愛しきものたち

石仏、民家街並み、勧請縄、棚田景観、寺社、旧跡などが中心です。

東近江市五個荘町 伊野辺(いのべ)地蔵磨崖石仏

2011年09月26日 | 石仏:滋賀

旧八日市中心部より、太郎坊宮の鎮座する箕作山の東裾野を迂回するように走る県道209号線で五個荘町近江商人屋敷街方面に北進するとやがて田圃の中に見える集落が井野辺の集落。

集落はいかにも近江の在所と言った風情で懐かしい湖国の匂いのする佇まい・・・。

集落の南外れ、大きな溜め池のある交差点の左手山裾に簡素な堂を設えた磨崖石仏が見える。

別に寺跡らしくも無く、この山中にある古刹瓦屋寺の参道でもあったのだろうか??

山裾に突き出した高さ約1.5m足らず、幅3m足らずの岩塊に地蔵菩薩立像が刻まれています。

舟形光背を持つ高さ約60cm足らず、蓮華座上に立つ定型地蔵、顔容、体躯も良く整い、写真でははっきりしないものの木靴も履いていて近江石仏の特徴も良く表している。

どうもこの中途半端な覆屋がj邪魔をして思うようには撮影出来ないが・・・、南北朝時代の像立だと言われています。

ちなみに近江の伝説では「米炊き地蔵」として紹介されているようです。

集落の中にもあちこちに石仏はあるものの、お堂で鍵を掛けられ囚われの身で写真には成らなかった。

撮影2011.6.24


東近江市君ケ畑(きみがはた)  六体地蔵他

2011年09月26日 | 石仏:滋賀

東近江市、古刹、紅葉で知られた永源寺よりはるか鈴鹿山系の奥にある「木地師の発祥の地」として知られる「君ケ畑集落」で見かけた石仏さんです。

こんな山奥の辺境の地でちょっと珍しい石仏を見かけたのでここにUPしておきます。 

集落入り口付近の御池川沿いにある墓地・・・、埋め墓と石塔墓、新しい形と古い形が同居してどこか昔日の感があります。

墓地入り口辺りに決まりのようにある六体地蔵

ここのものはちょっと変わっていて一石三体地蔵を二組並べて六体としている。

いかにも素朴でローカル色豊かな地蔵さん・・・・背丈は凡そ50cmばかり。

傍らには多分、迎えの地蔵さん??、放射光背?を持ち像高約70cmばかりか・・、錫杖は持たずに合掌しているようです。

六体地蔵と同様の造りで、多分同じ時期に造られたものだろう??

中央文化からは遠く離れた山深い辺境の地にあって、こんな素朴な石仏さんと出遭えるのはまた新鮮なものです。

撮影2011.6.24


大津市途中町 さかさ地蔵

2011年09月25日 | 石仏:滋賀

途中町は若狭から続く「鯖街道」が、やがて京都大原へと下る峠、府県境の滋賀県側にある集落です。

琵琶湖西岸、東岸から西岸に跨ぐ琵琶湖大橋の畔、真野より国道477号線がこの「鯖街道」と呼ばれる国道367号線とドッキングしている。

いわゆる地元の人達が途中越えと呼ぶ交通の要所にあるのがこの集落です。

真野から途中に向け進んでいくと集落の少し手前左手、和邇川を挟んで還来神社(もどろぎじんじゃ)が有り、その先少し行くと明星寺への入り口近くの対岸に気を付けていればなんとなくそれだと解る大きな石が見える

和邇川を渡り川と棚田に挟まれた堤を100mも下流に進むとこの磨崖石仏に出遭う事が出来る。

磨崖石仏は高さ約2m足らず、幅約3mほどの表面を平らに生らした花崗岩で、その上部に七体の石仏を刻んでいる。

 

石仏は中尊に舟形光背の定印阿弥陀坐像を置き、両側に三体づつの地蔵立像??を配している。

石仏の下部、広い空間には月輪内の梵字らしきものがうっすら見えるような???

