愛しきものたち

石仏、民家街並み、勧請縄、棚田景観、寺社、旧跡などが中心です。

奈良市西大寺高塚町 鷹塚山地蔵尊

2014年12月31日 | 石仏:奈良

 周りをすっかり新興住宅地に囲まれ、嘗ての旧道は密集民家の軒裏路地となってしまった鷹塚山地蔵尊。

 

地図にしっかりマーキング、これくらいの距離だからといつもの様にチャリを駆って出掛ける。

家からチャリで約1時間、付近に着いて目指す鷹塚山は見えているのだが、そこへの進入路が中々発見できない始末・・・とにかく新興住宅の密集地はなんとも始末が悪い。

小さな標石が唖然とするような位置に建って居る 。

軒裏路地が参道石段へとつながり、この先に間違いなくお目当て地蔵尊の有る事を窺わせる。

ほんの200~300歩も登ると頂上、狭い平地が有り右手に「高塚権現」の祠、左手、簡素な覆屋に大型の地蔵石仏。

木立が生い茂り、その上、背の低い覆屋が邪魔をしてまともな写真は撮れません。

高さ145cm、良い形の舟形光背を負い、二重蓮台の上に立つ像高105cmの定形地蔵立像。

こうしてローアングルで覗いたところでこんなものですが・・・・・納衣の衣紋は流麗で石工の技巧が窺われます。

暗くて判り辛いのですが、光背には丁寧な二重蓮弁んの円頭光が施され、丁寧に刻まれた石仏です。

しかし惜しいかな、肝心なその尊顔は、目鼻立ちも消え失せタコ入道・・・・まあ、それだけ信仰篤い地蔵さんだったと言えるのかも???

帰りがけに参道途中から見た北東方面・・・新興住宅が密集、その奥、右側の方には平城京背後、古墳密集地域の小高い緑が見えます。

撮影2014.11.23


桜井市 大念寺地蔵石仏/他

2014年12月30日 | 石仏:奈良

ネットでは何度もお目に掛り、デスマスクの様に異な顔が気になって居た。

近鉄大阪線、大福駅を北へ約400m、旧い住宅地のまん中に融通念仏宗、旭楼山 「大念寺」があり、その門前の地蔵堂に祀られて居る。

堂の奥壁に須弥壇を設け向かって左手に古く大きい地蔵石仏、右手に中型の阿弥陀石仏。

地蔵石仏は150cmの舟形光背を負い、床下の框座、二重蓮台に坐す像高91cmの定形地蔵坐像。

元、大福集落の南、初瀬街道筋の辻に有り、泡子地蔵と呼ばれていたようです。

それは光背面頂部に定印阿弥陀坐像、左右に六地蔵が刻まれて居ることによる様です。

 

戦火にでも遇ったのだろうか?光背体躯共に痛々しく傷つき、特に尊顔は酷いのか白い胡粉で補修され、なんとも異様です。

しかし、この石仏は鎌倉時代末期「元弘三年 (1333)」の銘を持つ古石仏、丸彫り程厚く刻み出した像容は優れ、卓抜した技巧から「伊一派」石大工の作品と考えられている。

