愛しきものたち

石仏、民家街並み、勧請縄、棚田景観、寺社、旧跡などが中心です。

笠置寺東山墓地の石仏/他

2011年03月31日 | 石仏:京都

笠置山山上付近に在る笠置寺は地元山城住まいと云うこともあり、また石仏探索には欠かせないルートでも有り何度と無く伺うがいつも境内に立つと

方向感覚がおかしくなってしまって東西南北が解らなく成ってしまう。

それと云うのも麓の町からぐるぐるつづら折れに山を駆け上るからに他ならないのだろうが???

そんな境内東隅にある納骨堂脇から山肌を下る崩れかけた様な山道が有り、谷をひとつ越えた先に、これも殆忘れ去られた様な古墓が有って東山墓と呼ばれている。

東山墓に通じる参道?いや墓道は頭上に大石が累々とならびたつ昼尚暗い杉林で花粉症の人には地獄のコースかも??

歩き始めて5~6分もすると左手に現れる大岩には地蔵菩薩磨崖石仏。

深く彫り込んだ舟形光背の中に蓮座上に立つ定形の地蔵菩薩立像、像高約50cmばかりか???

此の墓道を通る人など殆いないのだろうアルミの1円玉や稲穂の5円玉が固まっている。

まとわりつく苔はなんとも成らないのかなあ・・・・

暫く下ると谷川を跨ぐ仮設のアルミ板で造った橋の手前の大岩にも地蔵さん。

すっかり地衣類が岩を占領してしまって肩身が狭そう・・・・

頂部は円形に近い舟形光背、定形の地蔵菩薩立像、身の丈は手前の地蔵さんより一回り小さく、風化が進んで顔容も定かではない。

ちょうど谷底辺りの水場付近には六体地蔵と六字名号、宝篋印塔・・・・

その横の水場の岩にはやっぱり地蔵菩薩磨崖・・・

水場と云うこともあってか、こちらは全身苔むしてこの有様・・・・、前者よりまた一回り小さく30cmぐらいかな??

この先一気に登りと成って墓地へと・・・しかし道は荒れている。

所々現れる大きな岩には楔を打ち込み岩を割ったのであろう鑿跡が・・・

墓地に近づくにつれ、あちこちに小石仏が散在している。

墓地から離れてぽつんと単独墓も・・・

中尾根に出ると前が開けて此処が東山墓地・・・・、当たり前だが全く物音ひとつない静寂の世界。

此の墓地はまだちゃんと墓地として機能しているのだろうか???

お目当ての箱型石龕仏は左手墓地参道の奥まった先、何年か前まではヒックリかえって倒れていたそうですが????

大きさと云いその造り、笠石も見事です。

総高約2m足らず、僕の背より10cm程高かった・・・、因みに僕は176cmぐらい。

正面から見ると、こう、実に堂々として繊細

大きく箱状に彫り下げられた龕中に蓮台上に厚肉彫りで刻みだしている。

遥か極楽を見つめている様な眼差し、右手には大きな錫杖、左手は胸元で宝珠を持ち、像高約1m足らず。

銘は無さそうですが、鎌倉後期の造立だと考えられていて箱型石龕仏中の傑作だとされています。

その傍らには三体の箱型石仏・・・・供花もなくすっかり枯れ果てた竹筒の花立てが虚しい。

向かって左と中央は阿弥陀さん、後の一体は阿弥陀地蔵の双体仏。

左端の阿弥陀箱型笠石仏・・・・枠縁の隅取りをした、なかなかの優品で室町期のものか??

こちら中央の阿弥陀さん童顔で微笑む顔が愛しい・・・、笠石は??欠損、やっぱり室町期・・・。

その並びの奥には解脱上人貞慶の廟塔だと言われる五輪塔・・・・、此の墓地が解脱上人墓と呼ばれる所以でもあります。

南都再興の中心人物であった解脱上人は健保元年(1213)の入寂。

それを裏付ける様な五輪塔は高さ165cm、 六角形の切石基壇を持つ

向かい側の墓石が並ぶ奥にも同じような五輪塔

手前には見事な宝篋印塔板碑。

此処は確かに笠置の歴史を秘めて寂莫の中に時間だけが経過している。

撮影2011.3.15


笠置山と笠置川原の阿弥陀磨崖石仏

2011年03月30日 | 石仏:京都

我が山城の母なる川の中流域??、奈良県の柳生と接してあの南北朝の大きな歴史のうねりの中に翻弄された笠置山が有ります。 

笠置山の頂上付近には笠置寺が有って古くからの名刹ですが、あの室生大野寺の弥勒大磨崖石仏のモデル磨崖石仏が有った所としても良く知られています。

あの後醍醐天皇の「元弘の乱」で一山もろともに火の海となり焼け爛れてしまいましたが、虚空蔵菩薩大磨崖石仏は今でもその姿を留め、焼けただれた弥勒磨崖石仏を彷彿とさせてくれます。

