愛しきものたち

石仏、民家街並み、勧請縄、棚田景観、寺社、旧跡などが中心です。

大阪府太子町 推古天皇稜脇の棚田

2011年05月31日 | 棚田景観

推古天皇は歴代初の女帝、聖徳太子はその甥に当たり19歳でその摂政と成る。

そんな推古天皇稜も前回紹介の棚田近くに在って一帯は広く棚田地帯です。

 

推古天皇磯長山田陵(しながのやまだのみささぎ)は棚田の中にこんもりと盛り上げられた方墳。

長い参道が陵墓と棚田を分ける様にある。

陵墓脇から見渡す棚田のそここに、こんもりとした古墳が見える。

 

棚田とは言えないのかも?? なだらかな斜面を大きな弧を描く青田。

 

こんな優しい景色の下にはどんな血なまぐさい歴史を秘めているのだろうか??

撮影2010.1.10/2010.8.8


大阪府太子町 山田の棚田

2011年05月30日 | 棚田景観

大阪府太子町はその名のとおり聖徳太子にゆかりの深い地、太子の陵墓のある叡福寺やその一族の陵墓などが集中していて興味深い所です。

大和と河内を分けるあの二上山の西麓に在って日本最古の官道として知られる「竹内街道」が難波の地から明日香へと続いている。

近辺は「近つ飛鳥」「王陵の谷」とも呼ばれその一角に式内社として由緒正しい科長(しなが)神社が鎮座、南側の小高い丘の上には古くから小野妹子の墓と伝えられる小さな塚が在って今も良く管理されている。

ちょうど此の妹子墓から見下ろす東方の谷を挟んだ斜面一杯に棚田が広がっている。

比較的、街からも近く新興住宅と旧村が混在したこの地も一歩棚田に歩を進めると、周りの景色とは一転したまさに里山以外の何者でもない。

棚田の中央を一本の農道が斜面の奥まで延びて、谷あいには谷川を堰き止めた溜池が在り、まさしくここも都会に近い別天地。

棚田の頂部辺りから遥か遠くに都会の家並・・・・

前方の棚田は緩やかなカーブで緩やかな斜面を濃い緑の青田を二上山からの風が吹き渡る・・・

ここの棚田は100枚足らず、近郊農地故か?耕作放棄や転作農地も殆見られず、本来の棚田の姿でしっかり息づいている。

撮影2010.8.8


和歌山県有田川町 沼の棚田

2011年05月29日 | 棚田景観

深い深い谷間に落ち込んでいくような・・・、そんな気がする棚田です。

紀美野町、中心地近くより県道180号線で道成りにひたすら南下、途中札立峠で有田川町となるが此処まで凡そ山道を20分、更に等高線沿いの県道を進むこと約20分ほど、正面の杉木立の間から棚田が斜面一面に広がっているのが見え隠れする。

此処は有田川町沼の棚田、有り田川上流域から更に山深い山間僻地、此処へ来るだけでも大変なのによくもまあ斜面一面を棚田に変えたものだ・・・・

スケールは大きいが、此処もご多分に漏れずと言うか?上部の棚田では耕作放棄や休耕田も多く、美しい景観は少なくなってしまっている。

それでも深く谷下へ落ち込む棚田は見事な景観を見せてくれる。

この急傾斜地での農業は年老いた老人には過酷極まりないだろう・・・、ましてや農作業材料を運んでの行き帰りは困難を極めるに違いなく、耕作放棄もやむ得ない選択なのだろう・・。

もうこの棚田も何年先まで見れるだろうか??

