愛しきものたち

石仏、民家街並み、勧請縄、棚田景観、寺社、旧跡などが中心です。

金剛輪寺の石仏

2007年04月29日 | 石仏:滋賀

金剛輪寺は滋賀県の所謂湖東三山の一寺で、行基菩薩の開創と伝えられています。

たまたま、去年は秘仏の聖観音の公開もありこの寺院を訪れた。

滋賀県の湖東を東西に走る国道307号線、愛東町、松尾の信号を山手に行くとやがて、金剛輪寺の門前に着く。

総門から、やがて山岳寺院らしい山道の参道となり、本堂までのうっそうとした木立の中を上る事になる。

参道の両脇にはおびただしい数の真新しい地蔵石仏が寄進されていて、石仏に持たせた風車がぐるぐる回っていた。

山門から少し上った左側参道脇に石仏の表示板があって、その奥の仮堂内に阿弥陀如来坐像石仏が祀られている。

仮堂の前は広場になっていて、ここにも参道に林立しているのと同じ地蔵石仏がびっしり並べられ、どうも艶消しの感が否めない。

高さ1.36mの花崗岩に座高83cmの定印阿弥陀像が厚肉彫りされていて、別石の反花座(かえりばなざ)の上に座っています。

光背上部にキリーク(弥陀)の種子があり、左右にア字を六個あらわしていて鎌倉後期の作だといわれています。

急な苔むす石段の上には大きなわらじが両脇に吊り下げられている山門がありその奥に国宝の本堂が建っている。

本堂右脇にある鐘楼横から山手の石段を登っていくとこの地蔵石仏と対面できる。

高さ80cmほどの舟形光背を持つ地蔵坐像石仏で、彫りの丁寧な作風、風化も少なく穏やかな顔つきが優しい。

撮影2006.10.7

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大日場の石仏

2007年04月25日 | 石仏:滋賀

国道307号線の滋賀県の多賀町には、遠い昔湖東三山と並ぶほどの大寺院敏満寺があって、戦国時代に兵火により焼失してしまい廃寺となり、鎮守社胡宮神社だけが再建され、現在でもこの境内には敏満寺の遺構が多く残されている。

この敏満寺に関係する石仏が、国道307号沿いの野面にぽつんと残されている。

犬上川の堤防横に運送会社の倉庫があって、その横あたりを地元では大日場と呼んでいて、敏満寺本尊の大日如来ゆかりの地名だそうです。

小さな木立の影、背の低い雑草の中に立つ二体の石仏は、広い野原を従えて野の仏としての趣がとても良い。

左側に立つ阿弥陀如来坐像石仏は、高さ1.27m、幅40cmの安産岩の自然石で像高約1mの半肉彫り。

風化、磨耗が進み像容は判然とはしないが、力強い体格、写実的な肉付きなどから、鎌倉中期の像立だとされています。

また右側に立つ地蔵石仏はその様式から室町期の像立、趣のある石仏です。

今は、ほとんど訪れる人もない野の仏は、ただ佇むばかりで満足げに微笑んでいるように見える。

撮影2006.10.7

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北摂の石仏ー10  月峯寺の石仏

2007年04月21日 | 石仏:大阪

剣尾山月峯寺は推古天皇の頃、剣尾山の山頂近くで開基し繁栄したが、1545年、兵火により焼失した。後寛文4年(1664)大阪城代片桐且元公が豊臣家再興の祈願にと現在の地に再興した。