<頂上付近からの上流伊賀方面>

<同じく下流加茂方面>

そんな笠置山頂上付近の大岩と、直下の木津川岸の大岩にいずれも造立時期の変わらない阿弥陀如来石仏が刻まれています。

<行場の大石>

<後醍醐天皇の行在所蹟>

笠置山は大岩が累々とと連なる岩山で山頂付近は山岳修行の行場にも成っているが、頂上付近の貝吹岩から後醍醐天皇の行在所蹟への下り道に有る大岩の下部にこの阿弥陀如来が刻まれています。

舟形光背を深く彫り凹めた中に像高約1m??足らずの阿弥陀如来立像を中肉で刻みだしている。

涼しい顔つきで良く均整のとれた体躯・・、向かって左手にはしっかり天文三年(1534)三月の文字が刻まれている。

一方こちらは笠置山直下、岩をかんで流れる木津川岸の大岩に刻まれた阿弥陀石仏。

<付近はカヌー競技のメッカで風光明媚を絵に描いたような???>

国道163から笠置大橋を渡りきり直角に曲がると旅館の玄関、その玄関左脇に川岸への遊歩道が有って上流に伸びている。

遊歩道が細くなって、いよいよ大岩が目の前に累々と現れる辺りの右手大岩にこの阿弥陀如来磨崖石仏が刻まれています。

頂上付近の阿弥陀さんとほぼ同じ様な造りでちょっと小さめかな??

やっぱり涼しい顔で・・・・・・享禄三年(1530)の銘が有り、山上の阿弥陀に先立つこと四年・・・

この時期此処で何が有ったのだろうか・??

撮影2006.9.18


旧山城町 神童寺(じんどうじ)の石仏

2011年03月29日 | 石仏:京都

この地へはもう何度足を運んだことだろう・・・・。

我が山城東部山襞の奥まった隠れ里に有る山城きっての古刹神童寺、それを取囲む景観と集落、なんとも云えず心の癒される佇まいです。

<神童子道への里山風情>

<山城は筍の特産地・・・此の風情がなんとも良い>

旧奈良街道からJR奈良線を越え鳴子川沿いに走ると出逢うタケノコ藪や、棚田と小川の景観はいかにも我が山城の心の故郷と言った風情が今に残され、心豊かな気分に浸れる処でもある。

<集落から見る神童寺山門付近>

<山門から神童子集落>

<春、ミツバツツジが全山を覆う神童寺はいっそう華やぎを増す。>

<最近補修も完成に成った本堂>

人里から約2km、孤立したように家並の並ぶ神童子集落の中程と思しき辺りに建つ神童寺は聖徳太子の創建に依ると言われる古刹で、のちの世には役行者が修行したおりに神童が現れたということで北吉野山神童寺と改称され、山間の小寺院としては考えられないほど多くの遺仏を今に伝えている。

本堂向かって左手、大きな公孫樹の向こうには小さな祠と背の高い十三重石塔・・・

背丈の低い樹叢に隠された四方仏もわずかに見えるが、踏み込んで撮影するのは戸惑われ・・・・、相輪部は新しく後補の様に見える。

十三重石塔脇から鐘楼や宝蔵庫のある高みに上がる参道脇に質素な地蔵堂が有り、二体の地蔵石仏とその足元に小石仏が祀られている。

 