これが中尊、阿弥陀坐像、像高30cmぐらい、像容はさっぱりこんな状態。

向かって右手の地蔵三体かな??右端などは二重光背のようにもみえる。

左二体は坐像で右端は立像のようにも・・・・。

向かって左に三体・・・、はあ~~もう何がなにやらつんつるてん・・・・やっぱ、地蔵のようでもあり・・。

長らく流れに身を委ねていたらしく、すっかりツルツル・・、拓本でも取ればもう少し何かがわかるかも??

資料に拠ると元々権現谷から落下、川の中に長らく逆さになっていたようで「逆さ地蔵」と呼ばれているようです。

検索してみると権現谷は現地よりかなり奥の山中、もしかして比叡回峰行者道に在った物かも???

撮影2011.6.19


大津市栗原 辻の六地蔵/他

2011年09月24日 | 石仏:滋賀

大津市栗原は琵琶湖の西岸、比叡山塊山裾に広がる棚田の中に有る集落。

棚田は集落を見下ろすように周囲を取り囲み長閑な里山風情いっぱいの田舎です。

集落入り口辺りに大きな四辻が有って、その北西角に一間四方にも満たないような簡素な地蔵堂が建っている。

地蔵堂には真新しい花や香も手向けられ、朝な夕なに地域の篤い信仰の有ることを窺わせる。

石仏は大和高原域に多い一石六体地蔵、山形石の底辺部に長方形を薄く彫り沈め、素人彫りの様な単純素朴な六体地蔵を刻み出している。

像高、凡そ30cm、近江の集落辻でこんな姿の地蔵さんを見かけるのは珍しい。

集落を少し登った道路脇にもこんな地蔵さん。

石垣の下方を旨く利用し、石龕を組んだ中に地蔵石仏。

手向けられた花も香も真新しくやっぱり地域の信仰篤さがうかがわれる。

土と共に生きると云うことはそう言うものなんだと、つくづく思いを強くする。

撮影2011.6.19


大津市山中越え道 「重ね石」の磨崖石仏

2011年09月23日 | 石仏:滋賀

景観、形状、それに行きやすさも加わって、三拍子も四拍子も揃った石仏好きにはたまらなく魅力的な石仏さんです。

大津市南志賀より京都北白川に抜ける県道30号線は一般的に山中越えと呼ばれ比叡山の谷間を縫って最短距離で京都大津間をつないでいる。

途中県境の山中集落内を通る旧道と新道が交わる辺り、京都北白川重ね石町と接する全く人通りの途絶えた旧街道脇、苔生し見捨てられたようにこの磨崖石仏が佇んでいる。

枯葉が埋め尽くす旧街道、朽ち果てた民家、京と近江を分ける道標・・・・なんとも見事に揃った舞台装置です。

おまけに、ここが京に流れる白川の源流、分水嶺だとか??

この道は今や廃道同然、猫の子一匹歩いていません・・・・・・もちろん立派に見えるこの家ももはや抜け殻。

「北白川重ね石町」の地名もこの磨崖石仏に由来するのだろうが、行政的には大津市に入っているのか??大津の文化財として登録されています。

大きな石を二段重ねたような岩は高さ約3m程、その上部面には三尊、隣り合う一面に一尊、石は見事に濃い緑の苔に覆われています。

向かって右手面の三尊はいずれも舟形光背を持つ像高30cmばかしの阿弥陀坐像??

向かって右端・・・どう見ても阿弥陀さん。

これが中尊・・・、う~~ん、やっぱり阿弥陀坐像・・一番顔がはっきりしてるような

もう一体もやっぱり定印阿弥陀のような???

