愛しきものたち

石仏、民家街並み、勧請縄、棚田景観、寺社、旧跡などが中心です。

秋田県美郷町本堂城回 館間の鍾馗さま/八ツ目川の鍾馗さま

2012年10月31日 | 勧請縄:山の神:野神:人形道祖神

東北へ行き、どうしても見てみたかったものに、この人形道祖神があります。

日本は遠い昔から瑞穂の国、稲作で永らく生きながらえ、独特な稲作文化を形成してきた。

ここ東北、それもこの秋田県に集中して見られる人形道祖神と呼ばれる大きな藁人形は様々な民俗信仰と混合し、「鹿島様」「鍾馗様」などと呼ばれ、「五穀豊穣」「子孫繁栄」「道切り」「道祖神」等々、様々な願いをもって集落ごとに作られ、奉り置かれて居ます。

まずは手始め、秋田県内で数多く見た中でも、周りの景観とも良く溶け合い一番さまに成ってる藁人形の鍾馗さま。

長野県の「芦ノ尻道祖神」を見た時と同じような衝撃でした・・・・。

関西人には馴染みの薄い秋田県中部盆地の美郷町は大曲市街より約10km程東に在る田園地域。

中世にはこの地域を支配した本堂氏の居城、「本堂城」の城下町が有り、今は国の史跡となってだだっ広い野原となった片隅にある「山の神」や「稲荷神社」の祠を従えるようにケヤキの巨木の根元に陣取って居る。

ここは集落の最も大切な場所なのだろうか??村を見渡すかの様に立ち尽くす大きな藁の鍾馗さま。

像高約3m、頭には二本の角、顔には木製面を付け杉の葉で髭もじゃ・・・体躯は藁、筵、俵の蓋、と全て稲藁で造り出し、腰には厄を切り捨てるのか?刀を指している。

どう見ても胴長短足、腰には護符、その横の大きな丸いものは臍だと思うのだけど??やっぱり杉の葉をあしらっている。

厳つくて少しユーモラスに見える鐘馗様は誰が考え出したのか??やっぱり村の守り神として立派に君臨、大切にされているようです。

歴史的にはそう古いものでは無さそうですが、庶民の願いが全て詰まっていそうな気がします。

すぐ近く八ツ目川集落外れには、こんな鍾馗さま。

やっぱり同じ像容ですが・・・、こちらは顔のお面が真っ赤け。

顔面に蔦が絡まって・・・・、もうだいぶお疲れのご様子。

多分この辺り

撮影2012.9.19


青森県西津軽郡鯵ヶ沢町赤石 松源寺板碑/他

2012年10月30日 | 石仏:東北

津軽半島付け根、鰺ヶ沢街付近を走っていて思わず目に留まった寺で見かけた板碑と地蔵石仏。

青森県日本海側を秋田県能代まで海岸線沿いに走る五能線、その陸奥赤石駅を起点に内陸へ延びる県道190号線を少し走ると正面に簡素な山門が見え、斜面の高台に何とも懐かしい茅葺き方形屋根を持つ小さな本堂が有り、思わず寄り道。

寺の名は松源寺、この地にはかって「赤石館」と言う城館が有り、館址に松源庵という庵が建てられ、現在の松源寺となったと言われている。

日本海を望む高台の境内片隅にコンクリートの基台を造って風変わりな三基の板碑が並び立てられて居る。

自然石の中央、蓮弁に乗る二重月輪の中に種字を刻み、上部には屋根状のものを置き、最下部には四列に区切った「偈」?を刻む。

高さ約共に1m足らず、詳細は不明ですが南北朝期の造立だと言われて居ます。

傍らに在った地蔵石仏と墓碑。

津軽では、生々しい涎掛けや巾着帽を着けない民俗臭のない石造物を見かけるのは初めてで何故か新鮮・・・・。

撮影2012.9.20


福島県鏡石町 仁井田双式来迎磨崖仏

2012年10月29日 | 石仏:東北

全国でもこれだけしか確認されて居ないという世にも珍しい磨崖双式来迎石仏です。

珍しいと言っても、マイナーな石仏の事、取りわけ話題にも有名にも成ってる訳では有りません。

福島県中通り地方、国道4号線や東北本線沿いの小さな町、東北道鏡石スマートICを出、県道289号線との合流地点が仁井田集落。

集落外れから200mも西に進むと阿武隈川支流の釈迦堂川を挟んで向こうは須賀川市、釈迦堂川右岸の野道を100mも進めば右手、田圃挟んだ竹藪と雑木林に何やらそれらしき看板が見える。

昼なお暗い竹やぶ混じりの林の中、もう今は使われてない小さな古い墓地が有り、この奥の露出した大きな安山岩に石仏や板碑が刻まれて居る。

先年の大震災で崩れたのか?あちこちで様を失った墓石が崩れ、未だに手付かず・・・・。

大岩には簡素な庇が懸けられ、大した変わりは無いでしょうが・・・保護してる積もりなのでしょうか??

