愛しきものたち

石仏、民家街並み、勧請縄、棚田景観、寺社、旧跡などが中心です。

生駒市 教弘寺の役行者石仏

2014年10月31日 | 石仏:奈良

 

以前にも十三重石塔で紹介した事のある生駒市「教弘寺」の役行者石仏と不動明王石仏。

教弘寺境内右手、生駒山南斜面の濃い緑を背に石積み基礎を設け、上に小石仏と三方を自然石で囲った風情ある石龕を造り・・・

中に自然石に刻み出された 役行者像を安置している。

総高約1m、幅60cmの山形石に像高50cmの椅坐像と、その下部に像高25cmの前鬼、後鬼、を浮き彫りで表し、生駒地域に数多い役行者像の中でも出来栄えは良い。

しかしべったり「赤あざ」の様な地衣類が貼り付き見づらいのが難・・・・

仮面左右に天正6年(1578)の銘があり安土桃山期の造立。

 

 一段上部の石組の上には不動明王石仏。

 

 なぜか足元に食塩が袋のまま備えられて居ました。

どうもこの石仏は近代仏の匂いがしないでもない。

撮影2012.6.03


民家博物館 摂津能勢「旧泉家住宅」

2014年10月30日 | 茅葺き屋根(上懸屋含む)大阪府

 

 服部緑地の民家博物館から三棟目の民家は、地元大阪能勢から移築された「旧泉家住宅」の茅葺き民家。

この茅葺き民家が在った能勢町吉野は、京都府亀岡市と接する山中に拓かれた狭い盆地、四方を山に囲まれ鄙びた山里です。

 昭和35年(1960年)、現地より移設された様ですが、その時後世に改造されていた部分を原形に復元し直した様です。

外装は全て荒壁仕上げ、開口部以外は殆ど窓らしいものが無く、茅葺き入り母屋造りの葺き降ろし母屋を載せている。

入口は妻入り、片側は土間になっており、近畿では非常に珍しく、現地でも最古の建物だったようです。

確かな建築時期は確定されて居ませんが、おそらく江戸初期の建築だと考えられて居ます。

現在、現地には覆い懸け屋根は数多く見られますが茅葺き屋根そのものは全く見られません。

因みにこの建物は、国の重要文化財に指定されて居ます。

撮影2014.1.11


桜井市 脇本、黒崎の地蔵堂

2014年10月29日 | 石仏:奈良

<脇本地蔵堂地蔵石仏>

旧初瀬街道脇に建つ、二つの地蔵堂に安置された石仏さん。

古い民家が建ち並ぶ脇本の旧街道と脇道の辻に空き地があり、簡素ながら二間四方の地蔵堂が建ち・・・

中に小石仏と共に、大きな地蔵石仏が安置されて居る。

背後には草鞋が懸けられ、街道筋だったことを窺わせるが・・・・正面格子戸はきっちり施錠され・・・

やっぱり、レンズだけ差込、ストロボを炊いての撮影・・・おまけに胸全面を隠すような大きな涎掛けが付けられ、なんともギャフンです。

総高166cm、像高122cmの定形地蔵立像、像容や蓮台から室町後期の造立・・・・・尊顔が摩耗激しくのっぺらぼう。

そのまま道なりに旧街道筋をブラブラ10分も歩くと黒崎白山神社への参道・・・

この参道の奥の方で国道が参道を無粋にも分断してる・・・拝殿、本殿は国道越しに有り、何とも情けない気持ちになる。

その参道入口にやっぱり大きな地蔵堂が建ち、同じように格子戸はしっかり施錠されて居る。

中には総高146cm、光背面に天正銘の有る地蔵石仏がある事になっているが・・・そんなものは見当たらない。

二つある地蔵石仏は共に中型、150cmにはとても及ばない。

中央に置かれたこの地蔵石仏がそれかと思ったが・・・・やっぱりそうではない、扉越しとは言え光背に銘は無く・・・像容も稚拙過ぎ。

大きな天正地蔵はどこに行ったのだろうか??