他方もう一面の石仏はこんな按配、頭は剃髪、地蔵坐像のように見えなくも無い、同じく像高は30cmばかり・・・なんとなく追刻追刻で四体になったような気がしないでもない。

いずれ形式化単純化の進んだ江戸期のものだろうが??・・・この景観はいかんとも捨てがたい。

撮影2011.6.12


大津市山中越え 馬頭観音石仏

2011年09月22日 | 石仏:滋賀

僕の近くでは滅多に見ることの出来ない馬頭観音石仏・・・・・、信州や関東では定番のように多いらしいが、近江でも見かけたのはこれだけ。

 前回紹介の小さな磨崖より道なりに奥へと進むと斜面脇に馬頭観音への案内板。

山裾斜面をを上る山道、これがその昔の志賀越え道だったのだろうか??、すぐに小さな峠を越えてほんのしばらく下るとこの馬頭観音のある見晴らしの良い場所に着く。

車を捨て置きここまで約10分足らず、気持ちの良い山の散歩道です。

石仏のある狭い空き地には簡素な柵が設えられ、これ以上先には進めない・・・、多分その昔にはこの先道が伸びていて京まで続いていたのだろうが??

ここからはちょうど琵琶湖が眼下に見渡せ、すがすがしい気分に成れます。

 

 石仏は高約80cm、幅50cmぐらいの厚板様花崗岩の前面殆どいっぱいに三面八臂の馬頭観音を中肉彫りで刻みつけている。

笠石は六角形の編笠風の別石、石仏は最近水洗いでもしたのか見事に綺麗ですが、笠の方は別物のように苔むしています。

見事に大きく刻みだした二重蓮弁??に座す馬頭観音坐像です。

髪を逆立て憤怒相、正面頭上には馬の化仏が有る筈だが・・・像外頂部には二重光背の小さな小さな阿弥陀さん??

その昔この道を共にした馬を弔うための石仏だったのかも???

撮影2011.8.27


大津市志賀越え道 阿弥陀三尊磨崖石仏

2011年09月21日 | 石仏:滋賀

まるでそこに、ちょうど持って来いの岩があったから彫り刻んだような??小さな小さな可愛い磨崖仏さんです。

その昔京都白川から比叡山の谷間を抜け志賀越えと呼ばれた古道には幾つもの石仏が残されて居ます。

京阪石坂線志賀里駅から比叡山山裾に延びる林道がそれで、途中集落をはずれて林道をしばらく進むとあの巨大な「見世の大仏(阿弥陀如来座像)」、それを過ぎ、崇福寺跡の案内板のある分岐を左手に取り、さらに奥へ進んでいくと左手山裾にそれと解る山形の大きな石がみえる。

石仏は幅約2m、高さ約1mぐらいの花崗岩表面の頂部に舟形を彫り沈め像高約30cmばかりの定印阿弥陀坐像を刻み出している。

脇時は中尊下部左右に舟形光背中に約20cmばかりの、向かって左「如来形座像」、右に「僧形坐像」を刻み出している。

下部の空きスペースが大きく何か刻んでいそうな気もするが??びっしり苔が侵食していてまったく何もわかりません。

彫りも素人彫りのように単純素朴・・・・・、いずれ近世仏のような気もしますが野の仏、街道筋に残された仏として、ほのぼの良い味を出しています。

人里からはかなり離れていますが手向けられた花は真新しかった。

撮影2011.8.27


大津市 長等山(ながらやま)阿弥陀板碑石仏

2011年09月20日 | 石仏:滋賀

大津市の皇子山公園から名神高速道を挟んで西側山裾に早尾神社と山上不動尊が併存していて神仏混淆の形を良く伝えている。

名神高速を跨いでわたる参道から木立の多い境内に入ると、すぐ右手脇にたくさんの小石仏の集積があってその中央に一際目を引く背の高い板碑がある。

全ての石仏さんには赤い涎掛けがかけられ、傍らにある小さな木の幹にも白いながら、同じような涎掛けが掛けられ信仰深いことを伺わせる。

 

この特異に背の高い板碑は総高約2.8m、幅40cm足らずと石柱と見紛う様な姿です。

 

頂部を山形三角に加工し、その下部に蓮華座に坐す像高40cmほどの定印阿弥陀坐像を薄肉では有るが旨く刻み出している。

 