西面する巾約6m高さ4mばかりの壁面に巾約120cm、高さ約1mの石龕状に彫り沈め、奥壁に阿弥陀来迎三尊像を、二組横並びで半肉彫りで刻み出す。

真新しい供華はちょうどお彼岸直後だったからかもです。

六体の石仏は小さく風化摩耗も激しく、もうまるでミミズのダンスかと・・・。

左右の三尊共に殆ど同じ像容を持ち中尊の像高約30cm、脇侍の観音勢至は共に約20cm強。

龕の大きさの割には少し小さ過ぎる石仏です。

しかしこれが日本でたった一基しかないという変わりもの、嘉歴四年(1329)の墨書名が確認されて鎌倉末期の造立。

因に双体であると言う理由は夫婦それぞれの供養塔だと言う事らしいのですが???

左脇の龕には全く何も見当たらなかったが、いったい何だったのだろうか??

撮影2012.9.27


福島県郡山市 本栖寺来迎板碑/他

2012年10月28日 | 石仏:東北

この阿弥陀三尊来迎板碑は後補の石龕に納められ比較的風化摩耗も少ない。

郡山市街を縦断して走る奥州街道と呼ばれる県道355号線で駅前より北上すること約4km足らず、まだまだ住宅が密集する富久山町福原に本栖寺と言う

臨済宗の立派な寺院が有る。 

大きな本堂の前には大きな磁器の花瓶と何やら装飾の多いい石灯籠が置かれ、ちょっと不思議な雰囲気もしないではない。

境内左隅、白壁塀を背に吹き放ちの覆い屋が有り、その下に二体の石仏が安置されて居る。

一体は切板石を両側に建て、上に方形に加工した屋根笠石を置き、言うなれば阿弥陀三尊来迎石龕仏とでもいう格好に成って居る。

中尊阿弥陀は厚い雲に乗り書いう面を向き来迎印、この手のものとしては珍しく舟形光背と頭光を共に負う。

勢至観音は左右下方で向き合い俯向き加減、保存が良いので小像にも係わらず丁寧な彫りがよくわかる。

頭光上部で断裂、尊顔は剥離したのか欠損していて惜しい。

郡山市の文化財に指定され、鎌倉後期の造立だとされて居ます。

向かって右側には笠石をなくした笠塔婆。

分厚い多重連弁に坐し、定印の阿弥陀如来立像。

二重光背を持ち、像高37cm、小像ながら力強さが感じられ、鎌倉期の造立だと考えられて居ます。

摩耗した顔が少し微笑んで居る様な・・・・。 

撮影2012.9.26


福島県須賀川市 下宿阿弥陀三尊来迎供養塔

2012年10月27日 | 石仏:東北

東北の石仏は福島県に集中、その中でもこの阿弥陀三尊来迎石仏は地域性が強く、「浜通り」や「会津地域」では見られず、白河から福島市にかけての「中通り」特有の石仏。

それもこの須賀川市を中心とする旧岩瀬郡に集中している様です。

JR須賀川駅北方へ約500m、新興住宅が間際まで迫った森宿集落入口の台地上に「宝来寺」が有り、その境内に三基の阿弥陀三尊来迎石仏が有る。

山門へ続く石段には大黒天石仏と、咲き出したばかりの彼岸花は彩を添えていた。

ひと気も無くガランとした境内、無住なのか?戸締め本堂の向かって左前方、コンクリート台に並べ安置されて居ます。

三基共にかっては本堂裏の墓地に有ったようですが・・・・・。

中で一番大きな中央の供養石仏。

高さ約1m、安山岩の自然石表面を凸状に彫り沈め、雲上に乗る阿弥陀三尊をレリーフ調の薄肉彫りで刻み出している。

中尊の阿弥陀如来は正面を向き、両側の観音像と勢至像が阿弥陀の方に向いあい、少し腰をかがめて居る。

向かって左側の一体、殆ど中央のものと変わりなく、共に鎌倉後期から南北朝の造立だと考えられて居ます。

右手の一体は幅高さ共に少し小さく、像容も三尊共に飛雲に乗り右下側を向く来迎像だと言うが、風化や苔黴の繁殖で殆ど判りかねます。

しかしこの近隣だけでもよく似た来迎石仏が50基近くも確認されて居るとか??