向かって左大きくて古様な地蔵菩薩立像石仏は大きな舟形後背を持つ等身大の定番地蔵、摩耗が進んでいて顔容もさだかではないが鎌倉期の造立。

どっしりと力強い造りで納得させてくれる。

右側に立つ地蔵は少し小さめながら保存も良く穏やかな面相で室町期の特徴を良く現している。

身の丈約1.2mと言ったところ・・・。

撮影2006.5.4/2007.4.8/2010.3.22/2011.3.25


奈良市小倉町 川尻地蔵石仏

2011年03月28日 | 石仏:奈良

名阪国道と呼び習わされている国道25号線の小倉IC で降りて側道を西進すると県道246号線とのT字路に出合う。

このあたりは大和高原地域の何処でも見られる長閑な里山、ただその佇まいを破るかの様な名阪国道の大動脈が集落北側を翳めて通過する旧都祁村の小倉集落。

<2006年撮影>

<2011年撮影・・・殆ど変わらないが立派な石碑が建てられている>

T字路を右折、名阪の下を潜ると右手前方山裾に簡素な地蔵堂が見えて直ぐにそれだと解る。

県道沿いの山裾に張り出した岩肌に頭上は浅く舟形光背を造り体躯の縁に沿って深く彫り窪め、等身大ほどの地蔵菩薩立像を厚く刻み出している。

お堂はいわゆる覆い屋でせり出した磨崖石仏をすっぽり覆うように建てられ側面や下部の撮影は困難になっている。

 康永元年(1342年)七月の銘が有り南北朝時代、北朝方で使用された年号が入っていてこの地の歴史を伺わせる。

しかし本体の傷みはひどく壁面の断裂が頭上から顔面体躯へと走りセメントで補修され、おまけに乾いた地衣類が全体を覆っていて詳細は良く解らない。

大きな錫杖を持って居るのが確認でき、銘には 願主頼円と有り、往時小倉村の指導者で有ったとされている。

撮影2006.3.25/2011.3.13


旧山城町 神童子(じんどうじ)墓の石仏

2011年03月26日 | 石仏:京都

此処は山城のど真ん中、木津川の東岸山裾にあって、あの当尾の千日墓地を思わせるほどに見るべき石仏が集中している墓地、この地はまるでパラダイス。

国道24号線を京都方面から奈良方面に向けて南進すると木津川堤防を走る井手町を越え、木津川に架かる開橋との交差で、山手から木津川に注ぐ鳴子川沿いに走る道路へ左折道鳴りに進むとやがて府道を越へJR奈良線を越えると神童子道。

神童子道には途中鳴子川をを渡り急な登りも有るが、それと解る看板も出ていて解りやすい。

集落の入り口辺り、道路の直ぐ左側、小高い丘の上に神童子墓がある。

集落入り口辺り、左手の道を挟んで東墓、古刹神童寺は右の道路を道なりに約400mほど奥。

なんと云ったってこの墓地ではこれ・・斎場の棺台越しに石仏の集積・・・・抜きん出て見えるあの石仏。

花崗岩の長方形の石材を箱型に深く彫りくぼめ内に蓮華坐を設け像高約90cmの地蔵立像を厚く刻みだしている。

頂上に笠石を載せ鎌倉様式を残した最古の箱型石龕仏(せきがんぶつ)として知られている。

大き目の「おでこ」に優しく柔和な眼差し、大きな錫杖、胸に宝珠、良く整った体躯・・・・。

脇の集積には山盛りの箱型小石仏・・・・・。

脇に置かれた五輪塔板碑・・その台石としてこんな石仏さん。

箱型石仏の寄せ集めたモザイク??

