愛しきものたち

石仏、民家街並み、勧請縄、棚田景観、寺社、旧跡などが中心です。

奈良市旧月ヶ瀬村 桃ケ野(ももがの)多尊磨崖石仏群-2

2011年08月31日 | 石仏:奈良

この多尊磨崖石仏が桃ケ野の千体石仏を代表する。

前回紹介の多尊磨崖から、登ってきた道を少し下がった辻の個人宅前に有る磨崖石仏です。

石仏が刻まれている大岩は個人宅への進入路脇の小高い場所に在り、架設の足場を伝って石仏の真近に寄れる。

足場より右側部の石仏、こちらは北側になるため日当りの悪い部分は苔生している

少し廻り込むとこんな按配・・・、小さな地蔵立像がずらり並んでいます。

もっと回り込めばデッキ状の狭い空間に成り、その先は崖・・・民家の屋根がちょうど真下に見える。

まるでこちらが正面の様・・・、ほぼ岩全面を三段に分け、像高約40cm足らずの地蔵をびっしり彫りだしている。

少し離れて遠くからロングで引っ張るとこの通り・・・、まるで屋根上の磨崖石仏。

見事に並んだ左上部、月輪内には金剛界大日、「バン」の種字を刻み込む。

もうちょっと左に廻り込むと醜く掻き割られた痕が痛々しい・・・・。

削り取られた部分は約三分の一、現在この岩には54体・・・・。一体何体が消えてしまったのか??

この岩全面、一周360度にわたり、こちら道路側正面は更に激しく割り取られている。

道路拡張による犠牲だと言うことですが惜しい・・・・。

欠き取られた部分の一部は先日紹介した白沙村荘の多尊石仏に寸法像様共に一致するという。

又一部はこの集落の寺に置かれている。

撮影2011.5.7/2011.5.14

 

奈良市旧月ヶ瀬村 桃ケ野(ももがの)多尊磨崖石仏群-1[画像更新]

2011年08月31日 | 石仏:奈良

桃ヶ野の千体磨崖石仏と称される石仏は大抵「個人石塔墓」の背後にでんとっ座って居る・・・、というか、磨崖石仏の前に多くは石塔が建っている。

桃ヶ野は、梅林として有名な旧月ヶ瀬村(現在は奈良市)の梅渓を見下ろせる山肌にある集落、奈良から柳生街道を経て伊賀上野へ至る古い街道筋にあたります。

山腹中段にある善法寺と言う小さな古刹をさらにクネクネ上のほうに上っていくと重要文化財の「菊家家住宅」への辻があり、その広場左手斜面に石塔が在り背後にこの多尊磨崖石仏が有る。

石高2m、幅3mほどの花崗岩を3段に区分して像高36cmの地蔵立像を数十体浮き彫りにしている。

江戸初期作造の、像も小さく単調な彫りではあるが、それゆえ素朴な野趣の強い磨崖石仏で周辺の環境とあいまって魅力ある石仏です。

室町末期の永禄年間、この谷の一番高い一角が山崩れを起こし、多数の人家が大災害に遭ったと伝えられ、村人達がその後の安泰と供養のため、仏像を刻み、その無事を祈願したのではないかと思われています。

そのときの死者74人と言う・・・・

ここ桃ケ野には、この様な多尊石仏が10箇所確認されているようです。

撮影2006.3.6/2011.5.14


銀閣寺道 白沙村荘(旧橋本関雪邸)の石幢/石塔

2011年08月30日 | 石仏:京都

庭園内に入ってなんと言っても目立つ石造物はこの国東塔と呼ばれる石塔。

本来国東半島地域に見られる石塔・・、現存する国東塔では最大だとされている。

僕が気入った石幢

見事に厚くく掘り出された六地蔵石仏?

やっぱりこちら畿内では見かけない造型です。

同じく国東の石幢

六角柱に舟形光背を彫り沈め、中に蓮台上の六地蔵

こちらは観音石幢と呼ばれるもの・・・こちらでは滅多に見かけない。

一体何所にあった物なのだろうか??所々に彩色が見られる・・・・これはひょっとして関雪画伯の手によるものなのか??

やっぱり国東からのものなのだろうか??

