愛しきものたち

石仏、民家街並み、勧請縄、棚田景観、寺社、旧跡などが中心です。

木津川市 動(ゆるぎ)観音

2006年06月29日 | 石仏:京都

国道24号線は奈良県境の木津町で奈良公園を避けて大きく迂回するが、旧道は奈良坂をを越えて大仏殿の大屋根を、やがてめのまえにする。

木津町で、旧道に入ると直ぐの集落が市坂の集落で、この集落の終わる辺りの右手上方に小さなお堂が二つ並んで建っていて、

右側のお堂が動(ゆるぎ)観音堂と呼ばれていて中に十一面観音石仏が安置されている。

舟形光背を背負う花崗岩製で左手に杓杖、右手には花瓶を持つ所謂長谷寺型十一面観音石仏で等身大。

この石仏は、奈良の春日山の奥で刻まれ、いろんな村から欲しいとやってきた が動かず、市坂の村人が動かしたら不思議と動いたのでここに安置したという。

当初から、堂内に祀られていたらしくほとんど風化などの劣化は見られず当初の姿のままのようにも見える。

扉にはいつも錠前が下ろされていて扉を開けられず、レンズを扉の格子に突き刺してのストロボ撮影になってしまって、このような写真しか手にすることが出来ません。

撮影2006.2

場所はここ


宇陀市 大内峠十三仏(地蔵菩薩)

2006年06月27日 | 石仏:奈良

大内峠は旧伊勢本街道の内牧から、室生の上田口へ通じる旧道に有る峠。

榛原から国道369号線で、高井を越えると車は山深い緑の中を走ると、やがて榛原地区最後の集落上内牧を越えて開路トンネルに至る

開路トンネルの手前の左手に少し広場があって、石仏の案内板が立っている。

道路はありそうなのだが、車はここで捨てて行かなければ成らない。

案内板どおりに約30分程度でこの石仏の前に着く。

道は、歩くには悪くないが、余り人が歩いた形跡はなく、ぬかるみもある。

途中1箇所大きくルートそれる場所が有って急な山道を登るが、案内板があって先ず間違うことはない。

暫く行くと石段がありやがて山腹に大きな安山岩あり、その3面に13仏が刻まれている。

背後には大きな木があり、この磨崖仏を守るように枝を伸ばしている。

磨崖石仏は高さ幅共に約2m余り、奥行き1.8mの自然石で岩の上には平たい岩石が屋根のようにせり出していて

野趣豊かな磨崖石仏で、周りの景色ともよく溶け合って魅力有る風景を創っている。

正面には薄肉彫りの地蔵菩薩、左手には不動、文殊、大日、虚空蔵、右下にも1体見えるが判然とはしない。

右面には稚拙な線彫りの薬師、弥勒,普賢、釈迦、左面には阿弥陀三尊を配してる。

主尊の地蔵も形式化した彫りで力不足を否めない室町後期の造立。

人里からも遠く離れ、今は利用する人も居ない旧道の峠に立つ磨崖石仏に訪れる人はなく、手向けられる花もない。

多分年間に、数えるほどの酔狂な石仏ファンしか訪れることのない、この石仏がなんともいとおしい。

撮影2006.4.30

場所はここ


木製火の見櫓

2006年06月25日 | 風物:陵墓

 

もう何年前になるかも,おぼろげな僕の小学校の頃、僕の地域の村々には、各村ごとに木組みの高い火の見櫓が在って、そのテッペンには半鐘がぶら下がっていた。

小学生の頃の餓鬼大将たちは、大人の禁止していることを遊びの材料としていた。

ため池での雑魚採り、遊泳禁止の木津川での水あそび等・・・・。

その一つが、火の見櫓登り・・・・。

小学校、低学年の子供にとって、火の見櫓のあの梯子への挑戦はガキ大将の肝試しであったのかもしれない。

夏休みの午後1番、ワルガキが4~5人誘いあって、大人たちの昼寝の時間を利用して、火の見櫓への挑戦、見つかってはの,大目玉・・・・・・。

この歳になって、あちこちにブラブラ出歩きいろいろなものを,見聞きするようになって、どんな片田舎に行っても ,あの頃、僕たちが親に隠れて登った木製の火の見櫓が無いことにきづいた。

