愛しきものたち

石仏、民家街並み、勧請縄、棚田景観、寺社、旧跡などが中心です。

滋賀県東近江市 政所の茅葺き民家

2014年02月28日 | 茅葺き屋根(上懸屋含む)滋賀県

多分、政所の中心地だと思われる集落の鎮守、八幡神社入口に建つ茅葺き民家。

政所入口集落よりダラダラ峠を越し、御池川沿いに少し遡り、目の前に現れる家並がこの辺り・・・大きなグランド越し、鎮守の杜をバックに懐かしい家並が美しく映える。

この茅葺き民家は、鎮守八幡神社前に在り、もしかして社家なのだろうか??

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下屋は現代風のアルミサッシや瓦棒葺きにと手を加えられて居ますが、上家はスッキリ寄棟茅葺き。

棟仕舞はトタンを被せた箱棟・・・・見た感じ下屋の庇は後の継ぎ足し??、元は葺き下ろし屋根では無かったのかと思える。

小さな破風脇は東近江地域に多いフックラ丸みを帯びた仕上げに成って居る。

裏側、神社境内から見るとこんな風・・・・やはり日裏部分は屋根の傷みが進んでる。

立ち去り難く、御池側を挟んだ高台より遠望すると、それはまさしく緑に包まれた山里風情・・・・・。

こんな景観はそうそう出遇えるもんじゃない。

撮影2013.6.23:2012.6.24


滋賀県東近江市 政所(まんどころ)の茅葺き民家

2014年02月27日 | 茅葺き屋根(上懸屋含む)滋賀県

前回紹介の杠葉尾町(ゆずりおちょう)から、国道421号線を少し麓の方に引き返すと黄和田町、その先で愛知川を右岸に渡りUターン気味に県道を遡ると目の前に茅葺き屋根が見える。

この集落の呼び名は分からないが、現在では政所の入口に当たる場所、古くは単立した集落だったろうに??

集落の北端、新道と旧道が交わる低い谷地、小さな茶畑を背に寄せ棟に瓦葺き箱棟を載せた茅葺き民家が建って居る。

片妻を中二階の棧瓦落棟とし、前後にも棧瓦の庇を迫り出している。

片袖、落棟側から見ると、伊賀辺りでよく見かける特殊な妻処理をしている。

これは中二階に改造のため、こんな形に成ってしまったのだろうか???

片側、葺き降ろしの妻の破風は小さく、東近江地域で良く目にするふっくらせり出した葺き方に成って居る。

こちら妻側から見るとなんとも趣ある姿をしている。

撮影2013.6.23


滋賀県東近江市 杠葉尾町(ゆずりおちょう)の茅葺き民家

2014年02月26日 | 茅葺き屋根(上懸屋含む)滋賀県

前回に引き続き県境の山里、杠葉尾集落内をウロウロ歩き回って見つけた茅葺き民家。

これほど多くの覆懸屋が居並ぶ中、何とかもう一軒茅葺き民家が残って居た。

集落の南端入口近く、愛知川左岸の在所道脇に小さな入母屋の茅葺き屋根を乗せている。

多分増改築で主屋半分の茅葺き屋根を半壊(改)、現代風の瓦棒屋根に置き換えたのだろう・・・。

庭先の片隅が自家用菜園に成り、全てネットに囲まれ、ここがかなり山深い地で有る事を知らされる。

まだ葺替えられて間もないのだろう??近江独特の竹串「前垂れ」も良く似合う。

改築前は両妻ともに入母屋造りだったのだろう・・・・。

撮影2013.6.23


滋賀県東近江市 杠葉尾町(ゆずりおちょう)の茅葺き民家

2014年02月25日 | 茅葺き屋根(上懸屋含む)滋賀県

最近どの地域でも茅葺き民家は激減しているが、ここ琵琶湖を挟む近江地域の古い集落には、琵琶湖岸に豊富に群生する葦(ヨシ、アシ)を利用した民家が色濃く残されて居る。

東近江市から鈴鹿山系越えで三重県桑名方面に伸びる八風街道(現国道421号線)沿い、三重県との境を分ける石榑峠を目前にした滋賀県最東端の杠葉尾集落に残る茅葺き(葦葺き)民家。

