能勢・長谷棚田、上段部に居を構える茅葺き民家。
中段部の見渡しの効く道路から眺めるとまるで山間集落の一軒家、それもこの建物だけが単体に見えるが・・・
脇道を通って登って行くと母屋と納屋のそろい踏み・・・・脇の敷地に現在風の建物があり生活基盤はそちらに移されて居る。
逆方向からみるとこんな風・・・入母屋丹波風茅葺き屋根が、如何にも懐かしい景観を醸し出している。
今は住まれて居ないようだが日日の維持管理は怠らないようにしているとの話でした。
撮影2015.9.22
能勢・長谷棚田、上段部に居を構える茅葺き民家。
中段部の見渡しの効く道路から眺めるとまるで山間集落の一軒家、それもこの建物だけが単体に見えるが・・・
脇道を通って登って行くと母屋と納屋のそろい踏み・・・・脇の敷地に現在風の建物があり生活基盤はそちらに移されて居る。
逆方向からみるとこんな風・・・入母屋丹波風茅葺き屋根が、如何にも懐かしい景観を醸し出している。
今は住まれて居ないようだが日日の維持管理は怠らないようにしているとの話でした。
撮影2015.9.22
長谷の棚田、中段への登り道脇にどんと構える様に建つ茅葺き民家。
丹波型の深く葺き下ろした茅葺き屋根が鄙びた田舎への郷愁をかきたてる。
急傾斜で下屋がなく葺き降ろす屋根を持つのは雪が多かった頃の名残なのだろう??
と言うより大阪もこの辺はまで来ると最早摂津文化圏では無く、丹波文化圏に属していたのだろう。
大きく深い入母屋??の、重厚な茅葺き屋根がどっしり地に足を付けて居るという感じがする。
この辺りの上級農家の佇まいです。
撮影2015.9.22
「日本の棚田100選」にも選ばれた能勢町「長谷の棚田」を撮影するとき誰もがこの茅葺き屋根を点景ととして意識する。
多分この景観、この茅葺き民家は、誰もがもう何度と無く見慣れた茅葺き屋根に違いない。
棚田にとっても茅葺き屋根にとっても、これほど適した舞台装置はそれ程ざらに在るものではない。
棚田の中段、野良道脇に母屋と納屋を並べた屋敷をカイヅカイブキの生垣で囲っている。
母屋と納屋が二棟並んで茅葺き屋根で健在と言うのも嬉しいが・・・
ましてや共に入母屋葺き下ろしの茅葺き屋根と言うのにも感歎の声を思わずあげてしまいそう・・・
この茅葺き民家はそう容易く現代建築に建て替えるわけにもいかないだろう・・
撮影2015.9.22
大阪茨城から豊能への府道1号線、忍頂寺付近で見掛けた茅葺民家。
府道が軒先を掠めるように走り・・・・おまけに第二名神の工事が付近で行われてる為、車を停める場所にも困るほど・・・
民家の前は不動を挟んでこんな穏やかな景色が広がって居ますが・・・この棚田の左が第二名神のルートに成っています。
大きな入母屋造りの茅葺屋根ですが・・・・きっとこの茅葺き民家も高速道路の完成時までは残って居ない様な気がします。
撮影2015.9.22
(ア:宝幢)
急に思いついて一山向こうの鷲峯山(じゅうぶざん)金胎寺の宝篋印塔に会いに行ってきた。
ネット記事などを読むと非常に行きづらく人にも出会わず一人は危険などと書いてあるが・・・どうなんだろう僕は山一つ越えるとは言え地元民、子供の頃から親しみを持っていた。
前置きはさておき子供の頃には宇治田原町だと思って居た「鷲峯山金胎寺」は町境ギリギリにあるとは言え和束町・・・我が家から車で約30分程、その約7割は林道ですが。
金胎寺は 白鳳四年(675)役行者の開創と伝え、養老六年(722)に泰澄が堂塔を造営・・・・以後、良弁・行基・鑑真・弘法大師 等が修行し真言密教の大道場だったと言うが、最早その面影は重文指定の多宝塔と宝篋印塔のみに偲ばれるだけ・・・・哀しいかな本堂の屋根はトタン葺きが赤錆、嘗ての大寺院も普段は無住状態と成っている。
肝心の宝篋印塔は多宝塔の脇を通って約10分程山道を登った「鷲峯山」山頂に建つ・・・・ここは我が南山城最高峰、海抜686m・・・