正面の石段を登ると真新しい宝形屋根の本堂が建ち、背後にはこの寺の山号である剣尾山が控えている。

この本堂西側の奥に六体阿弥陀石仏が並んでおり、この地の石仏としては圧巻です。

元は剣尾山上の旧月峯寺跡よりここに運ばれて来たものだという。

等身大坐像で船形光背と共に一石の花崗岩から彫り出している。

左より

高さ1.30mの舟形光背、座高約80cmの阿弥陀像を厚肉彫りにしている。

左から二番目の石仏に銘があって、文安四年(1447)室町前期の像立。

地方色がなく洗練された作風で、京都系石大工のてによるものとされています。

阿弥陀は九体のものが多いが、六体阿弥陀はあまり聞いたことがない。

何かの都合で三体がここには欠けているのかも知れない。

また、月峯寺は摂津西国観音第十六番札所ということもあり、樹陰の中には四国八十八ヵ所観音霊場石仏が訪れる人もなく佇んでいる。

撮影2006.10.21

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安楽寿院の石仏

2007年04月17日 | 石仏:京都

京都市伏見区にある安楽 寿院は名神高速道京都南インターのすぐ南側、今ではすっかり新興住宅地に囲まれた一角。

安楽 寿院の南側には近衛天皇の安楽 寿院南稜があって多宝塔が立っていて美しい姿を残している。

このあたりは鳥羽天皇、白河天皇の稜もあるところで、往古鳥羽離宮の在ったところだが今はこの安楽 寿院あたりにその面影を留めるに過ぎない。

石造三如来像は本堂西側の仮堂内に三尊石仏二基が安置されている。

これらの石仏は江戸時代に近くの旧成菩提院跡から出土発掘されたといわれ、三基出土したうちの二基で、一番状態の良い阿弥陀三尊石仏は京都国立博物館に寄託保管されている。

釈迦三尊

この石仏は凝灰岩で高さ約1m、幅1.1m、、厚さ40cmばかりで、平安期の特徴がよく現れています。

向かって右側には釈迦三尊、左側は薬師三尊といわれています。

薬師三尊

どういう理由で土中にうずもれていたのかは定かではないが、顕教四仏をあらわした石塔の四方仏であったと考えられています。

摩滅、欠損ともに大きく無惨な姿にもかかわらずわずかに残った、古式な表現に藤原文化のにおいが感じられる。

国立博物館に保管されている阿弥陀三尊石仏もぜひ見てみたい。

撮影2006.9.15

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北摂の石仏-9 野間中「六体地蔵」、他

2007年04月13日 | 石仏:大阪

豊能町の中心、余野から北のほうへ暫く走ると妙見口の信号。

この信号を左折、妙見山を越えて、きつい九十九折れを下って能勢町へと入っていくが、平地に入って最初の集落が野間中の集落。

この道沿いの山から下りきったカーブの右側に小さな覆い屋の六体地蔵磨崖石仏がある。

これぞ野の仏だと言わんばかりの風情、旧街道脇に立っていて、高さ1.5mの自然石花崗岩に横長方形の輪郭の中に六体地蔵立像を横一列に並べ、枠外左に船形光背の小阿弥陀坐像を刻んでいる。

永禄七年(1564)の銘があり室町後期の像立。

この石仏より少し進むと野間中の信号、この信号の少し手前右側に、能勢町指定文化財の野間のたて石と呼ばれる地蔵種子板碑がある。

この地域に多い花崗閃緑岩に地蔵の種子「カ」を薬研彫りにしていて、暦応四年(1341)南北朝初期の像立。

板碑としては大きく珍しい。

撮影2006.10.21

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北摂の石仏-8 法性寺地蔵石仏

2007年04月12日 | 石仏:大阪

法性寺は、豊能町の北東部山裾の古刹で、鄙びた切畑集落を一望できる高台にある。

急角度の石段を登りきり、境内の左手にある墓地の前面この地蔵が立っている。

自然石に舟形の彫り込みをつくり、蓮華座に立つ像高70?ほどの地蔵立像を厚肉彫りしたもので、柄の短い錫杖と宝珠を持っている。

造建は鎌倉後期の正和三年(1314)、今から689年前、豊能町で2番目に古く、鎌倉後期の像らしく、整った写実的な秀作です。

地元ではカゲ引地蔵と呼ばれているそうで、下記のような昔話が残っているようです。

「昔、尼崎あたりの魚師たちが不漁にあえいでいたことがあった。しらべてみると北方の山頂でキラキラ光るものがあり、これが波に反射して魚が怖がって集まらないことがわかりました。漁師さんたちは尋ね尋ねてやっと探しあてたのが東能勢・切畑(現豊能町)の山頂にあったこのお地蔵さんでした。漁師さんたちのたっての願いで、現在の位置まで下ろしたら魚がまた取れだし景気も盛り返したという。」

