえ~~これが頭塔か・・・??まるで日本のピラミッドやなあ・・・・・。

ここを、最初に訪れた時の感想ですが、その後最近になってあるTV番組が日本のボロブドールとして紹介しているの見た事がある。

奈良公園を少し南に外れた、どこにでもある民家の建ち並ぶなかにあって、入口の扉も閉っているため、それだけを目的に行かないと見逃してしまうかもしれない。

車で行っても駐車場はありません,又入り口も閉まっており管理人宅まで開けていただくように、お願いに行かなければなりません。

ただし一見の価値はあります。

もともとは、奈良時代の高僧、玄肪の首を葬った塚であると古くから言い伝えられていたらしいが、昭和に入って東大寺の高僧、実忠和上(じっちゅうかしょう)の造った「土塔(どとう)」にあたるという説が唱えられ、現在ではそれが定説となっているらしい。

見ての通り、ピラミッドのミニチュア版??、ボロブドールの日本版とも言える景観をしていますがさすがに、四方の仏龕におさまった石仏は、優雅な奈良文化を感じさせられる素晴らしいものです。

入り口から石段を登って左手順路を行くと、小さな木立の下には半ば土と草にうずもれた浮彫如来及侍者像。

この先、直角の曲がって、整備の整った石組み頭塔の西面に出る。

西面は南側半分ほどが未整備の築山状に樹木が生えていて、その間にある何体かの石仏は通路からは確認することができない。

通路は木製のデッキになっていて頭塔の石積みには近づけないよう柵が設けてある。

北側のデッキは少し広場になっていて、解説板などが設置されている。

各石仏は、小さな瓦屋根の庇を持ち、その下の石龕に収まる形になっている。

往時、この頭塔には44基の石仏が配置されていたと考えられているらしいが、現在確認されているのは28基、そのうちの1基に関しては郡山城の石垣に転用されているのが確認されています。

これは僕も確認に行きましたがとても見える位置にはなく、確認できていません。

奈良時代の石仏が、こうして何体も見られるところは他にはなく、石仏ファンには見逃せないところです。

頭塔の詳しい資料

撮影2006.9.10

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芳山の二尊石仏

2007年05月04日 | 石仏:奈良

この道は歩いて行くべし。

そら、確かにそやけど、横着もんのぺんさんは、いつものように家から40分。車でブラーっとやって来ました、奈良市誓多林町。

いつものように、般若寺前から柳生方面へ、円城寺の少し手前で右折。

うっそうとした杉林を車は進む。対向車には要注意、本線離合は結構きつい。

山を一つ二つと越えて急に視界が開けて誓多林の在所・・・・。 里山風景そのままの長閑さでした。

車1台がやっとの道の、鎮守さんの横辺りに無理やり車をすてておく。 勿論KEYはつけたまま。もしも邪魔になったら自由に動かせるもん。勿論盗まれてもはいどうぞって感じ。

小さなかわいい鎮守さんのわき道からどんどん 山道を奥へ奥へと・・・(何の掲示板もでてません)目印に赤いテープがついてるので道には迷わない。

途中結構急勾配、へとへとになりながらの山歩き、山の頂上辺りに少し開けて、回りに石組み、其の中央にちゃんと 居られました。

南面と西面に、蓮華座に立つ像高1.28mの如来像、二尊ともに両手を胸前で印を結んでおられます。

何でこんな山奥に・・・・、ましてやこの辺りにこんな大石あらへんし、どうして運んだんやろ?、機械も、たいした道具もない時代に。 等と感心していても、人っ子一人も見かけない。

撮影2005.9

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井手町、上井手の左馬

2007年05月02日 | 石仏:京都

若いころ、今から30年位昔に行ったきりで、つい最近行ってみると見事に変身していた。

あのころ、この石彫を見るには、地面を掘り下げたくらがりの穴から、上を眺めて見るとこの馬が目の前にいた。

今あたりは公園化(しかし訪れる人も無いのか荒れるにまかされていた。)され、穴の中に入ることも無く見られる様になっていた。

説明板には。

数百トンの花崗岩に刻まれた半肉彫りの左り馬は、「女芸上達の神」つまり女性の習い事の一つである裁縫や茶法、生け花、ひいては踊などを志す人の守り神として、古くから信仰の対象になっていた。

作者や製作年代は不明であるが、躍動的な象徴を持つことから鎌倉時代のものだろうと思われている。

元は、玉川左岸の山腹に鎮座していたものであり、遠く京都や大阪から参拝する人も多かったと聞く。

JR,奈良線、玉水駅下車、山手に向かって徒歩ではちょっと・・・・。

国道24号線より、井手町役場前の信号を山手に(反対側は、木津川)折れて、車で約10分 。里から、山に分け入る辺りの左がわ、道路に接して、公園の駐車場がある。

NETで調べたところ次のような記述もあった。

ひだりうま

「馬」という漢字を裏返しに書いた字を「ひだりうま」と読みます。 昔から福を招く目出たいもの、松梅繁生の守り駒として人気があり 「招福」の一文字とされています。  左馬は、ウマが逆になっているからマウ(舞う)であり、 つまり古来「舞」は、目出たい席で催されることから縁起がよいとされています。  さらに、普通ウマは人に曳かれるものであるが、逆に人がウマに曳かれて入って来る というので、客商売にとっては千客万来で、縁起がよいという「招福駒」とされています。  また、ウマは右から乗るとつまずくので、左から乗るを良しとします。 つまり左馬は「人生をつまずくことなく過ごすことができる」ということです。  そして、「馬」の下の方が財布の巾着の形に似ているので、巾着は口が締まって お金がこぼれ落ちたりしないことから、富のシンボルとされています。  その他にも、「ひだり馬」の姿が「右に出るものなし」とか、 「左団扇」に通じる大吉兆の形とも言われています。  おまけに、その昔、芸者さんの三味線の胴の裏にひだり馬が書いてあり、 馬は倒れるときは、右に倒れ、左には倒れないところから、 「ひだり馬」を書いた三味線を持つ芸者さんも「寝やすい方には寝ない」 つまり「芸は売っても身は売らぬ」と言う心意気を示したところから、 これが「格好いい」「粋」というところから転じて、 「縁起がいい」ということになったそうです。

撮影2006.9.  2007.5.2

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