以前はここから琵琶湖が見渡せたが、現在周りの木立が邪魔に成って見晴らしが利きません。
山道を登っていくと正面にアク:(天鼓雷音)の文字
(アー:開敷華王)
宝篋印塔は高さ 231Cmの花崗岩製で相輪を含め完存している。
(ア:宝幢)
塔身にはそれぞれ月輪内に胎蔵界四仏の種子を深く薬研彫りにしている
左 (アン:無量寿)右(アー:開敷華王)
「アン」の基礎石には刻銘が有り、「釈迦□仏滅後二千余歳 正安二年 願主仁尊」と刻まれており・・・鎌倉後期 正安二年(1300)の造立。
国の重要文化財指定。
撮影2015.9.19
旧青山町妙楽地の県道沿いに見える磨崖仏。
国道165号線、青山伊勢路より大山田方面へと抜ける県道2号線、妙楽地集落への在所道の入口付近に茂みが有り・・・・
その根元に突き出した岩肌に5体の石仏が刻まれて居る。
白い地衣類に覆われた岩肌に舟形を彫り沈め、中に中肉彫りの地蔵立像を刻み出している。
像高凡そ40cm内外・・・地衣類の繁殖がひどく詳細は不明ながら、なかなか味のある像容。
中でもこれが一番はっきりしていますが、よく見ると江戸期以前の中世仏の様な気もしてきます。
その脇にも2~3体の地蔵立像が見られますが、どれもこれもさっぱり像容も覚付きません。
茂みの左側には小さな祠が祀られて居て、何かの信仰の場で有ったことには違いない。
鄙びた山里の名も無き「野の仏」です。
撮影2013.8.14
鄙びた山間寒村にしては大きな境内を持つ立派な神社、東笠取清瀧宮(せいりゅうぐう)の紹介です。
東笠取は宇治市の東部、大津市と境を接する岩間山西側山裾にあり、宇治市街からは隔絶された様な鄙びた山間集落。
そんな東笠取から西笠取に抜ける林道の峠付近に清瀧宮参道があり朱塗の鳥居が建って居る。
境内はそこそこの広さがあり、参道を突当ってひだり奥に石垣積みで一段高い本殿、本殿正面には拝殿、右手には社務所。
僕は拝殿だと思っているのだが神楽殿と呼ぶ人も居てどうなんだかと思ったり・・・これが神楽殿だとしたら拝殿は無い。
笠取の地は往時、西国第十一番上醍醐寺領であり、上醍醐寺の「清瀧宮」を勧請したらしい。
小さな集落がこの神社を維持して行くのは大変だろう思う・・・・こんなところは一杯あるけど。
撮影2015.8.11
撮影2015.8.24
同社地、下段に旧境内旧社殿、上段に新境内新社殿が有り、この旧社殿は京都府文化財として保存されて居るとか??
昭和五十八年、社地を京阪奈学研都市開発の為「住宅公団」に売却し旧・岡田国神社の上段に境内を増設、新社殿を建築した。
下段の境内は新境内の足元下がったJR奈良線に沿った東側にある・・・・その昔、JR線路が参道を横切って施設された様??
現在は古い参道は使えなくなり、鳥居も南側に建て替えられた様な???
岡田国神社(おかだくにじんじゃ)は生国魂命と菅原道真を主祭神とし、八幡神(気長足仲彦命・気長足姫命・誉田天皇)を配祀。
旧社格は郷社にて式内社・・・社伝では、斉明天皇5年(659年)9月、生国魂尊を祀ったのに始まると伝えられる。
境内中央の舞台を取り囲む形で、舞台の東側に横長の大型拝殿が、脇には南北氏子詰所が配されその奥、石垣の上に透塀を構えた一段高い神域に、本殿2社が並び、その左右に摂末社が建つ。
拝殿は切妻造・瓦葺・明治前期建造、ところ狭しと古い絵馬などが掲げられ歴史を感じさせてくれる。
本殿は二社が並列・・・一間社春日造・檜皮葺・江戸中期-再建
神錆びて古いほうが如何にも有難く思えるのだが・・・
撮影2015.8.8
名張方面からの帰り道、たまたま見つけた石仏さん。
いつもの事ながら新道はパスしての、わざわざ通った南古山の集落入口に信仰篤く祀られて居た。
石仏は磨崖の一部を思わせる様な自然石で、近くの旧街道筋から移動してきたような雰囲気。
多分ここは旧初瀬街道だったんじゃないだろうか??