滋賀県野洲、笠原燈籠と名づけられているが・・・・現在、野洲市笠原で地名はヒットしない 

日袋の周りに六体地蔵を配し、隣町竜王町の西光寺跡の石燈籠に良く似ている。

多分そんない遠くない地に在ったものなんだろう・・・・。

撮影2009.5.30


銀閣寺道 白沙村荘(旧橋本関雪邸)の石仏 <2>

2011年08月29日 | 石仏:京都

白沙山荘庭園石仏の第2弾は出口近く、竹林斜面に置かれた五百羅漢や小石仏・・。

中でも目を惹くのがこの鎌倉期の阿弥陀石仏。

羅漢石仏の中央部に置かれ、化仏を刻み出した舟形光背を背負う像高約1m、定印の阿弥陀坐像で京都、近江域内からの移設を窺わせる。

丸彫り螺髪のこの如来形坐像石仏は胎蔵界大日如来と同じ法界定印を組み、ずらっと並んだ小石仏の中央に配されている・・

畿内では見たことも無い現代仏を思わせるような顔つき・・・

それでも瞑想にふけるような顔つきが良い。

竹林斜面の羅漢さん・・・

これは何処かで見たことの有るような多尊磨崖石仏・・・

こちらも同じく・・・・・手法と言い 大きさと言い、奈良旧月ヶ瀬村桃ケ野に有る千躰仏と呼ばれる磨崖にそっくり・・

現場には一面を削り取られた多尊磨崖石仏が現存している。

それはいずれ近いうちにUPするつもりですが・・・・・、邸内レストラン玄関にモニュメント宜しく置かれている。

撮影2009.5.30


銀閣寺道 白沙村荘(旧橋本関雪邸)の石仏 <1>

2011年08月28日 | 石仏:京都

京都銀閣寺近くに有る白沙村荘は言わずと知れた日本画の大家、京都画壇の重鎮だった「橋本関雪」の旧私邸。

その回遊式庭園には関雪趣味の石造物が多く集められていて国の名勝に指定され、関雪記念財団の名前で維持管理一般解放されている。

本来在るべき所に出掛けて拝観、鑑賞するのが道理なのだろうが・・・・、画壇の大家とも成れば気に入ったものを身の周りに置くことが出来たのだろう。

数ある石造美術品の中から先ずは石仏。

どう見ても不自然な定印阿弥陀石仏・・・・どうしても正方形の板石状背面が気にかかる・・・。

こんな石棺仏は有り得ないから・・・、まさか磨崖の一部分をはがして来たものじゃないだろうか???

何の表示も無いので判りません。

磨崖仏とだけ表示のある石仏さん。

これと良く似たものを見たのは確か滋賀県、龍王山・・・・。

アウトラインで囲った舟形光背がそっくり。

こちらは地蔵で現地に現存するのは「茶沸かし観音」と呼ばれる小さな如来型石仏・・・・、しかし時代は全く違うような???

庭の片隅にポツンと立ってた石仏さん、頭部と顔面一部が欠けた坐像石仏。

舟形光背を背負う像高1m足らず??、肝心の顔様や印相の傷みがひどくさっぱり尊名も不明です。

こちら庭の中央、苔の上に鎮座していた。

左手に薬壷を持ち、右手は施無畏印、舟形光背を背負う薬師坐像石仏。

小振りながら厚肉彫りで堂々とした体躯、鎌倉期造立を思わせる。

撮影2009.5.30


柳生阪原北出橋 阿弥陀如来磨崖仏[画像更新]

2011年08月28日 | 石仏:奈良

通り掛りに白砂川越しのアングルで撮影してきたので画像の更新UPです。

 