撮影2012.6.16


木津川市木津 御霊神社布団太鼓

2014年10月28日 | 神事:行事:寺社: 仏像

先週末の10月25日 土曜日、いつもの散歩をちょっとチャリで足を伸ばし、木津の布団太鼓を見に行って来た。 

我が家からは木津川を上流へ約10kmばかり、三重県伊賀名張地方に源流域を持つ我が木津川が山城平野に差し掛かり、東西の流れを南北に変える少し上流、木津川左岸の御霊神社で行われた。

御霊神社前を横切る府道を挟んで「敬神組」と「拝神団」、二基の布団太鼓台が人垣に囲まれ、大きい布団を三枚重ねた頭を突き出している。

布団太鼓といえば、ここ山城から西へ、生駒山を越した河内地方が本場、ここ木津の布団太鼓も江戸時代後期、地理的にも近い河内方面から伝わり、賑やかな太鼓や掛け声で豊作を感謝して始まったと言う??

一時から始まる予定の宮入は、少し遅れて府道の車を暫し通行止め、40~50人程の担ぎ手に担がれ・・・・

太鼓の音や掛け声と共に神社の境内へと突き進んで行く。

鳥居を潜って境内に入り・・・・

拝殿前を横切り、所々で練り込み境内を3週。

この日御霊神社では二基の布団太鼓台神輿が宮入りを済ませた。

因みに「木津御輿太鼓祭(木津祭)」として木津川市の無形民俗文化財にしていされて居る。

撮影2014.10.25


田原本町 平田墓地多層宝筐印塔・六体石仏

2014年10月27日 | 石仏:奈良

 

 見たこともない姿の宝筐印塔。

昨日の平田墓地より田舎道を挟んだ「教安寺」駐車場脇に簡素な堂が建ち、中に「行基菩薩の塔」と呼ばれるこの風変わりな「多層宝筐印塔」が安置されている。

堂の正面扉は固く施錠され、内部に入る事は叶わず、腰高格子扉にレンズを差込み撮影して来た。

正面にブロンズの行基菩薩坐像、ちょうどその背後に石塔が建ち、正面からの写真はどうにも成らない。

現高140cm、、頂部には摩滅した石塔残欠積み、基台、塔身、笠部二層を積み上げて居る。

正面からはどうにも為らないので位置を変え、基台と塔身部を狙ってみる。

大和地方では余り見かけない凝灰岩製なので脆くて、より時代がかって見えるのかも??

塔身には月輪を刻む事無く金剛界四仏を薬研彫りにして鎌倉期の造立か??

ちなみに「教安寺」は天平時代に行基菩薩の草創と伝えられます。

一方こちらも珍しい如来と地蔵の六体石仏。

高さ幅共に約50cmばかりの方形板石状花崗岩を、枠を残した形に彫り下げ、三列二段、六体の石仏を刻み出している。

上段中央に定印の如来坐像、両脇には合掌地蔵立像・・・・下段も同じく中央には定印の如来坐像、両脇は何故だか坐像の合掌地蔵だとされている。

風化摩耗も激しいが、それ以上に地衣類の繁殖が甚だしく、如来か地蔵かも確認出来かねます。

撮影2012.6.16


田原本町 平田墓地石仏

2014年10月26日 | 石仏:奈良

田原本町平田共同墓地、火葬場脇に立つ石仏達。

奈良県国中平野の中央部、田原本町の中心に近い大和川左岸平田集落の西端にある。

 

平田墓地は元「郷墓」として教安寺境内と一体化した広大な墓地だったようですが、現在は分離され火葬場が併設されて居ます。

奈良のこの辺りでは昔の郷墓単位で火葬場があるという話はよく耳にしますが、未だにそれが踏襲されて居る様です。

そんな真新しい火葬場脇に四体の石仏と、小ぶりな五輪塔が並び立って居ます。

向かって左端に立つ地蔵石仏は高さ150cmの舟形光背を負い・・・

二重蓮座の上に立つ像高110cmの定形地蔵。

天文八年(1539)の銘がしっかり読み取れ室町後期の造立。

大和に多い細長いキツネ目の特徴が有る。

その右手には高さ140cmの舟形光背を持つ地蔵石仏

蓮台に立つ像高100cmの定形地蔵・・・口元に少し笑みを湛えて室町末期の様式。

その右脇には来迎院印の阿弥陀石仏。

像高約60cmばかりで室町末期の造立。

最後に残った中型箱石仏も中々見もので、高さは隣の阿弥陀と変わらず、約60cm程。

頂部に唐破風の笠石を載せて居ますが、これは本来のものでなく、なんのつもりなのでしょうか??