撮影2012.9.26


福島県郡山市 熊野神社阿弥陀三尊来迎供養塔/他

2012年10月26日 | 石仏:東北

福島県中通り地域に密集するように残されて居る阿弥陀三尊来迎供養塔・・・・、とても片っ端から廻れる訳も無いので行きやすい気の向く処を廻って来ました。

前回UPの如宝寺近く、JR郡山駅から北へ約300m、街のど真ん中に建つ民家に囲まれた小さな神社です。

今年五月の放火で炎上修理のため?ブルーシートが掛けられて居ました。

狭い境内の片隅、簡素な覆い屋の下に、凝灰岩の板碑が三体。

お目当ての阿弥陀三尊来迎供養塔は真ん中の一番背の低いもの。

高さ70cm足らずの板石状凝灰岩の表面を凸の字型に浅く彫り沈め、雲上に乗り降りてきた阿弥陀三尊を刻み出して居る。

小像のため観音勢至ははっきりしませんが・・

中央阿弥陀は、像高40cm足らず、しっかり来迎印の阿弥陀だと確認できます。

銘は有りませんが鎌倉時代の造立とされ郡山市の重要文化財に指定されて居ます。

好みの話をすると少しでも大きい隣の阿弥陀の方が良い。

長方形を彫り窪めた中に来迎印の阿弥陀立像・・・、可哀相に全くの無銘です。

撮影2012.9.26


福島県郡山市 如寶寺笠石塔婆/他

2012年10月25日 | 石仏:東北

ここ東北の地に日本でも最古級だと言われる石造笠塔婆がある。

福島県郡山市街のど真ん中、JR郡山駅南西へ約1km、国道4号線を越えた低い台地上に建つ古刹「如寶寺」境内に安置されて居る。

如宝寺は郡山市街きっての名古刹、大同二年(807)馬頭観音像を祀る観音堂を建立したのに始まり、境内には重要文化財の石造品があることで知られる。

境内の片隅に写真の様に立派な造りの「国寶殿」と称する収蔵庫が設えられ、中に四点の文化財が収蔵されて居る。

正面は一枚ガラスの嵌め殺しに成っていて見やすいのですが・・・・、写真を撮るにはガラス面に風景が写りこんで非常に撮影しづらく成っています。

映り込みを無くす為、ガラスにレンズを密着しているので斜め方向からの写真は撮れなくて残念ですが・・・。

中でも一番の見ものはこれ・・・・・、国指定の重要文化財で極めて貴重な供養塔だとされて居る。

この笠塔婆供養塔は鎌倉初期の承元二年(1208)の銘を持ち、総高2.2m、塔身約160cm、上部に約20cmの凹凸を組み合わせた屋根型笠石を載せ、下部台石も塔身の下には組み合わせ式の二重台座があります。

笠石(屋根)は大きく欠損、塔身の一部も失われて居ますがほぼ全型は解ります。

塔身上部には方形龕を設け、中に東北独特の背の高い多層連弁を配した蓮座に結跏趺坐した定印の阿弥陀坐像を厚く刻み出して見事です。

いつの日か??火災にでも遭ったのだろう??笠部ががちょっと痛々しい。

<石造笠塔婆の説明板>

一方こちらは建治二年(1276)銘がある板碑(板石塔婆)、阿弥陀曼荼羅と願文を刻むと言うが殆ど読みが下らない。

こちらは釜堂の碑と呼ばれる板碑。

大きく上部を欠損していますが現在七体の像が確認できます。

板碑にこのような図柄を表したものは珍しく、欠損部分は子供の病気平癒の俗信に依り削り取られたとか??。

いくら信仰とは言え、削った石など飲んだら・・・・・、治る病気も治らないのでは。 

撮影2012.9.26


福島県福島市  下鳥渡(しもとりわた)供養石塔(陽泉寺阿弥陀三尊来迎供養塔)

2012年10月24日 | 石仏:東北

東北の石仏で顕著な特色を持ち、福島県中通り地域に密集している「阿弥陀三尊来迎石仏」、その中でも最優秀なものとして必ず挙げられる石仏です。

しかし例により暗いお堂にしっかり鍵を下ろされ、やっぱりレンズだけを格子戸から差し込んでの不自由な撮影、おまけにその日は季節の変わり目の大雨・・・、どうにも成らないような拙い写真に成ってしまいました。