鉄製のスマートな櫓がそれにとって変わり、半鐘も滅多なことではみかけなくなった。

それがつい昨日、奈良県桜井方面に出かけた時、たまたま入った喫茶店の近辺マップで見つけた。

国道166号線沿いの忍坂(おっさか)集落内は近畿自然歩道になっていて、旧街道の面影を残している。

舒明(じょめい)天皇陵の石碑の有る辻に立つと民家の屋根越しに大きな岩の塊と、この木製の火の見櫓が見える。

近づいて見ると、梯子の前に大きな岩があって、岩の後ろ側から、2本の丸太柱を立てて梯子は鉄筋を柱の間に渡している。

岩の前からは2段の梯子しか見えず、岩の上に登ると丁度大人の背丈ぐらいの所の半鐘が吊り下げられていて、岩の上から半鐘を撞いていたらしい。

僕らが子供の頃に登った火の見櫓はもっともっと高かった様に思うのだが・・・。

梯子の数は10段ぐらい、間が50cmぐらいだとすると約5m・・・・

やっぱり低いような気はするけど・・・・・。

それでも滅多に見ることのない木製の火の見櫓、今度又この辺りを訪れるときにも、ちゃんと残っていて欲しい風景です。

 

撮影2006.6.24

場所はここ

 

 


宇陀市菟田野大神 西念寺の六地蔵石憧

2006年06月23日 | 石仏:奈良

菟田野町も例に漏れず、今年から宇陀市菟田野地区と言うようになって、非常に解りづらい。

大神の集落の高台に西念寺と言う無住の小寺があって、横の小さなお堂にこの六地蔵石憧がある。

ふだん、余り見かけない形をしているのが珍しく訊ねてみた。

石憧というのは、仏堂内に掛けれている憧という1種の旗の形から出たもので、二種の形式が見られる。

単製のものは6角、8角の長い幡身の上部に仏像や梵字をあらわし、うえに笠をを置いている。

複製のものは幡身の上に仏像を表す龕部を別に造るもので石灯篭に似ているが、龕部には火袋のような穴は開けない。

六地蔵は、地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上の六道にあって衆生を救ったことから、室町時代以降、その地域に住む人たちの「魔除け」として集落の入口に作られるようになりました。

ここのものは、六地蔵石憧と呼ばれるもので6角柱の全ての面にそれぞれ1体づつの地蔵立像を、半肉彫りにしており、

総高約160cm、安山岩製で、江戸時代初期の元禄3年(1690)9月15日建立とある。

六地蔵の像高はそれぞれ45cmで、やさしい顔の六地蔵である。

元は村の入り口の三叉路付近の水田の中に、村内の安泰と平穏を願って建てられていたものだと言う。

撮影2006.4.1

場所はここ


鳴川の勧請縄

2006年06月21日 | 勧請縄:山の神:野神:人形道祖神

生駒谷の奥深くに千光寺という古刹がある。

役行者が生駒明神の御神託によりここを拓いて小さな草堂を建てたという。

この千光寺の参道脇に細長く連なっているのが鳴川の集落で、鳴川が村の下を流れている。

集落入り口近くに鳴川の公民館があり、そのがけ下が勧請場になっていて、磨崖石仏群がある。

ここは、大きい岩壁が左右に迫る深い谷で、対岸の崖の上からは、細いながらも勢いのいい滝が落ちていて、水しぶきを上げていた。

勧請縄は、この谷を、跨ぐように滝の上部から、対岸の岩場の木立まで渡されている。

下流の椣原の勧請縄とほぼ同じ形の勧請縄で、♂のシンボルと思しき飾り物も下がっている。

毎年大晦日に掛け替えられているという。

 撮影 2006.5.21

場所はここ

 