小像では有るが肉付きの良い体躯に良く張った膝、穏やかな顔容もこの板碑石仏が古い時代の物であることを窺わせる。

涎掛けの下に何か文字でも刻まれてないかと捲って見るが何もなさそうです。

これだけ長い空間が有るのに何も刻まれていないと言うのも不思議な気のする板碑石仏です。

撮影2011.6.19


大津市 豆粉(きなこ)地蔵尊

2011年09月19日 | 石仏:滋賀

長安寺牛塔を訪ねた後、少し足を延ばした近松寺で見かけた磨崖の石仏さんです。

長安寺から少し山を駆け上がった高台、真下に浜大津の町並を見下ろせる景勝地に・・

三井寺別所、近江西国観音霊場のひとつに数えられる「近松寺」という古刹があって、あの「近松門左衛門」が一時遊学していた寺としても知られている。

庫裏脇、弁天社入り口横に簡素なお堂があって「豆粉地蔵」と書かれた扁額が掲げられています。

石仏は立派な磨崖仏で、実際には半身より下は床が張られ、どうなって居るのか解りませんが、地蔵石仏でない事だけは確かなようです。

高さ約1.5m、幅2m足らず、山形の粗い花崗岩の表面を平らにならし、二重光背を深く彫り沈めた阿弥陀坐像と思われる石仏を厚肉彫りで刻み出している。

風化磨耗が進み顔容も定かでは有りませんが、その昔近くに有ったものをこの地に移設したもののようです。

口元に残る黒いものは豆粉(きなこ)が、ひからびて黒くなったもので、自分の食べた豆粉を石仏にも食べさせると頭が良くなると言う信仰が今に生きているようです。

実際には目鼻立ちも殆ど消え失せ、手印も確認できず良くわかりませんが、多分像高1m強の阿弥陀坐像石仏、造立もそれほど新しい物ではなさそうに思えまが??どうも全体的に簡略化されているようにも見え、時代の判断もつきません。

撮影2011.6.19


大津市 納拝(なっぱい)石仏 

2011年09月18日 | 石仏:滋賀

琵琶湖から流れ出す瀬田川に南郷の洗堰と呼ばれる堰堤がありその東岸と西岸を結んでいる。

その東岸は黒津と呼ばれる地域で信楽方面から流れ出す大戸川と瀬田川の合流点にあり、その昔は琵琶湖舟運の津(港)で有ったところだという。

瀬田川と大戸川に挟まれたまれた黒津は背後の丘陵地帯が開発され、すっかり新興住宅に様変わりしてしまっている。

古い写真を見ると納拝地蔵と呼ばれるこの石仏は河岸近くの茂みの中に覆屋もない野の仏として紹介されて居る。

しかしすっかり様変わりして現在では写真のように新興住宅地の片隅に簡素ながらもしっかりした覆屋が建てられ賑々しく祀られている。

納拝とは夏祓(なつばい)が転訛、古くからこの石仏の前で夏越の祓いが行われていたらしい。

石仏は二体有って、一体は首から上が断裂してなくなっている。

納拝地蔵と呼ばれているが何処でもそうであるように、地蔵ではなく此処では定印の阿弥陀坐像・・・。

向かって左の阿弥陀石仏は高さ約1.1mの丸みを帯びた幅広の舟形光背を持ち像高93cmの古式な阿弥陀坐像を厚肉彫りで刻みだしている。

摩滅風化には勝てないようで殆どのっぺらぼう状態ながら体躯の針に力強さが感じられる。

向かって右手の一体も一周り小さいながら古式な阿弥陀坐像・・・・、首はいつの時代に何処へ失ったのやら??

共にその像容から鎌倉後期の作造だといわれています。

新興住宅の覆屋の中で喧騒と共に有るのが良いのか??河岸の茂みで野晒しが良かったのか??石仏さんに聞いてみたい・・・。

撮影2007.1.27


大津市 寂光寺「藤尾の磨崖仏」 

2011年09月17日 | 石仏:滋賀

この磨崖石仏はずっと以前から知っていたが写真は撮れないものだとあきらめていた。

それがひょんなことから前もってアポイントさえ取れば撮影も許されると聴き石仏好きの友達と一緒に出かけた。

この地は小関越えと呼ばれる京都山科から大津三井寺に抜ける往時の街道沿い、ちょうど京都府境は小川を挟んで目と鼻の先、大津市とはいえまだまだ京都市内の一部のような気がする処です。