東北道福島ICより南西方向に約1.5km、低い丘の西向き斜面に陽泉寺という寺院があり、それに続く北側斜面、林の中に簡素な堂が建ち、厳重に鍵を下ろされ安置されて居る。

鎌倉時代中期 正嘉二年(1258)の銘を持つ来迎阿弥陀三尊供養塔は国の史跡にも指定された我が国屈指の供養石塔として良く知られている。

高さ168cmの凝灰岩自然石の表面を角形に少し彫り沈め、中に、雲に乗り来迎印を結ぶ阿弥陀像を中心に、観音・勢至の両菩薩を従えた三尊を絵画的な美しさを持つ薄肉彫りで刻みだして居る。

中尊は光明放射頭光を背負い少し腰を折り、三尊共に動きのある素晴らしい出来栄えですが、なにせ写真が思うように撮れなくて残念です。

永らく土中に埋もれて居たため風化摩耗から逃れて保存状態も良好です。

右側刻銘には「右志者為悲母也、平氏女敬白」と有り、亡き母の供養の為にと平氏出身の女性が造立した事が窺われる。

堂外の傍らにもこの地方では珍しく花崗岩の自然石に刻まれた定形の地蔵坐像が祀られて居た。 

撮影2012.9.25


福島県矢吹町 滝八幡三十三観音磨崖石仏

2012年10月23日 | 石仏:東北

東北道、白河ICを越え、もう一つ先の矢吹IC近くにも磨崖三十三観音石仏がある。

ICより4号線で北へ3km、県道55号線に乗り換え隈戸川を渡る手前、左側によく目立つ案内板が有り、その通り新興住宅を越えると歴史公園としてきれいに整備された空き地に出る。