右脇に置かれた石仏は舟形光背の上部を断裂、石仏は来迎印を持つ阿弥陀立像。

安土桃山時代、慶長10年(1605)の刻銘があります。

撮影2012.7.28


天理市 明専寺の地蔵石仏

2014年12月29日 | 石仏:奈良

天理市南西端、遠田集落から少し離れた明専寺墓地脇に立つ地蔵石仏。

先日の海知より南に約1km、この地域に多い溜池の畔に建つ明専寺。

明専寺は嘗て柳本飛行場建設の為、墓地共々この地に強制移転されたそうですが、その飛行場は未完成のまま終戦を迎えた。

どうりでこの寺はとんでも無い田圃の真ん中にポツンと建っていて、ちょっと不思議だった。

地蔵石仏は舟形六体地蔵を従える様・・、その中央に立つ総高135cm、二重蓮台の上に立つ地蔵立像。

像高85cm、円頭光蓮台を一石で削り出し、右手錫杖左手宝珠の定形丸彫り地蔵立像。

像側面に室町初期の永享3年5月の銘が確認されている。

優しく慈悲深く優しそうな尊顔だが、白いコケが邪魔をして良く見えない。

撮影2012.7.28


天理市 海知の地蔵石仏

2014年12月28日 | 石仏:奈良

天理市南西端、田原本町と桜井市に接する旧い集落、海知の地蔵石仏。

集落の北入口、覆い被さるような背の低いしかし頑丈そうな覆い堂に安置されて居る。

大きい石仏は二体、あと数体の小石仏と共に祀られて居る。

向かって右側に立つ地蔵石仏は高さ約110cmばかり、舟形光背を負い三角頭の蓮華座に立つ像高約80cmの定形地蔵立像。

半肉彫りで刻みだした尊顔は、静なる中にも理知的に見え、頭上の光背に阿弥陀種子の「キリーク」を刻み出す。

室町中期の文明18年(1486)の銘を持つ

傍らに板碑風地蔵石仏・・・・高さ約110cmの舟形光背を造り、上部に蓮華座に立つ像高26cmの定形地蔵を半肉彫り。

背面には法名多数と、安土桃山時代の天正六年(1578)銘を刻み込んでいる。

撮影2012.7.22


田原本町 八田墓地阿弥陀石仏

2014年12月27日 | 石仏:奈良

奈良県、くんなか(国中)中央部、田原本町八田墓地の阿弥陀石仏。

田原元町の東端、初瀬川と布留川等が合流、大和川とな成る少し上流左岸、堤防脇に旧い在所墓が有り、入口付近に中型石仏を安置するには立派過ぎる程の覆屋があり、中に一体弥陀石仏が安置されて居る。

いつもの様にちょっと失礼、涎掛けを託し上げましたが・・・どうもあまり芳しくない。

これじゃダメだと時間を掛けてしばし涎掛けには遠慮願いました。

総高約1mばかし、頂部の細い舟形光背を負い三角頭の蓮華座に立つ像高66ccmの来迎印阿弥陀如来立像を半肉彫りで刻み出す。

尊顔両脇の光背には向かって左に観音の種子「サ」、また右には地蔵の種子「カ」を刻み出して独特。

作風から室町中期の造立だとされる。 

撮影2012.7.28

 