寂光寺は小高い丘の上に建つ立派な鉄筋コンクリートの寺ですが磨崖石仏は一段下、一見民家のようなお堂の中に有りました。

中に案内され、明かりを点けられると正面奥、白壁を背に見事な磨崖石仏が現れます。

磨崖石仏は高さ約3m、幅約6mほどの山形をした花崗岩に刻まれていて、往時は露仏で街道を行く人たちの休憩場所にもなっていたようで、後簡素なお堂が建ち、山田堂、とも観音堂とも呼ばれていたようです。

正面には見事な二重光背を持つ、座高約1.5mの定印阿弥陀坐像が厚肉彫りで刻み出され光背面には頂部に「キリーク」を刻み、左右に12の梵字を刻みだす。

顔容も張りがあり、よく引き締まって美しく、体躯の彫りも流れるように見事で大きな蓮弁は、なぜか下方に開いています。

向かって左側には同じく二重光背の古式な錫杖を持たない地蔵菩薩立像・・・・

右脇には観音・勢至の両菩薩像が刻み出されています・・、阿弥陀三尊がこういう配置で見れるのも珍しい。

この中心をなす四体は様式や彫法が同じで阿弥陀右脇に銘があり鎌倉中期、延応二年(1240)の造立。

 最右端にはやや大きく舟形光背を持つ釈迦如来??各尊像脇や上部には小さな何体もの石仏が追刻されています。

観音像より右側は織田信長の戦火に遭い少し焼けただれています。

それにしても目を見張るほど美しい磨崖石仏です。

撮影2011.6.12


旧山城町平尾 十輪寺の石仏/他 

2011年09月15日 | 石仏:京都

十輪寺は山城町JR奈良線棚倉駅東側集落の東端にある真言宗智山派の小さな古刹、この寺の境外仏堂の谷山不動尊は良く知られている。

この寺の小さな境内や農道脇には古石仏や石造物が多く見られます。

境内南側一角に石塔やこの笠塔婆があって笠は欠損するものの塔身下部には鎌倉中期、文永11年(1274)の記銘が刻まれています。

総高約1、5m足らず、幅約30cm程の塔身上部に二重光背を持つ定印の阿弥陀坐像を半肉彫りで刻み出している。

乾いた地衣類が塔身全てを覆い尽くし、ただでさえ磨耗風化も加わった像容は定かでないこと甚だしい。

如来像の下方になにやら「キリーク」の文字のように大きく流れる線が見える。

傍らに建つ十三重石塔は笠塔婆より新しく鎌倉後期の像立。

軸部には顕教四仏の南面を釈迦に換え地蔵菩薩を刻んでいます。

境内から里山の広がる野道を本堂裏の方に進むと小さな辻の空き地に石仏が並び立っています。

近くの「坊の池」堤に有ったものをここに移したもののようです。

中央には総高約1m足らずの定型地蔵、室町中期永正二年(1505)の銘がある。

向かって右側にはひどく痛んだ定印阿弥陀だと思われる石仏が体躯に沿って深い溝線を刻みこんだようにも、また二重光背の様にも見える中に半肉彫りで刻み出されています。

火災にでも遭ったのか??御覧のように破損がひどく、下半身は欠損しているようで、腹部より下部を埋められ置かれています。

山城町史?には地蔵石仏として紹介されていますが、もしかしてこの地域一帯にも古墳が多いことから、この形状から察するに石棺仏なのかも知れないと思ったり??。

撮影2011.3.4


旧山城町綺田(かばた) 大日如来板碑石仏

2011年09月14日 | 石仏:京都

山城の母なる川、木津川がその流れを大きく東西から南北に変える曲がり角、東南岸域に位置する山城町は、古くより拓けた土地柄で今に往古の面影を数多く留めている。

中でも山城町北端に近い綺田には、丈六で国宝の白鳳金銅仏を有する蟹満寺が有り、すぐ傍らには綺原座健伊那太比賣(かにはらにいますたけいなだひめ)神社と言う古めかしい名前を持つ式内社がある。

