愛しきものたち

石仏、民家街並み、勧請縄、棚田景観、寺社、旧跡などが中心です。

高取城趾 登山道の猿石(再撮)

2014年09月30日 | 石塔:石造物

   

以前にもこのページで紹介したが、新しい写真での再UPです。

 前回紹介の岩屋不動へ行った序でに直ぐ近くに置かれた謎の石造物「猿石」に再度寄って来た。

高取城、登山道の旧坂、一升坂を登りきった明日香村栢森へ下る道筋の分岐点に置かれ、登城のハイカーを奇妙な顔つきで迎えて呉れる。

明日香檜隈の吉備姫王墓にある猿石同様、江戸時代・元禄15年に欽明天皇陵(きんめいてんのうりょう)の南の田圃から掘り出され、
この地に石垣用石材として運ばる途中でここに置かれた様です。

高さ85cm、幅75cm、厚さ65cmを測る奇妙なかたちの石造物・・・・猿石の名前の通り猿に似ています。

麓、明日香の吉備姫王墓に置かれた他の石造物と同じく真正面に見事な陽物を付けている。

猿石は飛鳥時代、斎名朝(7世紀)の頃に作られたものと推定され、猿石はもともと欽明天皇陵の堤に置かれていた呪物では無かったのかとも言われて居ます。

古代、陽物は命の再生の根源として崇拝されて居た。

背面から・・・

撮影2012.11.16


高取町 岩屋不動石仏

2014年09月29日 | 石仏:奈良

奈良県高取町、高取城阯登山道脇に残されて居る石仏。

 

高取町土佐、城下町外れの家老屋敷前から、今は登山道となった高取城址へ登る嘗ての大手道を、てくてく30~40分・・・

急坂を上りきって息も絶え絶えになった頃、右手に細い脇道が有り、岩屋不動への案内板が建って居る。

指示通りに進むと直ぐに境内跡だと一目で判るそれほど広くない、木立空間の最奥に三体の石仏が並び立っている。

この地は岩屋神社の跡地、明治維新までは岩屋不動と呼ばれ、古くは大峰山への行場だとされて居る。

中央には舟形火焔光背を負い岩座に立つ不動明王を半肉彫りで刻み出している。

 