撮影2009.6.13


和歌山県紀美野町 三尾川の棚田

2011年05月29日 | 棚田景観

 和歌山県紀美野町、旧美里町は高野竜神山系の西懐、人里遥か離れた山また山の連なる谷間の狭隘な地に小さな集落がいくつも点在する地域です。

紀ノ川流域のかつらぎ町から高野山の西側の山中を通って太平洋側に抜ける途上にこの三尾川地区はある。

 

国道370号線手拝峠で名も無い三尾川地区への進入路を入って行くと、貴志川上流域の谷から連なる緩やかな斜面にこの棚田が開けている。

 道路沿いの最上段より下段まで20段にも満たず、3列が斜面を下るだけのミニ棚田ながら、等高線に沿って孤を描く棚田は深い山影を写しこんで美しい。

 暫く道なりに進んだ谷沿いにも別の小さな棚田が・・・・・。

 

谷川の向こう岸、斜面の高台にも僅か数戸の民家が軒を並べている。 

 横長にカーブを描く棚田がやっぱり、えも言われぬ景観を醸しだしていて美しい。

撮影2009.6.13


福井県敦賀市 阿曽(あぞ)の棚田

2011年05月28日 | 棚田景観

梨子ヶ平(なしがだいら)の棚田 からの帰り道、越前海岸沿いに南下すること約1時間強、敦賀湾の海岸線を走る国道8号線まで斜面いっぱいに広がる棚田を見つけて訪ねてみた。

棚田の中を行く農道を一気に駆け上がっていくと目の前に棚田越しの静かな敦賀湾 。

野面積みの石垣が緩やかな曲線を描いて斜面を埋めているが所所に耕作放棄地や転作棚田も有り、此処も老齢化過疎化の波には勝てないようだ。

かって、斜面いっぱいに広がる黄金の稲穂が波打っていたことであろう棚田は今やすっかり歯抜け状態。

営々と積み続けられて来たであろう石積みも今やどこか危なしげに見える。

それでも歯抜け状態の棚田では秋の取り入れの真っ最中。

これはもう去年の秋の景色、今年の秋はどんなようすになるのやら??

此処も年々その姿を変えていくのかも知れない。

小さな浜沿いの阿曽集落には利椋(とくら)神社という鎮守がひっそりと建っていた。

撮影2010.9.18


福井県  梨子ヶ平(なしがだいら)の棚田 

2011年05月27日 | 棚田景観

春先には水仙の野花が咲き乱れる棚田としてすっかり定着してしまった梨子ヶ平の棚田は、本来の黄金が斜面を埋め尽くす景観は望むべくも無いが、それはそれとして棚田の有効利用を果たして棚田が山野に帰ってしまう悲劇からは逃れているようです。

越前岬の北端に近い梨子ヶ平は越前海岸沿いに走る国道306号線を敦賀方面から北上して来ると越前岬を越え最初の集落、左右集落の中程に有る脇道を右折、道なりに山を駆け上がっていくとパッと目の前が開けて梨子ヶ平集落の入り口と思しき辺りに出遭う。

三方を山に囲まれその斜面中段を道路が取り巻くように走り、集落はその下方にこじんまりと軒を並べている。

山紫水明、目の前に広がる越前海岸を見降ろす高台の梨子ケ平は、平家の落人の隠れ住んだ土地で徳川幕府の直領として栄え棚田の枚数も1000枚を下らなかったとか??