これはこの地蔵の彫られている石が石英閃緑岩で、光を受けて石英がきらきら光ることからこんな話が生まれたのでしょうか??。

撮影2007.10.21

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北摂の石仏-7  釈迦堂の阿弥陀三尊笠塔婆石仏、他

2007年04月09日 | 石仏:大阪

前回紹介の磨崖石仏から新道までの戻り道、道路わきの低い擁壁の上にほぼ半身大の地蔵石仏が立っている。

高さ、約1.8mの自然石花崗岩に船形を刻み像高約75cmの地蔵立像を半肉彫りにしていて、付近の地中より掘り出されたものだそうで、頭上部分で断裂した跡が残っています。

微笑みを浮かべたやさしい顔がなんとも地方色豊かで、南北朝の像立だといわれています。

ちなみに切畑大円下所(きりはたおおまるしもんじょ)地蔵石仏といわれています。

これより、大通りを左手に取りやがて右手の農道を入っていくと山裾の台地に小さなお堂があって釈迦堂といわれています。

堂の右側一列に石造物が並んでいて、この地最古の年号を持つ石仏がある。

阿弥陀三尊石仏で高さ約1.6m、幅約50cmの花崗岩自然石に舟形の彫り込みをつくり阿弥陀三尊を厚肉彫りする。

上部中央に像高30cmの定印阿弥陀坐像、その下方両側に、少し小さめの観音勢至両菩薩を刻んでいて珍しい形の石仏です。

乾元2年(1303)」の紀年銘があり、鎌倉後期の作、素朴ながら気品のある石仏で、上面に突起があって元は笠石が乗っていたようです。

撮影2006.10.21

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北摂の石仏-6 切畑大円下所(しもんじょ)多尊磨崖仏

2007年04月06日 | 石仏:大阪

切畑は豊能町北東部、山懐に抱かれたひなびた山里で、この地区にも多くの石仏が集まっています。

この多尊磨崖仏のあるところや深い緑が始まる森の入り口近くにあって、木漏れ日がちらつく最悪の撮影条件でした。

ここはまったく日差しの弱く木漏れ日の射さない日に行かなければいい写真など撮れそうにない。 

高さ約2.5m、幅3mの半球形の石英閃緑岩面に舟形光背を有する阿弥陀像と、二十体の合掌坐像仏とその脇に五輪塔を彫ったものですが風化も進み、ちらつく木漏れ日の中ではなかなか見づらい。

天正二年(1574)の紀銘があって、桃山時代の像立。

しかし訪れる人もほとんどないのか岩の上には枯葉が積もり、ほとんど手付かずで忘れ去られているような状態になっています。

しかし野の仏としての鄙びたたたずまいは捨てがたい物がある。

撮影2006.10.21

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北摂の石仏-5 川尻中の谷多尊石仏

2007年04月04日 | 石仏:大阪

前回紹介、北の谷のひとつ南側集落、中の谷の斜面になった道路わきに、この石仏を左に名号碑を右に置き、小石仏を何体か並べている。

あまりにも日当たりが良いので、石仏に潤いが感じられないのが気の毒のようにも思える。

中の谷多尊石仏も、北の谷のと良く似た構成になっていて最上段には来迎阿弥陀三尊が彫られている。

下段三段には、合掌供養石仏が16体彫られていて、天正元年(1573)年の紀年銘のある桃山時代の像立。

この地にはこうした多尊石仏多いのは何の関係なのかと???

撮影2007.8.18

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北摂の石仏-4 北の谷多尊石仏

2007年04月02日 | 石仏:大阪

前回紹介した「たぬき藪の磨崖石仏」から、国道423号線を隔てて対面の山懐にある川尻地域北の谷にある石仏さん。

その昔ここが何だったのかは解からないが急カーブする道の脇にこんもりした高台があってその木立の中にこの石仏が待っていてくれる。

高さ、約1mあまり幅約1.5mばかしの自然石の表面に、四段に分けた石仏を19体並べていてこの地の特徴が良く出ている。

上部中尊は放射光背を背にする阿弥陀立像で、(この放射光背もこの地の特徴です)両脇には地蔵を配しているのが変わっている。

像高は上段が30cm足らず、下段はいずれも20cm足らずと小さなものですが、いずれの像もこの土地の地方色が良く出たもので皆よく似ています。

天正八年(1580)の銘が彫られていて桃山時代の像立。

撮影2006.8.18

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