空き地の叢にも笠石を無くした地蔵石仏・・・・、半分土に埋もれてましたが。

墓地斜面には小石仏の集積と大型地蔵

蓮華坐の上に立つ像高約1mの地蔵菩薩立像。

右手胸に宝珠、左手は下に降ろした与願印の古様式・・・・胸下で断裂していて痛ましい。

もう1箇所小石仏の集積が有って此処にも阿弥陀と地蔵の双体石仏、軒反りの無い宝篋印塔の笠石等々・・

脇にも定印の阿弥陀、顔の崩れた???石仏さん。

東墓への道を辿ると切り石とコンクリート擁壁の間にこんな箱型双体石仏

像高約50cm

やっぱり阿弥陀??と地蔵さん。

入り口には江戸期の六体地蔵。

奥には箱型の地蔵石仏、斜面裾に一列に並んで壮観です。

その数14体、いずれ南北朝、室町期の石仏さん達。

もう一体、やっぱり箱石型の地蔵石仏。

頭上には笠石を載せ総高約70cm・・・・・・。

これだけ有ると満腹満腹、ちょっと食いすぎ。

撮影2006.5.4/2011.3.25


城陽市寺田 地蔵堂の石棺仏

2011年03月25日 | 石仏:京都

城陽市寺田の近鉄寺田駅近くの民家とショッピングセンターの間に挟まれて隠れるように建つ地蔵堂に山城地域ではただ一つとなる石棺仏が祀られている。

付近は町の中心地域とは言え地蔵堂近くの街並みは旧村の面影を良く留めている。

この石棺仏は近くの小川に架かる石橋として利用されていたものをここに移して安置、地蔵堂を建て祭祀したもののようです。

ブロック塀とフェンスに囲まれ、風情景観などとは程遠い状況・・・オマケに狭くて撮影ポイントは真正面の一箇所だけ・・・。

簡素で小さな地蔵堂はしっかりした木柵と正面には大きな、動かすこともままならない賽銭箱が設えられ、どうにもこうにも真正面からのこんな画像しか撮影出来ない。

石棺仏は高さ約1.8m、幅約70cmの凝灰岩製石棺の蓋石を利用して蓮華坐に立つ像高約70cmの錫杖を持たない古式な地蔵菩薩立像。

石橋に使われていた為かまたまた凝灰岩という石質のためか風化、剥落が激しくごらんのように顔容も覚束ない有様、・・・まるでタコ入道。

鎌倉中期の造立の石棺仏らしく・・・・、石仏ファンとしては、せめて真正面の賽銭箱は下に下ろして貰えればなあ・・・・

撮影2011.3.5


名張川治田(はった) 地蔵十王磨崖石仏

2011年03月24日 | 石仏:三重

今から40年ほど前、この名張川の下流を堰き止めて造られた高山ダムが出来るまではこの石仏前の河原に出て真近まで近づくことが出来たようです。

それ以来上流の名張川は現在のように岸辺一杯まで水を湛えて見上げるべき河原は何処にも無い。

この地は名張川を挟んで奈良県山添村と三重県伊賀市が接していて治田地蔵と呼ばれるように磨崖自身は伊賀市治田に有るにも係わらず対岸奈良県側からでないと全容を望む事は難しい。

対岸側の山添村中峰山にある大川(おおこ)縄文遺跡を利用したカントリーパーク大川からでないと望むことは出来ない・・・・、なんとも奇妙な状況になっている。

当然のことながら山添村ではこの石仏に関して何の案内も無く、勿論説明板など有るわけもない。

治田地蔵と呼ばれるこの磨崖石仏は川岸の大岩壁に像高4mにも達する地蔵菩薩立像をを中尊に左右には閻魔大王と太山王を等身大の坐像で刻み込んでいる。

遠くから望むだけでは線彫りのようにも見えるが、像の外周部は深く刻み全体をレリーフ調の浮き彫りで刻み出しているように見える・・・・・、中尊、地蔵の頭部と錫杖は円光背を彫りくぼめた中に肉付き良く顕して立体的にしている。

向かって左下方に二王の尊像は確認できるが他は何処に刻まれているやら???、もしかして水の底に沈んでいるのかも??

磨崖の前は水没するまで広い川原が広がっていて賽の河原の様相を呈していたようで・・・・、造立の室町初期より延々と信仰され続けて来たのであろう・・・

稚児淵と呼ばれたその川原から仰ぎ見て見たかったなあ・・・・。

撮影2006.3.11~2007.4.8


井手町 弥勒石仏(三体地蔵磨崖仏)

2011年03月23日 | 石仏:京都

この地は、以前紹介した玉川地蔵から谷を一つ隔てた井出町東部丘陵山裾に広がるタケノコ藪のど真ん中に位置する処に有ります。

旧奈良街道、井出町石垣、井手小学校脇から山手に伸びる道路を道なりに進むと丘陵に登り広い農道に出るが目の前にデイケアセンターの建物があり、この辻には看板も出てるが、その脇を竹薮の奥に進む野道をそのままほんの300mも行くと石仏への入り口と思しき看板もあり車の駐車スペースもある。

往時此処には参拝する人も多く、何がしかの建物でもあったのか?しっかりした石段や石組みも残され中段までは足場もしっかりしているが、現在竹薮が覆いかぶさって歩き辛くなっている。

2~3分も登ると大きな磐塊が見えて、新しい供台が設えられて真新しい花も手向けられている。

写真でも解るようにおぼろげながら見える程度の細い線彫りで稚拙な二体の石仏が見える。

<こちら2005年撮影のもの>

<こちらつい最近2011.3月撮影したもの>

弥勒岩と呼ばれるこの磨崖石仏は高さ約2.5m、幅約4mぐらいの花崗岩の西面に彫られた地蔵立像で三体有るといわれているが向かって左端に有るべき一体は道見ても確認できない。