像高50cmばかりか、右手に利剣、左手に索条・・・

牙を剥き出す様に憤怒相だが・・見る方向によっては少し間が抜けて見えなくもない。

不動明王石仏としては上出来とは言えないものの、そう悪くもない。

向かって左手には獅子に載る文殊菩薩像、ちょっと微笑んでいるようにも見え、興味半減・・

亦、右手の小さな箱石仏は「役行者」という事だが、納得の行かない像容でした。

撮影2012.11.16


和歌山県橋本市高野口町 嵯峨谷の六地蔵六面石憧

2014年09月28日 | 石仏:その他

我が国最古の六地蔵六面石幢(せきとう)が、先日から紹介の「三谷坂」からそう遠くない場所に在ると言うので序でに訪ねた。

石幢のある橋本市高野口町は「三谷坂」のかつらぎ町からは隣町、「紀ノ川」を挟んで右岸、金剛山系の斜面に拓けた山間棚田集落。

山全体が杉林に変わることなく、秋の終わり色に染められ素晴らしい景観を見せて呉れていた。

集落奥の辻に新しく造られたブロック基壇が設えられ、多分墓地に在ったで有ろう小石仏や石造物が並べられて居る。

その中央にずんぐりむっくり、大きな六角形の傘を持つ身だけの六地蔵六面石憧が安置されて居る。

六地蔵六面石憧は高さ約90cm、幢身は六角柱でその幅約40cm足らず・・・

各面に舟形を彫り沈め、中に蓮座に立つ、像高38cmの六体地蔵を中肉彫りで刻み出す。

正面の錫杖を持つ地蔵立像は、厳しい中に優しさの滲む尊顔は、小さいながら素晴らしい出来栄え。

地蔵側面縁には貞和5年(1349年)の銘が残され南北朝時代の造立。

惜しいかな、それ以下の側面は欠落しています。

我が国最古の六地蔵石仏も、日の当たらない裏側日陰部分は地衣類の繁殖が酷く、気の毒な程でした。

撮影2012.11.25


宇治市 炭山の茅葺き民家

2014年09月27日 | 茅葺き屋根(上懸屋含む)京都府

 以前に見つけておいた近場の茅葺民家・・・・・気候も良くなり、朝から天気も良かったのでチャリで一走り。

いくら近場の宇治市内とは言え市街地からは約10km以上も離れた山間集落・・・どこをどう辿って行ってもアップダウンのきつい谷間集落。

結構早く出たつもりだが、途中の「みちくさ」や峠道ではたまらずチャリを押すハメとなり、思わね時間を食ってしまった。

こんな人里離れた山奥に在っても、民家は殆ど現代風建築に取って変わり、この集落で残って居たのはこの一軒のみ。

斜面脇に小さな屋敷を構えて居るが、下屋は改装されギャラリーの名前が付いていた。

ここ炭山は陶器工房が多く、古民家を利用してそのギャラリーとして利用しているのかも??

その昔は山間農家だったのだろう・・・山城の簡素な入母屋茅葺き屋根にアワビの貝殻が所々に光ってる。

 裏山、寺の境内から見ると日陰部の屋根の傷みがどうしても酷い。

撮影2014.9.26


和歌山県かつらぎ町 三谷坂の頬切(ほ きれ)地蔵(

2014年09月26日 | 石仏:その他

日本ではこれだけ、他には類例を見ることさえ出来ない石造物だそうですが・・・・、地元では三谷坂の頬切(ほ きれ)地蔵と呼ばれて居ます。

ひとめ見ると誰でも判る様に単なる地蔵石仏では有りません。

前回紹介の笠石より三谷坂参詣古道を更に40分ほど登りり詰めた奥、今は杉山と化した山道わきに看板が建ち・・・

杉林に囲まれる様に粗末な覆屋が懸けられ、見慣れない形態の磨崖仏が地中から顔を覗かせて居る。

写真でも判る様に磨崖の石仏は三体・・・

地中から顔を出した細長い島状自然石の前部三面に一尊ずつ配され、上部を屋根形の笠に整形加工、上部には欠損したのか?本来の宝珠の代わりに小型五輪塔の水輪が載せられている。

因みに地中より掘り出した??自然石は奥行2.23m、幅1.17m、高さ65cmの緑色片岩。

石は北側を正面に南北に横たわり、北面正面に中尊として大日如来・・・・

向かって左手東面には釈迦如来・・・

向かって右手西面には阿弥陀如来の三尊・・・・所謂、塔身に三尊を配した磨崖一重塔の形態をとっている。

主尊、北面の金剛界大日如来は・・・・・

荒く鏨痕の残る北面に薄い二重円光背を負い大きい蓮座に結跏趺坐。

像高約40cm足らずだが豊かな力量が感じられる。

右上部、笠石部分から伸びた石の割れ目が頬部を貫いて居る事から頬切(ほ きれ)地蔵の名で呼ばれて居る。

 東面、釈迦如来坐像

もちろん主尊に良く似た像容で殆ど同じ法量を持つ。

こちら西面の阿弥陀如来坐像。

三如来はいずれも、大きく刻出した蓮弁に座し、薄肉彫の二重円光の中、ふくよかな尊顔と衣文の尊像を造り出している。

また、石仏だけでなくその頭上に作り出された笠の形態も極めて古式なもので、高さは低く左右によくのび、屋根の流れや隅の降り棟の曲線はおおらかで、鎌倉時代初期の造立と推定される。

自然の磐座を利用した丸彫りの一重塔は他に類例が無く、極めて貴重な遺物であり、金剛界大日如来が阿弥陀如来と釈迦如来の二如来を従えて、この世に現れた姿を表現したのではないかと推定されている。

撮影2012.11.25


和歌山県かつらぎ町 三谷坂の笠石(笠石仏)