川岸に菜の花が咲きほのぼの、鄙びた野の仏の風情がなんとも心に沁みつく磨崖の阿弥陀さんです。

<撮影2011.5.2>

柳生坂原の地は、国道24号線、奈良坂の般若寺から、柳生へ向かう国道369号線沿いの最終集落で、長閑な里山の広がる石仏の里で、僕の好きな所の一つです。

この集落の入り口に産直の販売所が在り、集落内に入る旧道をしばらく行くと、白砂川に架かる北出橋に差し掛かる。

北出橋の手前右側、白砂川越の岸壁にこの磨崖石仏が見えてくるが、案内板や標識はまったく無いので見逃しかねない。

北出橋を渡り、右手に入っていくとこの石仏の前に出ることが出来る、その昔この石仏の前に道が通じていたような気配がうかがわれる。

大きな岩壁の中央部に長方形の枠取をし、その中につぼ型光背を深く彫り窪め、その中に像高91cmの来迎印阿弥陀如来が彫られています。

小川沿いの長閑な石仏でこの地と好く溶け合って、いかにも野の仏としての雰囲気が素敵な磨崖石仏です。

文和5年(1356)という南北朝時代の年号が入っている阿弥陀様で、今でも信仰が篤いのか石仏の前には、なにやら奇妙な、オコナイの跡が見られました。

またこの北出橋の畔には以前一石六体地蔵があったようですが、盗難にあってからは別の場所に移され、どこに在るのか教えてもらえません。

最近こういう小石仏の盗難が多く、地元の人たちも用心深くなってしまって、僕たち石仏愛好者は白い目で見られることが多いので困っています。

撮影2006.8.6


奈良県旧大塔村(おおとうむら) 引土(ひきつち)集落

2011年08月27日 | 街道街並集落 景観 

 この斜面を走る市道?の一番奥にあるどん突き集落、遥か下界に大塔中学校のある宇井の家並みを見下ろす。

前回紹介の飛養曽(ひよそ)集落を突き抜け、杉林を抜けきると目の前が大きく開けた引土の集落に出逢う。

集落の入り口辺りには辺鄙な山村集落には不似合いなほど立派で大きい信称寺。

この寺は珍しく住職家族が常住していて整備清掃が行き届いている。

この集落もやっぱり10軒程度の民家がポツポツ・・

見晴らしは良いが、人が立って作業を行うのは困難なほどの急斜面には、ジャガイモやショウガの様な根菜物が作られている。

赤い屋根がまるで積み木のように見える民家。

ここから先に集落は無く、ここはまさしくドン突き集落、向こうに見える山を越してもまだまだ山が繋がる紀伊半島のど真ん中。

景色も良く自然いっぱいのこの集落も、やっぱり余所者は入り込みにくい。

撮影2011.7.30


奈良県旧大塔村(おおとうむら) 飛養曽(ひよそ)集落

2011年08月26日 | 街道街並集落 景観 

 前回紹介の堂平集落のジグザグ道を抜けそのまま道なりに進むとこの飛養曽(ひよそ)集落。

集落はこの山肌地域を結ぶ市道沿いから一気に登る急斜面に10軒ばかしの民家がポツポツと点在する。

集落内へは市道より集落内の民家を結ぶ道路がクネクネトと急斜面を上ってそれぞれの玄関口をかすめて一番高い家の前で行き止まりと成っている。

滅多に余所者など寄りつかない山間僻地の山岳集落・・・・・、ましてや集落内の奥深く入り込む見知らずのものなど怪しきものとして映るだろう・・・。

山間僻地に欠かせない車は、まるで屋根の上にでも登って居る様・・・・

遥か下界に天ノ川の峡谷を見下ろす天界の村、急な斜面には殆ど耕地も見れなく、家庭菜園ぐらいの畑地が民家横に見れるぐらい。

勿論水田は皆無。

集落の民家は殆ど急斜面に懸崖造りの様な足を延ばして建っている。

もともとこの集落には学校も寺もないようで閉鎖性の強い集落の様に感じます。

国道筋からはそう離れて居なく、まだまだ洗濯物の干した民家が見られ珍しく子供を見かけた。

こんな山深くに在ってもそれなりの活気が感じられる集落でした。

それにしてもこの「飛養曽(ひよそ)」と云う文字の意味が気に掛る集落です。

撮影2011.7.30


奈良県旧大塔村(おおとうむら)  堂平(どうひら)集落

2011年08月25日 | 街道街並集落 景観 

国道168号線が国道筋に軒を並べる辻堂集落に差し掛かる少し手前、深い谷川の「天ノ川」を挟んで向こうの山肌高くに集落が見えるので訪ねて見る。

<新設工事中の168号線バイパス越の堂平(どうひら)集落>

天ノ川に架かる橋を渡り一気に山の斜面を駆け上ると・・・

眼下には辻堂集落の家並みが国道脇の川筋に建ち並ぶ。

昔は谷が深くて急だったのだろう??見下ろすと一部4階建ての家も見えたり・・・・。

此処は昔街道筋の旅館が集まっていたのだろうか??