中尊だと言われる地蔵立像はぎこちない微笑を浮かべたような像高約1.2mの地蔵菩薩立像・・・、左手に持った宝珠が何とか確認できます。

左側にはちょっと小さめの、これまた大雑把な地蔵菩薩立像が蓮坐の上に立っています。

こちらはまだいくらかはっきり残っていますが、いずれ手馴れた石工の細工とも思えず素人彫りの感が否めない。

しかしそれはそれなりに貴重で南北朝末期、荒れた世相を良く反映している石仏さんだと云えない事は無い。

振り返りざまに見た石仏に木漏れ日が差して、なにやら「また来い・・」とにんまりり微笑んでくれたような・・・

撮影2005.12.5~2011.3.18


旧蒲生町 川合東出石棺仏

2011年03月22日 | 石仏:滋賀

滋賀県近江の土地も琵琶湖と共にその歴史的背景や民俗になんともいえぬ魅力を感じて事細かに走り続けている土地です。

これは何の事前調査も無くたまたま勧請縄を探し求めての移動中に見つけた石棺仏。

湖東東近江市の旧蒲生町川合東出の中心地、県道41号線と県道524号線が交わる川合東の交差点東側の角に一間四方ぐらいの簡素な地蔵堂があり、中のこの地蔵菩薩石棺仏が祀られている。

お堂は硬く施錠され正面の切子窓にカメラのレンズを差し込んで撮影するしかなかった。

堂内は勿論光量不足、ストロボ撮影でフラットな画像しか撮れません。

石棺仏は赤味の強い安山岩製石棺の蓋石の内面を利用して刻まれた地蔵菩薩立像らしいが、御覧の様に床が邪魔をして全体像は確認できない。

推察する像高約1m、磨耗甚だしく顔容もままならないが、円光後背の様式や大きな錫杖から鎌倉後期の像立だと考えられているようです。

旧街道筋の辻に祀られた地蔵さんとして地域の中にしっかり生き続け、愛され続ける石仏さんです。

播磨地方では主流の石棺仏も此処近江では数体確認できるだけのようです。

撮影2008.1.19


木津川 駒返し岩の阿弥陀如来磨崖石仏

2011年03月21日 | 石仏:京都

やっとの思いで出かけて何とかめぐり逢うことが出来た石仏さんです。

そう、もう30年以上も前、当時親しくしてもらっていた郷土史の恩師と一緒に此処を訪ね、存在は知っていたがそれ以来一度も訪れたことが無くこの道路を通るたびに気になっていた。

何度ネット検索しても、何処をどう探してみてもこの石仏の存在にさえ出会う事は無かった・・・・この石仏の彫られている岩は駒返し岩と呼ばれ地図にも表示されているのだが・・・・・。

しかし道路整備も進み河岸はコンクリートで固められ、当時残されていた目印や河岸に降りる梯子も見当たらなくなっていた。

<上流笠置方面向けに撮影>

<下流加茂方面向きに撮影・・・いずれも現場付近の163号線>

国道24号線から分岐して、国道163号線を木津川沿いに遡ると加茂町を越え、新しく出来たトンネルを越えると、やがて銭司(ぜず)の集落を通過、道路は木津川の流れギリギリに湾曲して約2km弱、和束砕石場までの間は左手山裾が迫る狭い道路となる。

この辺り停車も困難で運転にも気を使うのでゆっくり確認も出来て居なかった。

NET地図上で何度も検索し、岸辺を歩いて到達するのは無理だと言うこともわかっていたし、また川から岸につけるカヌーも持ち合わせは無い、周りの状況も確認した上これは道路の護岸壁をロッククライミング宜しくロープで降りるしかないと用意周到に出かけた。