2014年09月25日 | 石仏:その他

石友さんに連れられヘコヘコ登った三谷坂の「一本足の案山子」じゃなく「笠石仏」 

秋も終わりに近い11月の週末、和歌山県紀ノ川流域かつらぎ町三谷、公孫樹の大木が色づく「丹生酒殿神社」脇、天野大社参道の石柱がある道をひたすら登る。

一気に高度を上げていく高野山系斜面道、途中から見る山肌は段畑に開墾され、見事な果樹園が広がり 、彼方には紀ノ川の流れが臨める。

この道三谷坂は、高野山参詣道の一つ、丹生都比売神社」の神主や勅使が通った「勅使坂」とも呼ばれる古道です。

古道入口よりのんびり登って20分弱、なだらかな果樹園の連なる尾根道沿い、狭い空き地に山茶花の木立を背負うように、まるで、割り箸の先に輪切りの大根を突き刺したような笠塔婆が目にとまります。

「笠石」の名で呼ばれるこの笠塔婆には実しやかな「昔噺」もあり・・・・弘法大師が高野山への道中、かぶっていた編笠が風に飛ばされたところ、この石に引っ掛かって居たことから「笠石」と呼ばれる様になったとか??

時代も合わないし何の説明にも成って無い他愛もない昔噺ですが・・・昔の人は弘法大師というだけでもありがたく納得したのでしょう・・・。

石造美術の分類では所謂「笠塔婆」と呼ばれるもので緑泥片岩の高さ約130cm、幅15cm程の石柱上端に、幅70cm程の板石状笠石を突き刺す特異な形と成って居る。

笠石直下の塔身上部には、舟形に削り出した中、蓮弁に座し定印を組む、像高約15cmの阿弥陀坐像を中肉彫りで刻み出している。

初源的な木製時代の卒塔婆の名残を留めた特異な形態で、南北朝期の造立だと考えられている。

ここから見る晩秋の山麓集落の景観は、感動さえ覚え程の素晴らしさでした。

撮影2012.11.25


生駒市 枯れ木薬師如来石仏

2014年09月24日 | 石仏:奈良

 

生駒山麓、山肌を埋め尽くすように建つ新興住宅脇に残された石仏さん。

生駒の街は来るたび毎に戸惑うばかり、山肌を無闇矢鱈に開発、無秩序に新興住宅が建ち、余所者にはとてつもなく判りづらい。

この石仏も何度となく探しあぐねた後、何とかかんとかこの場所に辿り着きました。

石仏は開発から逃れた山肌に少しだけ残された木立の根元に在り、その手前には「枯木薬師山元信寺」なる寺名を刻んだ石柱が建って居ました。

この石仏はその元信寺の本尊と言うことなのでしょうか??法要ごとの卒塔婆が石仏の周りに林立しています。

石仏は総高1m足らず、舟形光背を負い、蓮華座に結跏趺坐、左手に薬壺掲げ持つ薬師石仏。

力なく、簡略化された単純な像容から古いものとは考えられず室町期以後の造立??

この信仰の山、生駒に在っても薬師石仏の存在は珍しい。

撮影2012.11.21


生駒市 朝日地蔵

2014年09月23日 | 石仏:奈良

 

何ゆえ朝日地蔵と呼ばれて居るのかは知りませんが???

生駒聖天さんの名で親しまれる宝山寺脇からの信貴生駒スカイライン脇、切通しの崖上に人待ち顔で佇む石仏さん。

往時この前を、参詣道が通り、善男善女がこの石仏さんに手を合わせて先を急いだのでしょうか??

時代はその脇をハイウエーが貫き、参詣道は切通しで断ち切られ、石仏さんだけが取り残されて今は車を見送って居る。

総高約120~130cm、舟形に整形した花崗岩の縁を残して更に彫り沈め、中に蓮座に立つ定形地蔵立像を中肉彫りで刻み出している。

 いつの日にか転倒でもしたのであろうか、舟形頂部と尊顔顎先に深い傷を負って居る。 

全体に力なく、定型化、略式化が一段と進み出す少し前、安土桃山期の造立だと考えられている。 

撮影2012.11.21


京都市 伏見区の茅葺き民家

2014年09月22日 | 茅葺き屋根(上懸屋含む)京都府

京都市最南端、伏見区桃山の小高い台地に残されていた茅葺き民家。

 