目指す磨崖石仏はここから暫く散策道を下った隈戸川の川岸に続く凝灰岩の岩崖に一体一体舟形龕を設えた中に刻み出されて居る。

川岸もよく整備された散策道に成っており、何不自由なく拝観できるが大雨の後は散策道も水の中に成ってしまうそうです。

高い崖に一列に並んだ西国三十三ケ所観音。

結構肉厚に刻み出しては居ますが、ローカル色の強い江戸時代の蓮台の上に立ち、像高約60cm。

高さ10mにも及ぶ崖が約50m程も続き 西国三十三観音を始め、薬師如来や阿弥陀如来なども刻まれ・・・・

都合三十七体も有って小さいながらもちょっと壮観。

西国三十三観音霊場巡りがこの東北の地に広がった江戸時代中期以後の造立。

小像ながらも丁寧に彫られていて、本場畿内のミニ観音霊場の石仏には決して退けを取らない。

ただ如何ともし難いのは凝灰岩という石質の為、浅い時間でも決して保存は良くない。

撮影2012.9.25


福島県天栄村 羽黒山磨崖十三仏

2012年10月22日 | 石仏:東北

ところ変われば品変わる・・・・・・。

ここ東北福島では、生駒山系の大和や河内に多い十三仏の石仏も、見慣れた板碑型のものとは違って一列横隊で、磨崖に成って居た。

前回紹介の上新庄から国道294号線で道なりに北進する事ほんの5~6分、天栄村大里小学校南側、羽黒山西斜面の墓地につく。

墓地を登った斜面の奥突きに凝灰岩の大きな岩が突き出し、その中程に高さ60cm程の横長の龕を造り、中に蓮座に立つ十三仏を一列横隊で並べて居る。

向かって右手、龕外には二基の磨崖五輪塔、龕下には細い帯状に表面を整え、多くの供養者名を刻み付けて居る。

向かって右端の一体、初七日の不動明王だけは少し大きく蓮座には載っていません。

わずか50cmにも満たない様な肖像ですが、厚肉で刻み出し、なかなか迫力のある特徴的な像容です。

江戸時代前期、元禄十一年(1698)七月の銘が有り、他では見かけたことの無い磨崖です。

凝灰岩ながらそれほど風化が進んでないのは造立時期が江戸期と新しく、庇をを掛ける深い溝が有る様に永らく雨露から逃れていたのだろう・・・。

なかなか味わい深い磨崖仏です。

撮影2012.9.25


福島県白河市大信 上新城阿弥陀三尊磨崖仏

2012年10月21日 | 石仏:東北

東北道矢吹ICより県道58号線で西へ約5km、国道294号線交差を少し北進した右手斜面墓地に有る磨崖の阿弥陀三尊。

やっぱり型にはまった様な江戸中期の石仏ですが、どこか癒される様な・・・・・。

黄金に実のる里山の旧大信村上新城墓地の上段・・・・

何やらローカル色豊かな、妙に丸くない水輪を持つ五輪塔の奥に隠れる様に有り、全く目立たない存在です。

元禄十五年(1702)の銘を持つ磨崖仏は、斜面から突き出た凝灰岩に約80cm足らずの方形を深く彫り、龕として、中に舟形光背を持つ善光寺型阿弥陀三尊を刻み出す。

三尊はそれぞれに蓮台に立ち、共に円頭光を戴き、中尊の阿弥陀は像高約60cmの施無畏印、与願印。

宝珠を持つ観音・勢至の両脇侍共に像高約55cm、頭光と蓮座に緑青の彩色痕が残っています。

良く整った像容ですが、時代の足りなさは隠せない。

死者を極楽に迎え入れるかのように微笑んでいるのだろうか??

撮影2012.9.26


福島県白河市表郷 石崎三十三観音磨崖石仏

2012年10月20日 | 石仏:東北

近世、江戸時代には畿内の西国三十三観音巡礼がここ奥州のちにも伝わり彼方此方の岩山にその石仏を彫り刻み、それらを参拝する事に依り、容易くその功徳にあやかろうとした。

白河市表郷は奥州への入口、「白河の関跡」を有する東北南端地、その西約1km、石崎の「都々古和気神社(つつこわけじんじゃ)」に続く林の石塊に石仏が軟 何体も刻まれて居る。

昼尚暗い林に入り石段を少し登るとむき出しの安山岩が累々と折り重なり・・・、

その表面や側面に角形や舟形の彫り込みを入れ、西国三十三観音や供養仏が刻まれて居る。

精彩を欠く小さな磨崖石仏ですが、こんな東北の寒村まで西国巡礼の信仰が伝えられていた事に少々驚き。

お馴染み如意輪や十一面千手などが並び刻まれて居る。

しかしやっぱり目立つのは、この六観音磨崖石仏。

大きな自然石の笠を庇状にに突き出し、その下部の大岩上部を浅く彫り沈め、像高約50cmの蓮台に乗る観音立像を並び立てて居る。

像容は六体共に殆ど同じで、左手には蕾の蓮華を抱き右手は腰元で与願印、全く何観音かの見分けはつきません。

江戸時代中期の宝永四年(1707)銘が有り、それなりの像容ですが、形式化した力不足を感じます。

方形龕を沈めた中に顔を失った阿弥陀坐像、背面上部の小さな化仏が薄ら見える。

殆ど人が近寄った形跡がなく荒れていて、夏場はとても近づけないかも・・・。 

撮影2012.9.26


福島県中島村 御城(みじょう)地内阿弥陀磨崖仏・汗かき地蔵

2012年10月19日 | 石仏:東北

東北自動車道矢吹IC依り北西へ約10km、阿武隈川の上流域に広がる長閑な中島村の御城(みじょう)と呼ばれる大地に残された二つの石仏。

強い木漏れ日が曼荼羅模様にに成って見苦しい写真ですが・・・・。

御城(みじょう)と呼ばれる台地は中世楼閣「滑津館(なめつたて)」が在ったとされ、古い墓地に石造物が集められている。

台地入口斜面、大きな岩盤の上に突き出した高さ2m程の自然石の表面に縦長方形の浅い龕を彫り沈め、壁面に線彫りの阿弥陀坐像を刻んでいる。

連弁に坐す像高約50cmばかり・・・当背部に円頭光を戴き定印を組む。

小さいながらもよく整った力強い線で刻まれ、建治四年(1278)年、鎌倉中期の銘が有り、紀年銘のある磨崖仏としては福島県最古とされて居る。

一方、墓地脇の広場には立派な地蔵堂が有り、「汗かき地蔵」と呼ばれる大きな石仏が祀られて居る。

高さ約170cm、坐像ながら蓮座や基台もなくまるで石塊に顔や手足の突起を付けただけの「のっぺらぼう」です。

真っ赤な巾着帽と真っ赤な涎掛け・・・、大きすぎて剥がせなかったけど、余り代わり映えがなさそう・・・。

以前紹介した「妙高関山神社の石仏」にも近いものを感じる。

「汗かき地蔵」と呼ばれ、天変地異が起きる時、体に汗をかくと言うが・・・・、去年の震災前には汗をかいたのだろうか??