杠葉尾は東近江市中心街より約40分も愛知川沿いの国道421号線を遡った辺境の山里集落・・・・、覆懸屋がその殆どを占める様に成ったとは言え、懐かしい景観をよく今に残す集落です。

杠葉尾集落の最南端、国道から見渡せる位置に洒落たログハウス風の建物と、この茅葺き民家が並び建つのが見え隠れする。

国道からでは直接近づけず、在所道をくねくね歩いてお邪魔する。

ちょうど奥さんが庭の手入れをしていて、それとお願いして撮影させて戴いた。

下屋は改造補修で相当手が加えられているが、現役バリバリの葦葺き入母屋造り・・・・

まだまだ元気な中年夫婦とその子供たちが住まいしてるようで、家の周りも整理整頓が行き届き心地よい・・・・こちら裏側斜面よりのワンショット。

妻破風には「前垂れ」と呼ばれる割り竹で造った飾りが備えられ、近江地方独特の味を保って居る。

琵琶湖より遥か離れた山里でも、葦葺き屋根に「前垂れ」の近江風茅葺き民家です。

因みに 杠葉尾集落の「杠葉」とは、正月飾りにも用いられる吉兆植物の「ユズリハ」・・・・、もしかして付近の山に多く自生してるのかも??

撮影2013.6.23


奈良県旧室生村 深野の茅葺き屋根

2014年02月24日 | 茅葺き屋根(同)奈良県

前日紹介の下笠間から名張に抜けようと、通りがかった深野の山里、棚田集落

峠からの下り道、突然現れた真新しい茅葺き屋根にビックリ、思わず車を脇に寄せてバシャ・・・。

この土地も天界に広がる棚田が素晴らしく寄り道になっても良く通る場所・・・・・、随分昔の茅葺き写真集には棚田に囲まれた素晴らしい景観の民家が写って居るが、現在朱い覆懸屋根に変わり、ここ4~5年前から毎年の様に訪れるのだが・・・、終ぞ茅葺き民家には出遭わなかった。

まだ補修改築工事中の茅葺き民家は、業者さんの話によると、都会の人が買取り、古民家宿の様な施設でオープンするとか???

色々検索してると、この民家「古民家再生(ささゆり庵)」のページを見つけました。

この写真は2010.7.28に撮影したもの、正面右端の黒い覆懸屋がそのもの、集落の片隅斜面に建ち全く目立たなかったのだが・・・・・。

まだ葺き上がって間もない茅葺き屋根、下屋の棧瓦も箱棟も眩しいぐらいにピッカピカ・・・・

伊賀型、寄棟茅葺の上に棧瓦の箱棟を載せて居る。

屋根部はきっちり決まって凛々しいのですが・・・・・下屋や内装は只今工事中・・・・・

眩く、自信を取り戻したように見える茅葺き屋根は「ささゆりの里」と呼ばれる深野に笹百合が咲き出す頃にはオープンするのだろうか??