石仏は高さ1m程の岩塊正面に舟形を彫り沈め、ローカル色豊かな造容の地蔵菩薩立像を中肉彫りで刻み出している。
たぶん江戸期の造立だろうが、供花や薫香も絶える事なく今も篤い信仰の中に生きているのが手に取るように判る。
撮影2013.8.4
岩手県平泉、中尊寺境内に立つ古式な石造宝塔。
この石造宝塔は中尊寺の子院の一つ、願成就院(がんじょうじゅいん)の峯薬師堂脇に目立つことなく建っていて、観光客の殆どは眼を向けることもない。
<正面>
石造宝塔はまるで五輪塔を思わせるような簡潔素朴な造り、安山岩製の高さ125cm。
まるで素人の僕の眼にも、その古式さや、単純明快で洗練された美しさが伝わって来る。
頂部の相輪部は請花・宝珠とし、分厚く端正な笠石と一石で造り出され、優雅で力強い
塔身は低い壺型、四方に大きく月輪を陰刻した中に金剛界四仏の種子を薬研彫にしている。
笠石の一角が欠損しているのは悔やまれる。
洗練された美を持つこの宝塔は平安時代後期の造立として学術的価値も高く国の重要文化財に指定されている。
撮影2012.9.22
我が山城、和束町湯船五ノ瀬の熊野神社跡に残された宝篋印塔。
和束町湯船五ノ瀬は山城と甲賀の国境、往古、恭仁京から信楽への街道筋に当たる古い集落・・・
その地に残された今は亡き熊野神社跡地に残る鎌倉期の紀年銘を持つ宝篋印塔が残されて居る。
スッカリ荒れ果てた境内跡地に残された宝篋印塔は高さ184cm・・・
上部の双輪は後補ながら鎌倉時代の様式を良く表した優品です。
<不空成就のアク>
塔身には月輪内に力強く金剛界四仏の種子を薬研彫りしている
反対側の阿閦如来のウーン・・・笠石は、上六段、下二段
基礎石は、上端二段・・・・側面に弘安十年(1287)の紀年銘が有り鎌倉後期の造立
脇にも「正応四年(1283)四月四日、大工行長」の銘がある宝篋印塔残欠が残されて居る。
この熊野神社はどうなってしまったのだろうか??近くには白山神社が鎮座しているが・・・
撮影2015.7.28/2011.5.21
前回に同じく香芝の古い墓地に残された阿弥陀石仏。
香芝市西端、穴虫峠を越えて太子町へと続く旧太子道沿いの古い集落「穴虫」の古い墓地。
そんな墓地の龕前堂に立つ阿弥陀石仏・・・元は国道を挟んだ向かいの新池近くに有ったものらしいのですが、近鉄線の施設工事でこの墓地に移されたようです。
この土地らしく凝灰岩性の総高150cm余り、舟形光背を負い、室町期の特徴ある蓮台に立つ像高105cmの来迎印阿弥陀如来。
副ぼには断裂痕が残り痛々しいが 天文十七年戊申七月十四日の銘が有り、室町末期の1548年の造立。
薫香の影響か?少々くすんで居ますが、風化摩耗も少なく良い状態です。
撮影2013.6.16
香芝市良福寺の集落に安置されている地蔵石仏。
奈良県香芝市は国中(くんなか)平野の西端部、あの二上山の東側、大阪南河内の太子町と境を接する歴史の古い町です。
そんな香芝市、良福寺集落南外れの立派な地蔵堂に祀られ安置されて居る地蔵石仏。
どうの中央、黒い玉石の上に舟形光背を持つ中型の地蔵立像・・・
古式な蓮台の上、厚肉彫りで刻み出され、右手は腰下に垂れ与願印、左手は腹前で宝珠を抱き、ちょっと珍しい・・・
尊顔は信仰あらたかな証拠の様に摩耗が激しく詳細不明・・・
像高約70cmにて鎌倉後期の造立とされ、貴重な石仏として香芝市指定文化財。
撮影2013.6.12