この桃山台地は、かって豊臣秀吉が伏見桃山城を築城、当時なら庶民など近づくことさえも出来ない??と思われる古い呼び名の一画に残っていた。

付近は乃木神社や明治天皇陵にも近く由緒在る土地、いくら由緒正しき場所だとは言え、こんな市街地に茅葺き民家残って居るとは思いもしなかった。

 

台地斜面、背後に台地の木立を背負い、正面を道路に接し、大きい入母屋の茅葺き屋根を見せている。

下屋は現代風に模様替えされ、棟続きで現代建築が増築され、若者仕様の車が横付けされて居た。

ちょうど近くに小学校が有り下校の子供達が、かしましく帰っていく・・・・ 

 

 この子供たちは茅葺き屋根の民家など毎日どんな目で見ているのだろうか??

撮影2014.9.19


平群町鳴川 揺ぎ地蔵石仏、十三仏板碑 

2014年09月21日 | 石仏:奈良

前回紹介の千光寺への参道途中の鳴川集落中程にある「揺ぎ地蔵尊」と「十三仏板碑」。

鳴川渓谷の深い斜面にしがみつく様に鄙びた美しさを、そのまま残す鳴川集落。

その集落や、細くて険しい千光寺参道の風情には捨てがたいものが有り度々おとづれて居る。

集落の中程、在所道の辻に簡素な地蔵堂が有り、中に「ゆるぎ地蔵尊」と呼ばれる大型地蔵石仏と十三仏板碑が安置されて居る。

八年ほど前にも一度UPしているので詳しくは書きませんが、佇まいも全く変わらずあの時のまま・・・・。

総高230cm、身の丈154cmもある等身大の石仏で頭上に四角い笠石を載せて居ます。

笠石の上部や赤い涎掛けの下が気になりますが、これだけ多くの涎掛けがかけられて居ると、とても手出しは出来ずに全く胸元は不明のままです。

「弘安四年」の紀年銘から、元寇(文禄・弘安の役)の二度目(1281)に際して国家的危機を回避するために建てられた尊像と考えられている。

向かって右脇には十三仏板碑。

高さ約150cm、幅50cm、舟形上部中央に天蓋を刻み・・・・・

その下には虚空蔵菩薩??。

以下3列4段の坐像が刻まれ、「六斎人数十五人 逆修 天文二十年(1551)辛亥十月吉日講中敬白」の刻銘があり、室町後期の造立。

撮影2012.11.21


平群町鳴川 千光寺の石塔

2014年09月20日 | 石塔:石造物

ちょっと前に紹介の信貴山より尾根伝いに北へ約8km、竜田川の枝流、鳴川渓谷最奥に建つ「千光寺」の石塔。

千光寺は660年頃、役行者(役小角)が草堂を築き、白鳳12年(684)天武天皇の勅命により本堂が建立されたと言われる修験道の霊場。

境内には修験道行者が使う大きな金剛杖がモニュメントとして立っていた。

役行者が大峰山を開く前に修行していたことから「元山上」とも呼ばれる千光寺。

参道には多くの・・・・、勿論「役の行者」の現代石仏が並べられている。

本堂後方には一見五輪塔かと見紛うばかりの宝塔。

脇の五輪塔と比べれば確かに違いは分かるが・・・これに近い五輪塔も当麻墓地で見掛けた様な・・・・・

相輪でなく宝珠を置いた、珍しい形状で、高さ133cm、鎌倉前期の造立つだと考えられている。

 一方その横手には十三重石塔

掲示板には創建「藤原時代」と成っているが、それは千光寺創建の間違い・・・・誰が見ても鎌倉時代後期の特徴を持っている。

総高4.17m、屋根の軒反りは力強く、軒裏に一重の垂木型を作り出し、塔身には金剛界四仏の種子を刻んでいる。

共に平群町の文化財に指定されて居る。

撮影2012.11.21

 