またこちらに来る楽しみが一つ増えそう・・・。

撮影2014.2.12


奈良県旧室生村 下笠間の茅葺き民家

2014年02月23日 | 茅葺き屋根(同)奈良県

前日に引き続き、室生下笠間集落の茅葺き民家・・・。

県道から集落の南外れに入り込む進入口付近にも覆懸屋が二棟・・・

集落内中段から見下ろすと・・・・中央辺りに草臥れ果てた茅葺き屋根見える。

棚田の果てた平地に大きな屋敷を構えて居るが・・・・・遠目にも荒れ果て、最早廃墟と化している。

大きな長屋門の奥に聳え建つ大和棟茅葺き民家・・・・今なら少し手を入れれば、まだまだ間に合いそうな佇まい。

放棄されてもう何年も経つのだろうか??既に棟には肋骨も見え隠れ、哀しい姿を晒している。

近くで見かけた屋敷内茅葺き納屋・・・。

真新しい棧瓦屋根の主屋脇に、そろそろ寿命を迎えそうな茅葺き屋根の納屋。

多分、十年程前には主屋と納屋が二棟並んで茅葺き屋根だったのだろう・・・・。

その頃、この土地のことは、まだ知らなかったもんなあ

撮影2014.2.12


奈良県旧室生村 下笠間の茅葺き民家(更新)

2014年02月22日 | 茅葺き屋根(同)奈良県

以前、このページでもUPした室生下笠間の茅葺き民家。

前回は春爛漫の四月末、それに石仏撮影の序での撮影、ワンポイントだけの撮影ではいかにも勿体無いロケーション・・・・。

棚田斜面沿いの旧道脇に二棟並び建つ茅葺き屋根を再度各方向から撮影したいと出掛けて来た。

2月初旬、立春を過ぎて直ぐに降った雪は、一週間程経った12日にも、日陰部分でまだ淡く残り幻想の世界を醸し出していた。 

県道から集落への進入道付近から見上げると並び建つ2軒の茅葺き屋根は手前の竹藪に蹴られて同アングルでは納まらない。

こちらは上段にある伊賀型箱棟を持つ寄棟茅葺き民家。

並び建つ下段の茅葺き屋根は本格的大和棟の高塀を聳え立てている。

この方向からは屋敷の裏側に成るのですが南側に当たり全く白いものは見えません。

集落外れ、茅葺き屋根の並ぶ旧道から見下ろす下笠間の里は、覆懸屋も数多く見え、いかにも長閑で鄙びた山里景観そのもの・・・。

集落最上段から二軒並びの茅葺き民家を見下ろすと・・・・・・北側の屋根だけにうっすら残り雪。

二軒並びの上段に建つ茅葺き民家、寄棟茅葺き屋根に大きな箱棟の伊賀型棟仕舞・・・・・・

 

そう言えばここから三重県境までは直線で3km程・・・・伊賀と大和が同居してても何の不思議もない。

妻側下屋のとの間に煙出しだろうか?小さな棧瓦の庇が見える。

下段、石垣上に腰板白壁土塀を巡らし、二棟の土蔵に挟まれ、雪景色の大和棟。

正面は塀の奥にあり良くは見えませんが無理やり撮ればこんな感じです。

何度かは手を入れたのだろう・・・切り妻部分の白壁も腰板も傷みもなく綺麗に整えられて居る。

元士族の家柄だろうか?土蔵の「丸に立ち沢瀉」家紋が眩しい。

大和圏内広しと言えども、こう何拍子も揃った景観を堪能出来る場所はそうそう有るものでは無い。

「我が心のふるさと」を地で行く景観です。

撮影2014.2.12


奈良県香芝市 下田東民家(更新)

2014年02月21日 | 街道街並集落 景観 

全国的に大雪になった2014.2.14の朝、近くに住む友達が雪に包まれたこの民家の写真を届けてくれたので、ここに更新UPです。

 

遠くに住む僕には願っても撮影出来ない景観・・・・・感謝感激雨霰!!。

滅多に見れない風変わりな屋根のの民家に降り積もる雪・・まあしかしこんな雪の中を、いくら近いとは言え、車移動で良くぞここまで辿り着いたもんですね。

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この近くへ石仏を見に来て、石仏は戸締で目的は達成出来ず、近くで見かけたちょっと風変わりな民家。