伊賀市 おもん地蔵

2006年06月19日 | 石仏:三重

前回紹介の笠地蔵より100mほど伊賀上野より、しかし笠地蔵から直におもん地蔵まで行くことは出来ません。

国道に戻って、上野方面に走るとすぐ、右手に看板屋さんの建物があり、その先に左手の谷川に下る小道を行くと対岸に出る。

対岸の余り人の通ったことの無いような道を100mばかし戻ると、この地蔵石仏を祀った小さな広場に出る。

真ん中にこの地蔵石仏を置き、両脇に小石仏や小さな五輪塔が並べられている。

等身大の花崗岩を舟形に作って、目鼻立ちの優しい地蔵を中尊に

両脇には舟形光背を彫りくぼめて、半肉彫りの小地蔵を刻んでいる。

前前回紹介の「見届け地蔵」とそっくりの三体地蔵石仏で、場所も1kmとは離れていない。

撮影2006.2.11

場所はここ


伊賀市 笠地蔵石仏

2006年06月17日 | 石仏:三重

前回に紹介した、見届け地蔵から直ぐ近く、国道163号線の三軒家交差点から伊賀方面へ走ってすぐ、右手に陶器を扱う小さな店らしきものが有る。

その手前にガードレールの途切れた場所があって、小さな谷川に下りる小道をすすみ、谷川をわたる小橋を越えた所にこの地蔵堂が建っている。

今にも朽ち果てそうな地蔵堂の中に、花崗岩の自然石に半肉彫りされた等身大の地蔵石仏が、頭上に四角い反りの有る屋根型の笠石を乗せて立っている。

この石仏の前を、奈良と伊賀を結ぶ伊賀街道が通っていて旅の安全を祈願したものだろうと云われています。

鎌倉期の造立、今は人の通りも途絶えて、草深い地に有るが手向けられた花は新しく、忘れ去られてしまっては居ないことが伺える。

撮影2006.5.6

場所はここ。


伊賀市 見届け地蔵

2006年06月16日 | 石仏:三重

国道163号線で京都府内から伊賀方面に進むと、三重県に入ってすぐのところが島ヶ原、ここを過ぎて一山越えたところが三軒家の交差点。

この交差点は島ヶ原からの旧国道が新しい国道に合流するところで、ここから左折して旧国道を戻るとすぐに三軒家の集落がある、この集落の稲荷神社の入り口にこの見届け地蔵が居られます。

舟形光背を背負った三体地蔵で,中尊の地蔵は大きな杓杖を右手に左手には宝珠をもっており、脇侍の地蔵は向かって右の方は宝珠を持ち、左の方は合掌されています。

脇侍の光背部分には朱色で彩色された跡がかすかに残っています。

中尊の地蔵は、ウインクでもしているように左目を瞑った形になっているのが不思議です。

又この石仏の左側には、4本の石柱の上に平石を乗せて石龕様に造った中に丸彫りの地蔵を収めている。

この石仏自身は、石仏としての魅力には乏しいが、風景の一部として見る者の目を楽しませてくれる佇まいです。

撮影2006.5.6

場所はここ


旧美杉村 日神(ひかわ)墓地石仏群

2006年06月14日 | 石仏:三重

日神(ひかわ)墓地のある美杉村は、例に漏れず、つい最近の市町村合併で津市となって、どうもピッタリとこない。

美杉村は奈良県との県境の山里で奈良県の御杖村・曽爾村、と接していて、その昔伊勢本街道の宿場町としてさかえた歴史の村でもある。

村の西の太郎生(たろう)地区は大阪湾に注ぐ淀川、木津川の支流、名張川の上流にあたり、平家の落武者が住みついたと伝えられる地である。

奈良方面から国道369号で、御杖村の道の駅の前で国道が名張方面から来た368号線にぶつかる、このR368を左折、直ぐに、三重県の県境を越えて、太郎生(たろう)地区に入る。

墓地から見た日神集落

この辺りから、青蓮寺川沿いに名張方面に約15分ほど走ると飯垣内(はがいと)しゅうらくに入る、飯垣内のバス停より名張川を渡って飯垣内の集落を抜け、曲がりくねった道を上りきった所にある小さな集落が日神(ひかわ)である。

この地域の住所の読みは非常によみづらい、おまけに、飯垣内(はがいと)の集落を抜けると凡そ、この奥に人が住んでいるとはおもいも依らない山道を2km以上も登ったところに4~5軒の家があって、それが日神の集落でした。