大和郡山市 矢田寺墓地石仏/他

2014年12月26日 | 石仏:奈良

矢田寺、本堂裏手に有る旧い墓地の地蔵石仏。

矢田寺では六体地蔵や現代仏など一部例外を除いて、これはと思う石仏は悉く矢田寺型に刻まれている。

それが例え墓石仏であっても・・・・やっぱり矢田寺型。

双体地蔵も単尊地蔵もみんな持ち物はなし。

みんな右手を上げてのOKサイン・・・

この旧い墓地の石仏は殆ど室町後期から戦国時代にかけてのものでした。

撮影2012.7.22


大和郡山市 矢田寺「味噌舐め地蔵尊」(再撮)/他

2014年12月25日 | 石仏:奈良

随分昔にUPしてますが写真も再度撮り直したので再UPです。

境内に上がって本堂を目の前にした中央参道の右手側・・・・・大小、赤い涎掛けを付けた石仏群が有る。

中央に一際大きく目立つ、石棺仏を思わせる様な畳をそのまま縦に立てたような平板の地蔵石仏が有る。

以前の写真もそうだったのだが、赤い涎掛けがどうにも邪魔でなんとかしました。

総高210cm、幅100cm、等身大の矢田寺型地蔵立像を中肉彫りで刻み出す。

しかし大作にも関わらずどうも中途半端、顔は仕上げられて居るのですが納衣の衣紋などは未刻のままで、鏨痕が残ったままに成って居ます。

寺側の説明板には鎌倉後期の造立と成って居ますが、石仏研究家に拠ると室町中期以降の造立だとされて居ます。

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<以下「味噌舐め地蔵」の謂れです。>

その昔、近在の農婦が自家製の味噌の味が悪くなり、困っていました。

ある夜のこと、夢の中に石のお地蔵様があらわれて、「我にその味噌を食べさせてくれたら、良い味にしてやろう」とお告げになりました。

翌朝、矢田寺へ参って参道を見ると、夢に立たれたお地蔵様がおられたので、早速くだんの味噌をその口許にぬったところ、家の味噌は味が直っていたそうです。

これを伝え聞いた里人たちは、新しい味噌を作ると味が良くなるようにと、こぞってお地蔵様の口許へぬるので、誰言うとなく「みそなめ地蔵」と呼ばれるようになったのです。

また同処石仏群の中にあった地蔵石仏の内、向かって左端の石仏が目を惹く・・・・

高さ約120cm、やっぱり矢田寺型の地蔵石仏立像・・・・惜しいことに首部で断裂大破。

全容から室町後期の造立だと思われる。

撮影2012.7.22


大和郡山市 矢田寺「見送り地蔵尊」 

2014年12月24日 | 石仏:奈良

境内への最終石段、踊り場脇に立つ、ちょっと俯向き加減の大きな地蔵石仏。

正面奥に本堂を見る位置に立つ「見送り地蔵尊」は・・・・・

本堂に背を向けた形で東向きに立っている。

実は、この石仏にはそれなりの謂れが有って・・・・中興の祖、満米上人が本尊地蔵菩薩を仏師に刻ませたが、思うように出来ずにいると春日四社明神の化身の四翁が地蔵菩薩を三日三晩で完成させ去った・・・・その四翁を見送った故事にちなみ、東向きに立つこの地蔵を「見送り地蔵」と云うらしい。

高さ190cmのスマートな舟形光背を負い、二重蓮台に立つ像高156cmの堂々とした大きさ。

少し笑みを浮かべ、両手に何も持たず、阿弥陀の来迎印と同様の手印を組む所謂矢田寺型地蔵立像。

矢田寺型地蔵石仏としては最古銘の室町中期、永正12年(1515年)を光背に刻む。

高背面上部にはキリーク(阿弥陀)・カ(地蔵)・バン(大日)・タラーク(宝生)・カーン(不動)・ウーン(阿閦如来)・マン(文殊)の梵字を刻む。

かなり厚肉に刻みだし、なかなかの大作だが・・・口惜しいことに首部で断裂して傷々しい。

同処脇には高さ150cm、天正元年(1572)銘の六字銘号板碑。

撮影2012.7.22


大和郡山市 矢田寺参道の地蔵石仏

2014年12月23日 | 石仏:奈良

 