車は採石場近くの空き地に捨て置き、R163をとぼとぼバック、道路は大型車など通行量も多く狭いので要注意。

ほぼ目的地に着くと河岸に大きな岩が横たわっているのが見える・・・・、これが間違いなく駒返し岩。

足場のいい辺りのガードレールにロープを巻きつけカメラ2台を首からぶら下げ親父のロッククライミング・・。

約10mも下ると河岸ににつくが其処は篠竹や雑木の笹原、全く永らく人など来た形跡も無い。

<駒返し岩の全容・・・奥に山肌と163号のガードレール>

殆ど消えうせた記憶を頼りに駒岩の上によじ登って見るが其処は蔦に覆い尽くされ岩面も見えぬほど・・・

確か頂部あたりに地蔵が刻まれていたような??・・・・・、蔦性植物を払いのけて見たが見つからない。

頂部からひとしきり周りを探索すると西面壁にそれらしき加工の跡を発見し、河岸まで降りて笹原を踏み分け何とかこの石仏さんに出逢うことが出来ました。

対面には長閑な関西線のジーゼルカーが・・・この辺り木津川は蛇行していて水深も有るようです。

こちらは下流方面

こちらは上流方面・・・、此処から笠置山が見えなかった、少し位置が悪いようです。

本題の石仏さんは駒返し岩下流側、笹原に隠れるように西面壁の高さ2mぐらいのところに刻まれていました。

壁面の花崗岩に約1m強の二重光背を彫り窪め、その下部には蓮弁を深い線彫りで大きく刻んでいる。

蓮弁上に更に蓮台??を設け、その上に像高約80cmの阿弥陀如来を厚肉彫りで刻み出している。

右手は施無畏印、左手は与願印、周りをくまなく調べてみたが銘らしきものは無く、僕の乏しき知識では像立時期の確定は出来ませんが・・・

二重光背の頂部には20cm四方ぐらいで高さ10cm程の突き出し突起が加工されていて往時この磨崖石仏には笠石が乗せられていたのだろうか??

どんな姿だったんだろう・・・・、随分今とは違った印象を受けるに違いない。

この川にも笠石をもぎ取って行くような洪水が幾たびもあったに違いない

長年再会を望んでやっと出逢えた喜びと感激で暫くボーっと佇み眺めていた・・・。

それにしてもこの石仏さんはこんな河原の荒地に在って傷み磨耗も殆ど無く、また意地の悪い地衣類の繁殖に犯されるでもなく良く原型を留めていると思う。

目の付近が白く見えるのはいたずら蜘蛛の仕業だろうか??地衣類かな??・・・、次行くときにはしっかり掃除でもしようかな・・

勿論鎌や鉈を持って少しは廻りも近づきやすくしたいが??・・・・此処は国土交通省の管轄かな・・・・、行政的には和束町木屋(こや)だけど・・、念のため和束町では・・・・全く何の指定もありません、多分この存在も知らないのかも??

もう何十年もこうして放たらかしの阿弥陀さん、僕は何十年ぶりの参拝者ですか??

この石仏の刻まれている岩は往古、元弘の役で笠置山に篭城した後醍醐天皇の最期、笠置落城の急を聞き千早赤坂から急遽楠正成が笠置に向かったが此処まで来て笠置全山が炎上しているのを見て駒を返したところだという云われの有る岩です。

その頃にはもうこの石仏さんも居て、楠正成は、この阿弥陀さんにどんな気持ちで手を合わした事だろうか???

そっと黙っていて僕だけの楽しみにしておきたい気も少しは有るけれど・・・・僕の「愛しき者達」です。

まだまだ人目にも触れずに忘れ去られてしまった石仏さんも一杯いるんだろうな・・・・。

撮影2011.3.20


近江八幡市 浄土寺地蔵笠石仏(縁切り地蔵)

2011年03月21日 | 石仏:滋賀

湖東近江平野の東側に連なるなだらかな山裾に位置する竜王町と東近江市に囲まれるように近江八幡市の浄土寺集落が長閑な田園景観の中、日野川の流れと雪の山の山裾の間に家並みを連ねている。

国道8号線から浄土寺集落をめざし集落の家並みが途切れた辺り、左手にそれとわかる天神社の参道が見え、右手には小高い土手越しに老木杉の梢が聳えているのが見える。

道なりに小高土手を越えれば老杉の根元に笠石仏や小石仏の集積が見える。

中心に有る笠石仏は高さ、最大幅共に約1.2mの花崗岩自然石に大きな別石で加工した笠石が載せられ独特な雰囲気を醸しだしている。

自然石の表面を頂部に丸みを持たせた長方形に深く彫り窪め下部には蓮華坐を設け、その上に大きな錫杖を持つ地蔵菩薩立像を半肉彫りで刻み出している。

丸く良くまとまった顔や体躯のプロポーション、蓮弁の反りなどから南北朝末期の像立だと考えられてるようですが、顔に似合わず縁切り地蔵と呼び親しまれているようです。

往古このあたりは天神社と共に浄土寺と呼ばれた大きな寺院があったようで、この石仏や周りの小石仏もその寺院と無関係なものではないだろう・・・・。

老杉の根元で長閑な田園を見据え、穏やかに微笑むように佇む地蔵さんに縁切り地蔵は、似合わないような気するんですが・・・。

撮影2008.1.19


井手町 玉川地蔵磨崖石仏

2011年03月20日 | 石仏:京都

京都府の南山城と呼ばれる地域は古くから奈良の都の背、山背(やましろ)と呼ばれた地域で此処井手町の東方台地には橘諸兄の別邸跡も有り古くは万葉集にも詠われ古くから拓けた所です。