集落以外の全ての斜面は棚田に埋め尽くされていると言っても過言ではないほど広がっているが、殆どの棚田が水仙棚田となって僕の訪れたこの時期には見る影も無い

この地を訪れた刈り入れ時の9月中頃、ほんの一握りの棚田で稲穂が黄色く実っていた。

現在約15戸の農家が棚田の維持管理にに当り、また水仙田のオーナー制度も実施され活性化を図っている。

ブルーの網が掛かったハウスは水仙球根の保管場所なのだろうか??アチコチに点々と見える。

刈り入れ時期の日曜日だと言うのに、こうして農作業をしているのを見かけたのはたったこれだけ。

それでも此処は「日本の棚田100選」に選定されている。

一面に水仙の咲き誇る時期に訪れたらまた違う印象を持ったのだろうが・・・・

撮影2010.9.18


長野県千曲市 姥捨(うばすて)の棚田

2011年05月26日 | 棚田景観

遥か遠くに翳む善光寺平、それを縫って流れる千曲川、その手前一面豊かに波打ち斜面を下る棚田はまさに絶景、日本の原風景そのものです。

前日,千曲川畔に在る戸倉温泉に一泊、朝一番起き抜けに宿から程近いこの地を訪ねた。

千曲川沿いに走る県道77号線で10分も走るとこの「姥捨の棚田)のふもと、案内表示通りに駆け上がっていくと、もうそこは一面に波打つ畦がどこまでも続いている。

通称「姨捨」地区の棚田は、冠着山(通称姨捨山)から続く斜面に、現在でも2000枚にも近い棚田が緩い弧を描いてうねうねとどこまでも続いてる

此の棚田は名月の里としてもよく知られ、水が張られた棚田毎に月影が映る「田毎の月」の月は、古くより粋人墨客に愛され続けてきたという。

勿論姨捨という地名は、、カンヌ映画祭で受賞した映画「楢山節考」などで知られる哀しい伝説から来ているようで、此の美しさの中には哀しみも同時に抱えているものようです。

しかし訪れる時期が今少し早すぎたようでGWの最中5月2日には、未だこの通りところどころの棚田に水が引き入れだしたばかり。

棚田の上部にはJRの姥捨駅や長野道姥捨SAなども在って絶好のビューポイントと成っているらしい。

棚田としては初めて国の名勝に指定され、国の重要文化的景観、勿論「日本の棚田100選」にも選定されている。

撮影2009.5.2


富山県氷見(ひみ)市 長坂の棚田

2011年05月25日 | 棚田景観

能登半島巨樹追いの旅の途中に寄った「日本の棚田百選」に選ばれた石川県境にに近い富山県氷見市の市街を遠く離れた山中に有る棚田です。

富山湾沿いの国道160号線から県道70号、306号と乗り継いで北方山中へ約7km車で15分。

<こんな ユーモラスな看板が出迎えてくれる>

長坂の峠を越して下り坂になると谷の合い間に棚田が其処此処に見えるが「長坂の棚田」は更に県道から左手に脇道を登った上に広がっている。

標高200mの棚田から、富山湾越しに3000m級の立山連峰が見渡せる絶好のロケーション と、看板のうたい文句・・・・・、しかしその日は見通しが悪く残念。

この長坂の棚田は確かに広く大きく斜面に広がってはいるものの・・・・

どちらをどう見渡してみても圃場整備が行き届きすぎ・・

あの波うち、うねって斜面を駆け上がる棚田のイメージは此処では期待できない。

その分耕作放棄田や転作田も殆ど見かけず、色づいた稲穂がいっせいに風に戦ぐ様は圧巻ですが・・・

因みに棚田枚数120枚、此処も「日本の棚田百選」に選定されている。

出来たら、棚田越し富山湾越し、海の上に浮かぶ立山連峰を見てみたかった。

撮影2009.9.20


長野県飯田市、よこね田んぼ

2011年05月24日 | 棚田景観

長野県飯田市中心から約15kmも東部山間部に入ったところに千代地区が有って,またその中心地より県道83号線で北東方向に入った谷あいにこの「よこね田んぼ」と呼ばれる棚田が,なだらかな斜面いっぱいに広がっている。

此処を訪れたのは七月半ば,未だ出穂には少し早く青田が真夏の光をいっぱいに受け止めていた。

棚田の規模は比較的小さく約100枚の棚田を20戸弱の農家が管理しているらしい。

此処もご多分に漏れず、平成に入った頃から高齢化による耕作放棄が多くなり、全体の約4割が休耕田となりその存続も危ぶまれたようだが平成10年には棚田の保全委員会が起ち上がり,さまざまな行事を呼びかけ何とか現在の状況に至っていると言う。

地域の活性化を図るのと、都会の人にも棚田の良さを知って貰おうと、ここでも体験農業交流が盛んに行われ、田圃には白い看板がアチコチに見える。

道路脇にはトイレや駐車場も用意され実りの秋には案山子コンテストや収穫祭も催され成功を収めているようで、管理も保全も行き届き美しい景観を保っているように見える。

確かに景観は美しいけど根本的に農が生き残っていく政策を考えなくては、やっぱり消え去って行かざるを得ないのかも??