この地は昔平家の落ち武者が住み着いた所と伝えられており、ここの墓地に平 六代君墓が伝わっている。

この墓地は柵でかこまれて居て鉄製の扉を押し開けて入らなければ成らないが、この中に三重県指定文化財の日神墓地石仏群がある。

入り口から小さな石段を登ると、正面突き当たりの石龕の奥に高さ1.2mの安山岩に舟形光背を彫りくぼめ、蓮花座に座す半肉彫りの像高約80cmの、定印阿弥陀如来石仏が安置されている。

顔の表情が写実的で、体の線も柔らかく鎌倉中期の作だといわれています。

阿弥陀の左右にセイタカ童子と矜羯羅童子を種子であらわした石柱が、建っていますが、その主尊の不動明王は見当たりません。

阿弥陀石仏を取り巻いて、地蔵、弥陀、釈迦等

半肉彫りの石仏が立ち並び古い様式を表しており鎌倉期の像立だといわれている。

このような山奥の人も住みづらい所にこうした素晴らしい石仏が残っている事に、云うに言われぬ魅力を感じる。

撮影2006.4.21

場所はここ。


平群町椣原(へぐりちょう、しではら)の勧請縄

2006年06月12日 | 勧請縄:山の神:野神:人形道祖神

 

奈良県平群町椣原は、生駒山と矢田丘陵にはさまれて、竜田川が北から南へと流れるなだらかな谷地で、近鉄生駒線がそれに沿う様に走る。

椣原は、近鉄生駒線の元山上口駅から、国道168号線を少し北に向かう。

やがて、椣原橋を渡り金勝寺の山門に出る、その山門の前に旧集落が竜田川沿いに何軒かあり、軒先の道を辿っていくとやがて勧請場に出る。

近鉄生駒線が竜田川をわたる所、車窓からはたぶん手に取るようにこの勧請縄が目に飛び込んでくる事だろう???。

線路に平行して竜田川の龍淵をまたいで掛けられた勧請縄は、大地に潤いを与え、雨を呼ぶ龍を形どった、男綱と女綱が縒り合わされ和合の形になっているという。

リアルな形の♂のシンボルが縄の中央にあり、両側に吊り下げられているのは、両足を現していると近所のおじさんから聞きました。

綱藁は40mの男綱と12mの女綱を撚り合わせ、♀のそれも、妙にリアルに勧請杭に巻きついた形でみられる。

いずれにしても、水神信仰に豊作を祈願する農耕儀礼と、子孫繁栄を願ってのものと考えられています。

このあたりは行基が金勝寺を創建の時に、竜田川の竜穴に住んでいた竜を守護神として祀ったところだといわれていますが、今はこのあたりの竜田川も水が汚れてよどんでいて、龍が住む地としてはかけ離れた地になっている。