香芝市 鎌田の茅葺き民家

2014年09月19日 | 茅葺き屋根(同)奈良県

前回紹介の當麻とは直線距離にしてわずか2km足らず、良く似た大和棟の茅葺き民家です。

市街地とまでは言えないけれど、それなりの近郊地域の茅葺き民家は、やっぱりそれなりのステータスや財力の裏付けがある。

長屋門と白壁土蔵のこの民家は、奈良の地酒「金鼓」の「大倉本家」自宅兼事務所。

そう古くない長屋門には三輪の「しるしの杉玉」と、両脇には地酒 「金鼓」の薦被りが置かれている。

大きく、急傾斜大和棟は葺き替えられ、まだ間もないのか端正な美しさを保って居る。

相当手も入れられて要るのか??、遠目には建物自身もそう古い感じは受けない。

漆喰で固めた切り妻の白と、茅葺き屋根の年を経た濃茶色のコントラストが眩く映る。

以前、近く「竹之内街道」太子町で見掛けた大屋根の針金細工ミニチュア松ノ木がここでも見られた。

多分「火災除け」とか「家運隆盛」とかの呪いの様な気もするが・・・・・、誰か知っていませんか??

勿論前回の當麻町の茅葺き民家でも見られました。

撮影2014.9.13


葛城市 當麻の茅葺き民家

2014年09月18日 | 茅葺き屋根(同)奈良県

葛城市當麻町、當麻寺近くの旧街道筋に残された旧「造り酒屋」の茅葺き民家。

古刹「當麻寺」の山門脇を右手に取り、古い集落を道成りに進んでいくと・・・

ちょうど道路が、くの字に曲がる曲がり角・・・・、高い腰板土塀を張り巡らした大きな大和棟の茅葺き屋根が見える。

屋敷裏側には造り酒屋当時の酒蔵を利用し、ステーショナリー&ギャラリー文晃堂として営業されて居る。

當麻寺から二上山、石光寺へと訪れるハイカーや観光客の休憩所としても人気が高い。

道路に面した正面玄関は固く閉ざされ、普段は全く利用されて無さそう・・・・(茅葺き屋根と棟続きに増築された新しい建物がちょっと煩わしい気がします。)

周りがどうにも建ち込み過ぎで他のポイントからは撮影出来ません。

少し離れた高台からロングで引いてもこれが関の山・・・・・大和棟の茅葺き屋根が美しさを一番際立たせる妻側、落ち棟の写真が撮れなかった。

撮影2014.9.13


斑鳩町 極楽寺墓地阿弥陀石仏

2014年09月17日 | 石仏:奈良

極楽寺墓地、大きな個人墓地に置かれていた阿弥陀石仏。

自然石の基台に載り大きい二重蓮台に結跏趺坐。

堂々とした体躯の割には力強さに欠け、舟形光背にも幅が狭く頂部が鋭角に尖っている。

厚肉の彫りは深く、膝上で弥陀定印を組む。

サイドから見ると、どうも平板さが目立つ室町中期頃の造立でしょうか??

しかし哀しいかな、地衣類がはびこり、イマイチはっきりした事が分かりませんが・・・・、この墓地ではなかなかの石仏さんでした。

なんと言っても赤い涎掛けの無いのが嬉しい。

撮影2012.5.26


斑鳩町 極楽寺墓地地蔵石仏2

2014年09月16日 | 石仏:奈良

先日に引き続き極楽寺墓地の石仏さん達 ・・・・。

広大な墓地の中世石仏だけでも一杯在り過ぎ、その全てを紹介出来る訳も無く、ちょっと僕の目を惹いたものだけピックアップ。

墓地の南入口を入って直ぐに目に付く舟形光背の定形地蔵石仏。

総高1.5m、像高105cm、落ち着いた慈悲深い尊顔で元亀4年(1573)の造立。

近くで見掛けた元亀と読める銘を持つ阿弥陀坐像石仏・・・・、上記の地蔵石仏と良く似た顔つきをしてました。 

少し上に登った処に並べられていた地蔵石仏。

室町後期、天文十六年(1547)の銘を確認。

総高150cm、像高108cm、光背に線刻の頭円光を刻み、室町後期の特徴ある蓮座に立っている。

撮影2012.5.26