少し笑みをたたえた定形地蔵、彫りも深く中々見事な箱石仏だと思うのですが・・・やっぱり室町期ものでしょうか??

もう一躰南北朝期の丸彫り石仏があるようですが、火葬場内に有り、普段見ることは出来ません。

分離したとは言え古い郷墓・・・中々良い石仏が垣間見れます。

 撮影2012.6.16 


奈良市西紀寺町 珹寺(れんじょうじ)の地蔵石仏

2014年10月25日 | 石仏:奈良

西紀寺町『珹寺(れんじょうじ)』に残されて居る2体の地蔵石仏。

珹寺のある西紀寺町は市街中央部「奈良町」の道路を挟んで南側、崇道天皇社の南隣に位置する行基菩薩が開基した古刹、古くは「紀寺(きでら)」と呼ばれ紀氏(紀貫之など)の氏寺として栄えた。

現在狭い境内に庫裏、更に白壁土塀の奥に小さな本堂を残すのみ・・・・。

本堂への入口右側、白壁土塀を背に二体の地蔵石仏と小さな双仏石。

中央には基礎石の上に建つ、総高約150cm程の地蔵石仏。

荒削りな舟形光背の中、蓮華座に立つ地蔵立像が刻み出されて居る。

像高約1m足らず、錫杖宝珠の定形地蔵だが、像容は古風で室町初期の作風・・・

戦火にでも遇ったのだろうか??風化摩耗共に激しく像容も詳らかで無い。

ぐっと脇から眺めて見ると、かなり深い彫りなのだが・・・このツンツルテンの尊顔では如何ともし難い。

向かって左手脇には室町後期の定形地蔵。

錫杖の頭が重そうなほど大きい。

撮影2012.9.3

 


日本民家集落博物館 信濃秋山郷の民家

2014年10月24日 | 茅葺き屋根(上懸屋含む)大阪府

 信濃秋山郷より、この服部緑地民家博物館に移築された茅葺き民家。

 信濃秋山郷などと聴いても、関西に住む僕達には一体どこなのかも全くピンとこない・・・因みに「秋山郷」は新潟県中魚沼郡津南町と長野県下水内郡栄村の中津川峡谷(上中流域)一帯をいう・・・これでも殆ど判らない・・・・僕らが知ってる名称で言えば苗場赤倉山系西側、奥志賀高原東側、深い谷沿いの隔絶した秘境。

この地に移築された建物は日本有数の豪雪地帯で、かっては陸の孤島ともいうべき秋山郷の「長野県下水内郡栄村上野原」に有った「旧山田家住宅」を1961年に移築したもの。

こういう造りの建物は、所謂、越後中門造りという雪国特有の形だが、それにも増してこの建物の前に立って驚いたのは、茅葺き屋根と言わず、所謂「茅壁」と言う外装仕舞・・・これが、まるで古代の「掘立住居」の様にも見えて驚き。

とにかく奇想天外、見慣れぬ外装もそうだが雪深い土地らしく、玄関は屋根下に雪溜まりの空間を空けた奥にうんと低い入口を設けて居る。

これが雪溜まり奥の玄関口、冬の厳しさに耐え抜くため防備なのか、いくら小さい昔の人でもしゃがまなくては入れない程。

中に入ってまたまた驚くのは・・・・土間と部屋などの仕切りもなく、広間型と呼ばれるの間取りで床貼りもせず 土間に囲炉裏は有るものの地面に筵を敷いたままの土座住まいであった。

こんな暮らしがつい何十年か前まで続いていたのだろうか??