撮影2006.5.28

場所はここ


奈良市 柳生坂原の磨崖石仏

2006年06月09日 | 石仏:奈良

柳生坂原は般若寺から国道369号線で柳生に向かう途中の集落で、一帯は柳生街道周辺にあって、石仏が多いところとして知られている。

今回は、この辺りで余り知られていない、野の仏を訪ねてみた。

一体は、国道が大きく蛇行した白砂川を二度めに越える小さな橋の西側の田圃の畦道にある。

写真の様に木立の影に大きな石が地中から顔を出しており、その東面に阿弥陀如来石仏を舟形光背の中に半肉彫りにしている

像高は約4~50cm、彫りは稚拙ながら周りの風景によく溶け合っていて野の仏としての魅力満点の阿弥陀磨崖石仏である。

今は訪れる人もなく野良仕事帰りの人が手を合わすのみかの様なたたずまいです。

もう一体は、集落の入り口辺に有る木立の裏側の小笹の茂みの中の大きな岩に相体地蔵と思われる石仏が四組、全て長方形の堀窪みの中に半肉彫りにしている。

像高は全て約30cm、拙い彫りながら野趣にとんでいる。

地元の人の話だと昔この磨崖石仏の前に古い街道が通っていて、多分道中の安全を願った地蔵さんであろうという事でした。

撮影2006.3.5

場所はここ


室生の石仏-2

2006年06月06日 | 石仏:奈良

室生の集落は室生寺を見下ろす山の中腹に家々が点在している。

集落から見下ろした室生寺

室生の里

仏隆寺からの室生古道がが集落の間を縫っており、風向明媚な山里として知られているが、この街道沿いに石仏を訪ねた。

山里を抜け山越え道に進んでいくと、左手に真新しい地蔵堂が建っていて其の中に像高1mばかしの地蔵石仏が居られる。

以前は茅葺き屋根の風情ある地蔵堂で在ったらしいが、最近改築され風情は損なわれてしまっていた。

地蔵石仏は江戸時代のもので、石仏の腰の部分で断裂していて、腰折れ地蔵と呼ばれている。

それより少し奥に進むと道沿いの小高いところに小石仏が数体並んでいてその表情が面白い。

取って返し、室生の集落のてまえに「西光寺」が建ち、無住のひなびた佇まいを見せている。

古道に面した境内に写真の様な巨樹、樹齢約300年「城之山枝垂桜」が植わっており、本堂を背にして等身大の丸彫りの地蔵石仏がおられる。

表情がおだやかで、知人の誰かに似ているような親しみのある顔立ちが懐かしい石仏です。

撮影2006.4. 30

場所はこの辺りです。


室生寺 軍茶利明王(ぐんだりみょうおう)磨崖石仏/他

2006年06月04日 | 石仏:奈良

室生寺には何度となく足を運んでいるが、いつの季節に行っても、自然美の中に森閑とあるたたずまいは参拝者をあきさせない。

女人高野として又石楠花の古刹として名高く、見るべき古仏もたくさん居られるが石仏に関しては余り見るべきものが無い。

檜皮葺きの美しい金堂の右手にある鎮守社の傍らに杉の巨木があってその根元に珍しい石仏が有る。

軍茶利明王(ぐんだりみょうおう)磨崖石仏で像高約1m、10本の腕を持つ異様な姿です。

享保年代の銘があり、江戸期のものです。

室生寺を龍穴神社に向かうとすぐに室生川を跨ぐ橋があり、みぎてに郵便局がある、その室生川の対岸の岩肌に、地蔵菩薩坐像磨崖石仏が有る。

多分ほとんどの観光客も目を留めたことは無いような場所で、ほとんど何の案内書にも掲載されてなく、地元の人だけが知っているだけかもしれない。

近づく方法が有るのかもしれないが、見つからなかったので対岸からの望遠撮影に頼らざるをえません。

最初対岸の岸辺の岩壁を探していたのですが、山肌のかなり高い場所で、木々のえだにかくれてかなり見つけにくい。

像高1.8m室町後期の作だそうです。

その横には恵比寿神が刻まれているそうですが確認できません。

ちなみに室生川に架かる橋は恵比寿橋というそうです。

撮影2006.4.23

場所はここ。


守山市 西隆寺の石仏

2006年06月02日 | 石仏:滋賀

滋賀県守山市に西隆寺という茅葺の本堂が珍しい古刹がある。

国道8号線から、琵琶湖大橋へと続く道路へ入って、新幹線と東海道本線の間の右手道路脇に有るので迷うことは無い。

茅葺の本堂に向かって左手が墓地に成っており、そのなかに二体の優れた阿弥陀石仏が有る。

一体は本堂の前に有る鐘楼の前、墓地への入り口にあたるところに高さ1.3mの花崗岩に舟形を彫りくぼめ

像高68cmの阿弥陀坐像を半肉彫りしたもので、やさしい顔の表情がよく、背景の鐘楼とよく似合っていかにも石仏としての風情がある。

南北朝時代の像立。

もう一体は古いの墓地の真ん中あたりに、本堂を背にして置かれている。

高さ1.6mの花崗岩を舟形二重光背にした中に阿弥陀坐像を半肉彫りにしている。

像容は少し風化が進んでいて、顔の表情までは良く判らないがプロポーションがよく力強く、座った膝の張りにも安定感があり、鎌倉後期の像立。

このほかにも小石仏や、石造物に見るべきものが多く有る。

撮影2006.4.16

場所はここ