因に建武二年(1335年)銘が確認され南北朝の造立。

もともと目鼻立ちや手印もはっきりしないこんな石仏だったのでは・・・・これでは一体何様なのかさえ良く判らない。

こう言う武骨さも魅力の一つですが、僕にはとても地蔵には見えない。

撮影2012.9.26


福島県須賀川市 舘ヶ岡磨崖仏

2012年10月18日 | 石仏:東北

補修された鼻がいかにも不釣り合いで、ターバンでも巻いたアラビア人風にも見えてくるような・・・・。

<付近は、実りの秋を迎えて黄金色に染まり遠くに集落の家並が見える長閑な田園地帯。>

須賀川市街の北西部、舘ヶ岡地区を流れる滑川の右岸、田園風景の中に点在する丘陵北面の硬質安山岩に刻まれた磨崖石仏。

石仏は斜面から突き出した大岩に庇と、その下に二重光背かの様な頂点の丸い舟形を深く彫り沈め中に像高2.2mの大きな阿弥陀坐像を刻み出す。

阿弥陀坐像は腰から下が欠損、白っぽいセメントで拙い補修が施され、前面は背の高いコンクリート基台に成って居ます。

高い肉髻(にくけい)、に鋭い半眼の眼、固く閉ざした口元からは強い意思を感じる。

飾りを廃した単純な納衣の処理、裳先や体躯に彩色痕が残り、一層この石仏の存在感を際立たせている。

弥陀定印を組むはずの指は手首で欠損しています。

これまでの東北の磨崖と違って風化剥離の少ないのは、ひとえに硬質の安山岩に刻まれているのと深い庇を持っているからだろう。

鎌倉後期の造立と考えられているが・・・・しかし石質の違いは大きい。

傍らの空き地に覆い屋を掛け、壁面が崩れ落ちた梵字や蔓陀羅の刻まれた供養碑が置かれて居る。

東北に来て初めて風化剥離から逃れた磨崖石仏に逢えたような・・・・。

撮影2012.9.25


福島県須賀川市 和田の大仏(おおぼとけ)

2012年10月17日 | 石仏:東北

地元では「おおぼとけさん」と呼び親しまれている大きな磨崖石仏です。

ほぼ近くだと思われる集落外れでそれと訊ねると「和田のおおぼとけ」さんならと、いとも親しげに教えていただき、今でも信仰篤いことを窺い知ることが出来た。

磨崖石仏はこの付近一帯に見られる横穴古墳の石窟を利用し、その崖面に彫り刻まれた石仏です。

阿武隈川西岸、国道118号線が阿武隈川を跨ぐ「大仏大橋」のすぐ下にありますが国道は高架橋に成っていて直接ここへ来ることはできません。

集落外れから山裾の農道を来ると高架橋を目の前にして右手斜面に山門代りの大杉が二本、その真ん中を石段参道が奥の磨崖へと誘う。

石仏は横穴古墳を何個か利用したのだろうか?横穴の上に更に大きく龕状窟を設け中央に 像高2.7mの厚肉彫り大仏を刻み出している。

言い伝えに拠ると、石仏は大同三年(808)、弘法大師が諸国行脚のとき、この崖面に三鈷で刻みつけたとされるが、鎌倉時代中期以降の造立とされ当てはまらない。

石仏の上部岩面には庇をつけたと思われる掘り込があるが、剥落欠損がひどい。

 

特に胸部から膝頭にかけて大きく欠落欠損、これは大仏の胸部を削り煮立てて飲めば母乳の出が良くなる、と言う俗信に拠るらしく、膝頭もその足場として使われ摩損したようです。

その部分にまだ苔色の変色がないのは、つい最近までそれが続いていたと言う事なのかも・・・・。

顔面も甚だしく剥離が進み如来形だと言うことは分かっても大日、阿弥陀の二説を判別出来ない。

大仏の向かって右手には窟があり、定印の阿弥陀如来坐像とキリークが刻まれている。

向かって左手にも何か彫り込みは有るのですが最早壁面を残すのみ。

向かって左下、屋根状の彫り込みを持つ横穴石窟には・・・・

三面に二体ずつの・・・・多分阿弥陀如来と思われる

石仏が刻まれているが・・・ほとんど何様なのか判別もつかない程です。

も少し左手にも、こんな三尊の刻まれた窟があります。

東北はどこに行っても凝灰岩・・・・、こちらにはこれしか無いのか??はたまた、わざと石仏にはこれと選んだのだろうか??

撮影2012.9.25