矢田寺表参道、山門手前にある地蔵石仏。

大和郡山市西端、矢田丘陵中腹に建つ金剛山寺(通称矢田寺)は「地蔵信仰の寺」、「あじさい寺」として関西では知れ渡って居ます。

両側に趣のある民家が数軒建ち並ぶ参道端に大きな自然石に刻まれた地蔵立像が有る。

総高約2m、自然花崗岩の正面を舟形状に整え、中央に等身大の地蔵菩薩立像を半肉彫りで刻み出している。

矢田寺門前に有って、所謂「矢田寺型」と呼ばれる右手に錫杖、左手に宝珠を持たない形に成って居ます。

寺の古さからするとこの石仏は随分新しく、戦国時代の天正13年(1585)の造立。

参詣者の信仰篤く、尊顔はすっかり「のっぺら坊」に成って居ます。

撮影2012.7.22


奈良市 正暦寺泣き笑い地蔵尊

2014年12月22日 | 石仏:奈良

前回に引き続き再UPの石仏二体。

正暦寺南大門跡、巨杉を二本背に負うように二体の地蔵石仏が並びたって居る。

10年程前にUPした時にも書いたと思うが、標識には「泣き笑い地蔵」とあるものの、どちらが泣き面でどちらが笑い顔なのか良くわからない。

でもこうして見比べるとどうやら向かって左手が笑い面、右手が泣き面の様な気がする・・・一言、右とか左とか書いてあれば悩まずに済むものを。

向かって左手、舟形光背を持ち、室町期の特徴そのままの蓮台に載る像高116cm。

右手錫杖左手宝珠の定形地蔵立像・・・・光背面には享禄四年(1531)の銘があり、室町後期の造立。

深く肉厚に刻み出し、まとまり良いが、やっぱり時代なのか力強さと具象化には欠ける。

一方、多分泣き地蔵と思われる地蔵立像は、ほぼ隣の舟形地蔵に等しく像高110cmばかしの丸彫り立像。

一目見るなりこれは先日紹介の鼻切れ地蔵を手本にしたのではないだろうかと思える像容。

蓮台から頭光背までを一石で仕上げ、その光背にも蓮弁を刻んでる・・・・しかし体躯はちょっとずんぐりむっくり。

特徴ある蓮弁の形から天正頃の造立。

たぶん「鼻切れ地蔵」も第二室戸台風まではこの地蔵石仏と同様の姿で佇んで居たのでは??