此処も日本の棚田100選に選定されている。

撮影2009.7.18


三重県旧飯南町 深野だんだん田

2011年05月23日 | 棚田景観

この地へは、真夏のむせ返るような青田の8月初旬と、刈り入れが終わって籾殻焼きの煙がたなびく10月始め、年を跨いで2度訪れた。

我が山城からは遥かに遠く、和歌山街道と呼ばれる国道166号線沿いの、旧飯南町と松阪市を分けていた白猪山(しらいさん)南斜面に広がる棚田です。

国道166号線沿いの櫛田川に注ぐ風呂屋川に沿うように白猪山斜面をめがけて谷間を駆け上っていくと,深野だんだん田の入り口辺り長野地区と呼ぶ辺りにでる。

しかしこの辺りは棚田の最下部辺りでそれほど棚田を見渡せる景観も無く、更に石組みの棚田脇斜面をどんどん上へ上へと登らなくては成らない。

延々と続く石組みの棚田は確かに見るものを驚かすが、長野の集落を下に見下ろす夏明地区辺りから俯瞰する棚田が特に素晴らしい。

石組みが波打ち何層にもなって斜面を埋め尽くすその景観は、人の手が作り出した構造物とは言えそれは最早自然と一体と成っている。

石組の芸術と称されるこの深野だんだん田は棚田枚数約550枚、法面は全て石組みで造られよく整備され、現在に至っても耕作放棄田は皆無なように見受けられる。

こんな山間地に有っても集落にも廃屋等、荒れたところも見られず、此処は一体どうなっているのだろう??、

集落を歩いていても時間がしっかり動いているのを感じる、空気がよどみなく動いているのを感じる。

夏明地区の右山裾には棚田全体を見渡せる展望台が有って良く整備も行き届き山紫水明ののこんな棚田で造られる米はさぞかし旨いのだろう・・・・。

室町期より開墾、造り始められたこの棚田は営々として今日まで、絶えることなく造り、守り続けてきた先人達の苦労はいかばかりだったのだろう??

石積みの総段数約120段、総延長は120kmにも及ぶと言う石組みは勿論「日本の棚田100選」にも選ばれている。

畦脇を縫って流れる水路にはサワガニが遊び、此処はあくまで自然豊かな棚田で有ることを再認識させられる。 

撮影2008.10.4/2010.7.10


大分県宇佐市(旧:院内町) 両合棚田

2011年05月22日 | 棚田景観

近年毎年「年」を重ねるごとに気候は不順になり、天候は不安定、自然災害は人為災害と相俟って益々ひどくなり、ついにこの前の大災害。

それでも季節は巡って何事も無かったように自然は移ろう・・・。

この地、大分県宇佐市の両合(りょうあい)棚田を訪れたのは去年のゴールデンウイーク、温暖な土地柄か山間僻地のこの棚田でも未だ田植えの準備さえ始まって居なかった。

院内中心より恵良川を遡り更にその支流沿いを上流へ上流へと登っていくが途中、此処がその棚田かと思うほど風光明媚な院内町上余付近から更に峠を一つ越えると目の前が開けて全面に棚田が飛び込んでくる。