斜面を一息駆け上って出遭うのがこの堂平集落、斜面に建つ民家には真新しい民家も見え、此処では廃家も見られなく、斜面に畑作が営まれている。

クネクネと上へ上へと駆け上る道筋に民家が10軒ばかし・・・・、しかし堂平はまだこぐち、この道まだまだ上へ奥へと伸びている。

撮影2011.7.30


草津市上山田町 薬師院の薬師如来石仏

2011年08月24日 | 石仏:滋賀

普段は鍵がしっかり掛る無住寺?地域の人たちがお守するお堂のため普段拝観するのは何かと面倒。

8月20日の土曜日、地蔵盆が真近の週末連休、石仏だから地蔵盆にはお祀りをするため、準備で人がいるんじゃないかと思いめぐらし立ち寄ってみた。

思いは見事に的中、おもわず寄り合っていた地域の人たちにグッドタイミングだったんですね、石仏さんを拝観させてくださいとお願いした。

勿論気安く拝観させてもらい、写真も真近まで近づき、供台も移動して撮影させて戴いた・・・・、感謝感謝。

琵琶湖東岸沿いを瀬田川から近江八幡、彦根方面に延びる湖岸道路、その風光明媚な快適道が湖岸緑地に道を挟んで対面する山田漁港、その背後に有る上山田集落の鎮守「若宮神社」に並んで薬師院という無住の民家かと思うような黄檗宗の寺がある。

本堂の簡素な須弥壇には本尊としてこの薬師石仏が祀られています。

やっぱり供台がどうしてもじゃまになります。

ちょっと失礼、供台を除けて正面から・・・・高さ約1m、幅90cmの舟形に造った花崗岩

像高65cmの薬師如来坐像が厚肉彫りで刻み出されています。

蓮華座は須弥壇で隠れてる部分も多いが大きく張りが有る・・・・

左手は膝の上で薬壷を持ち、右手は胸で大きく開く施無畏印・・・・、薬師の定形。

大らかでどこか人間くさい顔様、体躯の肉付きも豊満で大きく膝を組み、銘は認められないものの鎌倉期の像立。

詳しくはこの掲示板から・・・・・・(花崗岩の掲示板で見づらいのでかなり加工しました)

撮影2011.8.20


奈良県十津川村(とつかわむら) 沼田原野地見(ぬたのはらのじみ??)

2011年08月23日 | 街道街並集落 景観 

 前回紹介の中井傍示(なかいほうじ)集落から見ると舟ノ川の谷を挟んで南西斜面に煙が立ち昇り集落の気配がするのでそれを頼りに行ってみた。

家に帰って国土地理院の地図で調べてみたところこの集落辺りには「野地見」の文字、そして此処は中井傍示とは目と鼻の先だと言うのに十津川村だという。

野地見をなんと読むのかも判らないが??、此処でであった人は子供の頃あの中井傍示の永盛小学校に通っていたと言う。

集落は山裾の緩斜面を拓いてここでも10軒ばかしが雛壇上に点在している。

ここは中井傍示集落よりも良く開けていて狭いながらも稲田があり蒟蒻畑で働く人たちが居たりして活気が感じられた。

新しく開拓された集落のようで歴史の感じ取れるようなものは何も無いけど・・・

こんな辺鄙な山奥には似つかわしくないような屋敷も・・・

長閑ながら廃家も少なく豊かに見えるが、この土地に住む人たちは麓の町とこの地との二重生活を強いられているとか・・

この地では子供を育てる手立てが失われている。

撮影2011.7.30


大津市上田上桐生町 逆さ観音<更新>

2011年08月22日 | 石仏:滋賀

もう、5年以上も前にUPしたが写真もひどく、どうしても、もう一度会いたくて出かけて来ました。

前回は冬枯れの山中、今回は真夏、緑滴る磨崖石仏さんです。

逆さ観音は大津市と草津市の境界辺り、草津川の源流域に有る大津市の上桐生から少し上流に遡ったところに有る。

上桐生の草津川沿いに大津市のレクレーションゾーンが整備されていてハイカーや家族連れが多く、おおきな駐車場も併設されており、案内表示等も良く整備され困ることはない。

その駐車場から、遊歩道を、小川沿いに歩くこと約15分でこの石仏に出会うことが出来る。

この石仏付近も整備が行き届きすぎてるきらいがあって、野の仏としての趣には足りなさを感じてしまう。

この磨崖石仏は元、山の尾根道ぞいに在ったらしいが、下流のオランダ提の築造時(明治22年完成)に石材の不足を補うためにこの磨崖仏の一部削り取られ、後にバランスを失い、山からづり落ちて逆さになったものらしい。