その上井手と呼ばれる地域は眼下に木津川の流れを見下ろし、春には桜の老木で有名な地蔵禅院にはたくさんの人が集まる風光明媚な土地。

井手町の東方の山間から流れだす玉川に沿い集落の途切れた辺りから少し上流に進んだ河原にこの玉川石仏とと呼ばれる地蔵磨崖石仏がある。

採石地跡の様なところに車を停めて河原に下り、竹藪の広がる岸辺近くに大岩が突き出していてそれと判るが殆ど人の訪れた様な気配すら伺えません。

磨崖石仏は山状の赤っぽい岩の表面向かって右側に像高約1m強、頭上に円光後背を背負い、右手に錫杖、左手に宝珠を持つ地蔵菩薩立像で線彫りに近い極薄彫りで刻まれている。

以前は此処から1kmほど上流に有る玉川の駒岩脇に在ったものの様で昭和28年の洪水で流され砕石場から掘り起こされ現在地に置かれたもののようです。

木津川に注ぎこむ南山城の支流は悉く天井川で、この玉川でも昭和28年には大洪水を起しその流れも大きく変えてしまったのだろう??

蓮華坐に立つ像高約70cm、中々写実味豊かな像容で遊行地蔵、鎌倉期の力強さはなく南北朝期の像立だと考えられている。

資料を色々探して見ましたが全く見つからずこれ以上のことはサッパリ分かりません。

いずれにしても江戸期以前、戦国時代辺りのものでは無いだろうかと??

近くに弥勒三尊の線彫磨崖仏もあるが、それより彫りは確かな様に感じられます。

撮影2008.3.28


木津川市山城町綺田(かばた)  高倉山阿弥陀寺阿弥陀如来石仏他

2011年03月19日 | 石仏:京都

南山城の幹線道路国道24号線は井手町に入ると長閑な景色のもと木津川沿堤防を走る事になるがその国道の東側、なだらかな山裾を旧奈良街道が各集落を縫うように走っている。

この辺りは僕の住まいから直ぐに近くなので何処を通ってもあっと言う間に目的地まで着いてしまうが・・・・、京都方面から24号線を南下すると井手町の庁舎を左手に見てそのまま道なりに少し進むと天井川をくぐる。

<府道70号線から北方向に向けて撮った阿弥陀寺付近>

<こちら北から南向きに撮った阿弥陀寺>

天井川を潜るとそこはもう木津川市山城町、直ぐに信号が有ってその交差点で左折、道なりに暫く行くとやがて旧奈良街道の府道70号線と交差することになるが高倉山阿弥陀寺はこの交差点と目と鼻の先、左手前方の府道沿いに面して建っている、しかしこの辺り駐車スペースがないので車での訪問には注意を要する。

阿弥陀寺の山門には低い柵扉がいつも閉じられて居て訪問者を拒絶している様にも見えるがその由頼めば快諾いただける。

<高倉神社正面>

ここ高倉山阿弥陀寺は平家追討のため源頼政と挙兵した高倉宮以仁親王(たかくらのみやもちひとしんのう)が宇治川の合戦に敗れ奈良への敗走途中このふきに有った光明山寺門前近くで流矢に辺り落命、その菩提を弔った寺院として知られている。