いくら田舎育ちの古い人間の僕でも、ここまでの暮らしの姿は見たことも無ければ聞いたことも無い。

グーグルマップのストリートビューでこの建物の在った付近を確認すると・・・・・・2014年8月現在はこのようになっていた。

撮影2014.1.11


名張市 夏秋墓地の二石六体地蔵

2014年10月23日 | 石仏:三重

伊賀や名張地域では定番のように一石六体地蔵は良く目にするが、二石六体地蔵は珍しい。

名張市の生誕沿い、「桔梗が丘」の新興住宅地から名張川を跨いで左岸に渡れば、昔ながらの夏秋集落。

剣道を挟み名張川が大きく迂回する川岸耕作地の一角に集落の「捨て墓」があり、六字名号石を中央に一石三体地蔵が左右に置かれて居る。

 

この地域では「捨て墓」に木製の墓前燈籠を建てる墓地をあちこちで見かけるが、そんな風習のない僕の目からすると見慣れない景観。

各三体地蔵は駒形整形石に枠を残し、中に三体づつの地蔵立像を刻みだし、二石で六体地蔵としている。 

まだ真新しい辻蝋が立ち、まだ最近「新仏」を送ったことを窺わせる。

六字名号石に享保の銘が在り、共に江戸中期の造立だと思われる。

撮影2012.6.2


名張市蔵持 里墓地の一石六体地蔵

2014年10月22日 | 石仏:三重

たとえ墓地とは言え、こんな鄙びた風情がなんとも言えず好き・・・・人が余り訪れることのない古い捨て墓だからこその風情かも・・・・・

夏草が生い茂ったら、半分朽ちかけた白木の墓標など、完全に隠れてただの原野と化してしまいそう???

名張市のほぼ中心、旧初瀬街道と旧名張街道が出合う古い集落の「倉持里」、集落から初瀬街道を少し山手に行けば地区の埋め墓がある。

その奥には新興住宅地が拓かれ、マッチ箱住宅が押し合いへし合いしている。

 この墓地への入口は、車で通っている分には非常に判り辛く、余程墓地慣れしてないと見付からない。

墓地の入口と思しき辺り、樒を中央に石燈籠と一石六体地蔵が置かれて居る。

六体地蔵は長方形板石状自然石の上部を笠状に残し、下部を蓮台までの間を彫り下げ、拙い地蔵立像を刻み出している。

 石仏としての歴史的価値は見いだせ無いが、この地の風情がなんとも愛しい・・・。

撮影2012.6.3


名張市 瀬古口墓地の一石六体地蔵

2014年10月21日 | 石仏:三重

伊賀名張地域の六体地蔵は殆どがこうした一石六体タイプ。 

名張市、箕曲小学校と新興住宅に挟まれるように古い瀬古口墓地があり、その入口に多くの石造物と共にこの一石六体地蔵が安置されて居る。

石仏は駒形に整形された中央部に蓮弁に立つ、像高40cm足らずの地蔵立像。

 少しオーバーハングした駒形石に江戸中期を示す蓮弁、その下方に元禄と読める銘が確認出来る。

一躰づつに線彫り円頭光が刻まれ、像容もこの時期のものにしては、しっかりしている様な・・・・

撮影2012.6.2


伊賀市腰山 神向寺の宝筐印塔/他

2014年10月20日 | 石仏:三重
 
旧青山町腰山、神向寺で見かけた宝筐印塔・・・・ 無指定ながら、時代、塔容共に
目を引くものが有る。
 
 
 
青山布引山系、草深い山間僻地、小さな腰山集落の小高い山裾台地に境内を構える山寺。
 
 
 
神向寺は江戸中期の創建と伝えられますが、この塔の造りとは全く合わない
 
 
 
 少々、小振りだが塔身軸部には舟形の中四方仏を刻み、その像容も優れて居る。
 
 
正面基台部には銘が有るように見えるが・・良く判からない。
 
 
 想像するに南北朝期、・・・・・すると元は何処に有ったものだろうか??
 