香芝市下田、旧街道沿いに一昔前の懐かしい民家が並び・・・・・、

その一角、ジグザグ交差の角地に表側から見る分には、道路の角切りに沿い「不整形六角形」に見える。

対面する二階家から少し見下ろせば・・・・角々と見事に曲がり、ちと不思議・・・・

方角を変えれば何の事はない、寂れてシャッタ-を降ろされた街の酒屋さん。

こんな姿の、個性を剥き出した様な・・・、こんな民家はもうすぐ見られなく成りそう。

撮影2013.6.16


奈良県宇陀市 深野の勧請縄

2014年02月20日 | 勧請縄:山の神:野神:人形道祖神

今年初めて関西地方に春を呼ぶ雪のあった約一週間後・・・「旧室生村深野」を訪れた時、頭上高くに掛け渡される勧請縄が目に付いた。

<この写真のみ、2010.7.24>

勧請縄は深野集落の入口、上笠間方面より伸びる林道の峠。

眼下に集落や名張盆地を見下ろす峠の頂上、切通部両端の勧請木に掛け渡されていた。

細縄に小勧請が三ヶ所に吊り下げられた単純素朴な勧請縄ながら・・・・・、その長さは約10m、頭上はるか高くで集落を見守るかのように架けられていた。

小勧請の先端は蛇の頭を象徴するかのように結ばれただけの簡素さ、その、たった三ヶ所の小勧請に集落の想いを賭けている様にも感じ取れました。

撮影2014.2.12:2010.7.24


名張市下比奈知 永福寺の二石六体地蔵

2014年02月19日 | 石仏:三重

昨日に引き続き、名張市下比奈知「永福寺」の石仏さん。

境内墓地への登り口、擁壁脇に切石基壇を設け、中央にちょっと珍しい二石六体地蔵が祀られて居る。

向かって左手一石には、三体の、各々江戸中期以降の蓮座に立つ地蔵立像。

右手の一石には同じく、殆ど目鼻立ちも解らない程の地蔵立像。

共に像高40cm程、大和高原域から名張方面には一石六地蔵はどの墓地でも見られるが、二石六体地蔵はそう多くない

撮影2012.4.15


名張市下比奈知 永福寺の石仏-2

2014年02月18日 | 石仏:三重

参道をを挟んだ対面には無縁等の集積が有り、その脇にずらっと一列に石仏さん達。

向かって右端には、角形彫り込みの中、ものの見事にデフォルメされた合掌地蔵?と五輪塔。

中程にはこの地域では良く目にするローカル色豊かな石仏・・・・自然石に大きく深く、駒形状舟形光背を掘り沈め・・・・・

中央に蓮台に乗る六字名号板、向かって左手に定形地蔵立像、右手に放射頭光背を持つ阿弥陀立像・・・・いずれもがこの地域独特なデフォルメ仕様で刻まれて異彩を放つ。

江戸時代初期の元和7年8月25日(1621)の銘が確認できる。

左端に立つのはこんな地蔵三尊・・・・幅の広い舟形光背を背に、総高1m足らず・・・・・

反花座基台の上に載り、中尊、定形地蔵立像は像高約60cm、脇侍地蔵立像は共に約40cm、室町後期様式の蓮座の上に立つ。

厚肉彫りで中世様式を踏襲・・・・まだローカル色に塗れる以前の作風・・・・・。

しかし背面には背光五輪塔を彫り込み、両面石仏と成って居るが当初から両面だったのか?、背面は追刻なのかは定かではない。

撮影2012.4.15


名張市下比奈知 永福寺の石仏-1

2014年02月17日 | 石仏:三重

名張市下比奈知「永福寺」に残る数多くの石仏のうち、僕の好みで選んだ石仏さん達。

高野山真言宗永福寺は名張市中心より東へ約2kmばかし、山を削って造った大住宅団地を越え、ガラリと風景を変えた昔ながらの景観の中にある。

後何度かの再興後、江戸中期の正徳二年(1712)に至り往僧誘致により中興されたという古刹だと言う・・・・。