石仏は3m四方以上も有る花崗岩に像高1.4mの阿弥陀如来坐像と両脇に観音、勢至菩薩を刻んだ阿弥陀三尊磨崖石仏で、鎌倉初期の像立だとされています。

菩薩の一体が石材不足の犠牲になって体部半面をかなり破損欠如していますが、鎌倉期石仏の堅実優美な像様は失われておらず美しい。

今回撮影した画像を並べてみます。

下部正面より・・

少しズームアップして・・見事に逆さま。

再度アップするとこんな感じ、やっぱり目の位置でまともに見てみたいけど・・・

少し位置を変え更にアップ・・・

ちょっとお遊び、画像を逆転、この方が何と無く良く判る、でも印相までは・・・・・。

どうしても磨崖と対角線では見れないようです・・・・、阿弥陀さん。

少し斜面を登って側面から見るとこんな具合。

もう一段登って頂上から・・・・、実は磨崖の足元に成るのですが・・・、まっ逆さまで何がなにやら??

やっぱり「逆さ観音」今更立て直すわけにも行かないし・・・

磨崖の前に建てられた説明板です。

小さい写真は2005年冬の撮影。

撮影2011.8.20


奈良県旧大塔村(おおとうむら) 中井傍示 (なかいほうじ)集落

2011年08月21日 | 街道街並集落 景観 

紀伊半島の分水嶺「天辻峠」(今は天辻トンネルでなんなく超えるが・・)を超えると、そこから先は、その昔「遠津川郷」と呼ばれた紀伊半島中心部の山深い土地。

そんな遠津川郷の入り口辺りが奈良県五條市旧大塔村、大塔村の中心部「道の駅大塔」の有る坂本地区より更に国道168号線を熊野川の上流域「天ノ川」の渓谷沿いに南下すること20分ばかり、天ノ川の支流「舟ノ川」合流地点から更に「舟ノ川」沿いを山深く東進する県道235号線で約10分も遡ると、山肌にへばり付く様な中井傍示 (なかいほうじ)集落にいたる。

国土地理院2万5千分の1の地図を見ると背後の杉山にも集落の建物らしき物が見えるが現在それらしき気配は全く無く、最早杉林の中に埋没してしまったのでしょうか??

集落は県道を挟んで見える限りでは10軒弱、所々取り壊して更地になった民家跡も目に付く。

建物は山深い山村らしく簡素な平屋のトタン屋根が多く、それほど深い歴史は感じないが厳しい風雪に耐えるように作られている。

斜面を有効に利用して自然の厳しさから身を守るように旨く建てられているが此処も、もう既に廃家。

急な石段が集落の家々を繋ぐ。

他方集落東外れには宗泉寺と言う寺が有って立ち寄ってみたが、当然無住で程ほどに荒れていて見るべきものとて何も無い。

県道を挟んだ裏山の墓地も訪ねたが、やっぱりそれほど古い歴史を感じるものは無く元禄期の迎え地蔵が一体。

それでも墓地は清掃が行き届き、埋め墓、石塔墓共に手向けられた花は真新しい。

最早住人は墓の数の10分の1も居ないだろうに??

集落県道脇に残る永盛小学校跡、勿論昭和50年の廃校・・・、最早既に45年ばかし・・。

往時此処には近くの集落から通っていたにせよ何人ぐらいの子供が机を並べたのだろうか??

しかし此処で滅多に見れないこんなものにお目に掛かりました。

遥か遠い昔に死語と成ってしまった尋常小学校の文字が入った校門。

この地に小学校が建ったのは100年前の明治43年、この年あの「黒澤 明」や「白洲正子は生まれた。

100年前には希望一杯の子供達の歓声が響いたこの地も、100年も経るとこうも変わるもの・・・・。

撮影2011.7.30


奈良県野迫川村(のせがわむら) 平(たいら)集落

2011年08月20日 | 街道街並集落 景観 

野迫川村は雲の彼方と誰かが称したように山深く、街からは遥かに遠い山中の谷間に集落が点在する。

平集落はそんな野迫川村にあっても更に山深い山間僻地、野迫川村では珍しく谷川沿いでは無く、山の尾根筋に在る集落です。

前回紹介の今井集落から県道53号線で山越え、途中高野山方面に行くこの県道と別れ、県道733号にて村役場の有る中心部を越えひたすら北股川を遡り、更に枝道をのぼり詰めると「平家惟盛歴史の里」と書かれた大きな看板を掲げた集落に出会う。