詳しく触れると長くなるので端折りますが、養蚕技術をもたらした渡来系豪族・秦氏の創起(先祖)とも言われる「健伊那太比賣」を祭祀しています。

その脇参道入り口の一画に「大日如来」の扁額が掲げられたお堂があって、鉄の格子扉の奥に古びた石仏が三体祀られている。

鉄の格子戸には厳重に鍵がかけられ全体像を伺い知ることは不可能ですが・・・・・向かって右端の石仏が大日如来のようですが・・・。

それでも鉄格子の隙間からコンデジを入れ込み何とか撮影を試みました。

なかなかどうして立派な板碑石仏です。

総高約1.2m、幅約50cmの花崗岩板碑の頂部に舟形を彫りくぼめ、凡そ像高60cmの石仏を中肉彫りで刻み出している。

法界定印を結び、光背外部の線彫り蓮弁に座す胎蔵界大日如来座像の様にみえまが・・、もしかして阿弥陀如来なのかもしれません。

顔容は殆ど磨耗風化のためか伺い知ることは出来ませんが大きく張った肩や膝の像容はかなり古式な感を受けます。

後に地元図書館で郷土史の本を確認すると、安土桃山時代の慶長四年(1599)の記銘が有ってそう古いものでは無さそうですが・・・

ちょっとあまり見かけない板碑石仏の様な気がします。

後の二体については殆どさっぱり解らずじまいでした。

撮影2011.6.15


旧加茂町大野 大念寺地蔵石仏

2011年09月13日 | 石仏:京都

特徴的なタラコ唇で顔面に赤っぽい地衣類が纏わりつき、いかにもちょっとグロテスクな地蔵さん。

何も好んでこんな顔つきじゃ無いのだろうが・・・・そのうち水とタワシ持参で化粧直しでもしてやろうかな・・・。

前回紹介の西明寺から少し木津川寄り、集落の家並を分ける緑濃い石段参道を登り詰めると、そこが大念寺の小さな境内。

境内空き地にはこれといった石造物は何も無く、石段左手になる鐘の掛からないくたびれた鐘楼脇にこのニヒル?な地蔵さんが立っています。

等身大の定型地蔵石仏、どこといって特徴は無いのですが舟形光背から厚く彫り出された体躯はそれなりにボリュームを感じます。

右手に掲げ持つ宝珠がなにやらまん丸で大き過ぎはしないだろうか??

しかしなんと言ってもこのタラコ唇と、血飛沫のような顔面の地衣類は印象的です。

一目瞭然に室町期の造立と解る像容です。

撮影2011.6.22


旧加茂町大野 西明寺(さいみょうじ)笠塔婆

2011年09月12日 | 石仏:京都

加茂町大野は、いわゆる旧加茂町西端、町を東西に分断して流れる木津川の流れがジグザグに迂回する辺りの南岸近く、鹿背山の東山裾にある集落です。

集落は県道西側の斜面に細長く南北に並び建ち、ちょうどその中ほどにある西明寺を訪ねる。

行基ゆかりの古刹だと言われる西明寺は江戸時代、木津川の洪水により現在地に移転してきたようです。

県道から直接わずかな石段登ると狭い境内の真正面の本堂があり、向かって右の本堂脇のわずかな空き地に石造物が並び立てられています。

西明寺笠塔婆は総高約185cm、塔身幅約90cmの板石状花崗岩、頂部には平らな笠を載せ塔身上部には、舟形光背を持つ蓮座上の小さな坐像を刻み出している。

塔身側面には「永仁三□(1295年、鎌倉後期 )卯月十二日」「大工橘友安」と刻み、下部には料田名を羅列しているようですが肉眼では判別不能。

上部の石仏は像高20cmばかり、左手に薬壺を掲げ、右手は施無畏印の薬師如来のように見える。

いずれにしても珍しい造立紀年のはっきりした笠塔婆で、これほど幅広のものはついぞ見かけ無い。

傍らの五輪や層塔の残欠も鎌倉期のものとして貴重な石造物のようです。

撮影2011.5.21