石仏の脇に積まれていた石造物・・・・ここは背光宝筐印塔の多いのが特徴的です。

撮影2012.7.28

今回からのマップは、グーグルビューから入れる様に設定しました。

場所の特定はピンをプッシュする事により、その位置の地図に変わります。


奈良市 正暦寺道 出垣内の「鼻切れ地蔵尊」

2014年12月21日 | 石仏:奈良

もう10年近く前、このブログを始めた頃に紹介したことの有る石仏さん。

奈良市南端域、菩提山町の山間にある、秋には“錦の里”と呼ばれる紅葉の名所「正暦寺」への参詣道途中に立っている。

正暦寺より流れ出す菩提山川に沿う正暦寺道は、谷間に拓けた棚田と共に、なんとも癒される景観の中にある。

そんな参詣道の中間辺り、小さな出垣内集落が軒を並べ、その入口辺りに簡素な覆い堂が建ち、中に石仏等が安置されて居る。

覆い堂の中央には等身大の丸彫り地蔵立像、向かって左手には六字名号板碑、右側には地蔵坐像を安置、背後ん小石仏を集めて居る。

中央に立つ地蔵石仏は総高190cm、蓮華座に建つ像高162cmの定形の丸掘り地蔵石仏。

地蔵石仏は第二室戸台風(1961)で地蔵堂と共に転倒、肩、腰の部分で折損、顔面はほとんど欠落しているが、 蓮華座は覆輪付き蓮弁を鱗葺きと細工が行き届き・・・・

円頭光も共石で削り出し、体躯や納衣の表現も丸彫りり地蔵石仏としては古様で鎌倉後期の造立。

地元ではハナキレ地蔵として信仰篤いが、ハナキレどころかまるで顔をなくしたのっぺらぼう・・・ちょっと痛々し過ぎる。

向かって右側には舟形光背を持ち磐座に半跏坐、右手錫杖左手宝珠の地蔵坐像。

光背の頭上には蓮台に載る月輪と梵字が線彫りされて居て珍しい。

向かって左手に建つ南無阿弥陀仏の名号板碑、高さ128cm、反花座の上に建ち、山形頂部の下に二伏条、下に短冊型を造り南無阿弥陀仏の六字名号

慶長12年の銘が有る。

撮影2012.7.28

グーグルビュワー、マップに連動しています


名張市 井手の茅葺民家

2014年12月20日 | 茅葺き屋根(同)三重県

名張市の小さな里山集落に残された大きな茅葺き民家。

新興団地を遠くに眺める名張市の西端、隣県奈良の旧室生村に近い山裾の鄙びた里山集落。

斜面集落の中程、周りを白壁腰板塀で取り囲み、大きな屋敷の中に立派な伊賀型茅葺き主屋が堂々と建って居る。

田舎では良く見かける・・・表には家庭菜園をつくり、脇には離家や土蔵を配しいかにも上層農家だったことを窺わせる佇まい。

この主屋の棧瓦葺き函棟はいかにも立派で大きく、これほどの函棟には殆どお目に掛からない。

どの方向、遠くからでも目の前でも充分味わえる里山の茅葺き民家がやっぱり嬉しい。

近くには抜け殻と化したこんな哀れな覆懸け家が有ったりして、侘しさを増幅させるのだが・・・・。

撮影2014.2.12


山添村  三ケ谷の茅葺民家

2014年12月19日 | 茅葺き屋根(同)奈良県

大和高原山添村、街中に建つ茅葺民家とは全く違って、いかにも民家らしい民家です。

名阪国道、神野口ICに程近い斜面上に30~40戸が散在する昔ながらの集落。

斜面を登りきると正面・・・、立派な茅葺き屋根の民家が冬枯れ菜園の向こうに見える。

街中と違って田舎では何の障害もなく、人と顔を合わせば一声かけて挨拶、用向きを伝えれば滅多に嫌な顔をされる事はない。

都会では全く考えられないような寛容さが嬉しい。

主屋は前栽(せんざい)を前に、立派な箱棟の伊賀型寄棟茅葺き民家。

両脇に離れ屋を持ち大家族が豊かに暮らして居るように見える。

やっぱり豊かな自然の中にある茅葺き屋根は生き生きしている様に感じられる。

撮影2014.2.12


東大阪市の茅葺民家

2014年12月18日 | 茅葺き屋根(上懸屋含む)大阪府

裏から見ると・・・多分下屋は原形をを留めない程にに補修改造が勧められ茅葺屋根がちょこんと載ってる様に見える。

<これはgoogleストリートビューの画像です>

東大阪市、中央大通りと近鉄奈良線に挟まれた町工場と住宅街の密集地、正面を御厨天神社と筋向いに建つこの辺りでは名の知れたお団子屋さん。

正面長屋門を改造、「団子みくりや巴屋」として営業してる様ですが、僕の訪れた日はちょうど定休日、表はしっかり戸締めでした。

表側は建て込んだ町並み故、撮影ポイントが見いだせ無いのですが・・・・なんとか主屋の見えるポイントから撮影すると、どうにか大和棟の様な・・・

こんな景観は北河内から生駒、山城では馴染深いものです。

しかし裏側からの景観は、どう撮影しても茅葺母屋が半分ちょん切られ、お愛想で残された様に感じる。 

撮影2013.12.9


八尾市 桃林堂板倉家住宅

2014年12月17日 | 茅葺き屋根(上懸屋含む)大阪府

 

「桃林堂」と言う和菓子屋さんのお店として使われて居る茅葺大和棟の旧家の建物。

 

近鉄八尾駅から南に300mばかし、古い住宅密集地のT字路角地に正面を東西の道路に面して平入の大型大和棟茅葺民家が建っている。

街中に残る民家としては珍しく、主屋が道路に面しており、容易く全容が撮影出来るのが嬉しい。

この辻は旧街道の出会いの辻に当たり、江戸時代には河内木綿を取り扱っていた問屋の町屋を「桃林堂」創業者の板倉與兵衛が大正時代に買い取ったもの。

平成11年には国の登録有形文化財に登録され、平成23年に母屋の蚊帳を葺き替え、いかにもと言う凛々しい景観となった。

下屋は出っ張りの少ない落棟を持ち、本瓦葺き、正面の棧囲いも懐かしい面影を良く伝えている。

この建物だけを見てると、一気に50年ほど昔に戻ったような気に成ってくる。

撮影2013.12.9