 
 
脇には近世の地蔵と庚申石仏。
 
 
地蔵は自然石に略式化した合掌地蔵立像。

庚申の青面金剛石仏は、三猿の上に邪鬼、更に邪気を踏み付けて載る青面金剛像。
 
延享の銘が読み取れ江戸中期、神向寺創建時のものかも???。
 
撮影2012.6.2

日本民家集落博物館 椎葉村「旧椎葉家住宅」

2014年10月19日 | 茅葺き屋根(上懸屋含む)大阪府

 

日本民家集落博物館内、入場入口から直ぐ、目の前に建つ二棟の茅葺き屋根。

勿論民家などと言うものは、その土地に根ざした人々の生活が有ってこそなのだが・・・こう言う御時勢、住宅展示場ばりで気に入りはしないが廃棄されるよりはこうしたかたちででも残ったほうが有り難く、これも仕方ないことだと納得・・・。

旧宮崎県東臼杵郡椎葉村高尾、「旧椎葉家住宅」

この民家が有った椎葉村は 飛騨白川、 阿波祖谷村とともに日本の三大秘境と言われ、平家落人伝説の土地。

旧椎葉家住宅は 険しい山の斜面に建てられていたので 「竿家造り(さおやづくり)」と呼ばれる併列の間取りの細長い形をしている。

昭和30年( 1955年 ) 上椎葉ダムが出来、 旧椎葉家はダム人造湖の上の高尾集落にあり、 水没はまぬがれた
が険しい山の北斜面にあり、強風が下から吹き上げ、被害を受けるようになり離村することとなった。 

手前に建つのは納屋、中に馬を飼う「うまや」が二つもあった。

屋根の造りとしては寄せ棟、山国らしく太い木材を惜しげも無く使っている。

こちらは母屋,平入でへやが横一列に並び、見たところ十間以上もある長大さ・・・

解体した家を運ぶ道路がないため、ワイヤで道路のある低地まで下ろし、そこからトラックで日向港まで運び、大阪港までフェリーで運ばれたと言う。

屋根葺きの経験のある村民が大阪まで来、村に伝わる伝統的な方法で屋根を葺いた。

椎葉村は「 稗つき節 」「臼太鼓踊り」など、お神楽の宝庫で椎葉家のこの座敷で、かってはお神楽が演じられていた。

撮影2014.1.11


吹田市 内本町の茅葺き民家

2014年10月18日 | 茅葺き屋根(上懸屋含む)大阪府

 

JR大阪駅より北へ約8km、吹田市街の真っ只中に残された茅葺き屋根。

付近は幹線道路の府道14号線と国道479号線が貫く喧騒高き交通の要所・・・、その一角に取り残された様に豪壮な屋敷が残っている。

白壁土蔵、固く閉ざされた長屋門、その奥に豪壮な茅葺き民家、しかしその全容を伺う事は出来ない。

正面、塀の隙間にカメラを差し込んで撮影、大きな入り母屋の大屋根には全面に鳥避けネットが被せられている。

裏側府道から眺めて見てもこれ以上見渡せない・・・この右手、屋敷林に囲まれ、もう一軒茅葺き民家が有るけど外部からは全くその姿は見えない。

多分同じような建物で本家、分家の関係なのかも??

吹田内本町は一番古くから町場となったところの様だが、どの家屋も農村集落の様相です。

これは近くに有る国指定重要文化財「旧西尾家」。

撮影2014.1.11


伊賀市霧生 上出の庚申

2014年10月17日 | 石仏:三重

伊賀市霧生、天照寺からの帰り道にふと目に付いた庚申さん。

上出集落、鹿島神社裏、在所道一方には小川が流れその向こうに穏やかな棚田の広がる山里。

棚田に対面する鎮守境の土堤の一角、左右に自然石を組み上げ、上部笠石には板石状の自然石を載せた石龕を造り、中に青面金剛石仏を安置している。

石仏は取り立てて言うほどのものでは無いが、わざわざ石龕を組み上げ、石柱の表示や庚申真言の表示板まで備え、現在も連綿としてその信仰が続けられてる様子が窺われるのでバシャしてきました。

撮影2012.3.2