ここまで今井集落から凡そ40分、やっぱり遥か雲の彼方の遠さです。

集落には「平惟盛」の伝説が色濃く残っており、ここが源平の戦いで敗れた平維盛(たいらこれもり)が最期を迎えた土地だと伝えられ、亡骸を弔ったという塚もある。

村ではこの集落の伝説を起爆剤に、観光客誘致のための施設を造ったようですが、僕が訪れた7月初めの日曜日には誰一人見かけることは無かった。

集落は廃校になった小学校を挟んで凡そ10軒ばかし、それでもその殆どは空き家で痛みが目立つ。

集落の家屋は簡素な造りでトタン屋根の平屋が多く、この建物を見ただけでは歴史的なものを感じることは出来ない。

たぶん住人も五指にも満たないのじゃないだろうか??・・・・・、ちらっと見かけたのは3人だけ。

小学校脇には「維盛」の死を悼み、村人が勧請したという勝手神社の鬱蒼とした参道が続く・・

参道奥には杉の巨大木に囲まれて勝手神社の社殿。

ダダ広くすっかり寂れ果てた駐車場より見る廃校の平小学校と大公孫樹・・・ここにも子供たちの喧騒はもう帰らない。

平と云う集落名は「平維盛」にちなんだものに違いないだろうが・・・・、大挙して観光客が押し寄せても対応できる住民は最早居ない。

撮影2011.7.2


奈良県野迫川村(のせがわむら) 今井集落

2011年08月19日 | 街道街並集落 景観 

野迫川村と聴いただけでは何処にあるか全く知らない人が大部分を占めるだろう 、かく云う関西人の僕でさえ余り聞き慣れない村の名前です。

野迫川村は奈良県の南西端にあって和歌山県と接しており、奈良県とはいえ、あの高野山で名高い高野町との繋がりが強くアクセスも良い。

平成22年国勢調査の速報で人口減少率が全国一、人口は現在約500人強、世帯数300軒ばかし・・・・・、高齢者が人口に占める割合も脅威的に高程なく50%にも届きそう、まあよくも単独自治体とし維持できるもんだと少々戸惑う。

前置きがちょっと長くなりすぎましたがそんな山中の一つの集落、今井を訪ねた。

自宅を出てから約2時間余り、奈良県五條市から紀伊半島を縦断する悪名高き国道168号線で旧大塔村の坂本まで、その後国道からそれて県道53号線へ・・・・。

奈良県側から野迫川村にアクセスするにはこの県道53号線と県道734号線が有るが、こちらは素人ドライバーにはとてもとても。

紀伊半島を貫くように流れる熊野川、その上流は十津川、さらに上流は天川と名前を変えるが、今井集落はその天川支流の中原川を谷沿い道で遡ること約15分程。

山中のスギ林を抜け下り峠に差し掛かると目の前が開け、絵に描いたように長閑な今井の山間集落が見下せる。

ここは殆ど野迫川村の入り口辺り、野迫川中心部へは遥か遠い険しい県道道を約30分程ひた走る。

集落は谷間に開けたなだらかな斜面に約20軒ぐらいが軒を寄せ合う。

表通りに一筋車の通る道が有るけど集落内に車の進入出来る道は無く、高く石垣を積んだ上に建つ。

 山間集落では斜面に建つ家が多く、片側を高床にして冬場に使う薪などを保存してるよう・・・

車の入らない集落内にも立派な家が軒を連ねるが、温もりの感じられる家は殆ど見られない。

やっぱりここもサンデー集落、休みになるとポツポツ人が居る。

 

集落には高福寺という寺が有り重文の阿弥陀仏が祀られていると言うが、もちろん拝観出来る術もない・・・・。

集落の片隅には門標の取り外された廃校・・・・勿論この集落に子供の声は響かない。

小学校は遥か彼方の村の中心部には一つだけ、ここに子供が居るわけもなく、現在常住する人は10指にも満たないだろう???

総面積の97%が山林、山々と清流といった豊かな自然に囲まれ、夏は涼しく、冬は雪が多い・・・見るだけならいいけど住むにはちょっと・・・田舎者の僕でさえ尻込みしそう。 

 撮影2011.7.2