<往時、寺と塚は一体化していただろうに、現在JR奈良線が引き裂いている>

塚は寺より東に直ぐ、JR奈良線の踏切渡って道路左手に面した以仁親王を祀る高倉神社境内に有って今も宮内庁管理に成っている。

陵墓と云えども小さな土盛りに過ぎないけれど・・・・・・。

<以前は田圃の中にあったのに最近整備されたようです>

<説明板には以仁親王稜の陪冢(ばいちょう)だと説明されています>

またこの塚から南方に直ぐのJR 線路近くには浄妙塚と呼ばれる塚が有って、宇治川の合戦一緒に戦った筒井浄妙の墓だと言われています。

此処から見た高倉神社の杜。

話が大幅に横道にそれましたが・・・・・、許しを得て阿弥陀寺の境内に入ると狭いながらも美しく掃き清められしっとり落ち着いた空気が流れている。

山門を入って直ぐ左側脇の白壁土塀を背にして古式豊かな石仏と共に小石仏や宝篋印塔(ほうきょういんとう)が横一列に並んでいる。

一段と高く立派な石仏は花崗岩で舟形光背を造り蓮華座の上に結跏趺坐する定印の阿弥陀如来を厚肉で刻み出している。

豊かな表情やみなぎる生気が感じられ鎌倉時代の造立だと考えられていて・・・・

この地で命を落とした以仁親王の供養のために造立したものだと考えられている。

撮影2011.3.4


柳生阪原の足痛地蔵

2011年03月18日 | 石仏:奈良

柳生坂原、中村集落の墓地入り口にこじんまりした地蔵堂があって、その中にこの等身大の地蔵石仏が祀られている。

以前、この下手にある北出橋の袂にあった一石六体地蔵が盗難にあったことが有り、その後こうした小石仏を自由に見ることが困難になっている。

この地蔵堂も例に漏れず、頑丈な柵がつけられていて、真近によることはできないし、全体像も分断して見るしかない。

地元では「足痛地蔵」と呼ばれていて信仰篤く、花崗岩の等身大で船形光背を背負う。

天文五年(1536:この年豊臣秀吉誕生)室町後期の銘がある。

足元には彩色の残る自然石如意輪観音の小石仏も祀られている。

撮影2006.3


最近に成って再度此処を訪れ写真を撮って来たので追加しておきます。

上の2画像は 2011.3.13に撮影したものです。


甲賀市 岩尾山 息障寺(そくしょうじ)の不動明王磨崖石仏他

2011年03月18日 | 石仏:滋賀

この地を訪れるのは二度目、一度目は2007年晩秋の紅葉がこの山寺を真っ赤に染める頃、当時此処は崩落で荒れ果て治山工事の真っ最中・・・・みるも無残な状態でした。

2回目はついこのあいだ2011年3月・・・、NETページを見てると僕が見た不動磨崖とはあまりの違いに驚き、確かめるためにおとずれた。

此処は我が山城とは遠くなく走り慣れた土地柄、人里はなれた山中に有っても1時間足らず、しかしこの辺りの地理に不案内の人にはちょっと行き辛いかも・・・幸いにして車が境内まで進入可能。

<山門付近の旧参道と奥の院付近の岩場>

 昔流に言えばこの地は甲賀と伊賀の国さかい、あの最澄が開基だと伝えられる古刹、台密山岳修験の聖地として栄え、また後の世には忍術修練場と利用されたと云う。

<2007年当時は工事中でこの通り・・・、しかし自己責任でという許可のもと、奥の院まで行って来た>

境内脇の鐘楼付近から奥の院へ登る石段参道の左手大岩に小さな覆屋が掛けられ磨崖石仏が祀られている。

舟形後背を彫りくぼめた中に像高32cmの地蔵菩薩坐像を中肉彫で刻みだしている。

蓮華座に結跏、法界定印の地蔵菩薩磨崖石仏で至徳二年(1385)南北朝時代の北朝年号が有って貴重だそうです。

ここから振り向けば・・・・2007当時

https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/64/5f/aecd490a9a0d19cabbf69c9ff3f001eb.jpg?random=6caf3213a79d1a8f32a998fdc66664ec

見上げれば・・・・2011年、新しく手すりが設置されて居た。

3年前、奥の院への参道は崩落が激しくこんな状態。

殆同じ地点から現在の状況・・・・・眼下に鐘楼が見える。

奥の院不動明王磨崖仏真下付近から・・・・上は2007年下は現在。

岩の上の樹木が殆ど無くなっている。

2007当時の不動明王磨崖仏・・・・解るだろうか??苔むしているのか方向も悪いのか殆何がなにやら状態。

こちらが現在の状態。 

崩落防止の網の目状のワイヤーで補強されていてすっかり囚われ者の不動さん、巨岩の一角の壁面に刻まれた不動明王磨崖仏は像高はおよそ5m。

<上は2007年、下は現在>

壁面はすっかり洗浄されたようで全く違うイメージ・・・2007年当時は全体が線彫りかと思っていたがご覧の様に頭部は薄肉彫りと成っている。

体躯はどうにも手抜きの様な??線彫り・・・・往時此処に不動堂があり尊顔だけが拝める様に成っていたのかも??

しかし尊顔は厳しい表情でかなりの迫力が感じられ、室町初期の造顕だとされています。

此処は2007年と全く変わらない。

この巨岩塊の脇に有る薬師堂から続く尾根道には八十八ヶ所巡礼の小石仏が2体づつ並び立てられていてそれなりの雰囲気が有る。

山頂付近から甲賀方面・・・・

2007年当時の掲示板

撮影2007.12.1~2011.3.12