ここを訪れた四月の半ば、高台に有る境内脇の桜がちょうど散り初め、その下に桜花を受け止めるかの様に三基の石造物・・・。

勿論その中で目を惹くのがこの石仏さん。

高さ約1.5mばかしの舟形自然石を、写真のように石龕状に深く彫り下げ、中に像高1m強の定形地蔵菩薩立像を中肉彫りで刻み出す。

その姿は中世仏の様な力強さや優雅さは全く感じられない、形の崩れた江戸中期の物でしょうが、独特な存在感を放って居ました。

しかし躰部中心辺りに袈裟懸けの断裂が走り痛々しい。

撮影2012.4.15


山添村大西 極楽寺の五輪塔:他

2014年02月16日 | 石塔:石造物

山添村の中心地、大西集落の道路を挟んで北面する小高い岡に建つ「極楽寺」境内墓にある「郷塔」と呼ばれる五輪塔。

道路からは少し解り辛い場所に建つ極楽寺は、無住で小さい一堂があるだけの田舎寺、集落の公民館を兼ねて居るようで、長閑な集落を一望に見下ろせる。

奈良様式の複弁反花座の上に建つ五輪塔は、高さ154cmと小振りながら全て造立当初のままで保存状態が良好。

地輪の一面に正中二年(1325)乙丑4月□日の銘が有り、鎌倉後期の造立・・・・山添村の文化財に指定されて居る。

前述の不動院とは歩いても10分弱程の位置にあり、鎌倉後期のこの土地の仏教文化が偲ばれる。

一方、無縁仏の集積の中には・・・後列中央に総高約1.3mの阿弥陀坐像石仏と、高さ約70cmの地蔵箱石仏が目を惹く。

阿弥陀石仏は江戸期のありふれた作風ながら、地蔵箱石仏は上部に枘突起が有り、元は笠石が載っていたもので、室町後期の様式をよく表している。

胸元で断裂しているのは、ちょっと痛々しいのですが・・・・。

撮影2012.4.14


山添村春日 不動院の宝篋印塔:五輪塔

2014年02月15日 | 石塔:石造物

昨日に引き続き、山添村春日、「不動院」に有る石造品から・・・・。

本堂前、向かって右手、植え込みを後ろに古式な宝筐印塔が健っています。

山添村文化財指定、総高139cm、文保元年(1317)の銘を持ち、奈良県下では五指に入る。

塔身三面には、金剛界三仏(宝生、阿弥陀、不空成就)の種子を月輪内に薬研彫り・・・

他の一面に蓮座に座する定形地蔵を中肉彫りで刻みだし特色が有る。

小型ではあるが古式の中に独特な個性を持つ辺境の宝筐印塔です。

方や、宝筐印塔に先立つこと四年、正和二年(1313)の銘を持つ五輪塔。

高さ190cmとさほど大型では有りませんが、鎌倉時代後期の典型的な様式を持ち、複弁反花座を設け、大和地方独特の美しさを見せている。

こんな草深い田舎寺にもこれだけの石造物が有る大和文化圏の奥深さを思い知らされる。

撮影2012.4.14


山添村春日 不動院の地蔵石仏

2014年02月14日 | 石仏:奈良

昔は境内墓地に有ったと言う地蔵石仏、安山岩製なので花崗岩より赤っぽく、一見ちょっと華奢な感じは否めません。

ここは山添村役場からすぐ東、山辺高校山添分校脇の高台に建つ、高野山真言宗「龍厳寺不動院」・・・・こんな山里の小寺院に住職が常住しているのは珍しく境内も整備が行き届いている。

現在境内脇の小さな地蔵堂に安置され、ちょっと窮屈そうですが大切にされて居ます。

本堂の正面や、この地蔵堂にも高野山の火焔宝珠の「宝来(ほうらい)」が飾られ高野山末寺だと言う事が頷ける。

高さ108cmの舟形光背を負う像高78cmの錫杖宝珠の定形地蔵立像

蓮座上に立つが、蓮弁像容共に風化摩耗が激しく、永らく雨晒しだったことが窺われる。

全体の像容から南北朝期の造立と考えられている。

撮影2012.4.14