宇佐市院内町は日本一の石橋の町、この山奥の棚田を流れる滝貞川にも旅人の旅情を煽るように鄙びた石橋が掛かっている。

勿論石橋の有る棚田として「日本の棚田100選」にも選ばれ、懐かしい日本の風景が残っている。

<峠を下った集落入り口辺り>

峠を下りきると山あいを谷川が流れ、その両側の斜面いっぱいに棚田が幾重にも重なり、上部には集落の家並みが点在している。

この時期と言うのに棚田には誰一人として人影も見えず、ご多分に洩れずここでも既に耕作放棄された棚田も目立つ。

しかし苔むした棚田の石垣から垂れ下がる藤の花、

棚田ごとに咲き乱れるれんげそう・・・

もう今では農耕車でさえ通れない石橋・・・

この石橋は両川岸にある滝貞と小平の集落を繋ぐ必要不可欠な橋として大正末期に架設されたとか・・・・

両合棚田は約4ヘクタール120枚の棚田で構成されて居るといわれていますが年々衰退の一途を辿っているのは誰の目にも明らかです。

残して欲しい、残って欲しい景色だけどそれは部外者の勝手な言い分・・・・・・。

撮影2010.4.30


天理市 竜福寺道の石仏

2011年05月21日 | 石仏:奈良

桃尾(もものお)の滝の前には、竜福寺への急な坂道の参道があって、暫く登ると小さな谷川の岩にも南北朝時代の不動明王が刻まれている。

方形に切り出されたような岩壁に長方形の彫窪みを造り、像高約60cmばかりの不動明王立像を半肉彫りしている

この不動明王はいつ撮影しても光量不足でろくな写真に成らずホトホトあきらめムード・・・

そんな不動明王の前には小石仏や板碑が立っている。

泥や地衣類などもこびりつき非常に良くない状態、一度タワシでも持って大掃除したいくらい。

目鼻立ちも定かではないが踏ん張った足元や体躯には気迫が感じられる。

しかし此の地の不動明王は妙に方形の枠内に入っているものが目立って多いのは何故だろう???

此処より少し登った左手斜面にも小さな地蔵磨崖石仏と板碑や小石仏・・

斜面に露出した小さな丸オニギリ状の岩石正面に舟形光背を彫り地蔵菩薩立像を刻みだしている。

しかしこの地蔵さんもあまりに気の毒、ほとんど振り返る人さえ無く、斜面を泥水が流れるのか全身泥まみれ・・・。

ちゃんと泥を落として顔を洗えばもっと見栄えもするだろうに・・・・

少し上がった岩にはこんな梵字仏。

竜福寺跡にも不動磨崖が有るようですが確認してません。

キツイ登りも帰りは楽々、しかし此の山道はハイキングの人に良く出逢います。

撮影 2006. 4.08/2009.11.14/2011.5.14


天理市 桃尾の滝(もものおのたき)不動磨崖石仏/他

2011年05月20日 | 石仏:奈良

此処は密教修行道場龍福寺の瀧行場、瀧行場には付き物の不動さんが三体も・・・・。

旧国道25号線、上滝本集落の東はずれ、道路の左手に桃尾の瀧への案内板があって、その通りに進むと滝の前で道はドン突きとなる。

古来「布留の瀧」として知られた名瀧で、今でも其の水量は豊富に流れ落ち、古くから修験者の瀧行が盛んに行われ、現在でもその修行は引き継がれて居る。

この時期瀧行場は青葉若葉に包まれ瀑布の飛沫と相俟って周囲は心地よいマイナスイオンで充満している。

瀧に向かって、左脇の岩壁に高さ約1.4m、幅70cmの長方形を浅く枠取り、中央には板状に刻みだした像型に、面相や衣文などの細部は線彫りで表すというユニークなデザインの不動明王を配している。

奇想天外とも思える大胆斬新さであふれる躍動感を、凛々しくうごめく線で力強さを・・・

更に不動明王の火炎光背は激しく燃え盛るように長方形の枠を突破り作者独自の美的感覚が伺われる。

脇侍のセイタカ童子、矜羯羅童子もまた主尊の不動明王と同じ技法が使われ迫力にあふれている。

現代美術にも相通じる奇抜さと斬新さは高い技術に裏づけされたものだろうが、かってこのような石仏にはお目にかかったことが無い。

像高約1.3m、大和不動石仏の中でも屈指の名作だと言われ、鎌倉中期の造顕。

不動磨崖の傍には如意輪観音石仏が有り、伊派の名工「井野行恒」の作。

高さ約1mの自然石に舟形光背を刻みだし、二重円光背を背負った如意輪観音坐像を厚く刻み出している。

立て膝、頬杖で像高43cm、南北朝の作だといわれている。

左手光背には「奉起立行経(恒)」の刻銘。

滝壺の前には小さな祠が設えられ、祠の中にも不動三尊石仏・・・

この日はちょうど瀧修行日でもあり供台の供物や供花などを移動できずに詳細な写真は撮れなかった。

前記の線彫り磨崖不動には遥か遠く、力量不足を感じるその像容、憤怒相がどこか崩れて親しみやすい顔容、光背面の左下に「奉起立貞和四年二月廿三日」の刻銘があり、南北朝初期 の1348年の造立。

更に祠の左前方にも自然石に長方形を彫り窪めた中に不動明王を刻み出している

 しかし、これはちょっと稚拙でアンバランス・・・・・、行場は不動明王石仏であふれ返っている。

撮影 2006. 4. 08/2009.11.14/2011. 5.14


天理市 滝本墓地地蔵磨崖石仏/他

2011年05月19日 | 石仏:奈良

此の滝本墓地は石仏ファンにとって嬉しい墓地、地元の人にとっては、ただ胡散臭く怪しい親父に違いないけど・・・・。 

麓、桃尾の瀧より老骨鞭打ち、ゼイゼイ言ってやっとの思いで辿り着く・・・・・(歳は取りたくないけど止められない)

まず最初、墓地入口辺りで迎えてくれる六体地蔵さん。

別段珍しくも無いが、像容保存共に良く江戸時代中期の正徳三年(1713年)の刻銘がある。

墓地内をを通り奥まで行くと左手木立の下に岩が突き出し、二体の地蔵磨崖石仏が刻まれている。

一体は高さ3m程の上部がせり出した岩に長方形の深い彫り窪みを造り、方形枠内に刻まれた像高90cmばかりの地蔵菩薩立像を半肉彫りで刻みだしている。

方形外左手の岩肌には大きな浮き彫り五輪、右手上部にも複数の五輪塔が刻まれて居て賑やかな岩です。

地蔵の左右にはたくさんの刻銘が有るが、ここでも紀年銘は無く、法名三人と阿弥陀の文字が確認できる。

風化摩耗も少なく地衣類の繁殖もひどくなく優品です。

こちら大和方面で良く見かける切れ長の目に、端正な顔立ちの地蔵さん・・・、江戸初期の造立だと言われている。

もう一体の地蔵は直ぐ右脇の別岩に舟形光背を持つ像高50cm程の地蔵菩薩立像。

樒の大枝に覆われて立つ此の地蔵さんは少し頭でっかち、先ほどの地蔵さんとは全く別の顔を持っている。

舟形光背外の左右上部にはやっぱり月輪内の梵字仏??

引き返しざま墓地内を眺めて目に付いた石仏・・・・・左右下部に地蔵を置いた阿弥陀三尊

こちら墓地中程の阿弥陀如来。

棺台を前にして胸元で断裂した阿弥陀如来、左右に軒反りの少ない五輪塔・・・・

まさに此の墓地は石仏パラダイス、朽ち果てた捨て墓の墓標はここがもう使われることのない墓地だと物語っている様です。

僕などはもう慣れてしまったのかこんな空間が妙に落ち着いたりするもんです。

撮影2011.5.15/2009.11.14


天理市 滝本墓地参道の磨崖石仏

2011年05月18日 | 石仏:奈良

もう今は通る人さえなくなった天理滝本墓地への参道脇に見捨てられ、今にも倒木や降り積もる枯葉に埋まりそうに佇んでいます。

此の奥には往時「龍福寺」と呼ばれる古刹の真言密教修行道場があり、隆盛を極めたが明治の廃仏毀釈で廃絶、現在「大親寺」と云う名前の寺が引き継いでいる。

今は廃道と化したこの滝本墓地道はかって龍福寺への参道を兼ねていたのだろうか??・・・・。

磨崖石仏は墓地から少し参道を下がった右手斜面から突き出した大岩に刻まれているが、写真の様に倒木がその岩に倒れ込んでいる。

廃道と成ってもう相当時間もたつのだろう??、倒木が有っても誰が文句をいうでもなし、まして阿弥陀さんは無口だし。

岩面に深く舟形光背を彫り窪め、半肉彫りで像高1.m程の阿弥陀立像を刻みだしている。

刻銘はあるものの紀年銘は無く、施主と「九月南無阿弥陀経布施」がいやにはっきりと読める。

上品下生の来迎印を結んでいる様に見え、顔容や体躯、衣紋にも力が弱く形式化が進み室町後期~江戸初期のものだろうか??

光背外部岩面の月輪内に地蔵種字の「カ」を刻み、その下部にも三列の刻銘が見られる・・・、しかし何が何やら状態。

撮影2011.5.15